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第十章:同姓同名という名の「並行母集団」

タカハシに「ランダム・ウォーク」を勧められたものの、翔平は里美に声をかけられずにいた。そんなある日、彼は書店でのアルバイト中、レジで思わぬ人物と遭遇した。


その女性は、小柄で目鼻立ちがはっきりしており、どこか気品が漂っている。手に持っているのは、難解な経済学の専門書と、猫の写真集という、奇妙な組み合わせだ。


会計時、彼女は会員証を忘れたことを申し出た。


「お忘れですか。大丈夫ですよ、検索してポイントはお付けできますので、お名前か会員番号を伺ってもよろしいでしょうか?」


翔平が尋ねると、彼女は少し苦笑いを浮かべ、間を開けて答えた。


「ええと、ヨシオカ リホです」


翔平は、思わず手が震えるのを抑えた。声に出すことはできない。だが、彼の脳内では、またしても「規格外のデータ」が飛び出した警報が鳴り響いていた。


「ヨシオカ リホ…さん…。漢字は普通の吉岡に、さとに船の帆、でよろしいでしょうか?」


「はい。女優さんと同じ字です。電話とかだとよく『吉岡里帆さんご本人ですか?』って聞かれるんですけど、私は見ての通りただの地味な事務職のOLで、芸能人ではない方の吉岡里帆です。漢字も読み方も全く同じなんですけどね」


彼女はまた苦笑いを浮かべた。その表情は、翔平が毎日鏡で見てきたものと、酷似していた。諦めと、自虐と、そして微かな皮肉が混じった、特殊な「名前の呪い」に罹った人間の顔だった。


「あ…実は僕も…」翔平は、衝動的に口を開いた。「大谷翔平、です。あの、野球の方と同じ字ですが、ただの統計学オタクで大学生の方の…」


瞬間、二人の間に、周囲の騒音を遮断するような、奇妙な共感の沈黙が生まれた。それは、同じ病を抱える者同士だけが理解できる、静かな理解だった。


「ああ、わかります。大変ですよね。『吉岡里帆』って名乗るだけで、皆が一瞬、『本物』かどうかの二項検定を始めるんですもん」彼女は、統計学の専門書を見て、あえて統計用語を使って言った。


「そうなんです!僕は毎日、自分が『エラー』ではないという帰無仮説を証明し続けている気がして……」


会計が終わり、お互いに自己紹介をした。彼女は、都内の一般企業で働くOLの吉岡里帆さんだった。


「大谷さん、あなたも統計学なんですね。私、経済学部出身で、今でも仕事でちょっと使っていて…こんな場所で、同じ悩みを共有できる人に会えるなんて、予測不能な確率ですね」


「まさか、美人女優さんと同姓同名で苦しんでいる方が、こんなにも身近にいるとは。僕にとっては、非常に重要な並行母集団の発見ですよ」


二人は、名前の呪いと、それがもたらす日常の奇妙な「ノイズ」について、小一時間、レジ横で立ち話をした。


・「予約したレストランで、常に個室を用意される率の高さ」

・「免許証や保険証を見せた時の相手の『一瞬の間』」

・「ネット検索すると、自分のデータがノイズに埋もれてしまう絶望感」


彼らは、お互いが持つ「名前の苦悩データ」を共有し、解析し合うことで、初めて得られる深い安堵を覚えた。意気投合はしたものの、そこにあるのは恋愛感情ではなく、「君もまた、世界の壮大な皮肉を背負っているんだね」という、同志としての確かな認識だけだ。


「では、大谷さん。お互い、この規格外の名前を背負いながら、平凡で確かな幸せを追求しましょう」吉岡さんは、明るく言った。


「はい。そして、この名前がもたらす『ノイズ』を、僕たち自身の『個性』という新しい法則で上書きしていくんです」


吉岡さんが去った後、翔平は里美の分析的な笑顔を思い浮かべた。里美は、この「吉岡里帆との出会い」という新たなデータセットを、どう解析するだろうか。そして、里美の瞳に映る「大谷翔平」という彼の名は、どこまで「大谷将兵」先輩の陰から抜け出せているのだろうか。


彼の心の統計モデルは、吉岡里帆という新たな変数を得て、さらに複雑で、しかし、興味深い方向へと進化を始めた。


※並行母集団:共通の特性を持ち、比較対象となる複数の集団のこと

※二項検定:結果が2通りしかない試行で、生起確率を判定する手法

※帰無仮説:「差がない・効果がない」と仮定する、検証の出発点となる説

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