金色の蝶と僕の嘘
どうすれば、崖の縁に向かうマリアの足を、今すぐ、この場で止められる?
警告ではダメだ。
大声で叫んでも、彼女の好奇心と勢いは止まらない。
ならば、彼女の興味を、あの絶景の崖よりも、もっと強く、もっと瞬間的に引く何かが必要だ。
『残り、15秒』
カイルの脳が、前世のPCが過熱するほどの速度で回転する。
選択肢をリストアップし、最適なものを瞬時に選び出す。
石を投げて気を引くか?
(ダメだ。コントロールが定まらない。万が一当たれば怪我をさせるし、外れれば無視されて終わりだ)
体を張って止めるか?
(無謀だ。僕の体力と体重で、駆け出しているマリアを止められるはずがない。二人まとめて転落する未来しか見えない)
マリア・クレストンの性格は、この六年間でカイルが一番よく知っている。
彼女は、単純で、裏表がなく、好奇心旺盛で、そして、キラキラした綺麗で珍しいものが大好きだ。
森で光る石を見つければ宝物のように喜び、変わった形の花を見つければ一日中その話をする。
彼女の行動原理は、いつだって「楽しい」か「面白そう」か、その一点に集約される。
ならば、提示すべきは「危険」というマイナスの情報ではない。「楽しい」というプラスの情報で、彼女の進行ルートを上書きするんだ。
(……それだ!)
『残り、10秒』
カイルの脳内に、一つのアルゴリズムが閃いた。
それは、あまりにも稚拙で、子供騙しで、しかし、今の彼女に最も有効であろう、一つの輝かしい「嘘」。
もう、迷っている時間はない。この嘘に、彼女の命だけでなく、自分の未来も全て賭ける。
『マリア、待って!』
カイルは、喉が張り裂けんばかりの、自分でも驚くほど大きな声で叫んだ。
その声は、もはや六歳の子供のものではなかった。
切迫感と、有無を言わせぬほどの必死さが込められていた。
崖の縁まであと数歩というところで、マリアの足がピタリと止まる。
彼女は、カイルのただならぬ様子に驚いて、不思議そうに振り返った。
「どうしたの、カイル? そんなに大きな声出して」
カイルは、ぜえぜえと息を切らしながらも、人生最高の演技を開始した。
彼は、崖とは全く逆の方向にある、鬱蒼とした茂みを力いっぱい指差す。
その目は、まるで信じられないものを見たかのように大きく見開かれ、その表情は、恐怖を隠蔽した純粋な驚きと興奮に染め上げられていた。
『あっちの茂みに、すっごく綺麗な金色の蝶が飛んでいったんだ! 見てみたいと思わないかい?』
もちろん、そんな蝶はどこにもいない。完全な、でっち上げだ。
だが、いつもは冷静沈着なカイルが見せる必死の形相と、「金色の蝶」という、子供の心を鷲掴みにする魔法のような単語の組み合わせは、絶大な効果を発揮した。
マリアの翠色の瞳が、カッと見開かれる。
彼女の頭の中から、崖の景色も、カイルの誕生日も、何もかもが吹き飛んでしまった。
今、彼女の世界に存在するのは、金色に輝く幻の蝶、ただ一つ。
『本当!? 見てみたい!』
案の定、というべきか。
マリアは目をダイヤモンドのように輝かせ、崖のことなどすっかり忘れて、カイルが指差した茂みへと、全速力で駆け出した。単純で、素直で、だからこそ、カイルが守りたいと願う少女。
(よし、かかった!)
カイルの胸に、一瞬だけ安堵がよぎる。
だが、まだだ。
自分も危険領域から離脱しなければ。
彼は、もつれる足を叱咤しながら、すぐに彼女の後を追って走り出した。
崖から数メートル離れた、その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴッ―――!!!
彼の背後で、まるで巨大な獣が地の底から咆哮するかのような、凄まじい轟音が鳴り響いた。
大地が、生き物のように激しく揺れる。立っていることなどできず、カイルとマリアは、まるで小さな葉のように地面に叩きつけられた。
何が起きたのか分からず、へたり込んだまま振り返る。
そして、二人は信じられない光景を目の当たりにした。
先ほどまでマリアが立とうとしていた崖の上が、ごっそりと、まるで巨人にスプーンで抉り取られたかのように崩れ落ち、土と岩の滝となって谷底へとなだれ込んでいたのだ。
舞い上がる土煙が、太陽の光を遮り、一帯を薄暗く染め上げる。
何が起きたか分からず、ただ呆然と、今や虚空となった空間を見つめるマリア。
彼女の命が、ほんの数秒前まで、あの土煙の中に消え去るところだったという事実を、カイルだけが知っていた。
彼の小さな体は、恐怖と安堵で、まだ小刻みに震えていた。