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タマオっていうな!  作者: 深瀬静流
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江川先輩は中華の豚の耳が好物です

「よし、わかった!」

 井上さんが物分かりよくポンと手を打った。

「ガキっぽいすねかただが、タマオの言い分ももっともだ。確かに十九歳に七十九歳の子守は大変だったよな。タマオの失敗で依頼主の山崎様からクレームがきて、大変なお叱りをうけたが、二泊三日の出張料金のほうを無料にするということで話をつけた。タマオはその分会社に損失をかけたわけだが、初めての仕事ということで、今回に限り大目に見てやる。山崎ヨシさんが帰ったあと、山形から電話がかかってきて、ばあさんを田舎で引き取るとおお揉めに揉めて山崎家の家庭内は大変なことになってしまったらしいが、そんなこと、こっちには関係ないしな。と、言うわけで、タマオ」

 井上さんはソファの隙間からA4サイズのコピーの綴りを二部出してきて、ぼくと川島君と江川先輩とひより先輩と桃香先輩に配りだした。

「だから、ぼくはいいですから。辞めるんですから」

 もらったプリントを井上さんに突き返そうとしたら、江川先輩に手を掴まれた。

「タマ、この世界から足を洗うには、体の一部は失う覚悟はいるよ?」

「はあぁ?」

 横を向くと、意外な近さに江川先輩の顔があった。

 き、きれいだ。

 お酒が入っているから目元がほんのり赤くなっていて、青みをおびた目がトロンと濡れている。色白だから唇が赤くて、吐く息がぼくの頬にかかってなんか変な気分になってくる。蛇に睨まれたカエルじゃないけど目がそらせない。見つめ合っているうちに、江川先輩の言った言葉が頭にしみこんできた。

「やくざみたい、ふざけてます?」

 江川先輩が誘うように笑った。

「やくざだったら、どうする」

 ぎょっとした。

 ビールを飲んで熱かったはずなのに、背中のあたりがざわざわしてきた。うるさいほど賑やかだったぼく達のテーブル席が、水を打ったようにしんと静まり返った。

 井上さんはもとより、ひより先輩も桃花先輩も川島君まで動きを止めて怖い顔でぼくを見ていた。

「逃げられないよタマ」

 江川先輩がぼくの耳に唇を寄せて、息を吹き込みながら囁いたあと、思い切りがぶりと耳を噛んだ。

「ぎゃああああああ!」

 耳が喰いちぎられるかと思った。

 井上さんが電光石火で席を立ち、ぼくの耳に喰いついてしゃぶりまくっている江川先輩を引き剥がしてくれた。

「川島、江川に水を飲ませろ。早く」

 まだぼくの耳にむしゃぶりつこうとしている江川先輩を取り押さえながら、井上さんが川島君に言う。

 ぼくはよだれでぐしょぐしょの耳とめがねをおしぼりで拭いながら、井上さんに押さえられてもがいている江川先輩から離れた。

「こっちにおいで」

 ひより先輩がクールに呼ぶので、席を立ってひより先輩のそばに行くと、A4のコピーを渡された。

「江川君は中華の豚の耳が大好物なの。喰われなくてよかったわね。もう帰っていいから」

 桃香先輩がそうしろと言うように頷いている。

 川島君はびっくりしすぎてぽかんとしているし、井上さんは江川先輩を押さえながら「俺の耳を食え、おれの耳はうまいぞ、いくらでもしゃぶれ」と変態的な笑声をあげて江川先輩の顔に自分の耳を押しつけているし、江川先輩はまだぼくの耳の噛み心地に未練がありそうだったので、あわててその場をあとにした。

 江川先輩の奇行に混乱しているうちに家にたどり着いていた。

 自分の部屋の机のイスに腰掛けて、やれやれと手を見ると、A4のコピーがしわしわになって握り込まれており、そのコピーには次回の仕事の内容が記載されていた。

 すぐにゴミ箱に捨てた。

 辞めると言ったのだから、見る必要はない。もう関係ないんだ。終わったんだ。くそ、耳が痛い。

 手鏡で見たら、噛みあとがいっぱいついていた。

 ぼくの耳はガムじゃないぞ!

 心の中で吠える。

 その夜は、眠りにつくまで耳が痛んだ。


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