ただ肉は食うもんじゃない
土曜日は授業も選択もなかったので、少しだけ大学の雰囲気に慣れたぼくは、久しぶりな感じで朝から家でゆっくりしていた。
保も休みだから昼頃まで寝ているだろう。階下から洗濯機の回っているかすかな音が響いてくる。国安さんが洗濯機を回しているのだ。
和江叔母さんはデパートに出勤したあとだから、この家の中で動いているのは家事を受け持っている国安さんだけだ。お腹が空いてきたけど、ぼくはまだベッドにしがみついていた。
壁に掛けてあるデニムジャケットのポケットの中の携帯が鳴ったのは、午前十時になろうとしている頃だった。電話を取ると、井上さんの大きな声が耳を打った。
「タマオ、十一時に集合な」
きのうの焼き肉のお礼を言う間もなく、いきなり井上さんは集合時間と集合場所の駅名を言った。
「え、きょうサークルの活動日でしたっけ」
聞いてないんですけど。
「おう、そうだよ。遅刻すんなよ。ほかの連中にも連絡しておいたからな」
「いや、いきなりそんなこと言われても」
「なんだとコノヤロ。タダ肉食うだけ食っておいて逃げる気か。ふてえ野郎だ」
やっぱり食うんじゃなかった、と思ったけどあとの祭りだった。お金、返したいな。
「ただ肉食わせて、デートの手ほどきまで教えようと言うんだ、ありがたく出て来やがれ」
そう言って一方的に電話が切れた。大急ぎで生食パンを、飲むヨーグルトで流し込んでデニムジャケットを羽織って家を飛び出した。うしろで国安さんが「夕飯どうするの」と訊いていたが、どうせ返事をしても聞こえないだろうと思って返事をしなかった。予定がはっきりしたら電話を入れればいいだろう。
電車を一つ乗り換えて集合駅の待ち合わせ場所に行ったら、井上さんをのぞいた全員が待っていた。
「遅くなってすみません」
頭を下げながら見回すと、ひより先輩のクールな無表情と目が合った。
「これからは、いつ何時連絡があっても迅速に行動できるように、緊張感をもって生活するように」
これに返事できるか? ぼくは潜入捜査官でもなければトム・クルーズとチームを組んでいるスパイ組織の人間でもないんだよ?
川島君が僕の腕をつついた。気がつくと、先輩たちは先を歩き始めていた。
「きょうのテーマは、人間観察だってよ」
「デートクラブのサークル活動にテーマなんかあるんだ」
人目をはばかるようにぼそぼそとしたしゃべりかたをする川島君につられて、ぼくもぼそぼそと返す。
「カップルの年齢のいちゃつきかたの違いとか、見た目の印象といちゃつきかたが合致しているかとか、オンナは人目のあるところではどこまでいちゃつきを許容してくれるかとか、オトコは人前でいちゃつきたがるものかとか、いちゃつきにテーマが絞られている」
「いやなテーマだな。誰が考えたんだろう。くだらないねえ」
思わず本音が出てしまった。
「見ろよ、あれ」
駅前の交差点を渡ってくる混雑の中に高校生のカップルがいた。
高校生カップルは、互いにお揃いのピアスをつけて、髪を不自然なくらい真っ黒に染めて、その髪をべったり整髪料で固めている。服はどちらもカラスのように真っ黒でまとめ、真鍮の安物のアクセサリーを首やら手首やら腰やらにじゃらじゃらつけて、もうすぐ五月になろうとしているのに暑苦しいブーツを履いて、世の中の楽しいことなんか全部ぶっつぶしてやる、みたいな雰囲気で手をつないで歩いていた。
ぼくは下を向いてクスクス笑った。すれ違うとき、川島君が見ろ見ろというように腕を肘で突いてくる。
「やめろよ」
笑いだしたいのをこらえて小さい声で言うと、川島君は肩をふるわせて必死で笑いをこらえていた。
横断歩道を先に渡りきっていたひより先輩と桃香先輩と江川先輩が、不思議そうな顔をしてぼくたちを見ていた。
ぼくたちはそのまま明治通りを突っ切って表参道のほうへぶらぶらと歩いていった。しゃべっているのはほとんど桃香先輩で、時々ひより先輩が相づちをうち、江川先輩は周りを無視してマイペースで歩いていた。
ぼくと川島君は、意外にもこのカップルウォッチングが気に入ってしまった。見ていると飽きないのだ。観察していると、いろいろなことが見えてくる。
すぐに昼になって、通りかかったラーメン屋に入って昼をすませ、明治神宮まで足をのばし、家族連れや若い人や年寄りたちを眺めながらぼくたちは代々木公園のベンチでのんびりした。
お腹は程良く満ち足りているし、お日様は気持ちいいし、風はさわやかだし、ベンチで足を投げ出していると眠くなってくる。
みんなといて楽しいとうわけでもないけど、退屈ということもなく、のんびりとひなたぼっこをしていると、ずっと前からこんなふうにこの連中と一緒だったと思えてくるような穏やかな時間だった。
日が傾いて風が少し出てきた頃、ひより先輩がいきなりすっくと立ち上がった。背が高くて冬の女王のように綺麗で氷の雰囲気をまとった彼女が無言で立ち上がっただけで、何事だと気が引き締まる。
「行くわよ」
その一言で、ぼくたちは歩きだした。先頭をひより先輩と桃香先輩が並んで歩いていて、その後ろを江川先輩が一人で歩き、その後ろにぼくと川島君が並んで歩くという序列が定着していた。
ぼくたちは来た道を戻って歩いていたが、ひより先輩と桃香先輩が、途中から道を曲がってブティックやアクセサリーなどの店が並んでいる通りに入っていった。江川先輩がなにも言わずに従うので、ぼくたちもついていく。完全に買い物客に変身をとげたひより先輩と桃香先輩に首を傾げながら川島君を見ると、川島君もうんざりして顔をしかめて見せた。ぼくは江川先輩に近づいて、こっそり言った。
「あのぉ、サークル活動が終了したなら帰りたいんですが」
「いいよ、帰れば。俺たちはこのまま時間をつぶして井上さんと待ち合わせてメシ食って帰るから」
川島君が首を突っ込んできた。
「メシ、食えるんですか」
「当たり前だろ。でなきゃこんなくだらないサークルに誰が出てくるもんか。メシぐらい食わせてもらわなきゃ誰も出てこないって」
いや、そんなことはないと思うけどな。
メシの為に貴重な休日を潰せるのは川島君ぐらいなものだと思うけど、先輩たちもそうとう生活に困窮しているのだろうか。身なりや雰囲気からすると、先輩たちは洗濯してあるきれいでおしゃれな服装をしているし、飢えてガツガツしているというわけでもないようだ。だから、メシのためだけに出てくるとは思えない。
それなら、仲間といるのが楽しいからなのかというと、そんな風にも見えない。だって、しゃべっているのは桃香先輩だけで、そのおしゃべりも「うわー、あのマネキンの着ているお洋服、かわいー」だの「そろそろ夏物の靴がほしいなー」とか「あたしぃー、来月二十二歳になっちゃうのよねー、年を取るって悲しいー、どんどんおばあさんになってくー」とか、聞いているほうはどうでもいいような独り言の羅列だし、それに対して、たまに思い出したようにひより先輩があいづちを打つくらいで、江川先輩に至っては我関せずで、連れの存在すら忘れて歩いている。
これで楽しいのか? これが楽しいから、タダメシは口実で、貴重な休みの日を潰すのか?
謎だ。理解できない。そうこうしているうちに、日が暮れはじめて風が冷たくなってきた。




