訳あり公女の私が見た、美しき恋物語
初めまして、私の名前はソフィア・ティアルジと申します。
私の父は公爵家の当主、つまり私は公爵令嬢というものなのですが……。
実はかなりの訳ありでして。それも異世界からやってきた転生少女というものなのです!
とはいっても、特別な冒険をしたわけでもなく、ただ前世の記憶があるというだけ。
私はソフィアとして、何不自由のない十七年間を過ごしてまいりました。
あえて一つだけ言える特技があるとすれば──幽霊が見えること、でしょうか。
実は前世で憧れていたのです。チート能力? 無双能力? まさかの、私に与えられた能力は幽霊が見える霊感持ち!
いや、正直「は?」と思いましたよ。
ですが与えられた以上、諦めるしかありません。
ただ幽霊が見えるだけの私が、何か人の役に立てることはあるのでしょうか――。
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「国王万歳! 王妃万歳!」
今日は父に伴われ、隣国ボルジアナ王国の婚礼パーティーに出席していた。
天井の高い大広間には、金色の燭台と色鮮やかな花々が並び、煌びやかなドレスと軍服の海が揺れている。
舞台の中央に立つのは、まるで彫刻のように整った顔立ちのイシス国王。その隣には、女神のような笑みを浮かべる王妃。
二人は今日が初対面だと聞いていたが、その姿からは微塵もぎこちなさを感じさせない。
長年妻を迎えていなかったイシス国王だったが、イシス国王の父である前国王様がお亡くなりになり、後を継ぐにあたり仕方なく妻を迎えることになったという。
「なぁにが万歳よ! このアホ! 浮気者!」
祝福の声に紛れて、不穏な罵声が耳に届いた。
振り向くと、そこには長く伸びた白がかった金髪を揺らし、水色の瞳を持つ可憐な少女が立っていた。
……立っていた、のだが。
(あれ……誰も見てない?)
これだけ大きな声を上げて王族を侮辱しているのに、周囲の人々はまるで存在しないかのように振る舞っている。
胸の奥がひやりと冷えた。
私にしか見えない存在──つまり、この少女は。
「あの、どうかされたのですか?」
きっと普段の私なら話しかけることはなかっただろう。
だけど今は外野の声が煩い。これなら私が見えないモノに話しかけたとしても、誰も気が付かないだろう。
そう、彼女はこの世のものではない。
私にだけ見える存在、つまりは幽霊。
私の言葉に、少女の視線がこちらに吸い寄せられるようにして……バッチリと目が合った。
「……この! 最低馬鹿王子ー!」
(なっ……無視!?)
しっかりと目が合ったにも関わらず、少女は私を無視して、また国王へと怒声を浴びせた。
ああ、そうか。この子は死んでいるから自分に話しかけて居るだなんてちっとも思っていないんだわ。
「貴女に言っています。クリーム色のロングヘアに、水色の瞳。ぱっつん前髪の似合う、貴女ですよ」
私は目に映った情報のままに、彼女の特徴を上げる。
少女は瞬きを二度、まるで自分のことだとは信じられないというように小さく首を傾げ──そして、はっと息を呑んだ。
アクアマリンのような水色の瞳が、真っ直ぐこちらを射抜く。
「……え?」
「あ、やっと気づいてくれました? こんにちは」
「はぁ? なによ、あなた。わたしのことが見えるというの?」
「ええ、まあ。ちょっと訳ありでして……」
「ぎゃぁっ! 返事した!? 気持ち悪いっ!」
「酷い言い方ですね。今時、幽霊と会話できても誰も驚かないですよ」
「いや、普通は驚くでしょ……?」
まるで本当に幽霊を見たかのような反応。いや、実際見られているのは彼女なのだが。
しかし数度のやり取りのうちに、彼女の警戒は少しずつほどけていった。段々と姿のまま、年頃の少女らしい柔らかな笑みを浮かべるようになった。
「人と会話をするのなんて……いつぶりかしら。ふふっ、なんだか嬉しいわ。ねぇ、もっとお話しましょ?」
ふわりと風もないのに彼女の長い髪が微かに揺れ、私の目と鼻の先まで近づいてくる。
透き通るような白い肌と、どこか儚げな香り。距離が近づくほど、その美しさに息が詰まりそうになる。
「もちろんです」
こんなにも愛らしい少女に頼まれて、首を横に振れる人間がいるだろうか。
少なくとも私は、彼女の願いにただ静かに頷くことしかできなかった。
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「来て! こっちよ、わたしのお気に入りの場所に案内してあげるわ!」
ぱっと花が開くように笑うその顔はあまりにも愛らしい。
呼びかけと同時に、彼女は軽やかに方向を変え、裾をひらりと翻した。
幽霊が見えるようになって、一番驚いたことは幽霊にはちゃんと足があるということ。
生身の人間とほとんど変わらない姿だから、幽霊だと気づくまでやけに時間がかかるのが面倒なところでもある。
少女は色白で長く伸びた足を、とん、とん、と小気味よく弾ませるように走っていく。
その足取りには重みがなく、地面に触れているはずなのに土や石を踏む感触がまるで伝わってこない。
きっと、彼女たちの世界にはそんな現実味のある感触など存在しないのだろう。
石畳の回廊を抜け、陽の光が差し込む先へ進む。
やがて彼女は立ち止まり、両腕を広げてくるりと回った。
「ここよ!」
そこは王宮の片隅に広がる、見事な薔薇園だった。
「改めましてご挨拶させていただきますわ。ごきげんよう、わたしはロゼリーヌ公爵家のフリル・ロゼリーヌですわ! これでもわたし、このロミオード王国にたった一人の公女なのよ!」
フリルと名乗った少女は、リボンとレースがふんだんに使われた水色のドレスの裾をくいっと掴むと、手慣れたように礼を取って見せた。
洗礼された動きは、まさに淑女そのもの。
その美しさは、先ほどまで王族に暴言を吐いていたとはとても思えなかった。
「ご丁寧にありがとうございます、公女様。私はシルヴィア帝国から参りました、ソフィア・ティアルジと申します。奇遇ですね、私も公爵家の娘なんですよ」
「あら、そうなの? それならわたしを公女と呼ばないで! どちらのことを言っているのか分からなくなるわ。そうね……わたしのことはフリルと呼んでちょうだい!」
「分かりました、フリル様」
表情がコロコロ変わる人だと思った。
可愛らしくて、愛らしいお嬢様。
楽しげに「ふふっ」と笑う姿を見ていると、彼女が幽霊であることをうっかり忘れてしまいそうになる。
「フリル様、一つ質問をしてもよろしいでしょうか?」
私は先ほどから胸に引っかかっている疑問の答えが知りたかった。
彼女についてきたのも、その答えを見つけたかったから。
その疑問とは、『こんなに愛らしい子が、どうしてあんなにも王族に向かってあんな真似をしたのか』ということ。
「もちろんよ! 何でも聞いてちょうだい。わたしは今、気分が良いからなんだって答えてあげるわ」
満面の笑みを浮かべて、フリル様はそう快諾してくれた。
「先ほどイシス国王に罵声を浴びせていたのは一体どうしてですか?」
私の話を聞き終え、フリル様はしばらく考え込んだ後、口を開いた。
「イースは……イシスは、わたしの婚約者なの。まぁ、正しくは元になるけれど」
彼女の言葉に、私はすっと納得した。
質問をした時点で、ある程度の予想はついていた。
先ほど彼女がイシス国王に向かって『浮気者』と叫んでいたことから、愛人や側室の一人なのかもしれないと考えていた。
しかし、彼女の身に着けているものや滲み出る高貴なオーラを見れば、すぐにそれが間違いであったと気づいた。
――イシス国王はかつて現王妃とは別の、一人の婚約者が居たという。
しかしその婚約者は不運にも突然死し、イシス国王はそれが気がかりだったのか、皇太子となった後も長く妻を迎えていなかったと。
その話は私の住むシルヴィア王国にまで噂が届いていた。
だからフリル様がイシス国王の元婚約者だということは、何となく予想がついていた。
だから、私が知りたいことはそこではない。
なぜ、亡くなった彼女がなぜ現世にとどまり、かつての婚約者であるイシス国王に対してあのような蔑む言葉を投げかけていたのか――ということだ。
「まさか、婚約破棄をするために国王に口封じとして殺されたのですか?」
「はあ? 私はただの事故死よ」
「それならどうしてあんな真似を?」
幽霊は普通、自分を苦しめた相手、特に死に追いやった者に強く執着するものと聞く。
だから、彼女が国王に罵声を浴びせていたのも、憎しみゆえだと思い込んでいた。
しかし、フリル様の口から出た言葉は、私の想像を遥かに超えていた。
「そんなの、彼を愛しているからに決まっているでしょ!!」
右手を胸に当て、真剣な眼差しでそう語るフリル様。
その姿は、先程までのわがままお嬢様の印象を一瞬で覆させた。
「……愛しているから?」
彼女はゆっくりと、これまでの経緯を詳細に話し始めた。
彼女が命を落とした日のこと。
フリル様は数人の護衛と共に、お母様とお父様の結婚記念日を祝うため町へ出かけたという。
普段は公爵邸の使用人が選んでいた贈り物も、この日は自分で選びたかったのだと。なんとも年頃の少女らしい、可愛らしい考えだ。
まさかその選択が自分の身を亡ぼすことになるだなんて思いもしないだろう、可愛らしい幼いお嬢様の考え。
帰路、彼女が乗っていた馬車を引く馬が突然暴れ出し、崖から転落。
それがフリル様の死因だと、彼女は自ら語ってくれた。
「もちろん、彼は王子だもの。いずれどこの誰かも分からない女と結婚をすることになることは分かっていわ。でも、それでも悲しいじゃない。私が生きていたら、彼の横には私が居たはずなのに……」
俯きながらも静かにそう語る彼女の声には、深い悲しみがにじんでいた。
今にも泣きそうな、とても辛そうな顔。
愛していた婚約者と死別。
その心残りから、現世へと留まってしまったという。
「まだ、愛しているとも伝えていなかったのに……」
王子と公女の結婚。恐らく、政略結婚だろう。
よくある、婚約を結んだ後にお互いへの恋心が生まれたという形か……。
フリル様はいつも自分に愛を伝えてくれたイシス様に、自分も『あなたを愛している』と伝えることが出来ないまま死んだことが一番の心残りだと語った。
「……その願い、私が叶えましょうか?」
「えっ?」
フリル様は目をぱちぱちとさせて、何が何だか分かっていないといった顔をした。
「貴女から直接イシス様に伝えることはできませんが、私がイシス様に間接的に伝えることはできます」
簡単に言って見せたが、改めて考えると私には大きなリスクが伴う。
王子に魔女の疑いをかけられるかもしれない。
王族を侮辱した罪で処罰されるかもしれない。
だが、そんなことはどうでもよく思えるほどに、フリル様の王子――いや、今の国王陛下に対する想いに心を動かされていた自分が居たのだ。
「そんな……本当に、いいの?」
大粒の涙を目に浮かべた彼女に、私はやさしく微笑んだ。
「もちろんです。私にお任せ下さい、フリル様」
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「お初にお目にかかります、国王陛下。私はシルヴィア帝国から参りましたソフィア・ティアルジと申します」
「ソフィア嬢、遥々我が国まで来てくれ感謝する。それで、君の父上である公爵でもなく、公女からの要件とは一体?」
他国の令嬢からの申し出を快く受け入れてくれたところを見ると、彼はかなり律儀な性格のようだ。
フリル様の言っていた、優しい人というのも何となく分かるような気がする。
私とイシス様が話している間。少し離れているところから、フリル様はじっとこちらを見つめていた。
「フリル様が陛下にお伝えしたいことがあるそうです。私はそれを伝えるために、陛下にご連絡を差し上げました」
簡潔に物事を話すと、イシス様は「……は?」と声をこぼした。
「馬鹿げたことを。僕をからかっているのか? どこで彼女の名前を知ったのか知らないが、他国の公女とはいえ彼女を冒涜することは許されない」
私を睨みつける彼の視線は鋭い。
流石一国の国王となった人、その圧は中々なものだった。
「彼女はもう、この世にはいないんだ」
「はい、知っています。ですが……彼女は今、まさにあなたさまの目の前に居ますよ」
私は彼のすぐ隣を指差した。正しくは、彼の横に立つフリル様を。
「そこです、そこ」
半信半疑の様子で私の指先を見やるイシス様。
突然の視線を浴びたフリル様は顔を真っ赤に染め、恥ずかしそうに俯いた。
もちろん、彼にはフリル様の姿は見えない。
ただ私の指先に視線を向けているだけだった。
「……僕たちが一年記念日に共に過ごした場所は我が王国一の展望台だった。そこで食べた食事のメイン料理を答えろ」
彼は私を疑いのまなざし。アハハ、完全に信じていないわね。
他国から来た公女の私をすぐに嘘だと突き放すわけにもいかず建前上付き合ってくれている……といった感じか。
彼からの質問は、第三者の私が当然わかるわけもなく。私は当人であるフリル様に視線を向けた。
「は……? 何言ってるの?! 私たちが一年記念日に過ごしたのはあなたの王宮じゃない! 信じられないわ! どこの誰の話をしているのよ!」
色白の肌を真っ赤にして、ぷんぷんと効果音が付きそうなほど愛らしく怒るフリル様。
彼女は握りこぶしを作り、イシス様をポカポカと殴る。
けれど霊体である彼女の手は国王にあたることなく、彼の身体をすり抜けていくばかり。
なるほど、イシス様は私にゆさぶりをかけてきたのね? さすがは若くして国王になるだけのことはある。
戦略家で、隙がないのね。
そんな彼も、フリル様の前ではまた違った姿を見せていたのかしら。
「……えっと」
「どうした? 正直に申してみろ」
あまりの暴虐ぶりにそのまま伝えても良いのかと迷ったが、イシス様のあまりの迫力に圧倒され、私は恐る恐る口を開いた。
「“は……? 何言ってるの?! 私たちが一年記念日に過ごしたのはあなたの王宮じゃない! 信じられないわ! どこの誰の話をしているのよ!” ――と、フリル様は申しております」
フリル様の口調や声のトーンまで真似て伝えると、彼はじっと私を見つめ、震える声で言った。
「仕草は、仕草はどうしている」
「え? ええっと、そうですね……」
どうしてそこまで追及してくるのか、こんなことで何が分かるというのか。そうは思ったものの、きっと私には分からないことなのだろうと思い、私は彼に聞かれるままに答える。
「陛下を叩いている……というより、殴っていますね。それも、かなり強めに」
私の言葉を聞いたイシス様は暫く黙った後、小刻みに肩を震わせ、俯いてしまった。
「ははっ……そうか、やはり怒っているか」
肩が揺れていることから、一瞬笑っているのかとでも思ったが、彼が次に顔を上げた時。それは間違っていたということが分かった。
「本当に彼女がここにいるのか」
静かに涙を流し、そう呟いたイシス様。
「イース……」
イース……。イシス様の愛称だろうか。
次期国王であり、皇太子である彼を唯一愛称で呼ぶことができたのは両親の前国王王妃を除いて、婚約者のフリル様だけだったのかもしれない。
涙を流すイシス様の姿を見て、フリル様もまた、今にも泣きだしそうな表情を浮かべている。
私はフリル様の代理として、イシス様と話を続けた。
「あの世で何か苦労をすることは無かったか?」
「“わたしは死んだ後も、ずっとここに居たからあの世のことは分からないわ”」
「そうか。ならば、君はもう知っているだろうな。僕が君以外の人と結婚したことを」
先ほどまで即答していたフリル様は、「結婚」という単語に反応したのか、言葉に詰まり、口を紡いだ。
「……彼女はなんと?」
フリル様からの言葉がなければ、私は話すことができない。
不思議そうに私を見つめるイシス様に私は「少し待ってくださいね」と告げ、視線をフリル様に戻した。
すると、彼女は小さな口を開き、震える声で告げた。
……私はその内容を、本当に彼に伝えてしまったも良いのかと迷った。
「フリル様。本当にそれを伝えてもよろしいのですか?」
私の問いに、フリル様は小さく頷いた。
「……分かりました」
私は、ただの第三者。
彼女の想いを、彼に伝える――いわば伝書鳩のような存在にすぎない。
「“私のことはすぐに忘れて、幸せになってください。”……フリル様は、そう仰られています」
驚いた表情で私を見つめるイシス様。
「本当に、彼女がそう言ったのか?」
「はい。私は、そのまま伝えております」
「そうか……」
イシス様は途端に口を歪め、フリル様の名前を呼びながら涙を流した。
フリル様は静かに涙を流すイシス様に歩み寄り、彼を優しく抱きしめる。
幽霊である彼女が目に見える私は、フリル様の背中に隠れて、イシス様の姿がふっと見えなくなった。
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「本当にありがとう、シルヴィア王国の公女よ。君には感謝してもしきれない。実は、今でも少し半信半疑なんだ。気を悪くしてしまったなら謝罪する。しかし、僕は彼女を想うあまりに頭がおかしくなったのではないかと思うほどに今回の出来事は非現実的なことすぎた」
イシス様はそう告げると、優しく微笑んだ。
さっきまで流していた涙のせいか、彼の目元はまだ赤く腫れている。
「お気になさらないでください。陛下のお役に立てたのなら何よりです。この度は、貴重なお時間をいただきありがとうございました」
若くしてこの大国の国王陛下となったイシス様は、とても立派で誠実な人物だった。
彼はきっと、心の奥底に亡きフリル様を想いながらも、新たに妻となった王妃様のことも大切にしていくのだろう。
これから先、彼はフリル様の言葉を胸に前を向いて強く、立派に歩んでいくのだろう。
まあ……彼と違って、彼女はまだ難しいようね。
「よく、頑張りましたね」
続けて、「フリル様は立派です」と言い、彼女の小さな頭に手をかざした。
イシス様は現在25歳。しかし、フリル様の姿はまだ幼い、ほんの子供だった。
彼女の話によれば二人は同じ年だったという。つまり、フリル様はたった一人で、数年間もの間――もしかすると、生きていた時よりも長い時間、彼を傍で見守り続けていたのかもしれない。
「ぐすっ……嫌よ、嫌に決まってるじゃない……!」
イシス様が部屋を出て行った瞬間、フリル様はこらえていた涙を堰を切ったように流し始めた。
零れ落ちる涙の量は、彼女がどれほど強く我慢していたのかを物語っていた。
「大好きだったのよ、愛していたの!」
どれほど彼女が叫んだところで、その声は想い人に届くことはない。
彼女が彼に触れようとしたところで、その手はすり抜けていくだけだった。
「どうしてそのことを陛下に伝えなかったのですか?」
それほどまでに愛しているのなら、言葉で引き留めてしまえば良かったのに。
『私のことだけをずっと想っていて。誰とも結婚なんてしないで』
もしそう伝えていたなら、イシス様はきっと二つ返事で承諾しただろう。
たとえ、国王という身分を捨てることになっても。
フリル様を今でも愛しているイシス様ならやりかねない。
それほどまでに、愛とは恐ろしくも強い力を持つものなのだから。
「……彼の邪魔になるようなことはしたくない。愛する人の足枷になんて、なりたくないわ」
フリル様は、その姿から出ているとは到底思えないほど落ち着いた声色で話し始めた。
「それに、私は私の生き様を悲劇になんてしてほしくない。素敵な思い出として、美しいまま。彼の中でずっと……。それなら私は、死んでも尚、その記憶だけで一生生きていけるから」
目に大粒の涙を溜めて、必死にそう話すフリル様。
好きで好きで仕方ない。ずっと誰の物にもなってほしくない。この世の誰よりも愛する人。誰にも渡したくない唯一無二の存在。
その人が、自分ではない誰かのものになる。
彼女の身体は止まったままでも、その精神力はこの数年で計り知れないほど強くなっていたのだろう。
愛する人が、目の前で他の女性と手を取り合う様子をただ見つめる苦しみ。
その痛みは、私には到底理解できない。
彼女にしか分からない、唯一無二の悲しみなのだから。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「イースったら、あんなに幸せそうな顔しちゃって……」
大きな馬車に並んで乗り、国民たちの祝福を浴びながら、笑顔で手を振るボルジアナ王国の国王と王妃。
「彼女はきっとこれから、傷ついたイースの心を優しく癒してくれるのでしょうね」
静かな口調でそう語るフリル様に、私はただ視線を向けて話を聞いた。
「生きている間、わたしはとても幸せだった。だからこそ辛いの。幸せであればあるほど、死ぬのが怖くってたまらない。どうして死ななきゃいけなかったの? わたしだって、わたしだって彼とずっと一緒に居たかったのに」
そう語る彼女は、空から降り注ぐ祝福の花にそっと手を差し伸べた。
だがその花は、彼女の小さな手をすり抜けていく。
今日は長く続いた結婚式の最終日。
このパレードが終われば、私は自国に戻り、もう二度とこの地を訪れることはないだろう。
イシス国王の傍らに立つ幽霊の彼女とも、今日でお別れだ。
「わたしはずっと12歳のままなのに。イースはもう、25歳になってしまったのね」
普段の鈴の音のように明るい声色とは異なり、どこか寂しげで静かな声だった。
私の横に立つ彼女は、楽しげに笑うイシス様と、新たに王妃となった女性の姿をただ茫然と見つめている。
「ねえ、ソフィア様。もし私が大人になれていて、あの女性が身に着けている美しい純白のウェディングドレスを着て、王妃のみ着用を許されているあのティアラをつけていたら。私も、あの方のように美しくなれていたかしら?」
王妃様の大人びた純白のデザインのドレスと、自身の身に着けた愛らしくも、少し子供らしいドレスを比べ、気にしているのだろうか。
フリル様は自身のドレスのスカートをそっと掴み、私に問いかけた。
「ええ、それはもう眩しいほどにお美しいお姿だったでしょうね」
そう答えると、彼女は嬉しそうに頬を染めた。
「今のわたしの姿をイースが見たら、わたしの履くヒールの低い靴を子供っぽいと思うかしら? リボンとフリルが沢山使われたこのドレスはわたしの一番のお気に入りなの。だって、彼がわたしの誕生日に贈ってくれたものだから……。でも、次に会う時は少し大人びた物を着ていないとね」
普段は自信満々な彼女が、謙遜するように呟くことに驚いた。
いつものように釣り上がっていた眉は困ったように下がっている。
それでも必死に笑顔を作ろうとする彼女の姿は、私の胸を締めつけた。
「その可愛らしいドレスは、愛らしいフリル様によくお似合いですよ」
彼女を慰めようとして出た言葉ではない。
だって、フリル様には本当にその服装が似合っていたから。
可愛らしい容姿をした彼女に同じく可愛らしい服装は良く似合っていた。きっとイシス様もそう思い、彼女に贈ったのだろう。
「わたしも、彼のように前に進まないとね」
そう言い、彼女はふわりと浮かび上がって私の目の前に立った。
「……もう、行かれてしまうのですか?」
幽霊である彼女の言葉が何を意味しているのか。私はよく理解していた。
「いつまでもこうしていられないもの。ソフィア様、貴女に出会えて良かった。何年も誰にも見つけてもらえない日々を送っていた中で、貴女がわたしに話しかけてくれた時。わたし、本当に嬉しかったのよ!」
「フリル様……」
「生まれ変わったら、今度こそわたしとお友達になってくださるかしら」
公爵令嬢という高貴な身分な彼女が誰かに物事を頼むことは少ないのだろう。
不慣れそうに言うフリル様は、やはり愛らしい人だ。
「もちろんです。必ず、またお友達になりましょう。今度は、あなたの涙ではなく、輝く笑顔を見せてくださいね」
私の言葉に、彼女は小さく笑いながらも、冗談めかした様子で「何言ってるのよ!」と叫ぶと、人差し指を私の目の前に突き出した。
「レディは泣いたりしないのよ!」
その笑顔には、大粒の涙が光っていた。
その一瞬の笑顔は、私がこれまでに見た中で最も美しいものだった。
ゆっくりと彼女の姿は透けていき、やがて眩い光と共に消えていった。
きっと、彼女は成仏できたのだろう。
一人の男性を心から愛し、死んでも尚想い続け、ずっと傍に居た。
私が隣国で出会った一人の公女様は、
とても美しく、儚く、そして淡く切ない恋心を抱き続けた女性だった。
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