第九章:タカハシの「ランダム・ウォーク」と不器用な恋
ある日の夕方、翔平は学内のカフェテリアでタカハシに捕まった。
「なあ、翔平。お前、里美のことどう思ってんの?」タカハシは単刀直入に尋ねた。
翔平は飲んでいたアイスコーヒーを危うく吹き出しそうになった。「な、何をいきなり。統計学の戦友として、敬意を持って接してるだけだよ」
「敬意ねぇ。お前、課題が終わってから里美に話しかける回数が有意水準5%で増加してるぞ。しかも話す内容が、統計の最新論文とか、絶版の古書の話ばっか。普通の女子が飽きちゃうぞ」
「うるさい。俺のコミュニケーションは、必要な情報交換と、知的な相関関係の構築を目的としてるんだ」
「それじゃ、里美への感情はノイズか?」
タカハシの鋭い指摘に、翔平は言葉を失った。里美への感情は、まさしく彼にとって「ノイズ」だった。解析不能で、論理的思考を妨げ、集中力を乱す、厄介な非ランダム誤差だ。
(里美の、あの知的な横顔。課題の謎が解けたときに見せる、少しだけ崩れる笑顔。それらは全て、俺の心拍数という変数を急激に上昇させる、予測不能な外れ値だ。)
翔平は、里美が好きだった。だが、彼の不器用さは、それを「論理の迷路」に閉じ込めた。
「俺は、彼女に失望されたくないんだ。俺の名前が、彼女の持つ「大谷将兵」先輩のイメージを壊すのが怖い」
タカハシはため息をついた。「お前は常にリスクを計算しすぎなんだよ。恋なんてな、ランダム・ウォークなんだ。どこに辿り着くかわからないけど、立ち止まったら一生進まないぞ」
※有意水準:「めったに起こらない」と判断する、確率上の境界線のこと
※ランダム・ウォーク:次に移動する方向が、確率的にのみ決定される運動モデル




