最初のデッドエンド
この世界が、前世で心血を注いでデバッグした、あの悪意の塊のようなクソゲー『アナザー・ガイア』の舞台そのものであると確信し、カイルは絶望の淵にいた。
窓から差し込む月明かりが、豪奢なベビーベッドを静かに照らし出している。
侍女がかけてくれた上質なシルクのブランケットは柔らかく、母親が子守唄を歌ってくれた温もりも、まだ微かに残っているようだった。傍から見れば、それは貴族の子息に与えられた、何不自由ない幸福な環境そのものだろう。
だが、その内側にいる三十歳の精神は、かつてないほどの恐怖と無力感に苛まれていた。
(どうする……これから、どうやって生き延びていく?)
赤ん坊の小さな頭脳(物理)と、三十歳プログラマーの経験豊富な精神(論理)を今、彼はフル回転させていた。長期的な生存戦略を立てなければならない。これから数年間、自分はまともに動くことも話すこともできないのだ。その間に、どんな滅びのフラグが立つか分からない。
『アナザー・ガイア』の知識は、いずれ強力な武器になるだろう。だが、それはあくまでゲームとしての知識。NPCの行動パターン、イベントの発生条件……それらが、この生身の人間が生きるリアルな世界で、どこまで通用するというのか。
(まずは情報収集の徹底。そして、身体の成長を待って、最低限の自衛手段を……)
思考を巡らせ、今後の対策を練っていた、そんなある夜のことだった。いつものようにベビーベッドで眠りにつこうとした、その瞬間。
ズキン、と。まるで頭蓋の内側から、鋭い杭でも打ち込まれたかのような、凄まじい激痛がカイルを襲った。
(ぐっ……!? なんだ、これ……!?)
声にならない悲鳴が、彼の精神の中で木霊する。視界が真っ白に染まり、平衡感覚が掻き消える。そして、彼の脳裏に、これまでとは比較にならないほど鮮明で、暴力的なビジョンが流れ込んできた。それは、映像としての「未来」だった。
――ビジョンの中の自分(赤ん坊)が、穏やかに寝息を立てている。やがて、無意識にゴロン、と寝返りを打った。そのわずかな体重移動が、引き金だった。
かねてより【神眼】が「老朽化」と警告していたベッドの木製の柵が、メキリ、と嫌な音を立てて大きくしなる。そして、次の瞬間には限界を超えて崩壊する。
体勢を崩した自分は、なす術なくベッドから滑り落ちる。スローモーションのように映る床。硬質な石造りの床が、無慈悲に迫ってくる。そして、ゴツン、という鈍い衝撃音と共に、彼の小さな体は動かなくなり、意識は永遠の闇に沈んでいった――
【デッドエンド予測:ベビーベッドの柵の破損による転落死】
【発生確率:95%】
【発生までの予測時間:約5分】
(なっ……!?)
ビジョンから解放されたカイルは、ぜえ、ぜえ、と荒い息をついていた。赤ん坊の心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打っている。まだ、自分はベッドの上にいる。だが、脳内にポップアップ表示された冷たいテキストが、今のビジョンが悪夢などではない、紛れもない現実だと告げていた。
あまりにも具体的で、あまりにも呆気ない自分の死の未来。しかも、ご丁寧に発生確率と残り時間までご丁寧に表示されている。どうやらこの【神眼】は、万物鑑定だけでなく、未来予知の機能まで備わっているらしい。
だが、そんな分析に浸っている暇はなかった。
(冗談じゃない! 転生して数ヶ月で、事故死だと!? しかも原因が自分の寝返りって、そんなバグみたいな死に方でたまるか!)
恐怖と、自らの運命の理不理尽さに対する激しい怒りが、カイルの生存本能に火をつけた。
視界の端で、無慈悲なカウントダウンが始まっている。残り時間は5分。両親は隣の寝室で休んでいる。今すぐ、この異常事態を知らせなければ、未来は確定してしまう。
だが、今の自分にできることは、あまりにも限られていた。
言葉を話すことはできない。
自力でベッドから脱出することも、もちろん不可能だ。
彼に残された唯一の抵抗手段。それは、赤ん坊という無力な存在に与えられた、唯一にして最強の特権――ただひたすらに、泣き叫ぶことだけだった。
(泣け、泣け、泣け! 俺のありったけの肺活量で、この世の終わりのように泣き叫ぶんだ!)
カイルは決意した。絶望している暇はない。この最初のデッドエンドを回避できなければ、その先に待つであろう国家転覆だの、世界崩壊だのといった、より大きなフラグに立ち向かうことすらできないのだ。
彼は、小さな肺に目一杯の空気を吸い込んだ。三十年間の人生で経験した全ての理不尽、全ての悔しさ、そして、今この瞬間の「生きたい」という強烈な願い。その全てを、この一声に乗せる。
ヴァルモット辺境伯邸の夜の静寂を、切り裂くように。
『オギャーーーーーーーーーッ!!!!』
それは、もはや赤ん坊の夜泣きではなかった。
神が仕掛けた理不尽な運命に対する、一人の元プログラマーの、魂の雄叫び。
宣戦布告の鬨の声だった。




