内緒にしてあげるって言ったのに
ぼくたちは、向かい合う形になった。名前はなんて言うのだったろう。井上さんのくれた資料を頭の中で検索する。出てこない。覚えていない。いや、ちがう。書いてなかった。
おばあちゃんからも聞いていない! だいいち、この子たちとはさっき会ったばかりなんだ。失敗した。さっきこっそりおばあちゃんに名前を聞いておくんだった。
ぼくは仕方がないから、相手からの出方を待つことにした。
「わたしのこと、覚えてる?」
姉がいった。妹のほうは姉に隠れるようにして興味津々だ。
ぼくはどうとでもとれるように、曖昧に笑った。
「高雅くんがヨシばあちゃんと山形に来たのは、高雅くんが小学校にあがる前だったから、忘れちゃったのかもね。そのときわたしは四歳で、ツグミは生まれたばかりだったけど、わたしは覚えてるよ、高雅くんのこと」
「――標準語だ。なまってないんだね」
ぼくは話の内容より、標準語でしゃべっていることのほうに気を取られてしまった。
「バカじゃないの。いまどき方言なんて死語よ。だれもズーズー弁なんて使わないわよ。山形をそうとう僻地だと思ってるんじゃないの? ここ、日本だからね、念のため」
「いや、日本はわかっているけど、おじさんやおばさんたちはみんな山形弁だからさ」
「ヨシばあちゃんのために使っているのよ。ここのジジババたちだって、ヨシばあちゃんよりあか抜けていて都会的だわよ。ヨシばあちゃんみたいな正統派の田舎者はとっくの昔に絶滅してるわ」
し、辛辣だ。
都会の女子高生以上かもしれない。
姉はバカにしたように鼻から息を吐き出すと、制服のスカートのポケットから一通の葉書を取り出した。
「これさ、ヨシばあちゃんに出した法事の案内の返事なんだけど、ちょっと見てよ」
突きつけられて、ぼくはおそるおそるはがきの文面に目をやった。
なんの変哲もない往復はがきの返信用だった。上手とは言えない字だけどおばあちゃんの字で丁寧に書いてある。七十九歳という年齢を考慮すれば、自分で書いて投函したのだからたいしたものだと思う。
「間違いない?」
念を押されて首を傾げた。名前も東京の住所も合っている。どこにも不備はないし、念を押すほどのことはないはずだ。
「間違いないよ。どうしてそんなことを訊くの」
彼女の目がきらりと光った。妹と顔を見交わしてから、葉書を見せびらかすようにひらひらと振った。
「ヨシばあちゃんの住んでいるところは東京よね」
「そうだけど。だから東京の住所になってるし」
「じゃ、どうして郵便局の消印は御殿場になっているの。御殿場って、神奈川県だったわよね」
「えっ」
ぼくはとっさに葉書をとって確認しようとした。しかし彼女はさっと葉書を隠した。
「あら? 高雅くん、左の鼻の下にあった大きなイボどうしたの。目立つイボだったわよね」と姉が言った。ぼくは両手で鼻を隠した。高雅さんて、イボあったっけ? 思いだせ。偵察に行ったとき、ちらりと本人を見たはずだ。いいや、無い。イボ、無かった。
「お姉ちゃん、あのイボ、鼻くそみたいだったよね」
ツグミという妹が姉の陰からこそこそとささやいた。小さい声だったが、はっきり聞こえた。
「と、と、取ったんだよ。鼻くそ見たいってからかわれて、イヤで仕方がなかったから、形成外科で取ったんだ」
姉と妹が顔を見合わせて何ともいえないような表情をした。そして姉のほうが、決戦を挑むようにぼくに詰め寄ってきた。
「あなた、高雅くんじゃないでしょ。高雅くんには最初からイボなんて無かったもの。おかしいと思っていたのよ。子供の時の面影がなさすぎるもの。なんで高雅くんだって嘘ついたの。あなた、何者よ」
「ぐうっ」と、ぼくは詰まった。
「ヨシばあちゃんはなんで御殿場から葉書を投函したの。変じゃない。本当のことをいいなさいよ。あなた、怪しすぎる。それともヨシばあちゃんは自分の孫を他人と間違えて田舎まで一緒にくるほどボケちゃってるとか? あ、そうか。新手のオレオレ詐欺ね。ボケた年寄りだまして、親切ぶって孫のふりして年金を通帳ごと横取りしようっていうんじゃないの。それとかサラ金で多額の借金してヨシばあちゃんに年金から支払わせるつもりとか」
「そそそそんなこと! ぼくはそんなんじゃないよ。ぼくはおばあちゃんに頼まれただけだよ。正確には、会社のほうにおばあちゃんの息子さんから依頼があったんだ」
「依頼ってどんな依頼よ」
「あっ!」
慌てて口を閉じても遅かった。なんて迂闊だったのだろう。口を滑らせちゃったよ、ぼく!
「内緒にして、ね?」
仕方がないから、青くなってそう頼んでいた。
「いいよ。内緒にしてあげるから、全部話して」
ぼくは姉と妹を交互に見てから、これは逃げられないなと観念した。一通り説明し終わると、姉が信じられないように呟いた。
「ヨシばあちゃんが老人ホーム――」
まるでぼくがおばあちゃんを老人ホーム送りにしたみたいに睨みつけてくる。そして、やおらきびすを返すとツグミちゃんと手をつないで方丈のお座敷にむかってかけだした。
「ママ! 老人ホームだって! 老人ホームだってよお!」
姉の叫び声にぼくは腰が抜けそうになった。
内緒にしてあげると言っただろ。
速攻で約束破るなんて、女の子と秘密を共有できると思ったぼくがバカだった!
その場に動けずにいると、座敷が騒がしくなり始めたような気がしたのは気のせいだろうか。ぼくは青ざめたまま動けなかった。その日ぼくは、大変気まずい一日を過ごす羽目になった。
おばあちゃんの親戚たちは、おばあちゃんを施設送りにした昭義さんを親不孝者といって罵倒し、奥さんの久仁子さんのこともボロクソにけなし、孫の高雅さんのこともクソ孫呼ばわりし、高雅さんのお姉さんの美幸さんも嫁に似たアホブスとこき下ろし、おばあちゃんには老人ホームを出て、このまま山形で暮らせとみんなが口ぐちにかき口説いた。
おばあちゃんは、初めて会ったときのように苦虫を噛みつぶしたような、頑固で強情な気むずかしいおばあちゃんに逆戻りした。
親戚中がおばあちゃんの息子一家の悪口を言っているあいだも一言も弁解せず、苦行に耐える巡礼者のように背を丸めてうなだれる姿はかわいそうだった。
翌日は依頼を受けていた二泊三日の最終日だった。
ぼくは誰からも声をかけてもらえず、おばあちゃんからも一言も口をきいてもらえず、この家の娘たちからはムシケラみたいな目で睨まれるという、実に悲惨な待遇に泣かされながら帰る支度をした。
狭い軽自動車の後部シートは、親戚中から持ち込まれたおみやげの芋だのネギだのカボチャや果物などの箱詰め野菜に六十キロの米袋を詰め込んで、こんなに重くて走れるのかと心配するほどの大荷物になった。
おばあちゃんは始終だんまりを通し、おじさんたちに何か言われても頷くくらいで誰とも目も合わせなかった。
おばあちゃんにとっては、たぶんこれが最後の帰郷になるだろうと思う。それをぼくがぶちこわしてしまった。車に乗り込む前に、ぼくは深々とみなさんに頭を下げた。
おばあちゃんは頭さえ下げなかった。
無言で助手席に乗り込む。
ぼくが車に乗り込むとき、姉の女の子と目があった。
彼女はやはりムシケラを見るような目でぼくを見ていた。すごく悲しかった。
家の敷地を出るとき、クラクションを一つならしたのは、別れの挨拶というよりも、胸の中のもやもやをあの人たちにそんな形でぶつけたかったのかもしれない。




