第十二章:帰無仮説の棄却と、解放された個体
その日の夕方、翔平は里美を呼び出し、大学の裏庭の、小さなベンチで向かい合った。ここは、彼らが統計学の課題のデータについて、何度も議論を交わした、彼らにとって大切な場所だ。
「里美。あの、統計学の課題とは関係ない話なんだけど…」翔平は、喉の渇きを覚えて、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「俺は、里美が好きだ。付き合ってほしい」
里美は、静かに、優しく微笑んだ。その笑顔は、課題の謎が解けたときに見せる、あの知的な笑みだった。
「大谷くん。率直にありがとう。でも、ごめんなさい」
「……」
「私は、大谷くんのその、誰にも真似できない冷静な思考と、論理的で優しいところを本当に尊敬している。一緒に課題に取り組むのはすごく楽しいし、あなたが自分の平凡さを受け入れ始めた姿を見るのも好きよ。でも、恋愛という意味では、ごめんなさい。私にとって、大谷くんは、かけがえのない大切な、戦友だから。ちょっと違うというか」
翔平の胸に、重い鉛のようなものが落ちてきた。これは、予測通り。彼の対立仮説は棄却され、里美が彼を友人として見ているという帰無仮説が、統計的に有意に採択された瞬間だった。
しかし、不思議と、心は穏やかだった。
「わかった。…いや、ありがとう、里美。君の正直なデータに、心から感謝する」
「…その、名前のことは、もう気にしてないの?」里美は尋ねた。
翔平は、笑った。心からの、偽りのない笑顔だった。
「もう気にしてないよ。だって俺は、世界で唯一、里美に告白してフられたオンリーワンの大谷翔平だ。野球のスターがどんなホームランを打っても、これは俺だけの、規格外のデータだ。フられても、俺の平凡な日常は続く。そして、その平凡な日常で、里美が戦友としてそばにいてくれるなら、それだけで最高の満足度だよ」
里美は、初めて、心底安心したように微笑んだ。
「ありがとう、大谷くん。これからも、私の最高の戦友でいてね。一緒に、世界の非ランダムな謎を解明していきましょう」
フられたその瞬間、翔平は、長年背負ってきた名前の重圧から、完全に解放されたのを感じた。
彼はもう、誰かの名前と比較されることを恐れない。彼は、ただの、大谷翔平だ。統計学の課題に悩み、自炊に失敗し、不器用な恋に敗れ、それでも立ち上がる、平凡で、しかし、かけがえのない彼自身の人生を生きる、一人の人間だ。




