ホワイトデート
ズルズル、ズズッ。
二人の麺を啜る音が客のいない静かな店内に響き渡る。
「まったく、信じられない。……アンタ今日が何の日かわかっとるん?」
「ホワイトデー、です」
ズズッ。咀嚼しながら僕は答えた。
「食べながら喋るのはウチ好かん」
志都はそう言いながら、ラーメンの汁がつかないように左手で垂れた髪をあげる。
少し丈の短い純白の可愛らしいコートは膝の上で丁寧に折りたたまれ、セミロングの髪は毛先を軽くウェーブさせており、誰がどう見てもバリバリのデート仕様。志都がこの日を楽しみにしていたことが実によく理解できた。
「二十三にもなって、バレンタインデーのお返しがラーメン一杯って、フザケてるん? ウチ、本当にアンタの彼女なんよね?」
そう言われると、返す言葉も見つからない。なぜなら志都の言い分は至極当然なのだから。彼女は頬を盛大に膨らませ、不満をぶつける。
「自分から『ホワイトデート』とか下らん名目のお誘いしとって、当日デート資金が無いとか、どう考えてもおかしかろうもん。しかも、お金がない理由がギャンブルち判ったら、もう呆れることしかできんと」
前日、志都の友人にパチンコ屋で目撃された事が非常にマズかった。しかもその連絡が入ってきたのがデート数分前というのだから質が悪い。お金が無いという言い訳は数パターン用意してきていたのだが、水の泡となってしまった。
「ごめんなさい……」
ズズッ。肩を窄めて食べるラーメンは実に味気ない。
「……はぁ、でも仕方ないわ。いや、仕方なくはないんやけど、こんなんがずっと続くようなら――」
続くようなら? 心の中でその言葉の意味を反芻する。
すると、志都は箸を止めてこちらを睨みつけて言い放つ。
「別れるけんね」
その言葉はとてつもなく重い一言で、僕が楽しかったギャンブルの世界から脱出するに十分な効果があったのだった。
それからというもの地道に働き、規則正しい生活をするようになった。学生の時のような浮ついた考えをすることも少なくなり、社会人としての本当の一歩を踏み出したような気分だった。
二歳年上の志都は社会人として先輩であり、常識人であり、しっかり者であり、そしてかけがえのない僕の恋人でもあった。
志都とは大学時代にビリヤードサークルで知り合い、一緒に行動を共にするうちになんとなくというか、自然にというか付き合うようになった。
その頃から志都は陽気なくせに生真面目で、まがった事が嫌いな女の子だったわけで、不真面目な僕との言い争いが耐えなかったのは必然的じゃないかと思う。
そんな僕らがここまで共に歩けてきたのは、きっと志都の我慢のおかげといっても過言じゃない。まぁ僕がギャンブルを辞めた努力も認めて欲しいと思うのだが、前にそれを言ったら『それは違う』と一蹴されてしまった。
そういった中、またこの季節が巡ったわけで。
「今年はちゃんとお返し期待しとっていいん?」
僕よりも身長の低い志都は上目遣い、八重歯を覗かせる笑みで『お返し』の確認をしてくる。
「ああ、ホワイトデート?」
「うん、去年は散々やったけんね。デート資金をパチンコで使うとか考えられんし」
それを言われると耳が痛い……。過去の自分をタコ殴りしたくなる。
「今年は大丈夫、金はあるし、お返しも考えとる」
「あのねぇ、ウチ別にお金が無いことを怒っとるんじゃないったい。アンタのお金の使い道が気に入らんかっただけ。それに本当にお金が無いならウチも出すけん、そんときは正直に言いね」
僕の言葉に志都は盛大な溜息を放つと、母親のような口調で説教をする。
「それでよか?」
最後に笑顔でそう言われると頷くしかない。でもこれだけは男として反論おかなければいけない。
「今の僕だってそんくらいの甲斐性はあるけん、心配いらん」
「そっか、なら余計なお世話やったね。ゴメンゴメン」
志都は微笑んで僕の先を歩き出す。その靴音が奏でるリズムが、どこか楽しそうに聞こえるのは僕の気のせいではないはずだ。
両手は後ろで組み、時折スキップが交じる歩き方。彼女が本当に期待している時に出る癖のあるステップ。
僕は君の背中の期待に応えられる男になれたでしょうか?
思わずそう聞いてみたい衝動に駆られたが、まだそんな男に遠いことは自分がよくわかっている。まずは『ホワイトデート』のプレゼントの予約の確認だ。まだ一ヶ月あるから多分大丈夫だろう。去年が散々な結果だったので今年はバッチリ決めてやろうと心に誓ったのだった。
「来れない?」
ホワイトデー前日の朝、志都から突然電話があった。
「うん、ちょっと体調が優れんけん、このままやと明日デートで迷惑かけるかもしれん」
少しかすれ気味の生気を感じない声から具合は相当悪そうだ。
「無理ばせんでええけん、今日は病院行ってしっかり休んどきーな」
「うん、本当にごめんね」
「いいって、去年の僕の方がはるかに酷かったし」
「ふふ、確かにそうやね。じゃあ、お言葉に甘えて病院行ってくる」
「了解、お大事に」
季節の変わり目でまだ肌寒い三月中旬、健康に気を使っていても病気になる時はなるものだ。明日は志都の家にお見舞いにでも行こう。途中、デパ地下で志都の好きな焼き菓子でも買っていけば喜んでくれるだろう。
おっと、その前にレストランの予約キャンセルをしなければ。
前回が前回だっただけに今回は奮発していたのだが、志都が来れなくなった今、一人で行くのは流石に恥ずかしい。
「やっぱキャンセル料って高いんかなぁ……」
慣れないことを企むべきじゃあないかもしれない、僕はそう思いながら、キャンセルの電話をしたのだった。
翌日、見舞い用の小さな菓子箱をコートのポケットに忍ばせ、彼女のマンションの呼び鈴を鳴らしたが、反応が無い。電話も何度コールしても応答はなく、留守電へと切り替わる。ドア越しに気配をさぐってみるも、人気がないように思える。
「……どうしたんやろうか」
実家にでも帰ったのだろうか? 志都の実家は市内から電車で一時間ほどのところにあるが、僕は行ったことがない。もう三年以上も付き合っているというのに、彼女の実家を知らない自分に嫌気が差してくる。
しかし、昨日の志都は病気とはいえ、しゃべれる程度の元気はあったし、もしかしたら本当に実家で療養しているのではないかと思い、僕は一度家に戻ることにした。
それから二日後、ようやく志都から電話があった。
「ゴメンね。ちょっと倒れちゃって、今病院なんやけど……」
「えっ、大丈夫なん?」
「うん、大した事ないけん、少し意識が朦朧としただけ」
それは『大した事ない』とは言わない。
「病院は?」
僕は携帯を耳にあてたまま、椅子に掛けてあったコートを乱暴に掴みとり玄関の扉を開ける。
「そんな、まだ来んでいいけん」
「朦朧ち……、意識がなかったかもしれんとやろ? 大した事ないわけないやろう。今から行くわ」
遠慮する志都を押し切る形で病院の場所を聞き出し、急ぎ向かう。
「志都っ」
二人部屋の窓際のベッドに彼女はいた。
「もう来たん? 早かねー」
僕に気づいた彼女は上体を起こし、温和な表情で迎えてくれた。いつもと何ら変わらない彼女に僕は一瞬拍子抜けしてしまう。
「ホラ、そんな所でつっ立っとかんで、はようこっちこんね」
志都に言われ、我に帰った僕は相部屋の初老の女性に軽くお辞儀をして入室する。
「一体どうしたと?」
「へへ、心配した?」
「したに決まっとろうが」
コートをハンガーに掛け、ポケットから菓子箱を取り出してから、ベッドの傍にある椅子に腰を下ろす。
「で、なんか病気やったん?」
「実は昨日と今日は検査入院させられとったとよ。今は熱も下がったし、もう大丈夫やけん。そんなんより、それお見舞い?」
とりあえずその言葉に安堵した。確かに志都は血色もよく、食欲もそれなりに復活しているらしく、早くも僕が見舞い用に買ってきた菓子箱に熱い視線を送っている。
「そんな腹空かした野良猫やないんやけん」
「野良猫は失礼やろ、せめてアメショくらいにしてくれんと」
「血統書付きやないし、そんなに気高くもないやん」
「ウチだって戸籍はあるし、誇りもそれなりに良いもの持ってるやん。ウチ、後ろ指差されるような事はやっちょらんばい」
「そんなん俺だって持っちょるし」
「へー、アンタが? 一年前に前科あるんに?」
志都は前回のホワイトデーを引き合いに出し、おちょくってくる。
「……昔とは違う、ほら食うんやろ?」
そんな馬鹿げた会話をしながら、僕はこの前買っていた菓子箱の包みを開けて中身のクッキーを志都に手渡す。
「へへ、ドーモドーモ」
満面の笑みで頬張っているさまから、どうやら彼女の意に適う品であったらしい。
「で、いつに退院できそうなん?」
「んー、明後日かな。多分検査の結果が出てからやろうけん」
「そっか、それなら一先ず安心した」
「なん、寂しかったとね?」
「なんばいいよっと、冗談ばやめんね」
その時の僕は志都に異変が無かったことに胸を撫で下ろした。彼女が嬉しそうに喋る顔に僕も久しぶりに元気を貰った気がした。
しかし、悪夢のような一報がそんなに時を待たずして訪れる。
「え、癌?」
僕は危うく携帯電話を落としそうになった。
「……うん、でね、またしばらく入院するったい。……やけん、ゴメンね」
電話越しに聞こえる彼女の声はどこか感情が消えてしまったかのようだった。
桜の蕾が大きく花を咲かせ、心地よい春の風が頬を撫でていく。本来なら新しい季節の到来を楽しむべきなのだろう。しかし僕も、そして志都もそうだろう、とてもそんな気分にはなれなかった。
志都の検査結果、肝臓に腫瘍が見つかった。早期発見とはいっても転移の可能性も考えられるため、早急に手術の日程が決まり、志都は手術を受けた。
初夏、早期の手術の結果も虚しく、肺に転移が確認された。ここまでわかれば誰だっておおよその検討がついてしまうだろう。彼女はもう長くは生きられないかもしれないという事を。
しかしそんな状況でも志都は変わらなかった。抗がん剤治療で辛いはずなのに、おくびにも出さない。それどころか、入院の期間を利用して始めた編み物の腕は短期間であるにも関わらず、ショップに出しても違和感のない出来になるまで上達していた。
「これで冬も寒くないよね」
と言って、志都がプレゼントしてくれたオレンジのマフラーは見た目からしてとても暖かそうだった。
実際、使ってみると、とても実用性が高い。毛糸素材は良いものを使っているらしく、肌触りよし、保温性よし、なによりも彼女を近くに感じられるという事が一番だった。
そして僕もお返しに彼女のニット帽を編むことに決めた。
毛糸の色は暖色系の強い桃色にした。道具も購入し、なれない編み物に没頭した。もちろん素人が簡単に出来る訳もなく、会社の女性社員に編み方を教わり、編んでは解きほつれては解き、何度も何度もやり直しを繰り返した。
それでも一向に上手く編むことはできなかった。ほつれは当然、網目も荒く毛玉が所々にほつほつと表れては僕の気持ちを焦らせた。
ようやく形になったとき、春の訪れを予感させる時期になっていた。
今年のバレンタインデーは貰ってはいなかったが、そんな事とは関係なく僕は彼女にお返しがしたかった。なんとかホワイトデーまでに手編みのニット帽を仕上げると、僕は『ある物』と一緒に手渡した。
「……」
志都は言葉が出ないほどに驚いた顔を僕に向ける。彼女の両手には僕が用意した『ある物』が大事そうに置かれている。
そうだろう、そうだろう。今までにないくらい仰天してもらわなくては僕が困る。
しかし、彼女は一度深く目を閉じてから、『ある物』をゆっくりと横の棚へ置くと、もう一つのプレゼントである手編みのニット帽へと目をやる。
もしかしたら、僕のこのサプライズは空振りに終わってしまったのだろうか? 不安に駆られる気持ちを抑え、僕は口を開く。
「……あ、もし気に入らんかったら市販のやつ使ってもらってもいいとよ。俺の方はホラ、不格好やし。なんかゴメンな」
「ううん、これがいい……、ウチはアンタが編んだほうがいい」
志都は優しい笑顔で応えてくれる。そんな彼女の胸元に抱えられた不細工なニット帽に僕は少し嫉妬した。
「ちょっと、試着していい?」
「うん」
「悪いけど、後ろ向いててくれん?」
「……わかった」
いつも辛そうな顔を見せない彼女が、この時ばかりは少し寂しそうに笑う。
そんな事は僕でもわかる。志都の頭髪は抗がん剤の副作用で全て抜けてしまっている。そして僕が編み物に帽子を選択した理由でもある。
やはり、他人に自分のそんな姿を見られたくないのだろう。志都は僕に後ろを向かせてから帽子の交換をする。
「……どう?」
「うーん、似合ってるとは言い難いかも……」
当然というか、やっぱりというか、ほつれの多いニット帽は申し訳なさそうな感じが漂ってしまう。
「なんだ、結構似合ってるやん。これくらいの出来やったら病院の中くらい普通に大丈夫ばい」
志都は鏡を見て、僕の感想などまるで気にしていないかのように言う。
「じゃあ、ちょっと病院周りを散歩しない?」
「え?」
「体がきつくなければだけどさ、どう?」
「フフ、なんかアンタと外に出るのっていつ以来かなぁ……、そういや初めてじゃない?」
「ん、何が?」
志都が何かを思い出したのだろう、カラカラと楽しげに笑う。
「いやね、一回目は失敗でしょ、二回目はウチがこんなになっちゃって中止。で、今日が三回目」
「あーそう言われると、三度目の正直かもね」
「院内にラーメン屋もないし、ウチが倒れてもここ病院やけん、失敗することもないね」
僕も直ぐにわかった。彼女が言いたいことが――
「じゃあ行こうか、『ホワイトデート』」
「うん、行こう『ホワイトデート』」
病院の敷地内であるが、久方ぶりのデートだ。例えこれがデートに見えなくても二人にとっては特別なデートだ。
痩せ細った彼女の手をとり、慎重に、ゆっくりと外のベンチへエスコート。
外は思ったほど寒くなく、上着が必要のないくらいの陽気だった。この調子なら今年は桜の開花が例年よりも早そうだ。
「……暖かいなぁ、これやったら今年は桜見れそうやね」
どうやら志都も同じことを思っていたようだ。二人でそぅっとベンチに腰掛ける。
「うん、春になったら秋月の桜とか見に行こうか」
「夏は白川水源に行ってみたい。ウチあそこでヤマメ釣りしてみたいとよ。秋は秋月も名所やけどやっぱ耶馬溪かなー、紅葉楽しんでからの温泉はやっぱいいわぁ」
「僕やったら夏は秋吉台かね鍾乳洞とか涼しくていいやん、秋月も桜と紅葉の時期は良い地酒売っとるし、俺はあっちがいいな」
「え~、魚釣りしたいわぁ、アンタ彼氏なら可愛い彼女のお願いくらい聞いてくれてもいいやん」
「へいへい、じゃあ志都の病気が治ったら連れてっちゃる」
いつの間にか昔に戻ってきたような気がした。僕と志都は二人で旅行の計画を楽しく考える。三井グリーンランド、ハウステンボス、雲仙、呼子に別府、そして霧島に種子島、僕らは九州のあらゆる場所を観光してしまうんじゃないかと思うほどに案を出した。
「……ははっ、流石に年内じゃあこんなに行けんわ、少しは絞らんとなあ」
そういった僕を志都は眉をひそめて悲しそうに見てくる。
「ゴメンね」
そして、彼女は僕の首を包むように腕を絡ませる。
「……なんで謝る必要があるとね」
「うん、ゴメン」
「だけんなんで謝る必要があるとね。……本当に泣きたいのは志都の方やっちゃろうもんっ!」
そう、そんな場所に行けないことは誰よりも本人が一番理解しているはずだ。もうずっと治る見込みのない闘病生活を続け、体力はもちろん精神的にも辛くてきついはずだ。
――それなのに、なんで彼女はそんな楽しそうな顔ができるのだろうか。
だってどんなに楽しくても、どんなに話しても、……どんなに、そう、どんなに待ってもその日が永久に来ないことを知っているはずなのに!
「……うん、ウチだってまだ色々楽しく生きたいよ。だから頑張らなきゃいけん。アンタにも、父さんや母さんにも心配かけたまんまやといけんし。それにほら、いきなりおらんくなるわけやないし」
彼女は僕の涙をパジャマの裾で拭いながら、笑ってみせる。
僕は情けないほどに動揺していたのに対し、志都はいつもどおり気丈で生真面目で底抜けにお人好しだった。
「……そろそろ戻ろう」
そんな彼女に僕はそう言うのが精一杯だった。
そして、これが僕と志都の最初で最後のホワイトデートになった。
彼女が亡くなったのは初夏の季節だった。結局花見も出来ず、夏の避暑地巡りの夢も桜の花弁と共に儚く散っていった。
僕は志都がいなくなってからはどうしようもなく自堕落な生活を送っており、会社とパチンコ屋の往復が定着してしまっていた。
最初は同情してくれる友人や会社の連中も、ひと冬越せば普段通りの応対に変化していった。世間はまるで志都が最初から存在しなかったかのように元に戻っていた。
「……?」
そんな中、二月十四日バレンタインに一つの封筒が僕の手元に届いた。
「いったい誰から……」
裏を返すと忘れられない名前が記載されていた。
『木崎志都』
部屋に戻り封筒の口を開けると、中には一通の手紙とメモリーカードが入っていた。
手紙の内容には整った綺麗な字で『メモリーカードの中身を見ること!!』と彼女らしい強気な文体で書かれてあった。
そのメモリーカードには動画ファイルだけがぽつんと一つだけ保存されていた。
おそるおそるパソコンの画面上に表示されているファイルをクリックすると、病室のベッドが表れた。
『あーあー、ごほん、これでもういいとかねぇ』
懐かしい声がする。志都の声だ。もう聞けないと思っていただけに心が激しく揺さぶられる。
『ええっと、カメラこっちか……』
どうやらカメラの視点を変えたいらしい。ぐるっと一回しした後に彼女が映った。ベッドから起き上がった体勢で、少し照れくさそうに笑っている。
僕は思わずパソコンの画面を掴み、見入ってしまう。
『もしもし見とる?』
もちろん見ている。画面の中の志都は手を振って確認してくる。
『これがアンタに届いとるっちゅーことは、ウチはもうおらんてことやねぇ……』
そう言って恥ずかしそうに頭を掻く。何が恥ずかしい事があるのだろうか、こっちは動いている志都が見れるだけでどんなに嬉しいことか。
『やけん、伝えとこうっち思ってね。ホラ、これ覚えてる?』
彼女が左手の甲をこちらに見せてくる。その左手の薬指には僕があの時プレゼントした『ある物』が光っていた。
『ホントはね、すっごい嬉しかったとよ。でもウチはもうそんなに長くないけん、あの時はつける気なかったん。でも今だけはつける、これはケジメやけん』
志都は幸せそうな笑顔で指輪を嵌めた薬指を撫でる。長い闘病で細くなった指に指輪は全然合っていなかったがどうでもよかった。そして、そんな彼女の瞳からポロポロと大粒の涙が溢れる。
『……死にたくないよぅ。もっとアンタと一緒にいたいよう。秋月だって耶馬溪だって、ずっとアンタと一緒に行きたいよ……、でもウチはアンタともう少ししか一緒におれん。アンタがウチの為に泣いてくれた時、ウチ決めたんよ』
零れ落ちる涙を拭いながら、志都は本音を吐露する。生前では一切見せなかったその様子に胸が苦しくなる。
僕だって気持ちは同じだ。ずっと一緒にいたかった。ずっと一緒に歩みたかった。ずっと一緒に、共に老いたかった。
『ウチの人生はこれで御終い。でもアンタの人生はまだまだ続くやろ? 本当はウチがアンタの人生の一ページ一ページを一緒にめくってやるつもりやったけど、それも叶わんくなったし、アンタ一人でめくってもらうしかないけん言うとく』
困ったように言うなよ。そんなに辛そうな顔をするくらいなら言うなよ。僕は志都がいないと駄目なんだ。現に今もあの時のようにパチンコばっかり行っているしょうもない男なんだ。
『ウチの事は忘れていいけん。これから先、アンタの人生の重しになるのは嫌やけんさ。だけん、この指輪はウチが墓まで持ってっとっちゃる。昔の女の影もこれでなくなろう? ……ね、お願い、ウチのこと忘れてください。後ろは振り返らず前を見て、精一杯頑張って真面目に生きてください。そして、こっちにきたらアンタの人生どんなんやったか聞かせてよ。……そんでね、最後に一言だけ、愛してたよ――』
志都が嬉しさと悔しさが入り混じった、でもどこか諦めたそんな笑顔のままで話を終えると動画は途切れた。
志都は本当に身勝手だ。今の僕がどれほど君を忘れられないかという事を、君は全くわかっちゃいない。
どうすればいい? 何をすれば忘れられる? きっと何をしても、忘れることなんて出来やしない。もしかしたら、僕は一生君の事を想い続けるかもしれない。
今だって怒り狂いたいくらいに哀しくて涙も出ているのに、僕の唇は笑っている。そんなはずはないと思い、部屋の鏡で自分の顔を映すが、間違いはなかった。
「……ハハ」
乾いた声を発したと同時に、自分と似た笑顔をした志都を思い出した。ついさっき見た彼女の顔と同じだった。
きっと彼女もどうしたらいいか分からなかったのだろうか? 僕もそうだ。何をしていいか見えやしない。でも彼女なら、今の僕を見たらきっと『別れるけんね』と、いつぞやのラーメン屋で言った台詞を口にするだろう。死後、そんな情けない僕の人生を志都に語り、がっかりさせるわけにはいかないだろう。
志都との最後の約束は『後ろは振り返らず前を見て、精一杯頑張って真面目に生きてください』だった。『忘れてくれ』なんてお願いは「却下する」の一択だ、聞かなかった事にしてやる。
僕は立ち上がると、旅行の支度を始めた。
「まずは秋月かな、今年の夏は阿蘇にするか、秋はどこだっけ……、そうそう耶馬溪だったな」
涙まじりの独り言を呟いて、あの時志都と交わした会話の内容を思い返す。
後ろは振り返る、でも前は向こう。
まずは志都と一緒に行けなかった場所へ彼女と僕の想いを持って出掛けてみよう。
そして、毎年三月十四日のホワイトデーに、旅行した場所の思い出を志都に語りに行こう。墓前だっていい。それこそ彼女の写真の前だっていい。僕のこれからに彼女はもう登場しないけれど、心の中にはいつまでも存在している。とにかく、僕は前を向いて一生懸命頑張って真面目にこの計画を実行しようと決めた。
楽しいことも、哀しいことも、志都がいなくて寂しいことも、全てひっくるめて語ってあげよう。それが僕の『お返し』だ。彼女から貰った色々なものを、これから時間をかけてゆっくりと返していこう。
いつか気持ちの整理が出来るかもしれないけれど、多分それは相当先のことだろう。もし結局整理できなかったら、文句の一つくらい言ってやろう。
「まずは二回目の『ホワイトデート』に向けて準備するか――」
次のホワイトデーまで、あとひと月だ。急がないと、ここ一年パチンコ三昧だったという情けない報告しか彼女にできない。
『愛してたよ』
うん、後にも先にも二度と言われたくないし、僕もそっちに行く前には君にそう言える人生が送れるように頑張ってみよう。
僕は彼女がくれたマフラーをすると、目的の場所へと出発する。
全ては彼女との『ホワイトデート』のために――