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寝子 -子ども部屋おじさんの手記-

作者: 紀ノ川

・起・寝子の毎日


 寝てばかりいるから猫になった。そんな僕の名前は寝子。

 これは和歌山北部の町から淡路島へ、海を泳いで渡ろうとして溺れ死んだ猫の話。


 寝子はウォーキングが好きだった。海岸沿いに新しくつくられた公園をウォーキングするのが好きだった。

 これまで10年以上無職で、これから先10年以上も無職かと思うと、恥と不安と絶望で居ても立ってもおれなくなり、ウォーキングに出掛けた。ウォーキングをしている時だけが、粘着するネガティヴな感情から解放される唯一つの時だった。

 寝子の毎日はCDを聴きながらアイスコーヒーを飲み、煙草を吸うだけだった。

 寝子はブルースが好きだった。

 エリック・クラプトンからロバート・ジョンソンを知り、

 ザ・ローリング・ストーンズからマディ・ウォーターズを知り、

 弾き語りのデルタ・ブルースや、電気化されたシカゴ・ブルースのCDを聴き漁った。

 つまり寝子は万年床で寝てばかりいた。

 しかし寝子にも青春はあった。寝子にも立って働いていた頃があった。


・承・寝子の青春


 寝子が社会人になった時、世の中はバブル景気にわいていた。どこの会社も人手不足だった。寝子でさえ期待の新人として職場に歓迎された。寝子は真面目に一生懸命仕事をした。そして同僚のお嬢様猫と仲良くなった。職場の給湯室でよく話をした。しかし寝子にはお嬢様猫をデートに誘う勇気は無かった。「もし断られたら?」と思うだけで震え上がった。

 お嬢様猫はそんな根性無しの寝子に愛想を尽かして、何も告げずに退社した。

 その後、寝子も会社を辞職した。

「俺よー、寝子に、お前はウナギイヌか?!って言ってやったwww」。


 寝子はハローワークに通い次の仕事を見付けもした。バブルははじけていたが、当時、寝子はまだ若かった。そして世の中も、「景気はすぐに超回復する!」と楽観的だった。

 しかし、新しい職場の先輩猫からイヤというほどいじめられた寝子は、3ヶ月で再就職先を辞めてしまった。

 寝子は猫社会に溶け込めなかった。寝子の毎日は前述した通りだ。一度レールから外れるともう猫社会には戻れなかった。寝子は、新車でブルースを聴きながらドライブ、給料日に居酒屋でちょいと一杯、そして愛する彼女と結婚、といった人並みの喜びを放棄しなければならなかった。寝子には世捨人・隠遁者・仙人としての悟りが求められた。

 世の中では寝子と同じ境遇の猫達が自殺や犯罪を起こしていた。仕事に就いていても飲酒運転で身を滅ぼす猫も居た。自ら動画をネットに投稿し、炎上した猫も居た。寝子はそれらの情報をインターネットでじっと見ていた。


・転・寝子の引っ越し


 ある日、突然、寝子は和歌山北部の町から、東京に引っ越す事になった。年老いた親猫の事情だった。親猫の年金で生活する寝子には選択肢は無く、引っ越し作業は感傷に浸る時間も無い早さで実行された。正に「ある日突然」という表現がピッタリだった。

 寝子は愛する公園でウォーキングを続けたかった。表向きは引っ越し作業に協力しながらも、寝子は引っ越すぐらいならウォーキングをしている最中に死んでしまいたいと思った。それはどんな死に方よりも幸福な死に方だと寝子には思われた。

 寝子は引っ越しの2日前である3月末の早朝に、わざと薄着をして、いつもより遥かに多くの距離を猛スピードでウォーキングしたが、願いは叶えられなかった。

 死ねなかったのだ。

 海からの凍てつく寒風の中で、心臓を太い針で刺された様な痛みが1度だけあった。ただそれだけだった。寝子はその事を思い返す度に、「あれは俺が死ねるたった1度のチャンスだったんだな」と思った。そして、「そのたった1度のチャンスに俺は死ねなかったんだな」と思った。


・結・寝子の旅立ち


 引っ越しの前日、寝子は夜中の2時半に公園沿いの砂浜に座っていた。缶コーヒーを飲みながら煙草を吸い、対岸の淡路島をじっと見つめていた。

 寝子は淡路島に憧れていた。洲本という街には温泉がわいていると聞いていた。寝子は日頃から夢見ていた。年老いた親猫を洲本の高級旅館に連れて行く事を。

 寝子がお金を全部出して、老親猫を招待するのだ。


 温泉で湯を浴み、大きな机一杯に並べられた夕餉の海鮮料理の数々に舌鼓を打つ。涙もろくなった両親猫が感極まり感謝の言葉を口にすると、寝子はスカした素振りでその言葉を受け流す。そして彼等が満ち足りてフカフワの布団の中でいびきを立てはじめると、寝子は高級旅館の最上階にあるであろうバーで、独りウィスキーの水割りを飲むのだ。

 控えめな音量でブルースが流れるその場所からは、いつもウォーキングしている和歌山県北部の町が見えるはずであった。


 寝子は叶えられなかった夢を砂浜でじっと見つめていた。そして缶コーヒーが空になると腰を上げて海の中へと入って行った。

 足が着く所までは行けるだろうと思い、しばらくは海の中を進んだが、波が顔まで押し寄せてくると寝子はもう溺れはじめた。足はまだ着くのに波が顔を覆うのだ。

 砂浜からだと随分と穏やかに見えた海だったが、中に入ると嵐が来たのかと思うほど波が高い。「まだ足は着くのに、着くのに、」と思っているうちに口と鼻から大量の海水を飲み込み、寝子は溺れ死んだ。


 この様子を砂浜に置かれた空缶だけが見ていた。煙草の吸い殻をねじ込まれた缶コーヒーの残骸だけがじっと見ていた。


(完 最終更新日22年06月19日)

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