僕の札術は何の役にも立たない
夜通し駆ける蛇道に乗ってドラゴンテールからエンジェルヒルズへ。寝袋に入って丸くなると、到着する頃には朝だった。
伯母さんにより、病院の前にあるおじいちゃんの甲輪を操って家まで運んでほしい、とのことだったのですぐに病院へ行った。
病室ではおばあちゃんと一番近い間柄の大叔母たちが会っていたらしく「今日ウバくんまで一度に会うとおばあちゃんを疲れさせてしまうから」と言われたので僕は待合所に座っていた。
「ウバくん?」
突然呼びかけられて顔を上げると全く見慣れない顔の兄ちゃんがいた。色白で細い目。長い金髪を後ろで纏めている。それが年上の従兄弟のニルギリさんだった。確かもう三十を超えているはずだ。耳の青いピアスがお洒落だ。
「すぐわかったわー。シャンピンおじちゃんにそっくりだもん」
「あー、はい」
僕は全然覚えていない。二十年近く会っていない従兄弟さ。僕がまだ父親をパハディって呼んでいた時分だろう。人見知りが発動しかけたが、向こうは僕のことを知っていて明るくてとても話しやすい。
「あ、いたいた」
続いてやってきたロンジン伯母さんと合流し、おばあちゃんの洗濯物やらを受け取った。
そしておじいちゃんを連れて一旦家に帰ってほしいと言われた。
「おじいちゃんが今、まいってるのよ。ウバくんに甲輪を操ってもらって、悪いけどお願いできるかなあ。ニルギリと三人で」
ロンジン伯母さんの後ろからついてくるクマザサおじいちゃんの姿を見ると、一目で参ってるってわかった。
(じいちゃん萎びたチズみたいになってるじゃん)
「じいちゃん、大丈夫?」
「うん、うん」
全然こっちを見ない。
「甲輪はどこ」
「うん、うん……」
おじいちゃんは背筋のぴんと伸びた元軍人らしさはなりを潜め、白いヒゲもうっすら伸びていて、服もヨレヨレ(それは服にテキトーな僕も一緒だけど)。とにかく、なんていうか――急激にボケた感じさ。
そんな姿、本人は気にしてなくてもおばあちゃんが気にするだろう。
さて僕は甲輪に駆け寄り、頭を撫でてやった。荷物と二人を甲の中に収容したら、僕は甲輪の首に埋め込んである金属製の札をなぞって起き上がらせる。甲輪を操作するコツは、動作の十秒以上前から入力し始めることだ。何しろ元の亀は反応が鈍いのでうっかりすると畑に突っ込んでしまう。素早くないので怪我はしないけれど、それが亀の好きな作物の畑だと厄介だ。なかなか動いてくれないということになってしまう。まあ僕にかかれば甲輪はとても安全で素晴らしい乗り物だよ。
その夜は病院のおばあちゃんの横でロンジン伯母さんが泊まり、おじいちゃんと僕とニルギリさんの三人で夕食となった。
おじいちゃんの家に帰ってから、ニルギリさんと地下氷室を確認すると食材が一杯だった。
「え……これ使ってたんですかね?」
おばあちゃんがプン粉を計るのに、時代がかった木のカップを使っていたことに僕らは盛り上がった。
チラリとおじいちゃんの様子を見るとぐったりして疲れが出てきていたようで、暖炉の前でいつもの肘掛け椅子に座って眠たそうにしていた。それでも紙片に何か書こうとしてペンとインクを取り出すものの、すぐに手が止まっちゃうんだ。
「おじいちゃん、煮込みスープにしようと思うけど、いいかな」
おうおうと頷いた。
ニルギリさんが今はカフェテリアで働いているとか最近そこのおばちゃんと喧嘩したとか、吟遊詩人をやっているとか、そんな話を聞きながらチズを切る手際の良さに感心する。
岩グモとチンだしとドロバイの肉と野菜を入れた青い煮込みスープが完成。それとプン粉を使った練り焼きに薄切りの肉を挟んで「プンポンエを着たドロバイ」の完成。
おばあちゃんがいつも座っていた椅子にはニルギリさんが座った。
「なかなかないよ。孫が揃ってディナーを作るなんてさ」
おじいちゃんは聞いているのかいないのか、僕にバク酒を持ってきて飲むように言った。
「ニルギリは?」
「いや、飲めないんですよ。父親が飲めないんで。体質が似てるもんで」
そうか、と残念そうに言ってから、おじいちゃんは自分のグラスにバク酒を注いだ。一息に飲んでぼそり。
「今日の酒はうまくないな……」
僕らは何も言えずに黙りこむ。
おじいちゃんは、初めて長期治癒術師からおばあちゃんの病気について聞いた時「テンすまなかった」と病院の床で泣き崩れたそうだ。このプライドの高い人が。僕にはちょっと想像できないけれど。
「好きな繋幻術、見ていいぞ」
遠慮なく、水晶に映るつまらないマティ・パ国営放送から民間のものに変えて、僕はバク酒を飲みながらスープを食べる。ニルギリさんと一緒にお互いのことを話した。いかした都会のカフェテリア。音楽が好きなこと。トロルヘッドに住んでいること。僕は札術塾の講師。本を読むのが好き。ドラゴンテールに住んでいること。
ニルギリさんはあまりクマザサおじいちゃんと話したことはないそうで、おじいちゃんに敬語になるのもそのせいだと言うんだ。つまり僕がニルギリさんに敬語を使うのと同じ理由だね。
「ウバくん、そのソース、瓶の底見た?」
「うわ、カビ……!」
二人で大いに笑ったよ。
その日は待合室とはいえ病院に行って緊張しっぱなしだったから、やっと一息つけた瞬間だったんだ。
お土産に買ってきたドラゴンテールのみやげ酒をおじいちゃんに渡すと、一口飲んでくれた。
★★★★
翌日、甲輪の背中から見上げる空は気持ちの良い快晴だった。僕はニルギリさんとクコと一緒に病院にやってきた。直前にロンジン伯母さんから注意を受ける。
「おばあちゃんには本当の病名を教えてないから、悟られないようにね……」
本当の病名というのは歪曲創造変異だ。年齢と共に発生しやすくなる、マティ・パ人の死亡原因第一位。人間は術を長く使い続けると、より高度な術を使えるように自身の「設計図」を無意識に書き換えてしまい、やがて部分ごとにヒトでないものへと変異してしまう。神に反する術師への罰だと言う人もいる。
変異が起こる部位はまちまちで、内臓や脳の変異が進んでしまっているとまず治る見込みはない。おばあちゃんは膵臓が変異してしまったらしい。遺伝や家系も関係するので、クマザサおじいちゃんはウェッジウッドの血筋に傷がつかぬように、村の人に聞かれたら体調不良もしくは老衰と言えと僕らに強く念を押した。
(さて、どうするかな……)
僕は、いつもの感じでいけばいいやと思った。軽い感じで、久しぶりだねとかおばあちゃん元気そうじゃんとか、とにかくそういうことを言ってさ、少し笑って、それでおばあちゃんが疲れないうちに出てくればいいってね。
……そう思っていたんだよ。
病室に入ると、おばあちゃんはもう全く見る影も無いほど痩せこけていて、全身に医療札がびっしり貼られていて、顔が青白く、小さく、まるで別人だった。
明るく清潔に整頓された病室さ。その確固とした存在に囲まれて、おばあちゃんの体は今にもそこから消え入りそうなほど頼りなかった。
いつも揺らぐことのなかった瞳はボンヤリとして、正確に言葉を紡いでいた口はろくに動かなくなってしまった。
後にしてみれば、それは神経に働きかけ、痛覚を鈍くする代わりに副作用で意識も曖昧にさせる医療術の札のせいだったけれど、それでもだ。
「おばあちゃん、来たよ。ウバだよ」
呼びかけて近くで顔を見ると、僕はわかってしまったんだ。
(ああ、これは先が長くない)
寝返りも辛そうだ。ここに存在していることさえ苦しそうなんだよ。
おばあちゃんは好奇心の塊だった。自分だけの世界を持っていたんだ。読みたい本、知りたい歴史、新しい文化、試したい術……世界は果てしなく。それがもうできない。読みかけの本や作りかけの詩や楽しみにしている繋幻術も見ることができない。
(なんてことだろう)
せめて苦しくないようにしてほしい。これじゃ、あんまり辛そうで見ていられない。好きな本でも読むように、フッと飛び立つようにはいかないものだろうか?
鼻の奥が痛くなってきた。息が震える。拭っても拭っても涙が出てくるんだ。
(ダメだってバカ泣くな。おばあちゃんに気づかれる)
見えないようにこっそり人差し指で正方形を描き、そこに言葉「涙」とイメージを載せて札を作る。札術を自分に行い、両目から余分な涙を取り出して近くの布きれに染み込ませる。
けれど、後から後から堰を切ったように勝手におばあちゃんの思い出は再生され、その分だけ涙は溢れてくるんだ。
頭が痛い。
ルウンの札も使ってみたけれど、それでも感情はちっとも鎮まらないんだ。バカバカしい、何が札術の先生だよ。何のために? 僕の札術は何の役にも立たない!
「ウバくん、ちょっと……」
ロンジン伯母さんが僕を病室の外に呼んだ。
僕は立ち上がって、出る前に一度振り向くと、クコがまだ生後二ヶ月ほどの姪マテを見せていた。
「……かわいい……ねえ」
おばあちゃんは嬉しそうに少し笑った。興味や関心のあることには、意識が比較的はっきりするのだ。
僕はこのことで兄貴のクコと奥さんに感謝しっぱなしだ。凄いと思った。マテを見せてあげて、おばあちゃんを笑わせることができる。それができて本当によかった。
ありがとうありがとう。
外に出ると、ロンジン伯母さんがため息を吐いた。
「本当に……ウソだったらいいのにね」
病院の帰りに、ロンジン伯母さんと一緒にニルギリさんを甲輪で蛇道のコアトルチン駅まで送った。
「じゃあ。母さんも無理しないようにな」
誰かを心配する人の体調を心配できるというのは、ニルギリさんの立場ならではという気がする。ロンジン伯母さんは今回の件を全て取り仕切っていたのだ。
泣く暇もないほど。
こういう時、一人で泣いている暇さえないのは、良いことなのか悪いことなのかわからないけれど。
ニルギリさんとはここでお別れ。
僕は別れ際に昨晩、ニルギリさんと話して楽しかったことを思い出した。一つの転機。新しい出会い。
「じゃあね、ウバくん。母さんをよろしくね」
「……あの、こんな時でしたけど、楽しかったです!」
それは偽らざる気持ちだった。
★★★★
夜になるとクコからの通魔が頭に響いた。全く、兄貴は自分勝手で時間を考えないんだよ。
「……俺さ、ばあさんに怒られてばっかりだった。小言ばっかりで頭にきて、俺もケンカ腰で返して『うるせえ早く死ね』なんて言ってさ。実家を出てからは全然、話さなかった」
そう、おばあちゃんは小言が多かった。
「うん。でも僕らのことを自分の子供のように気にかけてくれたよね」
「ばあさん、ウチのマテを見ていろいろ思い出したみたいでさ。『まだ家にあんた達が泊まりにきてた頃の小さな毛布、とってあるのよ?』って言ったんだ……」
クコは自分を責めるような口調だった。
「俺、ばあさんの気持ち全然わかってなかった……」
「うるさいな、兄貴はひ孫を見せてあげただろ? 僕はまだ何もできてないんだ」
それから少しお互いに憎まれ口を叩いて通魔を切った。