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BRINY DEEP

 闇夜のロンドンを覆う濃い霧に紛れて降り出した雨は、うとうとと眠りを誘う。

 寝付けない夜が増えた。

 そういう時は窓辺の椅子に腰掛けて海を漂う。

 壁の高い位置に一つ灯る蝋燭は船乗りたちの見た煌めき。

 北辰。

  開かれたままになっている本から静かに霧が吹き出して闇に溶けていく。

 天蓋のあるベッドをしなやかに滑り落ちた寝具が、床の上でぽちゃんと跳ねた。

 塞いでも指の間から這入り込む水滴。遮断。


  ――控えめなノック。二度。

 入れと言うと、背の高い執事は口を歪めた。

「まだお休みになっていらっしゃらないのですか、お嬢様」

「そこまで夜遅いというわけではないだろうに。やれやれ、お前まで私を子供扱いか――確かに私は十を一つ超えたばかりだがな」

 窓辺まで滑るようにやって来て、執事は、

「紅茶でもお入れ致しましょうか」

「……いただこう」


 カップが立てる金属音が一瞬光った。それはすぐ、注がれた紅茶の甘い香に優しくかき消されていった。

 ちゃっかり二つ用意された紅茶を一つ手に取る。程よい渋みに接吻。

 複雑なリズムを刻む雨音は黒に沈む海面に幾何学模様を生み出した。無常。

「私怨に飲まれてはならないと言い聞かせていたはずだったのにな――今は家のことなど、どうでもよくなってしまった。ただ、父様や母様、兄様を手にかけたあの男を殺してしまいたいという思いが私を支配している。そんな主人を、どう思う」

 寿命か、支えを失った火は溶けだした蝋の水面を漂って弱々しく消えた。

「私の主人はお嬢様ただお一人。『どう思う』と仰られましても、私には比較対象がございませんから分かりかねますが――強いて申し上げるならば、それでもよろしいのではないかと」

 訪れた、より深い闇は表情を溶かし込んでいく。

「――続けろ」

「私怨であろうと家を守るためであろうと、たとえ“目的”は違ってもお嬢様のなさる“経過”はお変わりになられない。ならば、どちらでもよろしいかと存じ上げます。私はお嬢様がどのような思いに囚われていらっしゃろうと、変わらずお仕え申し上げるだけのこと。ですから――」

 閃いた金属音が大海原を湿ったロンドンへと引きずり戻す。雨だった。遮断。

「――ふ、見上げた合理主義だ」

「お褒めのお言葉としてお受け取り致します」

 ……再び波の音。

「やけに饒舌だな。うるさい男は嫌われるぞ」

「あいにく、今宵は月が私を酔わしますので」

「――今夜は雨だ」

 手の中の紅茶は闇の中で黒に染まり珈琲と化す。ミルクは多めに。

 舵を握り漕ぎ出した。遠ざかるロンドンは、遥か。

「――私の戯言に付き合わせてしまってすまなかった。もう休んでいいぞ」

 お節介な執事はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、無駄のない所作で一礼すると扉を開けて海溝に堕ちていった。


 もう一度フラスコの外を眺める。

 闇夜のロンドンを覆う濃い霧に紛れて降り続く雨は、しとしとと致死量を超える。



                        from "Vexation”


















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