G492 ひとつの終わりと始まり 後編
それから数日経つと、グランドール王国の首都、グランにもかつてのフイアンのような騒乱が訪れていた。
戦乱を避け、家を捨てる者、家のために志願兵となる者、または何もかもを怖れて家にひたすら閉じこもる者。中には状況を把握できていないのか、それとも神経が図太いのか、敗残兵相手に商売をする者もいる。
敗残兵達はその商人達の誘いをふりほどきながら、王宮騎士団本部へと向かう。
検問の時に知らされるのだが、王宮騎士団本部で彼ら敗残兵の参戦志願受付をしているのだ。彼らは一律して傭兵部隊に編入される事になるが、この状況では文句を言う者は誰もいない。
レグラスとファズもこの傭兵部隊に配属されることになり、今は王宮騎士団本部控え室にいる。
先日ロンバルト団長から聞いた情報によると、軍議の中、敵が圧倒的な数の魔物を有していることや、またフイアンが出戦を仕掛けたところ敵の強力な騎士団によって返り討ちにあい、壊滅させられたことなどが報告された結果、最後の砦ここグランでの戦闘は籠城戦を決め込むこととなったらしい。
翌日にはそれを裏付けるかのような部隊編成が告知され、レグラスとファズの二人は東軍へ編入されることになった。
ラウンは神官部隊、リーフルは魔術師部隊へと配属され、今は別れ別れになってしまっているが、彼らも同じ東軍のそれぞれの部隊にいるため、決して気軽に会える訳では無いにしろ、近くにいる安心感は感じていた。
最も王城に近い東門を守るこの東軍には実戦経験のある敗残兵を中心に構成した傭兵部隊に騎士部隊、神官部隊、魔術師部隊とやや重点的に兵を配置し、それに加えて、騎士部隊、魔術師部隊で構成され、国王自ら率いる南軍、規模は劣るが東軍とほぼ同じ部隊で構成された西軍が編成されている。
東軍傭兵部隊長には国王の側近の一人でもある最高部隊長のダイムが東軍総指揮官と兼任してついており、またレグラスやファズだけでなく、元メリア地方騎士団副団長のルドルフや、日に日に増えていく難を逃れていたメリアの仲間達などの見知った顔がいくつか含まれていた。
レグラスと部隊長のダイムとは一度だけ参戦志願の際にロンバルトに連れられて会ったことがある。
国王の側近の一人であり、かつての英雄であるという話から想像していた人物とは違い、それらの要素を辛うじて思い出させるような威厳は備えているものの、五十代中盤だというその顔は、ボサボサの髪と髭そして刻まれた深い皺に装飾されており、終始優しい笑みを浮かべた、気さくな初老の男といった風だった。
レグラス達に対してはロンバルトの推薦ということももあって特に好意的に接し、また二人がこれまで魔物と戦ってきた話に興味を覚えたらしく、その話をまたいつか聞かせてくれと言って別れた。
それ以来、今日に至るまで彼と話す機会は無く、その約束は一種の社交辞令に過ぎなかったものだったのだろうが。
ロンバルト団長は、その後チャールズ六世の熱烈な推薦があったらしく、正式に近衛騎士団の一員になると共に西軍騎士部隊の隊長を任せられることになった。
また、彼が近衛騎士になる条件として提示したのかどうかは定かではないが、西軍魔術師部隊長にガルハヌスが抜擢されている。
他に特記することとしては、ダイムと同じく三十年前の内乱から産まれた英雄である近衛騎士団長レイマンと宮廷魔術師ウェイカーが南軍でそれぞれの部隊を指揮し、ウェイカーの一番弟子であるドールが東軍の魔術師部隊を指揮し、リーフルはそこに所属している。
さらに同じく英雄である枢機卿ドレイクは、西軍神官部隊を指揮し、彼と共に二つの塔とまで噂されている大司教アデルが東軍を指揮し、ラウンはこちらに所属している。
これらの人々とはまだレグラスには面識が無く、ただの文字情報でしかないが、吟遊詩人達によって歌われている英雄達の存在をすぐ傍に感じられるだけでも気持ちは随分違うものだ。
レグラスは自分に割り当てられた控え室のベッドに寝ころんでこの編成に登場する人物達への思いを巡らせていた。
ファズも向かい側のベッドで暇そうに寝ころんで足をぶらぶらさせている。
その時、控え室の扉がノックされた。この控え室は三人から四人を一組として貸し与えられているが、現在この部屋にはレグラスとファズの二人しかいない。おそらくこの部屋へと新たに加わる人間でも現れたのだろう。
しばらくして、特に二人が入室拒否の声を発さないことを確認すると、扉が開いて使用人とその男が部屋へと入ってきた。
「相部屋となっておりますが、パール様はこちらの部屋をお使いになってください」
使用人がそう言うと、パールと呼ばれた男が答える。
「む、案内感謝する」
男はガシャガシャと音を立てながら部屋の中へと入ってくる。挨拶ぐらいはしなくては失礼だろうと思い起きあがって彼の姿を見たレグラスは思わずぎょっとした。
その男は身長が低く、ドワーフほどの高さしかない。しかし、その割には上半身の体格が良く、身につけた鎧も人間のそれと大差ないサイズであり、その身長とは明らかに不釣り合いだ。
一見人間の上半身だけが切断されて動いているようにも見え、レグラスは初め下半身が地中に埋まっているのではないかと錯覚した。
だが、よく見るとその男は人間の上半身にサソリの姿をした下半身を持っている。巨大なサソリの頭の部分から人間の体が生えているといった図だ。ファズの方も思わず彼の姿を凝視していたらしく、二人の視線に気付いた男は挨拶をする。
「お初にお目にかかる。拙者、アンドロスコーピオンのパールと申す者である。以後、よろしくお願いする」
そう言うと、パールは丁寧にお辞儀をした。そして、部屋にある使われていないベッドのうちのひとつへガシャガシャと近寄ると、「この場所を使わせて頂いても良いかな?」
と聞く。ファズが緊張に引きつった声で「いいですよ」と答えると、パールはかたじけないとまたも礼をして肩に担いだ荷物を降ろした。
一見その姿の異様さに面食らうが、よくよく見ていればこの男、レグラスよりは年上だろうが純朴そうな顔立ちをしており、見るからに分かる鍛え上げられた肉体からは彼が歴戦の戦士であることが伺える。
「拙者、このような種族の出ゆえに何かと偏見を持たれる事も多いが……、もし良ければ仲良くしてやってくださらぬか」
ジロジロと見つめる二人の視線を受け止めながら、パールがボソリという。アンドロスコーピオンという種族は伝説ですら語られない種族で、レグラスはその存在を聞いたこともなければ今までに見たこともない。
おそらく遠方の地に住む閉鎖的な種族かなにかで、訳あってわざわざここまで旅をしてきたのだろう。
「パールさんの種族って、一体どんな種族なの?」
ファズはもはやうち解けたかのように話しかける。この気さくさが彼のいいところだ。
「拙者の産まれたアンドロスコーピオンの里は、ここからずっと北東に行ったところの砂漠にある。拙者のように里を出る者は少なく、リザードマンの村との交易だけで生計を立てているような所だった……」
と、ここまで話すとパールは突然思い付いたように先を続けた。
「そういえば、ここには我々が自由に利用できる訓練場があると聞いた。拙者、このような窮屈な場所は苦手ゆえ、そこで話ついでにお手合わせ願えぬか?」
レグラスが返事に窮している事に気付く風もなく、ファズは「もちろん、いいですよ」とOKサインを出してしまった。
どうも、この男の異様な姿が今まで戦ってきた魔物の姿と重なって見えて仕方がないのだ。決して悪い相手では無いことは分かっていても、どこか納得することができない。
そうこうしている間にファズとパールは部屋に備え付けられていた木刀を手に取ると、部屋から出ようとしていた。
多少の悩みは体を動かせば無くなるかもしれない、レグラスはそうプラスに考えることにして彼らの後を追った。
レグラスが二人に追いついた時、パールが思い付いたように手を叩きながら言う。
「そういえば、そなたたちの名前をまだ聞いてはいなかったではないか。
こうして同じ部屋となったのも何かの縁。拙者の話だけでなく、歩きがてらお互い成り行き話をするのはいかがであろうか」
* * *
ようやく体勢を立て直したレグラスは、人間の胴を薙ぎ払う要領でアンドロスコーピオンの首をめがけて木刀を地面と水平に滑らせた。
だが、それより一瞬早くアンドロスコーピオンの下半身から伸びる尻尾がレグラスの右側から襲いかかる。この尻尾の先にはサソリと同じ毒針があるのだそうだ。まさか今それを使うことはないだろうが、一撃でも相手の攻撃を受けることは訓練では負けを意味している。
レグラスは左に飛び退いてこれをかわす。飛び退きざまに振りかけていた木刀をその勢いのまま滑らせていくが、これは相手にかすりもしない。
武器を大きく右に突き出した格好で左に飛び退いてしまったレグラスの正面にアンドロスコーピオンが詰め寄る。そして彼は後ろ足で立ち上がると木刀を大きく振りかぶり、そのまま一気に振り下ろした。
「おお」
「強い……」
周囲の傭兵達が思わず感嘆の声を漏らしたのも無理はない。この異形の戦士は基礎的な剣術一切を身につけているだけでなく、さらにその肉体を活かした独特の戦い方を見せていたのだ。
初めて見るアンドロスコーピオンの戦いぶりに周囲の傭兵達は自らの訓練も忘れてただ呆気にとられて見つめる他無かった。
「おら、おら、どいたどいた」
そんな傭兵達を押しのけて、一人の男が怒鳴りながら現れた。まるで熊のような体格をした男で、革鎧の上からでもその下に分厚い筋肉が隠されていることが分かる。
男は他の傭兵達がそうであるように右手に木刀を持ち、また、怪我でもしているのか左の二の腕には包帯を巻いていた。
その後を追うように一人の小柄でしかし恰幅の良いひげ面の男が現れる。ドワーフだ。
間違いない、二人はフイアンの町でレグラス達が見かけたあの傭兵である。
熊のような男はそのままアンドロスコーピオン――パールの正面まで歩くと、木刀を構えた右手を前に突き出して言った。
「トーレスだ。お手合わせ願いたい」
パールは返事をする代わりに、木刀を正眼に構え直した。
二人はしばらくにらみ合ったまま静止していたが、やがて雄叫びを上げながら先に動いたのは熊のようなトーレスの体だった。
パールはその巨体の接近にも一切怯む様子は無く、同じように木刀を舞わせて敵の初太刀を防ぐ。
二人の剣先がふれ合った瞬間、互いに地面を蹴って後方へ飛び去り、すかさず第二撃を加える――かのように見えたが、トーレスは木刀の切っ先を降ろして一言「互角だな」と叫んだ。
パールは一瞬呆気にとられたように相手を伺っていたが、すぐに自らも構えを解くと、満足げに頷いた。
周囲のブーイングを物ともせず、パールの元へと歩いていったトーレスは木刀を傍らに投げ捨てて右手を差し出しながら言った。
「改めてよろしく頼むぜ、サソリの兄ちゃん。名前は?」
レグラスはこの変わった決闘の様子を壁際で訳も分からずにただ眺めていたが、ファズがその表情を捕らえて解説を加えた。
「有能な戦士同士は、一度剣を合わせただけで互いの実力が分かるものなのさ」
言葉の意味は理解できても、理屈では理解できずに俯いて考え込んでいると、今までレグラスを照らしていた熱い日差しが突然遮られた。
ふと見上げると、すぐ隣にパールとトーレスがやって来ていた。周囲では再び他の傭兵達が訓練を初め、元の喧騒が戻ってきている。
「お前らがパールの連れだな。俺はトーレス。こっちのドワーフはガントだ。
この先何度か会うことになるだろうから、よろしく頼むぜ」
トーレスは右手を差し出しながら言う。レグラスとファズの二人は順番に名乗りながらトーレスと握手を交わした。
また、トーレスに紹介されたガントも子供がそうするように首を上げて二人を見ながら、特にレグラスを指さして、
「ワシらドワーフには手を握る習慣は無いが、そちらの少年の戦いぶりは楽しく見させてもらったよ」
と言い、しばらく無言でレグラスを観察した後に先を続けた。
「まだまだ、型に捕らわれておるようだが。
相手がいかなる攻撃を繰り出そうとまったく動じず、構えを乱さずに戦わねばならぬ」
もう何ヶ月前になるだろう。ファズに決闘を申し込み、破れたあの時にも言われた事を思い出した。
あの時に比べればいくつもの苦難を乗り越え、成長してきたと思っていたレグラスだったが、剣の腕が証明するようにまだまだ何も変わっていないのだ。
「忠告感謝します、ガントさん」
レグラスはその言葉に剣術だけでなく、生きる上で全ての事への忠告をもらった事への感謝の気持ちをこめた。
すると、ガントは腰から木製の斧のような物を取り出しながら言う。
「『百を考えるよりも一をこなせ』とも言う。片手間にこんなものを作っておいた甲斐があったわ」
そして、その木製の斧を持って壁から離れた人のいない場所へと歩いていく。――が、レグラスが事態を理解していないことに気付くと振り返って怒鳴った。
「貴様はこの戦場で死にたいのか?死にたくなければワシについてこい」
その後、ドワーフによって厳しい稽古がつけられ、レグラスの一日は過ぎた。
六月二十二日。もうすっかり夏を感じさせる熱い太陽が、慌ただしく動く人々を焦がした一日だった。
* * *
逃げ出す民はあらかた逃げ出し、都内が戦の前の落ち着きを見せてきた頃、それを見計らうかのように魔物の軍に動きが見られた。
彼らはグランへの距離と規模とを考慮に入れた際、一番適切と思われる場所――商業都市フイアンに拠点を置いており、フイアンが彼らの手に渡ってからしばらくの間はそこに留まって沈黙を続けていた。
しかし、今朝方密偵の運んだ情報によれば、この軍勢の大半がグランへ向けて進軍を開始したと言うのだ。
その数、五万ほど。密偵によれば空が埋まるほどの悪魔の軍勢だったという。
そして、この軍勢の構成員にはレグラス達の目にした空を飛ぶタイプの魔物だけでなく、翼を持たない地上で行動するタイプの魔物が確認されている他、漆黒の鎧に身を包んだ騎乗兵の部隊を目にしたとの報告もあり、これを聞いたレグラスの脳裏にはあの首無し騎士の姿が浮かんだ。
激しい流れの運命に飲み込まれていて考える暇が無かったが、あのデュラハンに一年後の死を宣告されたことは決して忘れていない。
今は目の前の戦いの大きさに、その事は意識せずに済んでいるが、この戦いが終わってレグラスが生き延びていたら、今度はデュラハンとの戦いが待つことになる。
あの、レグラスが手も足も出なかった騎士が今度は彼の命を奪いに来るのだ。
目の前の戦いで死ぬか、一年後に予言通り死ぬか、気が付けば自分には死がまとわりついてるように見えてならない。
レグラスがそうして今まで心の底に眠らせていた恐怖と再び格闘している間にも話は進み、五万程度と言われた魔物の軍勢に対し、こちらは精鋭揃いとはいえこの敗戦続きの空気を感じて逃げ出した者も多く、二万程度の兵しかいないことを告げた。
「以上が我々の得ている情報だ。もっとも、巷で流れている噂を聞けば今の話には何の価値も無いことが分かるけどな」
それらを語った男は頭をぼりぼりと掻きながら言う。
ボサボサで白髪交じりの茶色の髪に、ただ伸びるままにしているといった風の髭、そして一度見たら忘れない浅黒い肌のこの男は東軍傭兵部隊隊長であり、また国王の側近中の側近として活動しているかつての英雄、ダイムだった。
敵軍が行動を開始したことによる開戦間近の報を受け、ここグランの城下町では盛大な宴が催されていた。
町中のあらゆる飲食店を開け放ち、そのすべてにある限りの酒を運び込み、兵士達は最後の晩餐を楽しむのだ。
レグラスとファズもまた、トーレスとガントの二人に無理矢理連れられ、滅多に飲むことのない酒を大量に飲まされそうになっていたのだが、そこへ丁度通りかかったダイム隊長がレグラスとファズに声をかけ、三人で新たなテーブルに着くことになったのだ。
初めて会った時に二人が魔物と戦った時の話を聞きたいと彼が言ったのは社交辞令などではなく本心だったようで、ダイムは様々な質問をぶつけてきた。
二人は恐縮しながらも、少しだけ入った酒の酔いもあって今までの冒険から得た敵の知識を色々と話していった。
また、フイアンでの戦闘経験があるトーレスやガントから聞いた話も同時に話すことになり、彼らは魔物を相手に優勢で戦っていたが、一群の騎兵小隊が現れた途端に旗色が悪くなり、こうしてグランにまで退いてきたらしいことなどを話した。
ダイムはそれらの話を興味深げにふんふんと聞いたあと、「情報提供のお礼ってわけじゃ無いが」と、彼らの手にある最新の情報を二人に話したのだ。
彼自身が言うようにそれらの情報は噂よりは正確で信憑性があるとはいえ、内容は大差ないものであった。
だが、いくら気さくな傭兵部隊長とはいえ、上部の機密情報をそうそう漏らすはずが無く、今の話はそういった噂が流れていることも踏まえて話してもよいと判断したのであろうから、仕方ないことではある。
「こんなところだな。それでは、私は他の部下達にも挨拶してくるよ」
情報交換が終わると、ダイムは返事も待たずに席を離れていった。
隊長として部下の状態を把握したり、今後の作戦を考えたりなど、きっとレグラスには想像も付かないほど苦労は多いのだろう。
そんな中、二人のためにわざわざ時間を割いてくれたこの隊長にレグラスは非常に好感を抱いていた。
彼のように部下を大事に扱う将校が、あと何人この王国にいるか。現実に見たわけではないとはいえ決して多くないことは想像に足る。
「ダイム隊長は、部下の心を掴むのがうまいみたいだな」
素直な感想なのか皮肉なのかは分からないが、ファズがぼそっと呟いた。
しばらくして、二人が元のテーブルに帰ってくると、トーレスが呆れたように話しかけてきた。
「お前ら、あのダイム隊長に声をかけられるなんて、一体どんな連中なんだあ?」
彼が話すところによれば、ダイムは傭兵界の中では救国の英雄というよりも百戦錬磨の伝説の傭兵として有名であり、このあたりで活動する全ての傭兵の憧れだという。
そんなダイムの下で働けるというだけでもトーレスは感激しているというのに、レグラスのような田舎騎士が彼に直接声をかけられるとは信じられないことだったのだ。
もっとも、ファズに対してはその技量や貴族の一員らしいという情報からダイムに声をかけられるのも無理は無いことは分かっているらしく、レグラスに対しては驚き、ファズに対してはその顔の広さを皮肉っているようでもあった。
このファズは、レグラスがパールに破れたあの日に同じく彼に挑み、見事勝利している。
また別の日にはトーレスとも模擬試合を展開し、勝負は付かなかったもののトーレスに「実戦ならば俺が死んでいる」とまで言わせた。
また一方でパールとの一件以来行動を共にしているトーレスだが、彼の姿を見た傭兵達が何かとレグラスに話しかけてくることが多く、何事かと聞いてみれば、
「『怒りの大熊』といえばこのあたりで傭兵稼業やってる奴ならみんな知ってるよ。
あれだけ腕の立つ男もそうそういないぜ」
とのことだった。
図体が大きくて目立つ事を除けばどんな局面でも最高の活躍をしているらしく――もっとも、その人目を引く図体も手柄を己の元に引き寄せる武器となっていたが――、弓から斧までありとあらゆる武器を使いこなせる傭兵の鏡のような存在だという。
その話を本人の前でファズが話したところ、トーレスは豪快に笑っていたが、ガントは話題に上らなかったことを不満そうにしていた。
そして、そんなトーレスと互角に渡り合えるパールやファズも今や間違いなく凄腕の傭兵であり、この凄腕パーティの事は瞬く間に傭兵中に広まっている。
レグラスとガントは常に影で二人で訓練を続けているために、この三人の噂からは離れた位置にいたが、ガント曰く、
「トーレスなどワシにとっては赤子のような、もの。そのワシが稽古を付けてやっているのだから貴様は今に奴らよりも強くなる」
とのことらしく、不安ではあるがあの三人に並ぶことは不可能では無さそうだ。
実を言うと、パールに勝ち、トーレスに認められたファズに対してレグラスは再び嫉妬のような感情を抱いている。
地方騎士団がまだ健在であった頃にファズと訓練を重ねた結果、彼とはほとんど互角と言っていいほどの勝負ができるようになった。そして魔物達と戦っていく中で、自分は完全にファズに肩を並べるまでの腕前を手に入れたと思っていたのだ。
だが、現実を見れば、ただファズや魔物の戦法に慣れただけで、未知の敵に対しては全く通用していない。
結局の所、レグラスのやっていることは型どおりに過ぎず、応用が全く出来ていないのだ。
そんなレグラスの心理を見透かしているかのようにガントはあらゆる状況、あらゆる手段を想定した稽古を付け、おかげで多くの場面での行動が判断できるようなったように感じられてきたが、それを他の相手に試す間もなく開戦間近の報が伝わり、今に至っているというわけだ。
このレグラスの全てを見抜いているかのように見える師匠、ガントは特に騒ぐこともなく、トーレスの隣で静かに酒を飲んでいた。
どうやら彼が酒を静かに飲むのはいつものことのようで、それを熟知しているトーレスはレグラスとファズを話し相手に選ぼうとしたのだ。
しかし、二人がダイムに呼ばれてしまったのでその目論見は失敗し、パールに全ての災厄が降りかかることになったようだ。
今、哀れなサソリ男は机に突っ伏して眠っている。
その周囲に転がっている酒の瓶は尋常な量ではない。彼も彼で誘われると断れない性質なんだろう。
そんな事情もあり、テーブルへ戻ってきたレグラスとファズの二人にはパールの代わりに付き合えと言わんばかりにトーレスから酒が振る舞われた。
「オイ、オイッ、そこのねえちゃん、こっちへ来いよ」
突然トーレスが叫んで手を大きく振る。彼の周りにもまた大量の酒瓶が転がっており、真っ赤な顔を見るまでもなく相当酔っていることが分かる。
彼の視線の先には黒のローブを着込んだ、ブロンズ色の髪の遠目にも美女と分かる女性がいた。その女性はトーレスの呼ぶ声に気付いたか、こちらへ向かって歩いてくる。さらに女性の後から神官衣を来た冴えない中年の親父が付いてきた。
「ああ、リーフルにラウンさんじゃない、はははは、久しぶりだね」
酒の二杯程度でもはやすっかり酔っぱらったファズが二人に気付いて声をかける。この傍目に完璧な男もどうやら酒には弱いらしい。
「こちらに居るとお聞きして挨拶に来ました。
皆さんのことは私の部隊でも噂になっていますよ」
リーフルはほんのり上気した顔で、やけに嬉しそうに話す。
普段と様子が違うように見えるのは彼女も酒が入っているせいだろうか。
「私の部隊では噂はおろか今夜の宴の話すら入ってこぬわ。
酒は百薬の長、おまけに今夜は戦の前の宴だ。聖職者だろうと参加を自粛する理由がどこにある」
ラウンはいつも以上に豪快な口を叩いているが、彼は元から赤ら顔なので酔っているのかどうか判別しづらい。
「オーイ、なんだよ、そのねえちゃんも神官様もお前らの知り合いか。本当に得体の知れない奴らだな」
トーレスはこの偶然にすっかり呆れた様子で言う。
もっとも、リーフルが思わず声を掛けたくなるほどの美女は確かであったし、彼女達が二人の騎士に会いにここへ来た事もまた確かなので、このような展開になったことは必然であったともいえる。
「そんなに呆れても仕方がないですよ。今夜ぐらいは脇役でもいいじゃないですか、『怒りの大熊』さん」
リーフルはトーレスにそう言うとくすくすと笑う。どうやら彼女は間違いなく酔っぱらっているようだ。
「こちらが噂のアンドロスコーピオンですね。可愛い」
今度はパールを指さして言う。
サソリの下半身をうまく捻らせて椅子に座っている様は可愛いといえば可愛い、滑稽といえば滑稽だが。
「ファズさんの噂も聞いています。なんでも十人の傭兵をたったの三十秒で倒したとか」
「えぇ!?」
まったく根も葉もない嘘である。
リーフルの暴走は止まらなかったが、それよりも彼女の口から語られる尾ひれの付いた噂の数々に一行は驚いたり、笑ったりしたのであった。しかし、その多くが決して彼女の酒の上の創作ではなく、実際に彼女の周りで囁かれていた事実には不気味なものがあった。
やがて、彼女の語る嘘は少しの創作を交えてテーブルからテーブル、酒場から酒場、部隊から部隊へと広まり、ファズは百年に一度の騎士、パールは異国を救った英雄、トーレスはその巨体故に国を追われたどこかの王子、挙げ句の果てにレグラスとガントに至ってはこの三人に腕を見込まれた田舎騎士と武器整備係ということになっていた。
早々に潰れたパールの他、張本人のリーフルやファズといった何人かの主要人物が戦線を離脱した後も、ますます話は膨れあがり、一同をたたえる声は止むことがなかった。
レグラスは他の仲間との扱いの差に悔しさを感じずにはいられなかったのと同時に、こうして彼女の周りで囁かれるであろう噂に一層の尾ひれが付くことには不気味さを越えて恐怖を覚えていた。
* * *
敵軍がグラン周辺に布陣したのは翌日、六月二十九日の夕方頃の事であった。
敵軍は勢力を三つに分け、それぞれを各城門へ対応させるように布陣させている。
グランの四隅にある塔に立つ見張りの報告によれば、敵の布陣は王国軍の読み通りに東門を狙うに適した位置になされたという。
この日の朝から騎士部隊に加え、傭兵部隊にも城壁周辺の偵察命令が出され、交代で見張りに当たっているが、東門には幾度か敵軍の偵察部隊のような小部隊が現れ、その都度大半が塔の弩砲か騎士や傭兵達の弓の餌食となって倒されている。
相手は数に物を言わせて小部隊を各所に送り込み、一匹でも逃げ帰らせて情報を得るつもりなのだろうが、近づく敵のほとんど、それも情報を得るほどに深入りした敵はその全てを討ち取っており、いやがおうにも士気が高まる。
交代を終えて休憩に入った傭兵達が自慢げに戦果を話している光景も段々と多く見られるようになってきた。
「これが敵の意図なら、いくらかマズいかもしれん」
トーレスが言う。
「勝利に驕った奴らほど単純な罠にかかりやすくなるからな」
彼の言わんとすることは、敵は敢えて偵察の魔物部隊を捨て駒にし、こちらに魔物は弱いというイメージを与えているということである。
そして、いざ刃を合わせた時にそれが間違いであったと気付いても、もはやそれは遅いのだ。魔法でいくらでも生み出せる命だからこその作戦である。
それから数時間が過ぎ、レグラスが夕食を終えた頃に緊急召集令がかかった。
南門側と東門側に位置していた敵軍がそれぞれ進軍を開始したというのだ。
王国軍が対抗のために取った戦術は、弓を持たせた傭兵を二列に城壁の上に並べ、矢を放っては前後を交代するという実に単純なものであった。
城壁にはその程度の前後幅はあるので、特に混雑することもなく整列が行われ、空中の魔物に対する備えを固めた。
またその城壁の上には最新軍備である投石機も数台運び込まれており、これらは階下の城壁内部からの射撃と合わせて地上の魔物への備えとした。
それらの配備が終わってから一時間程、夜眼にも慣れてきた頃に敵軍は姿を現した。
暗闇に月明かりを浴びて怪しげな色に輝く魔物の群れは、空中、地上共におぞましい数が居ることが容易に見て取れる。たとえ月が陰っていたところで、進軍による大音量の羽音と足音によって同様の情報を得ることができただろう。
「とうとう来たみたいだね」
「ああ」
レグラスとファズも弓の扱いぐらいは心得ているため、この作戦で最も重要となる対空部隊へと参加していた。
同様にトーレスもこの部隊に参加しているが、パールはその体型上陣形移動に難があるとして現在東軍本部にて待機している。
また、ガントはドワーフとしての技巧を買われ、投石機の整備や使用といった分野を他のドワーフ傭兵と共に任されている。
魔術師部隊は城壁の内側で待機しており、神官部隊は今は仕事も無く、衛生班として本部で待機しているそうだ。
ようやく先行している敵軍の空中部隊が射程距離に入りそうだという辺りで「構え」と号令が飛ぶ。レグラスは矢をつがえた弓を引く。と、一呼吸置いてから「放て」との声が響き、号令に従いその手を離す。
放たれた無数の矢は緩やかな弧を描きながら魔物へと次々に突き刺さった。
間髪を入れず、射程ギリギリから放たれた北東の塔からの弩砲が魔物の群れへ噛み付く。
さらに、城壁の弓兵は前後列を交代し、隙をほとんど作らずに第二矢が放たれる。
魔物達は城壁に近づくまでに大量の矢を浴びせられ、翼をもつ敵の何体かはそのまま地上へと墜落する。
だが、ここで誤算があったのは魔物の驚異的なまでの生命力を無視していたことだ。
魔物達は細い矢が何本突き立ったところで大きな痛手とはせずに突き進んでくる。
さらに、矢の届かない距離にまで飛翔していた魔物も多く、結果的に大半の魔物が上空から城壁内に侵入しようとしていた。
「空からの襲撃になんて、対応できるはずがなかったんだ……」
レグラスが呟く。かつて翼を持った軍団が人間に牙を剥いた事例など無いのだ。適切な処置を取れるとは思えない。
空から飛来した魔物達は空中で二軍に別れ、半分は城壁へ、残りの半分は城壁内の町へと向かって降下を始める。
だが、東軍総指揮官のダイムはこのあたりまではなんとか予想の範疇だったのだろう、すぐさま城壁内の魔術師達と神官部隊、待機中の傭兵を集めてこれに対応する。
ほどなくして城壁では乱戦、町では対空戦が繰り広げられることとなった。城壁の上には身軽な動作が可能な傭兵や騎士ばかりが揃えられていたせいもあり、ここに飛来した魔物達は次々と討ち取られていく。
レグラスも弓を捨てて抜刀し、もはや戦い慣れたこの相手を一体ずつ確実に仕留めていった。
相手の数も多いが、こちらの数もそれに十分対応できるほどの数がある。
城下町の方はやや兵数が少ないが、王国魔術学院所属の有能な魔術師達やグランドール神殿の神官達が揃っている以上、遠距離戦では圧倒的に有利とも言える。
ダイムは初めこれらの勢力を温存するために後方に置いていたのだが、背に腹は替えられないのか、彼らに攻撃命令を下した。
まず、魔術師部隊の第一陣が戒めの糸の魔法を唱え、さらにそれをごく威力の弱い気弾で空中へと飛ばす。
戒めの糸も気弾も初歩の魔法であり、特に気弾の魔法はあらゆる呪文と組み合わせて使われている。
例えば、炎の魔法と気弾を組み合わせれば一直線に飛ぶ火の玉――ファイアボールの魔法――ができあがるといったところだ。
この気弾の魔法は初歩であるが故に奥が深く、高位の魔術師ともなると追尾や軌道指定などの様々な応用を効かせる事もできるらしい。
気という純粋なエネルギーの発現は、これひとつで魔術師の実力をはかることができる程だと言われている。
とにかく、そうして産まれた相手に向かって飛ぶ戒めの糸――スパイダーウェブの魔法は魔物達に絡みつき、その身体から自由を奪う。
羽ばたくことの出来ない魔物達はそのまま地面へと墜落し、神官部隊による浄化の神聖魔法で跡形もなく姿を消す。
この時なんとか体勢を立て直した魔物も、遠くは魔術師部隊の第二陣に攻撃魔法の直撃を喰らい、近くは待機していた傭兵の餌食となって命を失った。
この戦術を取ることによってダイムは魔術師部隊の第一陣だけでも消耗を抑え、後の戦いに備えようとしたのだ。
城壁の上での戦いも相変わらず続いており、レグラスは三体目の魔物と戦っていた。
この乱戦では周囲一体に目をやっておかなければ思わぬ方向から新手が現れ、不覚をとることになる。
初めての実戦でそんな乱戦の危険を知り、メリアでの戦いでは散々鍛え上げられたために、レグラスはこの状況下でも落ち着いて周囲を見渡しながら戦うことが出来た。
城壁の外ではようやくそこまで辿り着いた魔物の歩兵達が城壁に取り付こうとしているが、城壁内部の騎士達による応戦のために膠着状態に陥っているようだ。
目の前の魔物が腕を振り上げる。隙だらけのようであるが、この胴へ斬りつければ魔物は腕を振り下ろし、接近したレグラスを切り裂くだろう。ドワーフの言葉で言う「肉を切らせて骨を断つ」では無いが、生命力の強さを武器にした捨て身の攻撃を取っているのだ。
「貴様の攻撃など、すでに見えている」
レグラスは他の戦士達がそうしているように雄叫びを挙げながら魔物の右真横へと回り込み、その片腕へと斬りつけた。
刃を魔物の骨へと当てると、まるで大岩を斬りつけたかのような振動がレグラスの腕に跳ね返り、その一瞬後には魔物の片腕は切断されて断片は宙を舞っていた。
片腕を失った魔物はそれでも動揺すること無く、レグラスの正面へと振り向き様に残った片腕を振り回す。
その攻撃すらを読んでいたレグラスは向かってくるその腕をも同様に料理する。
もはや大事な武器を失った魔物は、その牙と体当たりで戦おうとするが、その捨て身の攻撃はよほど油断した相手にぐらいしか通用しないだろう。
レグラスの放った突きは魔物の口から後頭部にかけてを綺麗に貫いた。魔物ごと大きく剣を振るって遠心力で魔物を引き離すと、胸へとどめの一撃を食らわせる。
ここまでしてようやくこの魔物は動きを止めるのだ。
次の相手を捜すべく、レグラスが周囲を見渡すと、戦場に何か異変が起きているのが分かった。
敵軍が全て撤退の構えを見せているのだ。
相手の攻撃を振りほどいた周囲の魔物は例の捨て身の攻撃をかけるようなことはせず、そのまま羽ばたいて舞い上がると後退していく。
翼を折られて撤退することのできない魔物は、手段こそ例の捨て身の攻撃ではあったが、他の魔物を助けるためにその力を尽くし、そのまま散っていっているようだ。
レグラスはこの時初めて魔物の軍勢が組織的な行動を見せているところを見た。
城壁内からも大量の魔物が撤退してきているらしく、空が不気味な黒に染まる。
地上からの攻め手はこの様子を見ると、同様に退却を始めたが、その時城壁の上で声が挙がった。
「今だ、放て!」
誰のものかは分からないその太い声を合図に、それまで沈黙を続けていた投石機が次々と弾を放った。
投石機から放たれた石は大きく弧を描くと退却しかけていた地上部隊の真ん中に直撃し、直撃した敵から将棋倒しに何体かを押し潰した。
空中からの襲撃に乱戦と、これまで活躍を見せられずにいた投石部隊が、ようやくその力を発揮した瞬間でもあった。
城壁からの追撃と合わせ、挟み撃ちのような形になった魔物達は混乱し、続いて弓を取り直した城壁の上の戦士達からの攻撃によって次々と数を減らしていった。
戦果はかなりのものであった。
敗走する魔物達の姿は遠目にも今朝王都へと向かってきた時と比べて大幅に減っていることが分かる。
敵影が完全に視界の彼方に消えると、城壁で待機していた戦士達は偵察の兵を残して意気揚々と本部へと戻っていった。
「意外と大したことは無かったな」
騎士達が談笑する声が聞こえる。確かに、レグラスにとってもも今の戦闘はあまりに呆気なく感じられた。
魔物達個々の実力は今までのそれと何ら変わりの無いものであったが、メリアでの戦闘を思い出す限り、数に物を言わせて突入する事も可能だったのではないか。
それを敢えて行わず、適当なところで軍を引いたということは、やはりフイアンの情報屋が言っていたように、物を言わせるだけの数が無くなってきているのだろうか。
そうだとすれば、この戦には十分な勝機があると考えてもいいのかもしれない。
グランは勝利する。
勝利に驕った兵ほど脆弱なものは無い。そう分かってはいてもレグラスの心の底から沸き上がってくる勝利の喜びは抑える事が出来なかった。
これは、レグラスにとっては初めての勝利だったのだ。
「よくやったな。今の内にしっかり休養を取っておけ」
本部内で合流したトーレスが言う。彼の体中には黒く染みついた大量の血の跡があり、今の間に相当数の相手と戦った事が伺える。
その後聞いたところによると、この戦いで受けた損害は東門・南門合わせて騎士一名と傭兵二名の全三名だけであったらしい。
そのうち二人は重傷ではあるが命を取り留め、一人の傭兵は神官の祈りにより、立って歩けるほどに快復しているという。
一方で相手に与えた損害はレグラスだけでも三匹の魔物を倒した事や撤退時の様子から分かるようにかなりの成果で、南門でも同じく相手の半数近くを討ち取ったという。
さすが、これまでの戦いを経て生き残ってきた傭兵達に、王都を預かる戦士達といったところだろうか。
その損害の大きさを示すかのようにその日は続けて相手が攻めてくる事は無かった。
* * *
夜が明けた。
六月三十日。今日も早朝から魔物の小部隊が何度も現れ、傭兵達は忙しく駆り出されていた。
「昨日と違ってあの部隊は俺達に見つかるとすぐ逃げだし始めた。
少数の兵で王国軍全体を混乱させようとしてるんだよ」
ファズがパンを頬張りながら言う。
レグラスとたった今見張りの任務を終えたファズの二人は東軍本部の建物近くのちょっと洒落た料理店で遅い朝食を取っている。
王都グランでは戦時中ということもあり、軍部の活動拠点周辺にある多くの料理店が兵士達のために店を開放していた。
籠城戦のために食料庫は完全に軍が管理しているが、こうして開放している店にはいくらかの配給があり、今日もレグラス達は朝食を味わう事が出来る。
王国軍は相手の作戦に対し、偵察の数を増やして小部隊を確実に仕留めていく事で対応していた。
レグラス達に取っては任務に就く時間が少し早く回ってくるだけで、特に混乱する様子はなく、むしろ一小隊を仕留めたという報告が入るたびに士気は高揚していた。
「さすがの魔物軍もグランの団結力にはかなわないようだな」
レグラスはそう答えるとパンを口に放り込む。いちごのジャムはあまり好きではないが、空腹よりはマシなので我慢して食べる。嫌な酸っぱさが口に広がり、やわらかなパンの布団がやさしく味を中和する。
ガントに言わせれば「腹が減っては戦争はできん」といったところだ。
ドワーフの一族にはさまざまなことわざが伝わっているそうだ。人間同士のさまざまな争いなどを間近に見続けた結果、そういったことわざが産まれたのかもしれない。
彼らのことわざは日常的な部分から兵法に関わる事まであらゆる分野に精通しており、思わず納得してしまうものが多い。
そんなことわざ博士のガントは今、トーレスと共に偵察に出ていてここにはいない。
そういえば、あの二人はどのように知り合ったのか、表向きには罵り合いながらも、なぜあれだけ互いに信頼し合えているのか。
彼との稽古の際に、彼がいかにトーレスを信頼しているか、またその逆も真であることは彼の話から聞くまでもなく伝わってきたが、それが何故かは改めて聞いた事がなかった。
今度の戦いが終わったら聞いてみよう。
レグラスは、この戦いが終わるのはもう時間の問題だと確信していた。
いくらかの時間をおいて現れた小勢の魔物軍は、そのどれもが撃退されていくうちに段々と出現間隔が空き、昼を過ぎた頃からはまったく姿を現さなくなった。
魔物の軍はもはや小部隊を送るほどの余裕がないほど数が減っているとしか思えず、王国軍の識はますます高揚した。
この戦況を見た騎士達を中心に出戦を望む声が挙がったが、東軍総指揮官のダイムを初めとして各軍の指揮官は誰も首を縦に振らなかった。
そうして一日の熱も頂点を過ぎ、兵士達の我慢が限界に近づいていた頃、東門で偵察をしていた騎士達が魔物の大軍の接近を知らせた。
その報が入るや否や東軍はすぐにこれに対応し、昨日と同じように兵を配置した。
ただ、昨日とは違い城門の上にほとんどの勢力を集めるのではなく、町の側にも傭兵を分散して配置した。昨日の戦いから、侵入を阻止するよりも侵入させてから内部で討った方が確実に相手を仕留める事が出来ると判断したからだ。
守るための構えではなく、おびき寄せて逃さないための構えへと変化したことになる。
城壁の上には少数精鋭で実力のある傭兵ばかりを置き、余った傭兵達と騎士部隊は城壁の内側に置かれることとなった。
「フン、ワシをこちら側に置くとはあの隊長も何も分かっていないようだな」
ガントが毒づいた。毒づいた相手は、いまや彼の教え子であるレグラスである。
トーレスやファズの影に隠れて目立つ事の無かった二人は精鋭に選ばれることなく、城壁の下で警護をすることになったのだ。
もちろん、これはダイム隊長の非ではなく、傭兵や騎士達の推薦を参考に決められた配置であるから仕方のない事だ。
その上、ガントに至っては投石部隊で、戦士としての戦果はそれほど上げておらず、その部隊が縮小したとあってはこの位置にいることはそれほど不思議でも無かった。
ただ、ここで幸運だったのは、城壁の内側にもともと配置されていた魔術師部隊と神官部隊に所属していた二人――リーフルとラウンとは行動を共に出来る事だった。
「ファズ君がいないのが残念だな」
レグラスと再会したラウンが、リーフルと視線を交わしながら惜しげに呟いた。
「ファズなら一人でも戦えますよ」
レグラスは嫉妬混じりに答えた。
そう、彼は自分より何倍も強いのだ。たとえ戦場に一人残されても不覚を取る事は無いだろう。
ラウンに話を聞くところ、昨日の戦いで魔術師が絡め取って神官が仕留めるという攻撃手段をとっていた二つの部隊は、その作戦のために魔術師と神官の二人一組で行動する事になっていた。その時から二人は共に行動していたらしい。
今度の作戦ではそこへさらに傭兵達が加わった事になるから、そちらのコンビとも一緒に行動するのはどうかと誘われたレグラスはガントに同意を求める事もせず、二つ返事で了解した。
ガントは何も相談されなかった事に一瞬不快感を表したが、この二人と共に行動する事を否定する理由は無いためか、すぐに二人と挨拶を交わした。
二人とガントは先日の晩餐の際に会っているはずだが、終始静かに飲んでいたせいかトーレスやパールの影に隠れて記憶にあまり残っていなかったらしい。
おまけにその時は酔っていたせいもあって、ほとんど初対面のような会話が始まった。
「ドワーフって、本当に樽のような体をしているんですね」
リーフルがくすくすと笑いながら言う。それからしばらく、レグラスは陰でガントの愚痴を延々と聞かされる羽目になった。
「さて、そろそろ無駄口叩いてる暇は無くなってきたようだの」
何十分経ったのだろうか。ガントは突然そう言って肩に担いでいた長い槍を構える姿勢を見せた。
城壁ではなく、こちらの部隊に配属されたと知った時に彼は「この方がここでは取り回しやすい」と、この槍を持ち出してきたのだ。
トーレスの身長ほどもあるその槍を人間の子供ほどの身長しかないガントが担いでいる様は滑稽であるが、彼がその槍を下手な人間以上に使いこなせる事をレグラスは身に染みて知っている。
ガントによる訓練カリキュラムにはあらゆる武器による戦いが含まれていた。
その一つに、槍による戦いというものも当然含まれており、ガントはどこからか槍を調達してくると刃先を安全に加工し、訓練に使った。
彼が訓練のために使う模擬武器にはいつも驚かされたが、その武器から彼が繰り出す技の数々にはさらに驚かされていた。
特に驚かされたのがこの槍の取り回しで、自分の身長を遥かに超える槍をまるで体の一部かのように操る彼の姿には驚きを通り越して一種の戦士としての感動のようなものすら覚えていた。
そんなガントが槍を構えた先にある、トーレスやファズのいる城壁の上では、魔物の軍の接近に対し弓で応戦を始めていた。城壁に遮られて外の様子は分からないが、空を見上げる限り相手の攻め方は昨日と同じだ。
「レグラス殿にガント殿ではないか」
突然背後の低い位置から声が聞こえた。驚いて振り向くと、そこにはアンドロスコーピオンのパールが立っている。
「拙者、伝令を伝えに回っているのである」
パールはどうやら伝令係として働いているらしい。
伝令の内容は魔物が城壁内に侵入したら各個撃破しろという事のみであった。戦術も何もあったものではないが、昨日の戦いもそういった形で成功を収めていたらしい。
また、パールは各グループの調査もしていたらしく、レグラスとガント、リーフルとラウンの4人が同時行動している事も確認すると簡単な戦況を伝えてその場を後にした。
その説明によると、敵軍は空中部隊が先行して城壁に取り付き、その攻撃を引き付けている間に地上部隊に攻城させるという昨日と変わらない戦術を取っているらしい。
ただ、目の前の様子を見ていると昨日とは違い、空中部隊は潜入を目的としておらず、全勢力を城壁側に集中しているようだ。
一旦は槍を構えたガントもその展開にはガッカリした様子で槍を下ろす。
さすがに相手も考えているらしく、内部に備えがある事を察知して下手に攻め込むよりも城壁を攻略する事を優先したのだろう。
だが、城壁部隊は数は少なくとも精鋭揃いで決して昨日と比べて能力的に劣るものでは無い。攻め入った敵は確実に一体ずつ葬られていく。
「ワシらの出番は無いが、今度も勝ち戦で終われそうだの」
ガントは渋々満足したといった感じで言う。
丁度この頃、王国軍上層部で急な作戦会議の招集があったらしく、ダイムが席を外し、東軍の指揮は名も知らぬ騎士部隊の隊長の近衛騎士が代わりで執っていた。
会議の内容は不明だが、何か大変な事が起こったようで伝令を聞いた途端ダイムは血相を変えて城へと向かっていったという。その近衛騎士はダイムの指示が的確だったせいで特に仕事も無く、戦況を聞くたびに、まるで何か競技を観戦する客のごとく喜びに体を震わせているそうだ。
この勝ち具合ならばおそらく敵は全滅か、またも撤退するしか後がないだろう。その時はその代理隊長もさぞかし喜ぶに違いない。
そう思いながらレグラスは遠目に城壁の様子を眺めていると、予想通り劣勢となった魔物達は撤退を始めた。
そこで手空きになった傭兵達は敵の地上部隊へ向けて投石機を動かす。
昨日の教訓から、投石機には専用の部隊を充てず、その時々で使える者が稼働させる事になっていた。これも城壁部隊が精鋭揃いで、こうした判断を任せられたからこそである。
投石機は一台が魔物の攻撃によって壊れて動かなかったが、残り二台が役割を果たし、地上部隊は引き際を突かれてまたも混乱に陥った。
「同じ罠に二度もかかるとは、阿呆としか言いようのない敵だな」
ラウンがさすがに呆れたと言わんばかりに呟く。
「いや、そういうわけでは無かろうて」
ガントが答える。と同時に、本部付近から叫びながら馬を走らせてくる者があった。
「今だ、追撃しろッ」
男は東軍総指揮官代理の近衛騎士だった。ここで株をあげておこうとでも思ったか、あるいは完璧な勝利を期待したのか、とにかく彼の独断で行動したのだろう。
「あの若造が、早まりおったな」
ガントが忌々しげに毒づいた。ダイム隊長がくれぐれも慎重になれと伝えていたことは先程のパールの説明にもあったとおりだ。
しかし、周囲の騎士や傭兵達は勝利の雄叫びを挙げて追撃の用意に入っていた。そこへパールが血相を変えて走り込んでくる。
「駄目だ。あの騎士が、ダイム隊長の忠告を無視したばかりに」
息を切らしながら言う。
周囲では追撃へ向かう騎士と、数人の伝令が追撃をやめろと叫んでいる。
「西軍で……、裏切りが出ている」
息も絶え絶えにパールが言う。
「裏切り? まさか。
寝返る意味が無いじゃないですか」
レグラスは答える。どう見ても相手の不利にしか見えないこの状態で反乱を起こすメリットがあるとは思えない。
「貴様は戦争というものを分かっておらんようだな。
いかに劣勢であろうとも、一つの綻びを突けば十分に勝機はあるというものだ」
そう言うとガントは槍を構え直して続けた。
「この戦争は負けだ。ワシらに出来る事は、あの門を抜けて逃げ出す事だけだの。
運が良ければ命は助かるかもしれんわ」
ガント曰く、まずは追撃が問題だという。彼はフイアンの戦で魔物軍の本隊である騎士隊を目にしているが、それが今度の戦ではまったく表に出てきていない。
そこにまるで相手の追撃を誘うかのような攻めをしたということは、追撃のために開門したらその本隊によって逆にこちらの戦力が大幅に削がれる可能性がある。
そして、ここに集まる敗残兵達は、出戦となれば必ずや先の雪辱のために前へ前へと進むだろう。
また、フイアンでは敵の騎士隊は魔物に紛れて戦っていたという。
弱いが数の多い魔物を取り付かせ、それを倒したときには騎士が懐へ入り込んでいるという寸法だ。
開門によって乱戦状態になれば、まさに敵の思うつぼである。
さらに、この裏切りだ。
追撃のために開門してさえいなければまだ門を背にして戦う事は出来ただろうが、この状況では完全に東軍が挟み撃ちされた形になる。
おまけに、裏切りが示し合わされた物だとすれば、これを合図に外の軍が一気に攻勢に出てくる事は間違いない。
たとえ追撃が無かったとしても苦しい戦いになったに違いないだろうということだ。
これだけ都合良く事が運んだあたり、代理の隊長もまた裏切り者であったか、さらにダイム隊長の離席すら敵の計略に含まれているのではないか、とまで予測した。
「そ、そんな……」
レグラスはその話を聞いてまるで心臓が貫かれたかのような気がした。
これが戦争というものなのか。
先程までの勝ち戦など無かった事――いや、今までも勝ち戦などではなく、敵に踊らされていただけに過ぎないというのだ。
この戦に勝機が無いとすれば、レグラスの祖国グランドール王国は歴史から姿を消してしまう事になる。
レグラスは力無く肩を落とした。今まで味わったどれよりも辛い屈辱、敗北感だ。失う物が大きすぎる。
「レグラス君、落ち込んでいる暇は無いようだぞ」
ラウンに声をかけられ、我に返る。そして、城壁の反対側――西軍や南軍のいた城下町の方からこちらへと迫る大軍を目にした。
それらが決して味方ではなく、自分たちに害を為す存在である事は考えるまでもなく分かった。
「アンデッドですね」
リーフルが呟き、ラウンが大きく頷く。その大軍の兵はどれも常人では考えられない程の傷を負っており、肉は愚か骨まで覗かせている者までもいる。
暗黒神や、魔法の力によって操り人形となった死体――ゾンビであった。
ゾンビはまさに操り人形のような珍妙な動きでレグラス達に迫ってきている。
「奴らの動きは遅い。このまま逃げるのが得策だ」
ラウンがそう言ってレグラスを見る。また自分が闇雲に敵の中へ突っ込んでいくのではないかと心配しているのだ。
「だが、もう逃げようにも逃げ道は無いぞえ」
ガントが城門の方を見る。
彼の推測通り、敵の主力の待ち伏せを喰らったようで、城門の向こうでは明らかに押され気味な様子が見て取れる。
また、大半の兵が外へ出てしまっているので、今更閉門したところで目の前のアンデッド集団を撃退できる可能性は低い。
「無駄死にするよりはまだマシだ」
そう言うと、レグラスは奥歯を強く噛んだ。今回ばかりは自分の責任では無いとは言え、最後の戦いをこうした結末で終える事になったのはとても、悔しい。
「北の大山脈へ抜ければなんとかなるやもしれぬが」
パールがぼそっと呟いた。
「馬鹿を言え。あの山脈に立ち入る方が目の前の奴らよりよっぽど危険だと言うに」
ガントがそれに素早く反応する。
「いや、拙者、あの山脈の安全なルートを抜けてここまできたのであるが……」
「やっぱり貴様は馬鹿者じゃ、それを早く言わんか!」
パールが面食らった表情で言葉に詰まる。
「そうと決まればさっさと逃げ出すのが一番だの」
ドワーフは言うや否や城門へ向けて走り出した。
その後からパール、リーフル、ラウンと続く。
「く、くそお!!」
レグラスは無意識に叫ぶと剣の柄を握り直し、一行の後を追って走り出した。
* * *
東軍は完全に乱戦状態に陥り、魔物の軍は後方に温存していた大部隊を全て動かし、またも数に物を言わせる作戦に出ていた。
十分に訓練を積んだ騎士や百戦錬磨の傭兵でも四方八方を敵に囲まれれば太刀打ちできない事もある。今の戦場はまさにそんな状態であった。
追撃に出た兵達は数で大幅に勝る魔物達に周囲を囲まれる形になり、なお数の余る魔物達は城門から城下町へと侵攻しかけている。
「この野郎ッ」
「神のご加護!」
あちこちから決死の兵達の雄叫びが聞こえる。
レグラス達がガントを先頭に城門へ近づくと、丁度魔物達が門をくぐって城門内へ侵入してきたところだった。
周囲にまだ残っていた騎士達も集まり、戦闘状態になる。
レグラス、パール、ガントはそれぞれ距離を置いて前線に立ち、リーフルとラウンが後方から援護する。
魔物の数は多く、それぞれ二体や三体を同時に相手し、倒していくが、それでもなお前に進む事が出来ない。
そんな時、魔物達の真横――城門の中から大剣を振り回して突進してくる男がいた。
「モタモタしてたらまずいんじゃないのか?」
魔物達の不意を付いて血路を開いてくれたその男――トーレスはレグラス達に向かって叫んだ。彼はそのまま目の前の魔物を相手にしながら続ける。
「上の奴らはほとんど表に出ちまった。残りは少ないが、逃げるには十分だろうよ」
その言葉を合図にしたか、何十人かの傭兵達がトーレスの開いた通路を埋めるように現れ、一歩一歩足を進めるたびに周囲には敵の死体が積み上がり、さらに新たな通路を開いていく。
「良いところだけ持っていきおるわ」
ガントは呟くと手にした槍を大きく振り回した。周囲に群がっていた魔物達が弾き飛ばされる。
この援軍のお陰で、侵入しかけていた魔物は総崩れとなり、レグラス達はようやく城門から外に出る事が出来た。
城門の外では想像以上の激しい乱戦が行われていた。騎士の鎧に傭兵達の姿、それに大量の魔物と、所々で真っ黒な鎧に身を固めた騎士の姿が見える。
「やはり、あの騎士隊が出てきおったか」
ガントが叫んだ。
「邪悪な波動を感じます」
「魔物といい先程のアンデッドといい、敵は一体何者なのか……」
リーフルとラウンも思わず呟く。
「死にたくなければ、奴らの動きには注意しておくんだな」
トーレスは叫びながら目の前の魔物に斬りかかった。魔物は肩から腰にかけて斜めに切断される。
レグラス達も後に続いて目の前の敵を倒し、道を文字通り切り開く。
だが、敵は正面だけではない。戦闘の中心部を離れるように移動しているとはいえ、依然敵の数は多く、いつしか一行は敵に囲まれる形になっていた。
どれだけ離れても敵の数がまったく減る気配がない上、負け戦との意識があるせいか、段々と疲れも目立ってくる。
レグラスも相手の攻撃をいくつか交わし損ねて傷を負っていた。
腕や足に刻まれた傷は彼の動きを鈍らせ、新たな傷を作る原因にもなってしまう。
――体が重い。
城門を出てから何十体目かになる目の前の敵の攻撃を間一髪で交わしながら、レグラスは限界が近い事を感じる。
重い腕を振り上げ、魔物の腕めがけて一撃を加えるが、その攻撃は相手の腕を断ち切るまでには及ばず肉に食い込む。
まずいと思った時には遅かった。魔物は深々と刃の刺さった腕を振り上げるとその反動を利用して反対側の腕でレグラスのがら空きの胴を狙う。
彼は失敗に気付いた途端に全力で後ろへ跳躍して直撃だけは免れたが、鎧の隙間を魔物の鋭い爪がかすっていった。
ひやりと気持ちの悪い汗が吹き出るのを感じると同時に身体を襲う痛みでバランスを失い、倒れる体を誰かが支える。
「落ち着け。すぐ回復の神聖魔法をかける」
既に退魔の神聖魔法などを多用したのだろう、レグラスを抱きとめたラウンはかなりの疲労を見せていた。
たった今レグラスの脇腹をえぐった魔物はガントの槍とリーフルの魔法によって既に息絶えている。
「ファズ君も無事ならいいのだが」
次の敵へ向けて魔法を放ったリーフルがラウンの言葉に一瞬振り返る。メリアを後にした四人の仲間のうち、彼だけがここにはいない。
やがて、レグラスは暖かい光の熱を感じたかと思うと傷はふさがり、同時に今までの激しい疲労も体から消えていった。
ようやく立ち上がったレグラスに対してラウンは腰を落とす。疲労が限界に達したのだろう。
「ラウンさん、ありがとうございます」
レグラスは言うと、ラウンは疲労の色がありありと見える顔を上げて言った。
「そういうときは、もっと気の利いたセリフを言うものだ」
そこへ新たな魔物が現れた。
配置はうずくまるラウンの前にレグラス、さらにその前方にガント、トーレスの2人が展開しており、ラウンより後ろではパールが戦い、それをリーフルが援護している。
そこへ、右後方からパールとリーフルの攻撃をうまく交わして魔物がレグラスの元へ回り込んだという訳だ。
レグラスはその魔物を難無く仕留める。両腕を落とし、脳天に一撃を食らわす。その戦い方はいつかのデュラハンのようにスマートだ。
その魔物を倒すとほとんど同時だっただろうか、すぐ背後でラウンが何か声を上げたのを耳に振り向いた彼は思わず嗚咽の声を挙げた。
いつの間にか、今の魔物が来た場所とは逆方向の死角から敵が回り込んでいたのだ。
普通の魔物ならば今のラウンでもなんとか対処する事が出来ただろう。しかし、相手が悪かった。
全身を漆黒の鎧で固めた騎士はラウンの心臓を貫いた剣を抜き取ると、呆然とするレグラスに向かって疾風の如き突きを放った。
恐怖で声も出せないレグラスに金属と金属がぶつかる嫌な音が聞こえ、目の前が真っ暗になった。
「不可抗力だ。俺がもう少し周りを見ていれば」
悲痛な叫びを挙げたトーレスが「くそ!」と敵を罵った。レグラスのすぐ目の前に立っている。
後方の異常を感じたトーレスはすぐにレグラスの元に向かい、手にした大剣で黒騎士の剣を横から払ったのだ。
そして、彼はすぐに体勢を立て直した敵と激しいつばぜり合いを繰り広げていた。
しかし、どうやら力ではトーレスに分があったと見え、劣勢を自覚した黒騎士は大きく後ろに飛んで間合いを広げると、構えを直してからトーレスに斬りかかる。
その攻撃は素早く、洗練された騎士のそれと言った感じであった。レグラスの見た限り、その技の冴えはメリアで見たロンバルト団長のそれに負けずとも劣らない。
一方のトーレスも手にした武器が大剣とは思えないぐらいの動きで相手の攻撃を確実に受け流している。
だが、まったく攻勢に移れていないところを見ると苦戦している事が分かる。
ふと我に返り、呆然と見ているだけで何もしていない自分に気付いたレグラスは再び進路を開くために雄叫びをあげて魔物の群れへ向かって行く。
トーレスはしばらく相手の攻撃を受け流すと、先程相手がそうしたように大きく後ろに飛び退いて叫んだ。
「こいつは亡霊騎士だ、パールに魔法の嬢ちゃん、援護しろッ」
叫び終えない内に黒騎士は一気に距離を詰めてくる。
――亡霊騎士。後ろから聞こえたその単語にレグラスは聞き覚えが無かった。
名前から察する限り幽霊そのものなのか、先程のゾンビのように魔法の力で生み出された者なのか。
この状況から考えればおそらく後者であろうが。そういえばデュラハンも幽霊だとか言われていたが……。
目の前の敵に集中しなければならないのに、多くの考えが浮かんでは消えていく、
後方ではパールとリーフルが加勢したらしく、剣のぶつかる音が一層大きく響いてくる。
「もはや脱出どころじゃ無いようだの」
いつの間にか近づいたガントがレグラスに向かって叫ぶ。
「トーレス達にこの雑魚が近づかないように護衛しておけ」
そして、自身はパールとトーレスの援護に気を取られて孤立しているリーフルの護衛へと走る。
残念なことに、その判断が少し遅かったようで、既にリーフルは魔物に囲まれていた。
彼女も自身のミスにようやく気付いたようで、慌てて逃げ場を探す。
しかし前方には亡霊騎士、それ以外の方向には扇状に魔物という現状で逃げるに逃げられず、立ち往生してしまった。
ガントがそこへ向かって走るも間に合わず、リーフルへと一体の魔物の爪が襲いかかる。
だが、魔物の腕が振り下ろされたと思いきや、その腕は身体を離れて宙を舞った。それと同時に空中から降り立った何かがゆっくりと立ち上がりざまに言った。
「ほら、正義の味方は遅れてやってくるって言うだろ?」
魔物の一匹を踏み台にリーフルの包囲網の中へ入った男は、続けて周囲の魔物達を華麗に倒していった。
蛇が草むらの中を駆け抜けるように、ファズの剣が魔物達を切り裂いていく。
助けに向かっていたガントはこの援軍に安堵するが、その直後横から走り込む亡霊騎士に気付く。
ガントは亡霊騎士の攻撃を槍で受け流すが、槍は脆くも折れてしまい、勢い余って亡霊騎士の剣がガントの肩へと食い込む。
「ガントさん、大丈夫ですか!」
この戦闘に気付いたファズが直ちに加勢に入る。
「なんの、これしき。――それより奴を」
とは言うもののガントの傷は深く、肩から胸までに達しておりどこから見ても致命傷だ。
リーフルが何かを叫び、ファズは亡霊騎士の攻撃のいくつかを剣で受けると、相手の攻撃を絡め取るように刃を走らせそのまま相手の脇へと攻撃をたたき込む。
金属と金属がこすれる激しい音がし、亡霊騎士の片腕が飛んだ。
片腕を根本から切断されて大きく仰け反った亡霊騎士の首元にファズが渾身の突きを喰らわす。
首を刎ねられた亡霊騎士はそのままがっくりと倒れ込んで動かなくなった。
亡霊騎士を倒したファズは青白い光が消えていく剣を下ろすと、すぐにガントに駆け寄り、声をかける。
しかし、ガントがファズの声に答える事はもう無かった。
この戦闘のためにファズとリーフルはレグラス達から遠く離れてしまい、やがて周囲を囲む魔物によって互いにその姿を見失ってしまう。
ガントの遺体をそっと地面に下ろしたファズはうろ覚えの最後の祈りを捧げると、リーフルの手を取り、その目を見つめて言った。
「大丈夫、絶対守ってあげるからね」
* * *
レグラスがいくら叫んでも、三人の姿が向こうから現れる事は無かった。
「今は、先へ進むしか無いだろう」
トーレスがレグラスの肩を叩く。トーレスとパールの連携、それにリーフルによる剣への魔法付与によって見事亡霊騎士は倒したが、この戦いの合間にその援護を行ったリーフルとガント、加勢に現れたファズの姿を敵の中に見失っていた。
ラウンも亡霊騎士の一撃によって既に絶命しており、レグラスはトーレスの鎧の襟元を掴んでまで反対したが、結局遺体はその場に放置し、逃げることを選んだ。
一気に数を減らした一行だったが、皮肉にも目立ちにくくなったために包囲網は和らぎ、しばらく走るうちに敵の数もまばらになり、目の前に大山脈の麓から続く大森林が見えるようになった。
草陰に身を隠し、レグラスは戦場を振り返る。今だあちこちで戦闘が続いているらしく、それを示すように至る所から砂煙が上がっている。
「この森には、いくつかの抜け道が存在するのであるが……」
パールとトーレスが今後について話し合っているのが聞こえる。レグラスには目の前の光景も、その話し合いも全てどこか遠い世界の出来事のように感じられていた。
夢の中のデュラハンの言葉が思い出される。
「貴様には、誰も救えない――」
まったくその通りだ。今まで自分がどんなことをしてきたのだというのだ。
負けに負けを重ね、仲間のほとんども失ってしまった。
冷静に考えればその全てが自分のせいでないことぐらいは判断できただろう。
しかし、今のレグラスには全ての事、何もかもが自分のせいであるかのように思われた。
自分の情けなさがただ悔しく、膝を落として地面に倒れ込む。瞼の奥からは熱い物が溢れ出る。
「ちくしょう、――俺は、俺は……」
涙声でレグラスが叫ぶ。考えれば考えるほど悔しさが腹の底からこみ上げていく。
「うわぁぁぁァァァァ!!」
レグラスは地面に拳を叩き付けた。何度も叩き付けるうちに、拳が血で滲む。それでも悔しさは収まらない。何度も、何度も地面を叩く。そこにこの過酷な運命を定めた神を見ているかのように。
――と、その腕が誰かに掴まれる。
「そのくらいにしておくんだな」
トーレスはそのままレグラスの腕を引っ張り、立ち上がらせる。
「ひとまず、森の奥へ進む」
レグラスが自分の力で立てる事を確認するとトーレスは手を離し、そのまま背を向けて歩き出した。
「もうすぐ日も暮れる。安全な野営地を見付けておかないと苦しむのは自分だぞ」
* * *
木々の間から漏れる夜明けの光を手がかりに道ならぬ道を歩いていくと、森から抜けた。
そこは、切り立った崖の上らしく、数歩先で地面が途切れて無くなっていた。そのおかげで、遥か彼方にある戦場の様子を見渡すことが出来る。
ほんの数時間前には、自分もあの場所で戦っていたのだ。
戦いの行く末はもう見えている。もう、どうすることもできない。仲間達の多くとは散り散りになってしまった。彼らは無事生き延びることができているだろうか。
同じ戦場で共に戦った仲間達の姿が脳裏に浮かんでは消えていく――。
ふと気付くと、歌を口ずさんでいた。今まさに歴史から消えようとしている、愛する祖国の歌を。
そうして彼方の地上を見つめていると、いつしか戦闘は収まっていたようだ。様子を見る限り、予想に違わない結末だったのだろう。これからは新たな歴史が始まるのである。
――いや、あの平和な国を歴史から消してしまって良いはずが無い。たとえ国が消えても、その国を愛する心はまだ残っている。その心は決して消え去ることは無いだろう。
崖の上に一人の騎士がいる。
まだ真新しい鎧を身につけた、どこか田舎臭い顔立ちだが騎士らしい凛とした雰囲気を持つ男だ。崖の奥の森では、彼の、もう随分と数の減ってしまった同行者達が彼を見守っている。
騎士は遥か遠くに見える母国を、涙を浮かべた目でじっと睨みつけながら呟いた。
「力が、欲しい」




