第七章:里美との夕食と名前の未来
数日後、統計学の課題は、外れ値に関する考察を加えて提出された。翔平と里美は、課題の打ち上げとして、キャンパス近くのカフェでささやかな夕食をとっていた。
「結局、あの外れ値の正体は、『幸せの定義が違う人』だった、ってことですね」と里美は笑った。
「ああ。俺が、俺の名前を『野球のスター』という定義でしか測っていなかったようにね」
翔平は意を決して、里美に自分の名前に関する全ての苦悩を打ち明けた。幼少期からの皮肉、合コンでの屈辱、そして、自分の平凡さが罪のように感じていたこと。
里美は、彼の話を静かに最後まで聞き終えると、カップのコーヒーを一口飲み、言った。
「大谷くん、あなたの名前がすごいのは、事実よ。でもね、私は最初、あなたの名前を『あの野球選手と同じ』だとは思わなかった」
「え?」
「だって、統計学の授業で『大谷翔平』という名前を聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは、ゼミの卒業生で、難解なベイジアン統計の発表で名を馳せていた人の名前だったもの。その人、確か、大谷将兵さんだったのよ。字は違うけど、響きは同じ」
翔平は目を見開いた。野球選手とは全く別の世界にも、「大谷ショウヘイ」という、別の優秀な人間が存在していた。
「私にとって、大谷ショウヘイという名前は、『分析力が高くて、数字に強い人』という印象が強かったの。だから、あなたが統計学の課題で苦しんでいるのを見て、『え、あの先輩と同じ名前なのに?』って思っちゃったくらい」
里美の言葉は、彼の重荷を、一瞬にして別の意味へと置き換えた。名前の重圧は、世界的なスターだけがもたらすものではなく、彼の身近な、アカデミックな世界にも存在し、しかも、それは彼自身の才能と結びつく可能性を秘めているのだ。
「…そうか。俺の名前のデータは、母集団が違いすぎて、どこまでも『外れ値』なんだ」
「そうよ。だから、あなたは、あなたの属する母集団の中で、あなた自身の法則を証明すればいいの。統計学とか、自炊に失敗する率とか、タカハシ君とのバカな会話とか、そういうデータで」
翔平は笑った。心から笑ったのは、久しぶりのことだった。
「じゃあ、俺の次の目標は、『加藤里美と、また一緒に課題に取り組む』という、非ランダムな幸福を、いかにランダムな日常に組み込むか、だな」
里美は驚いたように少し顔を赤くしたが、すぐにいつもの知的な笑顔に戻った。
「それは、分析する価値のある、面白いデータになりそうですね。ただし、その課題に『学習時間ゼロ』で取り組むのは、さすがにやめたほうがいいわよ」
「もちろんだ。今度こそ、最高の努力と、最小の失敗で、最高の満足度を目指すよ」
※ベイジアン統計:新たなデータを得るたびに、確率を更新していく統計手法




