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タマオっていうな!  作者: 深瀬静流
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タマオっていうな!

「え?」

 加藤さんが眉をひそめてぼくに視線を移した。

「どうして加藤さんは、叱る前に美咲さんの気持ちをきいてあげないんですか。叱る前に、どうしてそんなことをしたんだって、きいてあげないんですか? もしかしたら、美咲さんにだって、言いたいことがいっぱいあるかも知れないじゃないですか」

「珠緒ちゃん」

 隣でお母さんが意外そうに目を見張った。こんなふうに他人の大人に突っかかっていくような大それた態度は見たことがなかったからだろう。知らない人を見るようなお母さんの表情に内心傷ついていた。

 お母さんの知らないぼくはいっぱいいて、ぼくの知らないお母さんもいっぱいいて、知らない数の多さがぼくたち母子が別々に暮らしてきた年月の長さに相当することを、お母さんは理解しなくちゃいけないのに。

「だってさ、なぜ美咲さんが子供の頃に別れたきりのお母さんに、今になって会いにきたのか、加藤さんは知ってるんですか」

 ぼくに問われて、眉間にしわをつくった加藤さんが美咲さんを振り向いた。

「美咲、何か訳があるのか。それならそうとはっきり自分で言いなさい」

 いらだたしい声に返事をしないで、反抗的に畳を睨みつけている美咲さんに代わってぼくが言ってやった。

「美咲さんからききましたよ。加藤さんに結婚の話が持ち上がっていて、それでお母さんに会いたくなったって」

 加藤さんに向かって言っていたけど、ほんとうはぼくの隣で目を見開いているお母さんに言っていたんだ。

「こっそり陰から見るだけのつもりだったようです。そしたら、美咲さんのお母さんには七、八歳くらいの女の子がいて、優しそうな旦那さんと親子三人で幸せそうにしていたんです。それが美咲さんにとっては悔しかったんだと思います」

 純市さんは目をそらせて切なそうに唇をかんだけど、加藤さんは美咲さんを苦々しげに一瞥しただけだった。

「だからといって、珠緒君の携帯を取り上げて美都子めがけてガラスを割っていいということにはなりませんよ。美咲のしたことは、どんな理由があろうとも、してはいけないことなんです」

「正論を言うのって、気持ちがいいでしょ。そうやって、寂しい思いや悲しい気持ちを一人で胸に抱え込んで大きくなった子供を糾弾するのは爽快でしょうね。でも、美咲さんは言っていましたよ。新しいお母さんなんかいらないって。家の中に他人が入るのはいやだって」

 ぎょっとしたように加藤さんとお母さんが顔を見合わせて固まった。

 美咲さんがちらりとぼくを盗み見る。

 お茶を持ってこようとしていた国安さんが、盆を持ったまま台所で突っ立ていた。

「珠緒ちゃん、人様のご家庭のことに口を挟んだりしたらいけないわ。どこのお家にも、いろいろ事情がおありなんだから」

 おろおろしながら、場を取り持とうとしてくるお母さんを睨みつけた。

「人様の家庭の事情じゃないよ。今さっき、家に入ってきたとき加藤さんは、お母さんのことを『雅子さん』て呼んだんだよ。ぼくだって美咲さんだって、お母さんたちが思っているほど子供じゃないんだ。美咲さんは加藤さんから再婚の話しを聞いていたけど、ぼくは今初めて、お母さんと加藤さんがそういうおつき合いをしていたことを知ったんだぞ。なんで隠していたんだよ。こそこそしてさ、それならそうと、もっと早く言ってくれればよかったじゃないか」

 次第に激高していく自分を押さえられなくなっていた。ぼくの剣幕に弱腰になったお母さんが、形勢を立て直そうと身を乗り出してくる。

「珠緒ちゃん。そのことは、もう少しお母さんの気持ちがはっきりしてきたら、話そうと思っていたのよ」

「はっきりって、どんなふうにはっきりなんだよ。再婚の気持ちが固まったらってこと?」

「そうじゃなくて、再婚したいのかどうなのかということよ。加藤さんと再婚するということではなくて、再婚自体を……」

 語尾が頼りなく消えていく。

「雅子さん、ですから、今はふつうにおつき合いをしていただければと」

「加藤さんは黙っていてください。これはぼくとお母さんの問題なんですから」

 ぼくはぴしゃりと加藤さんを牽制した。

「いや、でも、しかし。私だって当事者なんだけどな」

「お父さんは黙っとりゃーせ。青木さんはお父さんと結婚するかどうか考えるって言うとるんじゃなくて、再婚するかどうか考えると言っとるんだて」

 今度は美咲さんが加藤さんの口を封じる。

「お義姉さん、再婚してもいいんじゃない?」

 遠慮がちに声を出した和江叔母さんに、全員の視線が集中した。

「だって、あれから十年たつんですもの。珠緒くんだって、こんなに大きくなったことだし、そろそろ自分のこれからを考えてもいい頃だと思うんだけど」

 そうなんだ。

 お父さんが死んでから十年たつんだ。だから当然生きているものは、過去に後ろを引っぱられたりしないで、前に進んでいっていいんだ。和江おばさんの言うように――なんて、思うわけないだろ!

「叔母さんは、お母さんが再婚ればこの家は叔母さんの自由になるからそんなことをいうんじゃないのか?」

 ぼくが言ったら、保が眉を吊り上げた。

「俺の母ちゃんはそんなセコいこと考えてないよ。伯母さんの幸せを思って言ってるんだろが。」

 保があきれたようにぼくを睨みつけたけど、ぼくの胸の中には言いたいことがあふれかえっていた。

「なにが幸せだよ! 誰の幸せなんだよ。それじゃあ、ぼくの幸せはどうなるんだよ。お父さんが死んだとき、ぼくとお母さんは同じ傷を負って苦しんだんだ。だからお母さんは、これから再婚して幸せになればいいって言うんだろうけど、それじゃあぼくはどうなるんだよ。離婚した和江叔母さんが保を連れて実家のこの家に戻ってきて間もなく、ぼくのお父さんが自殺してさ、一周忌が終わるのを待っていたみたいに国安さんが和江叔母さんのところに転がりこんできちゃったんだよね! 和江叔母さんと国安さんと保の一家三人が居座っちゃってさ、それでお母さんが家に居ずらくなって働きにでたんだぞ!」

 国安さんが盆を持って台所に引っ込んでしまった。和江おばさんがなにか言いたそうに口と手を動かしたが完全無視だ。ぼくは頭に血が上っていた。

「お母さんはお父さんみたいに仕事の虫になってしまって、家のことなんか忘れたみたいに必死に働きだしてさ、ぼくがどんなに恐ろしい思いをしていたか、だれも知らなかっただろ」 

 詳しいことなど知らないはずの加藤さん一家が緊張して見守る中、保たちも息を詰めるようにしてぼくを見つめていた。

「不自然なくらい仕事に熱中し始めたお母さんを見ているうちに、お母さんもお父さんみたいにノイローゼになって自殺しちゃうんじゃないかって、どんだけ不安だったか! 子供だったぼくの気持ちを気遣ってくれた大人がいたのかよ。お母さんだってわからなかっただろ。小さかったぼくは、よく小学校で吐いたんだ。保健室で寝ていることも多くて、学校からお母さんに連絡だっていったはずだよ。でも、仕事だから休めない、仕事だから、仕事だから、仕事だから!」

 熱いものがこみ上げてきて喉が詰まった。こんなふうに感情をぶちまけたのは初めてのことだった。いつもいろいろな思いを握りつぶして腹の底に押さえ込んでいた。

 お母さんが一生懸命頑張っていたから、ぼくのことで心配させたらいけないと子供なりに思いつめていたんだ。でも、保たち一家が入り込んできて、この家の中が保たちでいっぱいになって、いつも保の笑い声や保を叱る親の声であふれかえって、いったい誰の家だかわからなくなってきたころ、お母さんはもうぼくのそばにいなくなっていたんだ。

「聞いて珠緒ちゃん。珠緒ちゃんの具合が悪くて学校から連絡が入ると、いつも国安さんが迎えにいってくれて、それを知らされるのは仕事から帰ってきてからばかりだったのよ。そのたびに、国安さんには余計なことをしないでわたしに連絡してくださいと言ったのに、いつもいつもでしゃばって、まるで父親のつもりにでもなったみたいに態度が大きくなってきて、どれだけ悔しかったかわからないわ。わたしたち親子のあいだにまで入り込んできて、いつのまにかこの家に根をはやしていたのよ」

 辛辣なことをオブラートにくるむこともせず国安さんを責めながら、なぜだかお母さんは和江おばさんを睨む。睨むなら国安さんのほうだと思うのだけど、その国安さんは台所の冷蔵庫にしがみつくみたいにして背中を向けていた。

 和江おばさんが居住まいを正して、おもむろにお母さんと対峙した。

「お義姉さん。でしゃばるとはひどいことを言うのね。確かにうちの人は働きもしないでパチンコばかりしているろくでなしよ。でもね、わたしからいわせれば、家の中のことも子育てもみんなうちの人に押し付けて、自分は独身みたいな顔で着飾って仕事に専念できたのは誰のおかげだと思っているのよ。珠緒くんが中学の時の運動会のリレーで足をもつれさせて転んで、足首の靭帯を切って動けなかったときだって、なにからなにまで世話したのは国安だし、インフルエンザにかかって高熱を出した時だって、寝ないで看病したのは国安よ。大学受験のときの夜食をつくり続けたのも、湯島天神の合格祈願のお守りをもらいにいったのも国安よ。この人は保と分け隔てなく愛情をそそいで珠緒くんを育てたわ。そういう人だから、お義姉さんは安心してこの家のなかをうちの人に任せて働けたんじゃないの?」

 和江叔母さんは本気で怒ると怖い人だ。冷静に、こんこんと理詰めで攻めてくる。そういうところは、死んだお父さんと兄妹だけあってタイプが同じだ。それにひきかえ、お母さんの本当の性格は、感激屋の泣き虫で感情的な人だ。

 夫婦喧嘩していたときも、お母さんばかりぎゃんぎゃ怒って、そういうお母さんにお父さんが根気よくつきあって、最後はお母さんのほうが『ごめんなさい』と謝って仲直りしていた。

 でも、和江叔母さんはお父さんと違う。

 お母さんをだれよりも愛してくれたお父さんとは違うから、こんなふうに正面切ってぶつかったら和江叔母さんに容赦はなかった。だけど、お母さんだって、社会で揉まれて今日まで生きてきた人だ。ぎりっと据わったお母さんの目つきは怖かった。

「和江さんの言い方だと、国安さんのおかげでわたしが働けたみたいに聞こえるわね。こんなこと言いたくないけど、和江さんは国安さんと離婚したくせに、わたしと国安さんが話しているだけで焼きもち妬いたわよね。あれがすごく嫌だったわ。なんでもないことを話しているだけなのに、よく鬼のような顔でわたしを睨んだわよね。あなたがそんなふうだから、こっちのほうが変に気をつかってしまって、家の中がぎくしゃくして居られなくなったんじゃありませんか」

「兄さんを亡くして、心細くていた雅子さんは、国安と話しているときだけは笑顔を見せたものね。国安は働かないろくでなしだけど、女性関係はきれいなもので、浮気なんかしたことのない人だったわ。でも、雅子さん、あなた、国安の気を引いたでしょ」

「和江! 言っていいことと悪いことがあるぞ。雅子さんに失礼だろ」

 台所にいた国安さんが、思いの外きつい口調で和江おばさんを叱った。

「そうだよ母ちゃん。すっげえ嫌なことを言ったぞ、今」

 保まで和江叔母さんを非難した。

「なによあなたたち! 二人そろってわたしを責めるの。まさかあなた達にそんな悔しい口を利かれるとは思っていなかったわ。今までずっと我慢していたんだけど、この際だから言わせてもらうわ、国安さん」と、和江叔母さんが揃えたひざ先を国安さんに向けた。

「だから、雅子さんとのことは和江の勘ぐりすぎだと言っているだろ」

 めずらしく怒った声をだした国安さんを睨み据えて、和江叔母さんは抑えていた怒りをじわじわ開放し始めた。

「そんなこと今更どうでもいいわよ。今まで、わたしがあなたのことでどれだけ肩身の狭い思いをしてきたかわかっているの。保を連れてこの家に出戻ってきただけでも辛いのに、あなたまで厚かましく転がり込んできて、それがお兄さんが亡くなって、たかだか一年しかったていなかったから、ご近所では噂になっていたのよ。後家と出戻りが男をくわえ込んだって。恥ずかしくて顔をあげて歩けなかったわよ。働きもしないで、掃除洗濯家事育児が男のすることなの。一度は愛想を尽かして離婚したけど、いつかはまともに働いてくれるかもしれないと心の底では願っていたわ。でも、やっぱりあなたは最後までクズだったわね」

 つり上がった目に涙を浮かべて激しくいいつのる和江叔母さんに、国安さんは青ざめて拳をぎゅっと握った。

 どんなにひどい言葉で責められ侮辱されても、固めた拳を振り上げるような人ではないけど、和江叔母さんの言ったことは本当のことだったから、国安さんも切りつけられたよに痛そうな顔をしていた。

「母ちゃん、言い過ぎだろ。俺は親父のこと、俺なりに尊敬してるぞ」

 保がすっくと立ち上がって茶の間を移動し、台所の冷蔵庫のところで立ちすくんでいる国安さんを背中でかばった。

「確かに親父は生活能力ないよ。男のくせに働くことをギブアップして奥さんに養ってもらうなんて情けない男だよ。でもさ、主夫としては最高じゃん。よくやってくれているし、俺、母ちゃんがいなくても、家に帰ればいつも親父がお帰りって言ってれて、おやつを出してくれてうれしかったよ。よそのうちと違っていても、俺はそういう家もあるんだって思ったよ。いいじゃん、べつに、男と女が逆転しても、それで家の中がうまくいっているならさ、なあ珠緒」

 ぼくは一瞬ぐっと詰まったが、きれいにまとめようとする保に猛烈に腹が立った。

「立派なことをほざくなよ保! おまえの父ちゃんのせいで、ぼくもおまえもずっとからかわれて苛められてきたじゃないか。いまでこそ、それだけでかくなっているけど、中学の頃はぼくと同じくらいチビでさ、ぼくが泣いて帰ってくると、保だって泣いたあとの顔して男ならやりかえせって怒ったじゃないか。自分だって泣かされて、逃げて帰ってきたくせに、昔のことをなかったみたいに立派なことを言うなよな」

「珠緒ちゃん、かわいそうに!」

 お母さんの金切り声が響き渡った。

「珠緒ちゃんが辛い思いをしたのも何もかも、みんな和江さんが悪いのよ。和江さんさえこの家に出戻ってこなければ! 今度こそ言わせてもらうわ。あなた方、この家から出ていってください」

 こんどは和江叔母さんが顔色を変えた。

「雅子さんこそわたしたちに珠緒くんを押しつけておいて、よく勝手なことが言えるわね。誰が出ていくもんですか。この家はわたしが生まれて育った家よ。雅子さんこそお兄さんがいなくなったうえは他人なんですから出ていけばいいのよ!」

 心臓が痛かった。

 それはぼくだけじゃなくて、この茶の間にいる全員がそうだったと思う。

 みんな顔を強ばらせて青ざめ、今にもお母さんと和江叔母さんの取っ組み合いの喧嘩

が始めるのではないかとハラハラした。

 冷蔵庫の扉を叩きつけるように開け閉めする音がしたのでそちらのほうを見ると、保が冷蔵庫から缶ビールを出したところだった。

「いったい何なんだよ! 今まで、この家はこれでうまくいってたんだ。そりゃあ、みんな思うことはいろいろあったとしても、そんなこと、どの家でもあることだろ」

 そういって口の端からビールをあふれさせながら乱暴にビールをあおる。ごくごくと喉が鳴って、その音が静まり返った室内によく聞こえた。

 奇妙な静寂を破ったのは美咲さんだった。

 彼女はやおら立ち上がると、父親の加藤さんを見下ろしながら自分の短い髪をかきむしって身悶え始めた。

「お父さん! こんな複雑で汚らわしい家庭の人と再婚するなら、わたしは名古屋城のシャチ鉾のしっぽにロープをかけて首を吊って死んでやるからね」

「今なんて言ったよ! ブス。汚らわしいとはなんだ、汚らわしいとは!」

 飲みきれていないビール缶を流しのシンクに叩きつけた保が、つかつかと美咲さんに歩み寄って彼女の胸ぐらを掴んだ。

 みんな一瞬息を詰めた。怯んだ美咲さんが、それでも負けず嫌いな表情で保つの手を力任せに叩き下ろした。

「触らんでちょ! 汚いわ。この家の中で、男一人に女が二人。それに子供が振り回されて苛められて泣かされて。あんたら、なんなの。おかしいわ!」

「黙れ! おまえのせいだぞ! おまえが珠緒の前に現れたからこんなことになったんだ」

 そう叫んで保は美咲さんの肩を両手で思い切り突き飛ばした。

 狭い茶の間に八人もの大人がすし詰め状態だったから、美咲さんは純市さんの上に倒れて、頭をサイドボードの角にぶつけ、サイドボードの中のグラスや洋酒の瓶や飾りものが音を立てて倒れた。

「きゃあー、何するがね! お兄ちゃん、お父さん助けてちょー」

「なにが助けてだ。だいたいおまえ、なんで珠緒と一緒にいるんだよ。おかしいだろ」

 保が唾を飛ばして怒鳴ると、美咲さんの下敷きになっていた純市さんも喚いた。

「美咲どけよ。重い、痛い。騒ぎを大きくするな。それに保さんも暴力反対!」

「お兄ちゃんうるさいわ。黙っててちょ。わたしは『でーと倶楽部』というところに電話して人を頼んだだけだがね。それのどこが悪いだがや」

「名古屋の人間が、なんで『でーと倶楽部』なんて、アンチな営業会社を知っているんだよ。誰から聞いたんだよ」

 思いがけなく〝でーと倶楽部〟などどいう言葉をきいて、ぼくは美咲さんに詰め寄った。

そばでおろおろしていた加藤さんがぴくっと跳ねた。

「そ、それは、私が、雅子さんから聞いていて、もしかして、話したことがあったのかも――」

 お母さんがぼくに振り向いた。

「珠緒ちゃん『でーと倶楽部』なんていかがわしいバイトをまだやってたのね。やめなさいって言ったじゃありませんか」

 ここは母親の小言なんか聞いていられる場合じゃない。お母さんに言い返してやろうとしたら、台所から国安さんのつぶやきが聞こえた。

「父親の再婚相手の息子がどんなのか、もしかしたら見られるかもしれないと思ってデート倶楽部に申し込んだっていうわけか」

 見ると板の間にあぐらをかいて、流しの下から一升瓶を引っ張りだしてきて、コップで酒を飲んでいた。

 ぼくはお母さんや和江叔母さんをかき分けて台所に行くと、水切りかごからコップをとって国安さんの手から一升瓶を取り上げ、コップに並々とついで一口あおった。。

「いけません珠緒ちゃん、お酒なんて」

 お母さんが飛びついてきてぼくの手からコップを取り上げると、自分が飲み始めた。

 保が冷蔵庫から新しい缶ビールを出して飲み始める。

 和江叔母さんも、サイドボードから倒れたブランデーを取り出して、国安さんの隣に座り込んでオンザロックで飲み始めた。

「あ、あの、私たちは帰ります。大変お騒がせしてすみませんでした」

 加藤さんが後ろ手で娘と息子についてくるように合図しながら、そろそろと茶の間をよぎって敷居を跨ごうとした。

「これだけ人の家をひっかき回しておいて帰れると思っているんですか」

 酒の回ったドスの利いた声で加藤さんをひきとめたのは国安さんだった。

「そこの三人、ちょっとそこに座れ」

 国安さんに畳を指でさされて、三人はおそるおそる正座した。

「俺は和江が言うようにろくでなしだ。社会の枠組みの中で働くことを苦痛に感じる人間だ。大学を出てから、いろいろな仕事を転々とした。そして、働くことがいやと言うよりも、一人で何かをこつこつやっているほうが自分にあっていると納得した。つまり、そのときがカミングアウトだったわけだ。和江は怒って勝手に離婚届けを出して出ていった。話し合うチャンスも与えてくれなかった」

 初めて聞く国安さんの話しに、ぼくはびっくりしていた。

 国安さんが流しから新しいコップを取って酒をつぎ、加藤さんに手渡すと、加藤さんはちょっと頭を下げて受け取って口を付けた。

 お母さんが台所に入ってきて、冷蔵庫から缶ビールを出して純市さんに渡し、美咲さんにはコップにコーラをついで出してやった。

 時刻はとっくに午前一時を回っていて、みんな神経が高ぶっていて疲れきっていた。そんな中、国安さんの低い力のある声が続いていた。

「和江と保を追って青木家に入り込んだのは俺の我儘勝手だ。これは責められて当然だ。雅子さんにも珠緒にも、亡くなった青木氏にも詫びることしかできない。本当に申し訳なかった」

 そういって、国安さんは、台所でたったまま酒のかわりに麦茶を飲んでいるぼくと、ぼくの足下に座り込んでお酒をなめていたお母さんに向かって両手をつき、深々と頭を下げた。

 それから再びあぐらをかいて、一口苦そうに酒を含んだ。

「和江と俺は大学の頃からのつきあいで、あまり人には言わないが、和江は三か国語を話せるんだ。デパート勤めをしているというとたいがい店員と思われるが、デパートに電話すると和江が出る。もっとも、和江のほかにもたくさんオペレーターはいるがね。デパートには、世界各国の人間から電話が入るんだ。和江は三か国語だが、四カ国語を話す人もいる。結婚して子供を産んで家庭に埋もれさせるのはもったいないよ。和江だって働くことを希望していたしな。しかし現実は、女性が子供を育てながら家事と仕事を両立させるのは至難の業だ。だから俺がやってみた。これが楽しかったんだなぁ。性に合っていたというか、むいていたというか――しかし、このせいで保たちが苛められることになったのには忸怩たるものがある。が、しかしだ。子は親を恥ずべからずだ。たとえ世間の人間がおまえの父ちゃんはクズだとそしろうが、子たるもの、意地でもうちの父ちゃんはいい父ちゃんだと言い返すものだ。それが親子の意地だ。だらか保、おまえは立派だ」

 少しだけ微笑んで保を見つめた国安さんは、次にぼく振り向いた。

「だが、珠緒はかわいそうだった。珠緒が小学校から泣いて帰ってくると、俺は走って学校に行って担任の先生に学校の様子を問いただした。そして先生だけに任せておいても埒があかないとなると、下校時間を見計らって生徒たちが出てくるのを待った。何日か続けているうちに、珠緒を苛めている子供がわかった。その子供をこっそり呼んで話をしたよ。他愛もない理由なんだ。その子供に、珠緒のことはもうかまうなと言うと、素直にうなずいた。そんなことが何回かあった。中学になったあたりで、珠緒は変わってきた。だんだん強くなって、少しのことじゃめげなくなった」

 珠緒、と言って国安さんはぼくににこっと笑いかけた。

「よく頑張ったな。おまえは気が弱くて根気がなくて、すぐくよくよする子供だったが、よく頑張って強くなった。まだまだ頼りないが、やさしい思いやりのあるいい子に育った」

 雅子さん、と国安さんはお母さんの前で改めて居住まいを正した。

「雅子さん。本来なら母親であるあなたが享受するべき子育てというすばらしい喜びを、あなたから奪ってしまったことを謝ります。本当にすみませでした。しかし、俺は自分の子供と分け隔てなく愛情を注いだつもりです。そのことだけはわかってください」

 深々と頭を下げた国安さんに、和江叔母さんは憑き物が落ちたように肩を落とした。

 お母さんはしばらく無言で国安さんの伏せた背中を睨みつけていたが、やがて深いため息をついて鼻をスンとすすった。

「あの当時、バブルがはじけて大企業から零細企業に至るまでバタバタ倒産して、年間三万人が自殺したんです」

 空気が抜けてしまったような声でお母さんが語りだした。

「主人が勤めていた製造会社は、大手企業の系列会社で、工場で働く作業員にはブラジルやフィリピンやバングラディシュなどからの出稼ぎ労働者がたくさんいて、主人はそういった外国人の就労人事を担当する役職に就いていたんです。出稼ぎ外国人のなかには日本人と結婚して日本に定住している人も多くいて、気のいい人たちで、不況のあおりをくらってリストラが始まるまで、職場の人間関係はうまくいっていたんです。リストラが始まると、真っ先にクビを切られるのはおおぜいの外国人労働者で、そのリストを作るのが辛かったそうです。日本で家庭を持っている人はもちろんだけど、自国に仕送りしている人たちだって、みんなさまざまな事情を抱えていて、クビにしないでくれと泣きつかれても社の方針はかえられなくて、主人は板ばさみで苦しみました。私情を挟める問題ではなく、勤務態度と査定を目安に削減人員をピックアップしていったんだけど『なんで俺がクビになって、ろくに働きもしないアイツがクビにならないんだ』と不平不満が職場に蔓延していき、外国人労働者を切っても社の業績が持ち直さなければ、今度は年度契約のパート社員、それでもだめなら正社員の退職者を募り、さらに肩たたきで社員を追いつめてやめさせるんです。『工場の中をあるいていたら後ろから石を投げられるんじゃないかと思って怖くて歩けないよ』と冗談めかしていっていましたけど、あれは冗談ではなかったんです。まさか高層ビルから飛び降りるほど苦しんで追いつめられていたなんて、わからなかったんです。わたしは自分を責めました。責めて責めて後悔して苦しみました。そして、辛くて逃げたんです、この家から」

 ごめんなさいと言ってお母さんはぼくの足を掴んで泣き崩れた。

「ごめんなさい珠緒ちゃん。あなたを置き去りにしてごめんなさい。大人のわたしより、珠緒ちゃんのほうがずっと小さかったのに、お母さんは珠緒ちゃんより弱虫だったの。許してちょうだい」

 ぼくの足首を掴んで台所の床に泣き崩れてしまったお母さんを呆然と見下ろしていた。

 お母さんとぼくは大切な家族を失って、二人で悲しみを共有して耐えてきたと思っていたのに――。

「失望したよ」

 ぼくのつぶやきはお母さんを直撃したようだった。

 ひときわ声を振り絞って泣くお母さんに、加藤さんが遠慮がちに歩み寄ってきてお母さんの背中をさすり始めた。

 その様子を純市さんは複雑な表情で見つめていた。

 美咲さんは純市さんの背中にもたれて小さく寝息を立てていた。癇のつよい美咲さんが眠っていてくれてよかったと思った。

 加藤さんにぼそぼそとなぐさめられているお母さんを見て、ぼくは胸の中に何かが沈み込んでいって、荒れていたものが静まっていくような感情の収束を覚えていた。

 純市さんが座布団を二つ折りにして美咲さんの頭の下に置いて寝かせ、和江叔母さんから借りたスカートの裾を直してやっている。

「美咲もかわいそうだったんです。母がいなくなってから泣いて泣いて――いやですよね、離婚も死に別れも――うちの場合は祖母がちょうど国安さんの役割をはたしてくれたんですけど、その祖母も、三年前に亡くなりました」

 静かな部屋に、純市さんの低い声が流れた。その後は、もう誰も口をきかなかった。

 和江叔母さんはサイドボードの中の倒れたものを並べ直し、国安さんは茶の間に客用の布団を運び込んできた。

 お母さんはぼくの部屋に寝て、加藤さんたちは茶の間に泊まっていった。

 ぼくとお母さんと保は二階に上がって寝てしまったし、和江叔母さんもぐったりしたようすで部屋に引き上げていったけど、加藤さんと国安さんは、茶の間と台所の襖をしめて、台所の床に座って酒を飲みながら話し込んでいたようだった。

 この夜のことは、忘れられない出来事になった。



 翌日は祝日の代休だったので、みんな昼近くまで寝ていた。

 加藤さんと国安さんは遅くまでお酒を飲んでいたみたいだから頭が重そうだったけど、いつものように国安さんの作った朝食兼昼食を茶の間でみんなで食べた。

 美咲さんはすっかりくつろいでしまって、テレビを見ながら畳に寝そべってごろごろしていた。

 三時頃、加藤さんと美咲さんとお母さんの三人は名古屋に向かう新幹線に乗るために帰っていった。

 純一さんは途中まで加藤さんたちと一緒で、その先は二子多摩川にあるアパートに帰るそうだ。

 あんなに大変だった一日も、過ぎてしまえばいつもと同じ日常が戻ってくる。

 あの夜の出来事は、ぼくたち一家にとっては、とてつもないガス抜きだった。

 一時はどうなることか、ほんとうにお母さんと和江叔母さんが決裂してどちらかが出ていってしまうのではないかとハラハラしたけど、しょっちゅう癇癪をおこして保たちなんか出ていけばいいのにと腹の中でわめいていたぼくが、ほんとうにそうなったらどうしようとビビったのには我ながら情けなかった。

 家族の大喧嘩で何かが変わったかというと現実はなにも変わってはいない。

 和江叔母さんは相変わらず淡々とデパートに働きに行っているし、保も相変わらずぼくに見せびらかすようにビールを飲んで「珠緒は未成年だから、酒は飲めないんだよな」と気持ちよさそうに笑っている。

 国安さんもいつものおっとりやさしいおじさんに戻って、あの時のような毅然とした男らしさなどこれっぽっちも見せない。

 ただ、あれ以来、国安さんはぼくのことを珠緒と呼ぶようになった。

 ぼくを珠緒と呼ぶときの国安さんはなんだかかっこいい。

 お父さんが生きていたら、こんなふうにぼくのことを呼ぶのだろうか。

 サークルのデートクラブの連中は変人に拍車をかけつつますます奇行に走っている。

 井上さんからはおかしなバイトが切れめなく舞い込むけど、早々つきあってもいられないから適当に逃げ回っている。

 ぼくの大学の一年間は、そんなふうに過ぎていった。





 そしてまた今年も桜が咲いた。

 ぼくは二年生になった。

 一年前のぼくがそうだったように、新入生の集団が校舎の前にしつらえた、テントの屋根を張って長テーブルを置いただけの入会受付の周りを取り囲んでいる。

 デートクラブという名前に釣られて集まってきた男どもの集団に入会申し込み書を配っているのはぼくだ。

 去年は江川先輩がやっていたけど、今年は長テーブルに座っている。江川先輩、桃香先輩、井上さん、ひより先輩の順だ。

 川島君は面接者と、面接に受かった人の面倒をみている。いろいろ質問されているが「知らねえよ。メシ喰いに行くサークルだよ」とわめいている。

 男子ばかりの面接希望者の中に美咲さんが混じっていた。美咲さんはぼくと同じ大学を受験して入ってきた。しかも、デートクラブにもはいるつもりらしい。

 ぼくは美咲さんに話しかけられても無視している。

 名古屋にいるお母さんは一ヶ月前に仕事を辞めた。左の薬指に結婚指輪をはめたお母さんは、加藤さんの仕事を手伝って、一つところに腰を落ち着けて生活する事になった。

「青木珠緒。サークルの面接の順番が遅すぎだがね。早くしてちょー。あそこのテーブルに座っている小汚いオッサンとナルシスト男とブリザード女とチワワぶりっこに言ってきてよ。顔パスにしてちょー」

 ジャケットの裾を引っ張って大きな声で話しかける美咲さんを振り切って逃げ出した。

「青木珠緒! タマオー! タマオー! 逃げても無駄だがね、タマオー」

 イヤだ。イヤだ。イヤだ。タマオっていうな!

 だれかぼくを助けてくれー!                

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