渓谷の道と死のビジョン
数日間の滞在を終え、フォルクマン商会が出発する朝が来た。
中庭は、荷馬車の準備を整える商人たちの活気と、馬のいななき、そして金属製の武具が擦れる音で満たされている。
空はどこまでも高く、雲一つない完璧な蒼穹が広がっていた。
旅立ちには、これ以上ないほどの日和と言えるだろう。
カイルは、父レオンと共に、城門の前で彼らの隊商を見送っていた。
荷馬車には、ヴァルモット産の良質な鉄鉱石や、丁寧に乾燥させられた薬草の束が、これでもかと満載されている。
それらは、クロエの父、グスタフが数日間にわたる父との厳しい交渉の末に、勝ち取った戦利品でもあった。
「では辺境伯様、次にお会いできるのを楽しみにしております。素晴らしい商談に、心より感謝を。……カイル様も、娘が大変お世話になりました」
グスタフが、商人らしい丁寧さで深々と頭を下げる。
「うむ。道中、油断のなきようにな」
父レオンは、武骨な腕を組みながら、短く応えた。
グスタフは、隣に立つ娘に、目線で促す。
「クロエ、カイル様にご挨拶を」
「はい、お父様。カイル様、数日間、本当にありがとうございました。あなたの助言、必ずや、今後の商売に活かさせていただきますわ」
クロエが、スカートの裾を優雅につまみ、再び完璧な淑女の礼を見せる。
その言葉には、社交辞令ではない、心からの感謝と尊敬の念が込められているのを、カイルは感じ取っていた。
その時だった。
別れの挨拶のために、彼女がゆっくりと顔を上げ、カイルと視線が合った、まさにその瞬間。
ズキンッ!
まただ。
あの、マリアの時と同じ、脳を直接氷の針で突き刺されるかのような、耐え難い激痛。
視界が閃光に焼かれ、一瞬、白く染まる。
「ぐっ……!」
カイルは、思わず小さな呻き声を漏らし、こめかみを押さえた。
そして、回避不能の未来のビジョンが、彼の脳裏に暴力的に叩きつけられた。
ーーーーーー
――ウルフモウ渓谷と呼ばれる、険しい一本道。
岩肌が剥き出しになった、薄暗く視界の悪い渓谷を、フォルクマン商会の隊商が、荷馬車の車輪を軋ませながら進んでいる。
その時、道の両脇の岩陰から、無数の人影が躍り出た。
屈強な体つき、使い古されて刃こぼれした剣、そして、獲物を見つけた飢えた獣のような、濁った眼光。
山賊だ。
商会の護衛たちが、必死に応戦するが、相手は地形を熟知し、数も圧倒的に上回っている。
多勢に無勢。
悲鳴と、鋼がぶつかり合う甲高い音。
仲間が次々と斬り伏せられていく地獄絵図の中で、クロエは恐怖に顔を青ざめさせていた。
荷馬車は次々と火を放たれ、父と彼女が心血を注いで築き上げてきた財産が、黒い煙となって空に昇っていく。
そして、ビジョンの最後に見えたのは、恐怖に泣き叫びながら、汚い腕にその栗色の髪を掴まれ、引きずられていくクロエの姿だった――
【デッドエンド予測:フォルクマン商会の壊滅(山賊の襲撃)】
【発生確率:92%】
【結果:積み荷の全損、商会の破産、主要人物の死亡または奴隷化】
「……っ!」
カイルは、くらりと眩暈がするのを必死で堪えた。
現実に戻ってきた彼の視界には、何も知らずに、にこやかに微笑みかけてくるクロエの顔がある。
だが、彼の頭の中では、先ほどの凄惨な光景が、まだ焼き付いて離れなかった。
(またデッドエンドか……!)
顔から急速に血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
商会の破産。
それは、グスタフだけでなく、まだ七歳のクロエが背負うには、あまりにも過酷な運命だった。
そして、「死亡または奴隷化」という、あまりにも悲惨な結末。
(でも、相手は領民じゃない。通りすがりの商人に過ぎない。僕が、そこまで干渉すべきことだろうか?)
一瞬、悪魔のような囁きが、彼の心をよぎる。
これは、自分の領地の問題ではない。
下手に口出しをして、未来が変わらなかったら? 自分の能力が露見してしまったら?
「未来を予知する子供」
そんな存在が知られれば、一体どうなる?
神の子と崇められるか、悪魔の子と迫害されるか。
どちらにせよ、平穏な人生など望めなくなる。
リスクが、あまりにも大きすぎる。
だが、彼の脳裏に、未来のビジョンの中で絶望に打ちひしがれ、涙を流していたクロエの姿が、鮮明に蘇った。
あの、利発で、誇り高く、大人びていた少女の、見る影もない姿。
彼女の蜂蜜色の瞳から、光が失われていた、あの瞬間。
『見て見ぬふりなんて、できるわけがない』
カイルは、強く、強く、小さな拳を握りしめた。
見てしまった以上、知ってしまった以上、彼に選択肢はなかった。
リスクなど、クソくらえだ。
目の前で助けを求めている(まだ自覚はないが)人間を見捨てるなど、前世の佐藤翔太としても、今世のカイル・ヴァルモットとしても、断じて許せることではなかった。
彼の蒼い瞳から、迷いの色が消える。
そこには、絶望的なバグに立ち向かう、チーフプログラマーの闘志が宿っていた。