エピローグ 守るべき笑顔
凄まじい轟音が過ぎ去った後、森はまるで何事もなかったかのように、元の静寂を取り戻していた。
ただ、先ほどまで鳥のさえずりが満ちていた空間は、今は息を潜めたような沈黙に支配されている。
そして、空気中にはまだ、舞い上がった土埃の匂いがうっすらと残っていた。
舞い上がる土煙が風に流され、ゆっくりと収まった後も、マリアはしばらく呆然と、地面にへたり込んだまま動けなかった。
彼女の思考は、今しがた目の前で起きた、あまりにも現実離れした出来事を、まだ処理しきれずにいるようだった。
カイルは、ゆっくりと立ち上がると、自らの服についた土を払い、震える膝を叱咤しながらマリアに歩み寄った。
「マリア、大丈夫かい? どこか怪我は?」
その声に、マリアは呪縛が解けたように、はっと顔を上げた。
そして、ゆっくりとカイルの方を振り返る。
その生命力にあふれた翠色の瞳は、今、複雑な光を宿していた。
死の淵を覗き込んだことからくる純粋な「恐怖」。そして、それ以上に、信じられないものを見るような「驚き」と、まるで伝説の賢者を前にしたかのような「畏敬の念」。
それらが混ざり合って、彼女の瞳を大きく見開かせていた。
彼女の頭の中で、先ほどの出来事がスローモーションのように再生される。
崖に向かって駆け出す自分。
それを止めた、カイルの必死の叫び。
金色の蝶という、突拍子もない話。
けれど、その時のカイルの顔は、嘘をついているようには見えなかった。
何かに怯え、自分を必死に守ろうとしている、真剣な顔だった。
そして、自分が崖から離れた瞬間に起きた、あの大崩落。
偶然?
いいや、違う。点と点が、彼女の素直な心の中で、一つの線を結んだ。
『すごいよカイル! まるで未来がわかってたみたい!』
ようやく絞り出した声は、少しだけ震えていた。
だが、そこに含まれていたのは、非難や疑いの色ではない。ただ純粋な、子供らしい賛嘆と尊敬の念だった。
無邪気に自分を英雄のように褒め称えるマリアに、カイルはなんと返せばいいのか分からなかった。
(未来がわかっていた、か。間違ってはいないけど……)
「神眼」のことも、彼女が無残に死ぬはずだった未来のことも、話せるはずがない。
この六歳の少女に、世界の残酷な真実と、自分の背負った秘密の重さを理解しろと言うのは、あまりにも酷だ。
彼は、必死に頭を回転させ、最も当たり障りのない答えを探す。
『……そうだね。本当に、危ないところだった』
結局、カイルは曖昧に笑い返すことしかできなかった。
『なんだか、地面が少し揺れているような気がしてね。嫌な予感がしたんだ』
と、もっともらしい嘘を付け加える。マリアは「そうだったんだ!」と素直に納得してくれたようだったが、その瞳の奥の尊敬の光は、少しも揺らいではいなかった。
カイルは、そんな彼女からそっと視線を外し、崩れ去った崖に目を向けた。彼の胸の中には、確かな感情が、まるで嵐の後の陽光のように、じんわりと広がっていた。
安堵だ。
心の底からの、安堵。
彼女の命を、彼女の笑顔を、守ることができた。
あのビジョンが現実にならなかった。目の前で、彼女が生きている。
その事実が、何よりも、何よりも嬉しかった。
(この力は、呪いじゃない)
ベビーベッドで死を予見した時、彼はこの【神眼】を呪いだと思った。
これから先、数え切れないほどの絶望を見せつけられるのだと。
だが、違う。
見たくもない未来を視ることは、確かに苦痛だ。
だが、その未来を知るからこそ、変えることができる。絶望の淵にいる誰かの手を、引くことができるのだ。
カイルは、隣にいるマリアの、少しだけ汚れた横顔を見つめた。
(こうやって、大切な人を守るために使うんだ。そのために、僕はここに生まれ変わったんだ)
彼は改めて、その小さな胸の中で固く決意した。
この日を境に、マリアの心の中にも、大きな、そして本人もまだ気づいていない変化が生まれていた。
いつも少し気弱で、読書好きで、自分の一歩後ろを静かについてくるだけだと思っていた幼馴染。
危なっかしい自分を、いつもハラハラしながら見守ってくれている、少し頼りない男の子。
それが、今日、覆された。
彼は、自分の知らない何かを知っていて、自分を正しい方へ、安全な方へと導いてくれる、まるで物語に出てくる賢者のような、不思議な力を持っている。
その尊敬と信頼にも似た特別な感情が、やがて淡い恋心へと姿を変えていくことを、まだ彼女自身も気づいてはいなかった。
ただ、今までとは違う、胸が少しだけ温かくなるような、それでいて少しだけ切なくなるような感情が、芽生え始めていた。
「……帰ろっか、カイル」
「うん」
「……手、繋いで」
マリアが、少しだけ照れたように、小さな手を差し出してくる。
いつもは彼女がカイルの手を引っぱるのが常だったが、今日初めて、彼女はカイルにそれを求めた。
カイルは、その小さな手を、優しく、そして力強く握り返した。
崖崩れの危機は去った。
だが、二人の関係は、この忘れられない誕生日の一件をきっかけに、もはや単なる「幼馴染」ではない、新たな段階へと、確かに進み始めたのだった。