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プロローグ バグのない世界で

――父上、お願いがあります。僕は、王立学園へ行きたいのです。


静まり返った書斎に、まだ幼さの残る、しかし凛とした声が響いた。

重厚なマホガニーの机に置かれた燭台の炎が、壁一面を埋め尽くす革張りの背表紙を鈍く照らし出している。暖炉で静かに爆ぜる薪の音だけが、室内の沈黙をかろうじて繋ぎとめていた。


屈強な体躯を持つヴァルモット辺境伯、レオン・ヴァルモットは、目の前に立つ我が子を驚きの目で見つめていた。年の頃は、まだ十歳になったばかり。貴族の子息としてはまだあどけなさが残るはずの三男、カイル・ヴァルモット。しかし、その蒼い瞳には、年齢不相応の、まるで未来の深淵までも見通すかのような、静かで深い光が宿っていた。


辺境の盾たるヴァルモット家の者が、なぜ今、王都へ? 歴戦の名将であるレオンの脳裏に、いくつもの疑問が浮かび上がる。政争渦巻く王都は、この子のような純粋な魂が足を踏み入れるべき場所ではない。そう諭そうと口を開きかけた父に、少年は静かに、だが世界の真理を告げるかのように、確信を持って言い放った。


『このままでは、ヴァルモット家は滅びます』


その一言が、全ての始まりだった――。


◇◇◇


……ピ、ピ、ピ、と無機質な電子音が、まるで遠い世界の時報のように響いている。


(……ああ、またこの天井か)


佐藤翔太、享年30。IT企業のチーフプログラマーである彼は、薄れゆく意識の中で自嘲気味に呟いた。

視界に映るのは、シミの浮いた無機質なオフィスの天井。視界の端には、カフェインと糖分だけで彼の生命を繋ぎとめてきたエナジードリンクの空き缶が、まるで墓標のように小さな山を築いている。


目の前のモニターには、彼が最後の最後まで格闘していたであろう無数のコードが、難解な現代アートのように並んでいた。

彼の人生は、言ってみればバグとの終わりなき戦争だった。

クライアントの気まぐれによる「仕様変更」という名の理不尽な奇襲。絶対に遵守すべき「デッドライン」という名の、決して後退を許されない最終防衛線。その全てを、彼は最前線で乗り越えてきたという自負がある。


プロジェクトを成功に導き、仲間からの信頼も厚かった。だが、その代償として彼の私生活はすり減り、気づけば三十路。世間一般で言うところの「幸せ」からは、随分と遠い場所を歩いているようだった。


そんな彼の唯一の癒やしであり、人生の彩りであったのが、週末に没頭する三つの趣味だった。


一つは、古今東西の「ゲーム」。最新のフルダイブ型VRMMOで剣を振るい、ファンタジー世界の英雄になることもあれば、ブラウン管テレビに繋いだ旧世代機で、ドット絵の勇者の旅に童心を取り戻すこともあった。

仮想の世界は、いつだって彼の心を自由にしてくれた。


二つ目は、都会の喧騒を離れて自然に分け入る「ソロキャンプ」。自ら薪を割り、火をおこし、ただ静かに揺らめく炎を見つめる。風が木々を揺らす音、遠くで聞こえる川のせせらぎ、満点の星空の下で飲むホットコーヒー。

デジタルな仕事で酷使した脳を、雄大な自然が優しく解きほぐしてくれる、かけがえのない時間だった。


そして三つ目は、あらゆる道具を自作・改造する「DIY」。

キャンプで使うためのナイフを鉄から打ち出し、使いにくい市販のツールを自分好みに改造し、果ては自宅のPCデスクまで自作してしまう。

自分の手で、工夫と論理で、無から有を生み出す。

その過程と結果が、たまらなく好きだった。


ゲーム、キャンプ、DIY。一見バラバラに見えるこれらの趣味には、一つの共通点があった。

それは、「論理と工夫が、必ず正しい結果となって返ってくる」ということ。

バグだらけで、理不尽な仕様変更がまかり通る現実世界とは違う。そこには、裏切りのない確かな手応えがあった。


(そういや、昔デバッグしたな……『アナザー・ガイア』)


朦朧とする意識の中、ふと、プログラマー人生で最も過酷だったプロジェクトを思い出し、乾いた苦笑が漏れる。

『アナザー・ガイア』。美しいグラフィックと壮大な世界観、豪華声優陣を起用した超大作MMORPG。リリース前の期待値は最高潮だったが、その実態は、バグと理不尽で塗り固められた地獄だった。


例えば、序盤の村で出会う心優しい聖騎士の女性。彼女を仲間にするための選択肢で「君の力を信じている」を選ぶと、「私の覚悟を侮辱したな!」と逆ギレされ、二度と仲間にできないどころか、終盤で敵として登場するようになる。正解は「……(黙って頷く)」だ。わかるわけがない。


例えば、困っている村人。「喉が渇いて動けない」という老婆に「きれいな水」を渡すと、実は彼女は敵国の高位な魔術師で、解毒薬を与えたことになり、その国の戦力が大幅にアップ。

翌日には自国に宣戦布告される。見て見ぬふりをするのが正解ルートだった。優しさは罪なのだ、あの世界では。


セーブポイントは主要都市にしかなく、ダンジョンには即死トラップが満載。宝箱を開ければ高確率でミミック、ではなく問答無用でパーティを全滅させる呪いをかけてくる悪霊が飛び出してくる。

ユーザーからは「鬼畜ゲー」「理不尽の極み」「開発者は人の心がない」と、あらゆる罵詈雑言を浴びせられ、翔太たちプログラマーは、来る日も来る日もその“デバッグ”に追われた。


(本当、バグだらけの、救いのない世界だったな……)


視界が、まるで古いテレビの電源が落ちるように、ゆっくりと霞んでいく。ああ、もうダメらしい。指一本動かす力も残っていない。猛烈な眠気が、彼を深い場所へと引きずり込んでいく。

キーボードに突っ伏しながら、彼は最後の力を振り絞って、叶うはずもない願いを呟いた。


『ああ……せめて……バグのない、平穏な世界で……のんびり、キャンプでもしたかった……なぁ……』


それが、佐藤翔太の最後の言葉となった。

そして、彼の意識は、ぷつりと音を立てて途絶えた。


次に彼を待っていたのが、前世のささやかな願いとは真逆の、セーブもロードも許されない、デバッグ不可能で理不尽極まりない世界だとは、まだ知る由もなかった。

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