【ノンフィクション閲覧注意】2025年の振り返り……いえ、これは私の半生の振り返りです。貴方を不快にし、今まで積み上げてきたものが壊れてしまうのが怖いから読まないでほしいと思っています。
本エッセイは、私自身の家族、とりわけ母の最期をめぐる経験と、その時に抱いた葛藤を正直に綴ったものです。
認知症、終末期医療(延命)の選択、親子の関係——いずれも答えのない、そして人によって向き合い方の異なる繊細なテーマを含んでいます。
ここに書かれているのは、あくまで「私がその時に感じたこと」「私が選んだ道」であり、誰かの選択や価値観を否定したり、正解を示したりする意図はありません。
これはただの愚痴です。貴方を不快にする悪いものだと思っています。
どうか、読み進める際には、これは一つの個人の記録であることをご理解いただければ幸いです。
1、私の母について
私が地元を離れて働いていたとき、母の認知症が判明した。
母と共に暮らす父は、母の病気の進行を「なんでこんなことぐらいできないんや!」と苛立ち、怒るばかりで、「その原因が何であるのか診てもらおう」ともしなかった。
そして、母の我慢強い性格と「心配をかけないでおこう」という気遣いもあり、都合の良い言い訳になってしまうが、私も母の病気に気付くのが遅れてしまった。
私が母を必要な診療科に連れて行ったが、認知症の進行は止まらず、家での介護はもう難しくなり、最期の時間を過ごす場所として、施設に預けることを選ぶしかなかった。
──そして、三年前に母が亡くなった。
認知症が進行し、生命の維持に欠かせない脳の機能が低下した為であった。
亡くなる前の母はゆっくりと脳の働きが閉じていく中で、次第に『私を私として認識できなくなった』。
優しかった母の姿は薄れ、時にはひどい言葉が投げつけられた。
その言葉は、長年知っている母の声ではないように聞こえ、まるで知らない誰かに叱られているような気持ちになった。
頭では「病気のせいだ」とわかっていても、心が追いつかず、泣きたい夜もあった。
それでも、病気に奪われる前の母の姿は、いつも私の中にいた。
──優しくて、まじめで、家族を愛し、人のことを自分より先に考え、明るく楽しい人。
私がつまずいたときには手を差し伸べ、何も言わなくても気持ちを受け止めてくれる人。
思い返すたび、胸が苦しくなるほど、母は私にとって大切な存在だった。
そして、母の認知症が進行し、……誤嚥性肺炎の危険が高まっていった。
介護して下さる方からの食事を摂ることも難しくなり、このままでは生きる上での十分な栄養を摂れないと言われた。
医師からは、胃瘻を作って栄養を与えるかどうか、家族として判断する必要があると告げられた。
※胃瘻とは、お腹に小さな穴を開けて、胃につながるチューブから栄養などを注入する方法です。嚥下(食べ物などを飲み込むこと)障害などで口から食事が摂れない方が対象となる、延命処置と呼ばれるものになります。※
家族や親類の中で、医療に関わる仕事をしていたのは私だけだった。
そのため、自然と私の意見を求められるようになった。
皆が「あなたなら正しい判断ができるだろう」と言ってくれる一方で、その重さは私の心に静かに積み重なっていった。
思い返せば、母は生前よく言っていた。
「誰の世話にもなりたくないんや」
それは家族だけでなく、施設の職員の方々や看護師さん、介護職の方々にまで迷惑をかけたくないという、母なりの誠実さから出た言葉だったのだろう。
しかし、そのときの母は認知症の進行で、もう自分の意思を言葉にすることができなかった。
──胃ろうを望むのか、望まないのか。
──延命を意味する医療処置をどう考えるのか。
私は母の言葉と、今、目の前にある母の状態、その間で揺れ続けた。
医師から説明を受けながら、私は心のどこかで分かっていたのだ。
胃瘻は延命であって、回復ではないということを。
そして、管に頼りながら意識の薄い日々を延ばすことが、母の望んだ生の形ではないような気がしていた。
結局、「ご飯を食べられないということは、生き物としての命がゆっくりと幕を閉じようとしている証なのではないか――」
私は、そう家族や親類に伝えた。
母の体がもう栄養を受け入れられず、自然な終わりを迎えようとしているのだと。
そして、話し合いの結果、胃瘻は行わないという決断に至った。
母のこれまでの言葉と、残された時間の質を考えれば、その選択がいちばん母に寄り添ったものだと、私は思っていた。
しかし、母の葬儀の日。──母の弟、つまり私のおじが静かにつぶやいた。
「もう少し長生きさせてあげてもよかったんじゃないか」
「もう少し早く気づけなかったのか、何かできたのではないのか」
その言葉は責める口調ではなく、むしろ姉(私の母)を想う弟としての純粋な気持ちからこぼれたものだったのだろう。
おじは私が子どもの頃から優しく、お菓子を買ってくれたり、遊んでくれたりした人だ。
私にとって好きな親類だった。
だからこそ、その一言は私の胸の奥に重く落ちた。
おじにとって母は、いつまでも優しく頼れる姉だったのだと思う。
もっと生きていてほしかったという気持ち――それは残された者だからこそ抱く自然な願いだ。
私は、その言葉にすぐ返事ができなかった。
母がほんとうに望んでいたのは何だったのだろう。
もし胃ろうを選んでいたら、母は数ヶ月、あるいは一年でも長く生きられたかもしれない。
「世話になりたくない」という言葉には、母の誇りも、優しさも、恐れも混ざっていたのではないか。
認知症のせいで言葉を失った母は、心の中で「助けて」と叫んでいたのではないか――。
その想像は、今も私を締めつける。
私の決断は、本当に母のためだったのか。
あるいは、苦しむ姿をもう見たくないという、私自身の弱さだったのか。
あれは、私のわがままだったのだろうか?
今もときどき、自分に問いかけてしまう。
――それでも私は、最期の母の表情や、手の温もりを思い出すたび、あれが母にとって一番穏やかな終わり方だったと自分に言い聞かせている──
2、私の父について
そんな母の最期を巡る葛藤の最中、父と私の関係は急速に壊れていった。
父は母を愛していたのだろう。
母が亡くなったとき、父は涙を流した。
母もまた、父を愛していたのだと思う。
私も父に育ててもらった恩を感じていたから、母の件を責めるよりも、支えようとばかりしていた。
──まだ母の認知症がそれほど進んでおらず、実家で父と母が暮らしていた時。
実家に戻った私が、母の頭にケガを見つけたとき、「転んで頭を打ったんや」と母は笑って答えた。
テーブルの上の置時計に血痕があった。
苛立った父が、その置時計で母を殴ったのに、それを庇ったのだ。
──私は、父と母がもう二度と同じ場所で、家族が共に過ごした思い出の家で、暮らすことは出来ないと思った。
その後、母が施設に入っている間、父は二回り年下の女性と付き合い、「母はもういないもの」として振る舞っていることを知った。
それでも、私は母のことを思い、父のその行動を母に伝えなかった。
母の愛した父であってほしいから、病気で苦しむ母に負担を与えたくなかったから。
コロナ禍で外出が制限されていた時期でさえ、その二人はよく出かけ、私は母のことや父の健康面のこともあり、忠告したが聞き入れられなかった。
母が認知症で苦しんでいるあいだ、私が泣きながら支えていたあいだ、父は自分のことだけを優先し、金と都合の良さでしか動かない人に見えてしまった。
余りにもおかしいと思い、「金銭のやり取りをしていないか」と問う私に嘘をつき、やがて使い込みと借金があることが残高不足で発覚した。
何とか補填する手立てをとり、「もう父に金銭を管理することは不可能だ」と思い、父の通帳を私が預かるようになってから、状況はさらに悪化していった。
父の通帳を管理する私に、父とその女性は「奪った」と騒ぎ、ついには私から取り戻すために警察署にまで出向いた。
警察署から連絡を受けた瞬間、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
母が病と戦っている時期に、なぜ父は実の娘ではなく、他人の女性の言葉を信じ、優先するのか。
その現実に向き合うたび、怒りよりも深い嘆きがこみ上げた。
「このお金は、何かあったときに必要なお金で、父の生活と命を守るためのお金である」と私は頑として渡さなかった。
全て渡してしまって楽になりたい──と思いながら。
人生で初めての警察署で私は悟った。
父は、実の娘よりもその女性の言葉を信じたのだ、と。
その後、女性が金がもらえなくなり去っていった後も、父への嫌悪は消えないままだった。
父が女性に渡したお金について弁護士に相談するも「贈与扱い」とされ、返ってこなかった。
──幼い頃、父はよく「人の物を盗んではいけない」と繰り返していた。
その言葉の裏には、父自身の父――つまり私の祖父――が窃盗をした過去があるという告白があった。
だからこそ、父は自分の子である私が同じ道に進まないよう、強く戒めていたのだと思う。
父が高校生のとき、とび職であった父の父は屋根から落ちて亡くなり、父は高校中退で働くことになった。
勉強やスポーツなど大事な青春時代を過ごしたかったであろう父が、母の助けがありながらも、定年まで勤め上げたことは、ほんとうに尊敬に値することであると思っていた。
私の中で父とは『正しい人の象徴』であったのだ。
──しかし、そんな父が、自らその罪を犯した。
母のいない寂しさゆえか、あるいは他に理由があったのか、窃盗を犯してしまった。
初犯で反省の意思もあり、被害にあった店が訴えなかったため、刑に服することはなかったが、それでも事実は消えない。
私の中には、父への失望や嫌悪がゆっくりと沈殿していった。
「してはいけない」と言い続けていたことを、自ら破った父。
その矛盾をどう理解すればいいのか、私はまだ答えを持っていない。
ただ、父が弱さや孤独を抱えた一人の人間であるということは、少しずつ分かるようになってきた。
完璧ではなく、間違いを犯し、それでも生きようとしている人間。
その姿をどう受け止めるかは、これからの私の課題なのだろう。
家族であれ、大切な人であれ、相手の過去や選択をそのまま受け入れるのは簡単ではない。
でも、「嫌悪」だけでは、自分自身も苦しくなる。
父の行いを肯定する必要はないし、許す義務もない。
けれど、なぜ私はこれほどまでに痛むのか――その理由を見つめることが、自分自身と向き合うことにつながるのかもしれない。
父と私。
父は母が亡くなったとき、静かに涙を流した。
その涙だけを見れば、父も確かに母を愛していたのだと思う。
けれど、私の心はそれを素直に受け取ることができなかった。
父の涙は本物だったのか。
それとも、亡くしたという事実だけを悼んだものだったのか。
その答えは、きっと父にしかわからない。
その間にある距離はまだ埋まらない。
いや、埋める必要があるのかさえ分からない。
ただひとつ言えるのは、父の過去は私の人生そのものではないということ。
私は私の選択で、生きていける――その確信だけは、手放したくない。
親だから愛せるわけではない。
血のつながりがあっても、信頼が壊れれば心は簡単には戻らない。
それでも、母に恥じない『正しい生き方』をしたいと願う自分がいる。
母が大切にしてくれた私の心を、父の弱さや裏切りの中で失いたくはない。
けれど、父への嫌悪は消えることなく、心の奥で重い石のように居座っている。
親という存在は、愛しくもあり、残酷にもなりうる。
母の優しさと、父の弱さ。
ふたつの記憶の間で揺れながら、私は今日も生きている。
母の記憶が私を支え、父への失望が私を立ち止まらせる。
──それでも、どちらにも呑まれず、私は私の道を歩いていきたい。──
3、今の私を構成するものについて(ふたりの祖母とのかかわり)
生前、母はよく自分の母──つまり私の祖母の話をしてくれた。
祖母は「言うことを聞かなければ柿の木にくくられた」というほど厳しい人だったらしい。
戦後の混乱の中、家族を守ろうとして必死だったのだろう。
だが私にとって祖母は、そんな厳しさを微塵も感じさせない、優しいお祖母ちゃんだった。
その祖母が弁膜症を患ったとき、私は家族に「治療しなければ血栓ができ、脳梗塞を起こす危険が高い」と説明した。
しかし、祖母自身は手術を望まなかった。
その選択は重く、そして現実となり、祖母は脳梗塞を発症した。
その後の介護は母が担い、家のことは高校生だった私が引き受けることになった。
家にはさらに、ボケが始まった父の母 (私にとってのもう一人の祖母)がいた。
夜に突然叫び出したり、トイレが間に合わず粗相をしてしまう祖母。
また、その時には私の姉も家におり、精神的な問題があり、サポートが必要だった。
夜中に叫ぶ祖母をなだめ、汚れた床を片づけ、翌朝には学校へ行き、受験勉強もした。
当時の私は、ただ“そうするしかない”と思っていたが、今振り返ると、あの頃の自分によくやってきたとそっと言ってやりたくなる。
あの時、母も私も、家族として生きることに必死だった。
ボケの始まった祖母を介護してきたことは、段階をもって、私の仕事の上でも、認知症の母を介護する上でも、父の介護をする上でも役に立っている。
──祖母から母が受け継いだ「厳しさと優しさ」の両方、その母が背負った介護の重さ、それを手伝った私の若い肩の荷──すべてが、今の私を形づくっていると思う。
4、今の私を構成するものについて(兄とのかかわり)
私には兄がいる。
父はその兄に多くの期待をかけていたのだと思う。
父の父──私の祖父は鳶職だったが、屋根から落ちて亡くなり、父は高校を続けられず、働かなければならなかった。
だからこそ、兄には「自分ができなかった分の人生」を重ねてしまったのだろう。
──だが、その重さは兄には耐えられなかったのかもしれない。
兄は反発し、長男でありながら家を出てしまった。
父が兄のためにそろえた高額な教材も、兄は手をつけなかった。
けれど私はそれをありがたく使わせてもらった。
塾に通う友達もいたが、私は家で介護をしながらでも勉強ができた。
あの時、家族が抱えていた混乱の中で勉強を続けられたのは、あの教材のおかげだったと言っていい。
しかし、その後の兄は家族からさらに遠ざかっていった。
母が認知症になったときも、連絡をしても何もしなかった。
容体が悪化していく中でも同じだった。
それでも、葬儀には来てくれた。
ただ──香典袋も持たず、母の遺影を前にして彼が最初に言った言葉は「東京から来たんだから交通費をくれ」だった。
幼い頃は仲良く遊んでいた兄だったのに、その姿を見た時、私は何を言えばよかったのか今でもわからない。
さらに兄は「母が死んだから保険金が入っただろ。分けてくれ」とも言った。
だがその頃、父は例の女性に金を渡し続け、家に借金が残っていた。
私は兄にお金を渡せないと答えた。
母の保険金は、父が作った借金の一部を埋めるためと、父自身の葬儀代として使うことになっていたから。
本来であれば、「母を裏切った父に、母のお金を使うのは悔しい」と思うはずのその判断を、なぜか私は受け入れられた。
母が父を愛していたから、母の最後のお金が父の穴埋めに使われることを、母自身はきっと責めないだろう──そう思ったからだ。
だが、兄への感情は、今も整理しきれていない。
父と同じように、幼い日の優しい兄の記憶と、現実の兄の姿が、いつも胸のどこかでぶつかり合っている。
けれど、家族というのは時に、そういう矛盾を抱えて生きるものなのだと思う。
わかり合えなくても、見捨てたくても見捨てられない、奇妙なつながり。
家族は、ときに最も遠く、最も理解が難しい他人になる。
それでも「家族」と名のつく場所で起きるすれ違いは、深く長く心に残る。
──私の兄もまた、その一部なのだ。
5、私が『かぐつち・マナぱ』と名乗る訳について
──そんな私には今、創作という拠りどころがある。
「小説家になろう」で私は『かぐつち・マナぱ』と名乗っている。
迦具土――火の神。
火の神は生まれた瞬間、母を焼き殺し、父に斬られて死ぬ。
生まれること自体が罪とされ、家族の痛みに翻弄された神だ。
ペンネームとしてその神話を思い出し、私は不思議な繋がりを感じた。
火は破壊の象徴であると同時に、灯りや祈り、再生の象徴でもある。
私はその矛盾に、今の自分自身の人生を重ねてしまったのかもしれない。
──母を救えなかった、殺してしまったという悔い。
──父や兄に裏切られた深い傷。
──それでも家族を憎みきれない弱さ。
そのすべてが、火のように揺らめき続けている。
創作する私は、“かぐつち”であり、同時に“かぐつちではない”。
母を焼いた火ではなく、母を思い続ける火。
父や兄に斬られる火ではなく、自分の痛みを照らす火。
苦しい記憶を燃やし、言葉として灯すために、私は火の名を選んだのだと思う。
今までの日々は、私という火を形づくった大切な燃え跡だ。
火は何かを失わせるが、同時に新しい光を生む。
私はその残り火の中で、今日も生き直している。──そう思えるようになった。
これも全て、『かぐつち・マナぱ』に関わってくださる皆様のおかげと、現実の私に関わってくださる方々のおかげであると、深く深く感謝を込めて──ありがとうございました。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
母や家族のことを思い出しながら書く作業は、痛みが入り混じるような時間でしたが、こうして読んでくださる方の存在があることで、静かに救われていくような気がします。
貴方の大切な時間を割いて、このエッセイに触れてくださったことに、深く感謝申し上げます。
ありがとうございました。
(追記)
たくさん優しい心遣いのお言葉をいただいており、本当にありがとうございます。
ゆっくりと噛み締めながら、お返事させてもらおうと思います。
読んで下さった方が、自分の家族や選択を思い出してしまう痛みを感じてしまわれたなら…本当に申し訳ありません。m(_ _)m
…生きている上で色々な選択をしなければならない時があると思います。
どうか、皆様の大事な方と十分に話し合い、その選択が後悔のない、良きものになりますように。(*人´ω`*)




