やばいかもしれない
人が一人いなくなると色々考えることが増えるもので、あれは今思うと多分何かの転機だったと思う。
転機というのは結局、後からしか分からないんだよ。あまねく幸不幸は日常にいつも唐突に現れ、なんとか対処した後に思い返し「あれは転機だったな……」ってなるんだ。
だから、その始まりの通魔が頭の中に響いた時も僕はまだドラゴンテールの日常にいて、気持ちは冷静だった。
通魔は父親からだった。不愉快になる。でも出た。もう何年も話していなかったので久しぶりだった。僕の記憶の印象とは違って物凄く沈んだ声だ。
「……おばあちゃんの具合が良くないらしい」
テンおばあちゃんが入院したことはクコから聞いていたけれど「具合が良くない」という言い方は曖昧だし、どう悪いのかよくわからなかったよ。
察するに「もう先が長くない」ということらしかった。口に出してしまうと本当になりそうであまり言いたくないんだろう。僕の父親はいつだって自分の弱さを自覚していないのでこういうことになるんだ。
「無理して来なくていいが……」
それはどういう意味だろう?
フッと僕の目に十年ほど前の光景が浮かんだ。
父親がクコを無理やりマティ・パ国軍に入れようとした。それを拒否して――それまで溜まってたものがあったんだろう――二人は大喧嘩した。その末にクコは物置から狩猟用のナイフまで持ち出して殺そうとし、父親は骨さえ断てる大きな肉切りナイフを手に取った。
耳を疑う罵倒。
血走った眼。
怒鳴るのはいつだって良い結果にならない。
幼い僕は慌てて仲裁に入った。にらみ合う二人に向けて無我夢中で札術を使い、二つのナイフを取り上げ、更に泣きながらナイフから知っているだけの知識を使って元素を札術で取り出し、どんどん分解していった(僕は天才だから祖母の本で元素について既に知っていたのさ)。そして足元にはキラキラした破片やホコリみたいなものが残り、我が家のナイフはそれ以降切れ味の悪い安物に変わった。
僕はこの件は今でも父親が悪いと思っている。父親はそもそも熱くなりやすいうえに頭も良くないんだ。それはクコに引き継がれている。だから二人は衝突しやすい。
その時、父親はクコを「穀潰し」で「この家どころか誰からも必要とされない人間」とまで言ったんだ。傷ついたクコは縁を切って家出した。
どこの家にだってよくある話かもしれない。
でも当時の僕は笑えるほどに多感な十代――父親のその言葉にショックを受けたんだ。誰にも必要とされない存在なんて悲しすぎる。そんな存在が果たしてありえるのかは考えても答えは出ないけれど。
以来僕は自分に向けられたわけでもないその言葉で父親に不信感を抱き、上級術学校は遠くドラゴンテールにある場所を受験して家を出た。数年が経ち学校を卒業しても、クコが結婚して娘が生まれ父親とお涙頂戴さながらに和解しても、僕だけはわだかまりを抱えたままダラダラとドラゴンテールで一人で暮らしている。
★★★★
(無理して来なくていい……か)
父親の口ぶりでは、僕は来る必要のない人間ということなのかもしれなかった。或いは重体のテンおばあちゃんを疲れさせたくないと思ってのことなのかもしれない。大事にならないでほしいという祈りなのかもしれない。理由はわからないけれど、おばあちゃんの実情は父親の声の調子ですぐわかった。
(……あ、やばいかもしれない)
数年前からおばあちゃんが「来年のサンカは見られないかもねえ」と言っていたことを思い出す。会うたびに僕にいざという時の心構えをさせるようにしていたからね。
僕はよくクコに「おばあちゃん寂しそうにしてるから話を聞いてやれ。俺とは話が合わないからな」と言われていた。
だから聞ける話は聞いておこうと思って、通魔で祖父母が第三次抗天戦争の時にどうしていたか、おばあちゃんの好きな王族古代遺跡やクルーゼ神話の話をよく聞いていたのだ。そしてそのたびにおばあちゃんは、好き勝手にドラゴンテールで暮らす僕のことを心配していた。そしてもちろん、僕と父親の関係も。
通魔中の頭の中に、重苦しい沈黙がまるでガスのようにたちこめた。
「……行くよ。帰るさ」
父親に答えて通魔を切る。
結局、父親は要領を得ない話ぶりだったのでクコに通停魔して詳しいところを尋ねることにする。言葉を連ねたらその意味するところだけを取り出してクコに送っておく。そうするとクコの好きな時に聞けるのだ。
こうして業務連絡が二度手間三度手間になるのはウェッジウッド家あるあるだな。
でも今回ばかりは混乱しても仕方ないかもな、とも思った。僕だって母親がこの先長くないと急に言われたとしたらショックだしね。
(まあ……だからといって、おばあちゃんと関わりのある孫に向かって「来なくていい」なんて言ってほしくはないけれど)
クコの返信によると、ロンジン伯母さんが来てくれているらしかった。
この人は父親の姉で、既に結婚して数十年経ち正確にはもうウェッジウッドの人間ではないのだけれど、時々祖父母の様子を見に来ていた。すぐに伯母さんと通魔して、その息子である従兄弟ニルギリとクコと僕の三人でおばあちゃんに会うことになった。
珍しく僕の決断が早かったのは、おばあちゃんの容体がこの先どうなるかわからなかったし、僕はできるだけ後悔しないようにしたかったんだ。
カレンダーを見て次の休みを探す。仕事先の札術塾長と話してもっと休みがほしいことや事情を話した。先日祖父をなくしたばかりの塾長は「この時期は寒いもんなあ……」と誰にともなく呟いた。