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タマオっていうな!  作者: 深瀬静流
33/35

雨にまぎれた涙

 駅前の横断歩道を渡り、左側にある川崎大師の参道に対して直角の位置で延びている道を進んだ。

 この道は若宮八幡宮に続く道で、美咲さんのお母さんの家は若宮八幡宮のそばにあるらしい。

 駅から離れると、とたんに暗さが増す道を車が時折走り去っていく。まだ夕飯時なのだから、歩いている人くらいいてもいいのに、道路には人の気配はない。都会の夜空には星がないけど、月は出ているから夜空には雲は見える。その雲の流れが速くなって月を隠すと心細くなってくる。若宮八幡宮はすぐに見つかった。

「お母さんには加藤さんが行くことを連絡してあるんですよね」

 鳥居の前で立ち止まって地図を確認しながら声をかけた。

「連絡なんか、しとらんよ。会うつもりはないもの」

「はあ?」

 強気な返事に顔を見てしまった。

「じゃ、なにしに行くんですか」

「青木さんには関係なかろうが。ぐずぐずしとらんで行こうよ、ますます遅くなるじゃない」

 美咲さんは怒ったように歩きだした。

「こっちですよ、こっち」

 右に折れなくてはいけないところを、真っ直ぐ歩いていく背中に声をかけた。

 一軒家が並んでいるあいだにアパートが挟み込まれているような住宅地の街灯は薄暗くて、地図をみながら一軒一軒表札をのぞいていった。

「お母さんの名字は増田さんでしたよね」

「そう、増田。それしか知らない。なんて言う人と再婚したのか、訊いても教えてくれなかったから」

 誰が教えてくれなかったのかとはきかなかった。踏み込んではいけないように感じた。

「増田さん、増田さん」

 口の中でつぶやきながらアパートも全室確認していく。

「あっ――」

 ぼくから離れて、細い路地のほうを歩いていた美咲さんが小さく声を上げた。

 美咲さんが見つめているのは、金属のフェンスを巡らせた庭付きの二階家の、一階のリビングだった。

 フェンスを背の低い常緑樹が取り囲んでいて、この暗さだと植え込みの影に隠れるようにして覗いているぼくたちの姿は向こうからは見えないと思う。

 路地に面していて人が通らないから油断しているのか、雨戸も閉めずにレースのカーテンを引いただけの室内が、こちらからだとよく見えた。不用心だ。

 大型テレビがあって、ソファセットがあって、ダイニングテーブルがあって、ここからはよく見えないが、奥がキッチンになっているようだ。

 壁には大きな絵が飾ってあり、飾り棚にはかわいい小物が色彩豊かに並んでいる。暖かい家庭のにおいがした。

 中年の男の人がソファに座ってテレビを見ていた。小学校の低学年くらいの女の子がチワワを抱いて男の人の膝の間に乗りかかっていくと、犬ごと女の子を抱き上げて話しかけ、二人で笑い声をあげた。

 奥の台所から母親が出てきて何か言っている。

「あの声、お母さんだ」

 ぼくにはその声は聞こえなかったが美咲さんには聞こえたらしく、そうつぶやいて食い入るようにカーテンの向こうを見つめた。

 その横顔がこわばっているように見えた。

 女の子が母親にくちごたえするように言い返して、母親の口調が叱るようにきつくなる。

女の子が父親の首にしがみついて、甘えるように首を振った。

「ねえ、あの女の子、いくつぐらいに見える?」

 美咲さんの声はささやくようにかすれていた。

「さあ、小学一、二年ぐらいかな」

「一年生なら、お母さんは離婚したときにはすでに妊娠していたことになるし、二年生なら、再婚してすぐできた子どもということになるね。それって、ひどくない?」

 ぼくは黙っている。しゃべらないほうがいいんだ。今の美咲さんは時限爆弾みたいに怖い。

「わたしらを捨てて、お母さんはここで新しい家庭をもって子供を生んで、幸せに暮らしていたんだ。わたしらのこと忘れて――わたしらがどんだけ寂しがってるかなんて考えもせんで、親子三人、仲よく幸せに」

 また月が雲に隠れたせいで、リビングの明かりがいっそう幸せそうに輝いた。

 こくっと唾をのんで美咲さんが続けた。

「今ね、うちのお父さんに再婚の話が持ち上がっているのよ。わたしはお父さんに再婚なんかしてほしくない。他人が自分たちの家庭に入るのはいやなの。すごくいや」

「それって、わかるかも」

 思わずつぶやいていた。でも、美咲さんには聞こえなかったみたいだ。

「お母さんと離婚してから、お父さんは仕事ばかりでわたしら子供はぜんぜんかまってもらえんかった。寂しい思いをして、なんとかここまで大きくなって、そしたら今度は、お父さんたら、結婚したい人がいるって言うだがや。どえりゃあ腹が立ったわ。勝手だよね。わたし、新しいお母さんなんていらないって怒鳴ったがや」

 あたたかい明かりがもれるリビングの中では、夕食が始まっていた。

 ダイニングテーブルで、お母さんと女の子が並んで座り、お父さんが正面にすわっている。笑いの絶えない仲むつまじい家族の中心に女の子がいた。

「わたしらでは、お父さんとお母さんをつなぎ止める力はなかったんだね。あの女の子には、わたしの母親だった人と、あの旦那さんを結びつける力があるんだよね」

 美咲さんの声が震えていた。

「わたしらではダメだったんだ。だからお母さんはわたしらを捨てたんだ!」

 月が雲に隠れ、風が冷たいと感じたとき、ぽつりと雨が落ちてきた。

「雨だ、加藤さん、雨が」

 傘を持っていなかったので、本降りになる前に急いで駅に戻りたいと思って言いかけたのだが、フェンスを両手でこぶしが白くなるぐらい強い力で握りしめている彼女の横顔をみたら、帰りましょうという言葉が続けられなくなってしまった。

「お父さんに再婚なんかしてほしくないけど、昔、わたしらを置いて出ていったお母さんが、今はどんなふうにしているのかなって思って、会いたくなって、だけど、会うのが怖くて、会ってみて不幸だったら、きっとわたしは悲しくなるだろうし、反対に幸せだったら――」

 美咲さんのつぶやきは降り出した雨に消えていく。肌にあたる雨は冷たくて、服を濡らしてくると体温を奪っていく。

 雨足が強くなって雨の音に気づいたのだろう、レースのカーテンの向こうで晩ご飯を食べていた美咲さんのお母さんが椅子から立ち上がった。つかつかとガラス戸に歩いてきてレースのカーテンを開け、ガラス戸を開けて雨戸を戸袋から引き出し始めた。

 美咲さんとぼくは、とっさにしゃがみ込んで植え込みの陰に隠れた。

 美咲さんは目を大きく見開いて、雨戸を閉めるために姿を現したお母さんを、食い入るように見つめていたが、やがてポロリと涙をこぼした。その涙は、たちまち降ってくる雨に紛れてしまったけど、美咲さんはなにを思ったのか、急にしゃがみこんで地面を手探りで探りはじめた。

「都会は石ころひとつ落ちてりゃせんのか! どこもかしこも舗装されとって」

 なにかぶつぶつ口の中で言っていると思ったら、急にぼくに飛びかかってきて「携帯! 早く!」と小さく叫び、強引にぼくから携帯を取り上げると、ガラス戸めがけて渾身の力で投げつけたのだった。

 派手な「ガッシャーン」という音とともに「キャアー!」という叫び声があがった。

 一枚ガラスのガラス戸の中央に、ものの見事な大穴が開いていた。

「美都子、大丈夫か。ガラスの破片に気をつけてこっちへ来い! 誰だ! 出てこい! 警察に通報するぞ」

 奥から飛び出してきた旦那さんが喚いていた。

 そのときには、ぼくと美咲さんは駅を目指してずぶ濡れになりながら夢中で走っていた。

 ぼくの携帯!

 そうだ、ぼくの携帯!

 美咲さんが投げつけた携帯は、ぼくの携帯じゃないか。

 わあ、警察に通報されたら絶対ぼくは捕まる。

 どうしよう、ぼくは前科持ちになってしまう。

 駅に向かって走りながら、頭を占領するのはそのことばかりだった。

 すっかり雨に濡れて寒くて歯の根がカチカチいっているのは寒さのせいばかりではないと思う。どうしよう、どうしよう。

「なんてことしてくれたんだよ! あれはぼくの携帯だぞ。警察に通報されて捕まるのはぼくなんだぞ。どうしてくれるんだ、責任とれ」

「うるさいうるさい! 黙っとりゃあせ。ガラス割って捕まるのがそんなに怖いがね。臆病者。男のくせに、そんなちびっとのことでギャンギャン吠るでねえがね。石ころ一つ落ちとらんのが悪いんだがね。文句があるなら不景気対策に道路ばっかりほじくったりなおしたりしとる国土交通省に言うたらええがね」

 川崎大師駅に駆け込んで、一息つくこともせず言い返してくる。

 カードで改札を通って川崎駅行きの電車を待つあいだも、ハンカチで濡れた顔をこすりながらぼくは腹立ちを押さえきれずにいた。

「ガラスを割るなんてめちゃくちゃだろ。危険すぎるよ。ハリウッド映画みたいに窓ガラスに激突しても怪我一つしないで走って逃げられるなんて、現実ではありえないんだからな。きみのお母さんにガラスの破片があたってたらどうするつもりだったんだ」

「怪我したらええがね! そしたら、わたしらぁの痛みも少しはわかるだがや」

「だったら、こんな卑怯なことしないで、面と向かってお母さんにそう言えばいいじゃないか。暗がりから携帯投げてガラスを割るなんてまともな人間のする事じゃないぞ。しかも、自分の携帯を投げるんじゃなくて、わざわざぼくの携帯を使うなんて悪質だ! これから戻って、お母さんに謝って、ぼくの携帯を取り返して来いよ。今すぐ行って来いよ、あやまってこいよな!」

 ホームにいた人たちがぼくの過激な声にちらちら視線を送ってきた。

 電車がホームにすべりこんできた。開いたドアに美咲さんが飛び込むように乗り込んでドアのポールにしがみつき、窓に顔を押しつけた。その頑なな背中は、すべてを拒否しているようだった。

 髪の先から雨のしずくをしたたらせたまま、美咲さんは暗い窓の外を睨みつけていた。ぼくはすっかり、何を言う気もなくしてしまって、美咲さんとは反対のドアのポールにもたれかかって外を向いた。

 雨の滴が電車の窓に斜めの線を無数に刻みつける。

 ぼくは携帯のことばかり考えていた。

 今日のことは井上さんに連絡しなくてはいけないし、国安さんに帰りは遅くなるけど晩ご飯を用意しておいてくれるように電話もしたい。

 京浜川崎駅に着いて公衆電話を見つけ、井上さんのところと国安さんに電話を入れた。

 美咲さんの携帯を借りるという手もあったけど、美咲さんに頼みごとをするのはいやだった。

 このままJRに乗って帰りたかったが、どんなに感情を害したからといって、顧客を放り出すわけには行かない。小降りになってきた雨をちらりと見て美咲さんに振り向いた。

「東京駅まで送りますよ。新幹線で帰るんでしょう。それとも、新横浜にしますか」

「こんなにびしょ濡れで新幹線に乗れっていうの? 東京の男は意地がわるいよね」

 標準語に戻って突っかかるように睨みつけてくる。

 ぼくもそうだけど美咲さんも頭からずぶ濡れで、髪は頭にへばりついてるし、服もべったり体にくっついている。みすぼらしくなっちゃって、笑いそうになった。

 こんなとき遊びなれているやつならホテルとか行っちゃって、服が乾くまで休んだりするのかもしれないけど、ぼくはそんな気が利いたやつじゃないし、だいいち、美咲さんとホテルなんてまっぴらごめんだ。美咲さんだっていやに決まっている。

「じゃあ、ぼくのうちへ行って服を乾かす?」

 美咲さんがぴくんと反応した。

「青木珠緒って、一人暮らし?」

「一人じゃないよ、家族と住んでる」

「家族と」

 何を考えているんだろう、ぼくが美咲さんを部屋に連れ込んで何かするとでも思ったのかな。

「いやなら別にいいけど、無理にとは言わないし。じゃ、お疲れさまでした。」

 つき合いきれなくて、ぼくはさっさとJRの駅に向かって歩きだした。

 もう、顧客だ何だという気がなくなった。どうでもいい。どうせぼくは、この人のために大変な迷惑を受けたんだから。

 一人で新幹線に乗って上京してきたのなら、一人で帰れるだろう。時間はまだ夜の八時四分だ。最終の新幹線までは二時間半もあるのだから、不慣れだといっても自力で東京駅にたどり着けるだろう。

 地下の連絡通路を歩いてJRの駅にでた。イルミネーションに彩られた繁華なJR駅をエスカレーターで上って、広々としたエントランスを歩き、改札を抜けて三番線ホームに降りた。

 電車を待つ間、何気なくホームを見ると、同じ三番線ホームに美咲さんの姿があった。

携帯を耳に当てながら電車を待っている。この電車に乗るつもりなら、新横浜に出るつもりなのだろ。

 ぼくは一両車分ほど離れたところにいる美咲さんのことは、もう考えないことにした。

 早く家に帰ってご飯を食べたい。夕飯のことを思い出したら急にお腹が空いてきた。美咲さんのことは考えないようにしようと思ったばかりなのに、あの子もお腹が空いただろうなとふと思う。そう思ったら、なぜだか彼女がかわいそうになってきた。

 本当のことをいえば、美咲さんがお母さんに携帯を投げつけた気持ちは分かるんだ。悔しくて、悲しくて、どうしていいかわからない憤りがあんな行動をとらせたのだろう。ちょっと過激だけどね。

 そんなことを考えているうちに電車がホームに入ってきた。

 東神奈川駅で乗り換えると、やはり美咲さんも同じ横浜線に乗ってきた。東神奈川から

三駅の新横浜駅は新幹線の乗換駅で、休日はもちろん、連休のある日は乗降客が膨れ上がる。キャリーバックや旅行バッグの荷物を持ったおおぜいの乗降客に紛れて美咲さんが無事新横浜駅に降りられたか確認できなかったけど、これでぼくは彼女を今度こそ頭から追い払った。

 新横浜駅から二十分ほど電車に揺られて駅を降り、小田急線に乗り換えて、自宅のある駅についたら十時近かった。ありがたいことに雨はやんでいて、駅から歩いて五分ほどの道をへとへと歩く。こんなふうに疲れているときは、歩いて五分の距離はじつにありがたい。街灯の暗さも気にならないうちに家につく。夜風の冷たさが、濡れた体にしみこむ前に家につくしね。

「ハアッークション」

 盛大なくしゃみをして家の門扉を開け、ポケットから鍵を出して玄関ドアをあけた。

「お帰り、電話があってから結構かかったね。もう十時だよ。ご飯、食べるんでしょ?」

パジャマに着替えた国安さんが玄関に出てきた。風呂も入り終わったのだろう、顔がピカピカしている。

「いろいろあって思ったよりも遅くなっちゃったけど、ご飯食べる。お腹ペコペコだよ」

 靴を脱いであがろうとしたら「ただいま」と後ろで保の声がした。

「なんだ保。今帰ったのか」

 振り向いて保に言った。

「ああ。友達と遊んでた」

 ぼくに返事をしてから外を向いて、ドアを手で押さえて外にいる誰かとぼそぼそ何かを話している。

「どうしたんだよ、友達連れてきたのか? 外で話してないで中に入れよ」

 ぼくはさっさと靴を脱いで茶の間に入ろうとした。

「だとさ。とにかく入ってよ。そんなに濡れていたんじゃ風邪を引いちゃうよ」

 保の声に動きを止めた。

 玄関の傘入れにビニール傘を入れている保の後ろで美咲さんがうなだれて立っていた。

「加藤さん、どうして」

 思わず大きな声を出したら、美咲さんが怒ったように顔を上げた。

「だって、青木珠緒が、家に来て服を乾かせって言ったじゃない」

「え、あ?」

「ひでえな珠緒、おまえ、もてないくせに態度なまいき」

 保が笑いながらさっさと茶の間に入っていった。

 国安さんが驚きながらも美咲さんにあがるように促した。

「あがって、あがって。どうしたの、傘持っていなかったの。珠緒君も濡れちゃっていたけど、二人して雨の中を何していたの」

 まるっきりの子供扱いの国安さんの態度は、美咲さんの強ばった気持ちを和らげたらしい。

 素直に靴を脱いで上がってくる。

 茶の間の入り口でなりゆきを見ていたぼくの横をくぐって茶の間に入っていくとき、美咲さんはものすごい顔でぼくを睨んだ。


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