第三章:非ランダムな日常と加藤里美
現在。翔平の避難場所は、数字と論理で満たされた統計学の授業だった。そこには、歴史上の偉人も、野球のスターもいない。あるのは、客観的なデータと誤差だけだ。
「この課題、どうにも『非ランダム誤差』が大きすぎるんですよね」
翔平は、統計学の課題で提出されたアンケート結果のデータを眺めながら、隣に座る女子学生に話しかけた。彼女の名前は加藤里美。ショートカットで知的な印象を持つ、同じゼミの学生だ。
里美は、翔平の名前を知ったとき、他の学生のような露骨な反応を示さなかった数少ない一人だ。彼女は淡々と「ああ、そうなんですね」とだけ言い、すぐに課題のデータ分析に戻った。その態度が、翔平にとってはひどく心地よかった。
「『大学生活の満足度と学習時間の相関』のデータですよね。普通の人は、学習時間が多いほど満足度も高い、という傾向にあるはずなのに……」と里美は言い、グラフの右上隅の一点を指差した。「これを見てください。学習時間『ゼロ』なのに、満足度が『最高点』の学生が一人います」
「学習時間ゼロで満足度最高……完全に外れ値ですね。何か入力ミスでしょうか?」
「その可能性もありますけど、もし事実なら、この学生は人生のコツを知っているのかもしれませんね。全く努力せずに全てを手に入れる究極の『チートプレイヤー』か……」
里美は少し面白そうに微笑んだ。その笑顔を見て、翔平の冷え切っていた胸の隅に、微かな温かさが灯るのを感じた。名前の重圧とは無関係な、知的な探求心という共通の感情だ。
里美との議論に興奮した夜、翔平は夕食の準備を始めた。今日のメニューは、冷凍パスタと、昨日スーパーで安売りしていたパンだ。
パンをトースターに入れ、冷凍パスタを電子レンジに。タイマーが鳴り、パスタを取り出した後、彼はトースターのことをすっかり忘れていた。部屋に焦げ臭い匂いが充満し、気づいたときにはパンは炭と化していた。
「…完璧なはずの冷凍パスタに、致命的な非ランダム誤差が混入した」
翔平は、焦げ付いたパンを見つめながら、自嘲気味につぶやいた。彼の日常は、野球のグラウンドだけでなく、キッチンでも平凡な失敗に満ちていた。
※非ランダム誤差:サンプルの偏りや測定ミスなど、原因が特定可能な誤差




