保は兄ちゃんとよばれるのに弱い
次の土曜日、ぼくはまた保を誘った。
ぼくとしては、保がゆっくり朝寝坊をして仕事の疲れを取り、国安さんが用意してくれた昼ご飯を食べ終わって、食後のコーヒーを飲みながら新聞を読んでいるリラックスタイムを狙ったつもりだ。
「なんだと珠緒。寝ぼけたことをことをぬかしてるんじゃねえぞ」
新聞から顔を上げずにのんびりと言い返してくるのをもう一押ししてみる。
「だからさ、こんどはおばあちゃんの息子の家を見てみたいんだよ。つき合ってよ保」
「一人で行け」
「行こうよ。だってさ、文部省のお役人で、奥さんが女子短の教授だよ? どんな家に住んでいるのか見たいんだよ」
「おまえはいつから覗き見趣味の家政婦協会の派遣家政婦市原〇子になったんだ? 人の家を嗅ぎ回るなんて趣味悪いぞ」
流しで後かたづけをしている国安さんの大きな背中がくすぐったそうに動いた。ぼくたちの会話に笑っているのだ。
「おばあちゃんが老人ホームに入ってるということは、一緒に住めるほど家が大きくないってことでしょ。でも、文部省に教授だよ? 興味わくだろ?」
「わかない。人の家のことなんてどうでもいいよ。だいいち、珠緒はばあちゃんを山形に連れて行けばいいだけだろ。だったらよけいなことするなよ。言われたことだけしていればいいんだよ」
「でも気になるんだよ。一緒に行こうよ。一緒に行ってよ」
「やだね」
保は新聞から目を離さずに座布団に座ったまま、体を半回転させてぼくに背中を向けた。
ぼくは後ろから保つの首にしがみついて耳元で声を大きくした。
「行こうよ保、保、保、保、保!」
「うるせ! 耳に口を付けて名前を連呼するんじゃねえぞコラ」
新聞を卓に叩きつけてぼくの腕を剥がそうとするけど、ここで引き剥がされたらここまで粘った根性が無駄になる。
ぼくは暴れる保の背中に張り付いて首に両腕を巻き付けてギュウギュウ締め付けた。
「苦しい止めろ珠緒。このチビ、ガキ、ヘなちょこのくせに変なところで強情だからいやになる」
「にいちゃん、一緒に行ってよ。にいちゃん!」
「う、ぐ、し、しょ、しょうがねえな。くそ」
保は、にいちゃんと呼ばれるのに弱い。
子供の頃、泣きながら、にいちゃん、にいちゃん、と保のあとを追いかけ回した記憶が刷り込まれてしまったようで、ぼくがべそをかきながらにいちゃんと呼ぶと、保はコロリと降参する。
でも「にいちゃん」を使うのはよっぽどの時でないと反対にぼこぼこに殴られるから使い方が難しい。
「おまえは気が小さいくせに、なんでそんなにお節介でしつこいんだかな。そんなに気になるならついていってやるけど、ついていくだけだからな」
「ありがと、保」
「ちぇっ」
満足げなぼくと対照的に、保は渋々イスから立ち上がって着替えるために二階に上がっていった。
「ごね勝ちだね」
洗い物を終えた国安さんが、ハンドクリームを手の甲に擦り付けながら笑っていた。
「そんなに気になるの? その家」
エプロンをはずして冷蔵庫の壁のフックに掛けてから、茶の間の座布団に腰を下ろしてテレビのチャンネルを替える国安さんに頷いて見せた。
「うん。だって、あのおばあちゃんは背中は少し丸くなっているけど、すごく元気なんだ
よ。寝たきりで介護ができなくて病院にいるっていうならわかるけど、元気なのに、しかも息子がいるっていうのに、どうして老人ホームなのかと思ってさ」
「ふぅん。でもさ、なにもかも知らなくていいほうが、世の中にはいっぱいあるんだけどね」
保と同じでのんびりしたしゃべり口の国安さんがテレビの笑い声につられて笑ったとき、保が二階から降りてきた。
ブルージーンズに体にぴったり張り付いた襟ぐりのふかい群青のTシャツを着ている。
無造作にキャップをかぶって真っ黒なサングラスをしていた。
「なんでサングラス?」
「これから人の家を覗にいくんだろ? 恥ずかしいよ」
「だから顔を隠すサングラス?」
「かっこいいだろ」
確かにかっこいい。でも、絶対そんなことは言ってやらない。
国安さんはにこにこ笑いながらぼくたちを見ている。ぼくたちのやりとりに口を挟んだり、割り込んできたりしない。国安さんはいつだってにこにこしながらぼくたちを見ているだけだ。
ただそれだけなのに、国安さんの愛情が伝わってくるのはなぜなのだろう。ちょっとてれくさい。ぼくはわざと口をとがらせて保を促した。
今日も天気は凶暴に暑くて、車のドアを全部開けて熱気を追い出してから乗り込んだ。
ぼくはだいぶ運転に慣れてきていて、車の扱いかたも手慣れた感じになってきた。保はいつものようにシートを一番後ろにスライドさせてシートベルトを締めた。
ナビをおばあちゃんの息子さんの住所にセットし、狭くてどうしようもない門扉に擦らないように気を付けながら車を道路に出す。
一方通行の住宅地の狭い道路からバス通りに出て、頻繁に信号に捕まりながらセコセコ走った。




