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第三七章 喧騒の学園祭(下)

台湾出身の陸坡と申します。


發見してみると、以前使用していた翻訳AIは、台湾の文章を日本語に翻訳する際に多くの誤りが生じていました。現在は新しいバージョンの翻訳AIを使用し、誤訳となる文章は減っています。時間を見つけて、あらためて小説を翻訳し直すかもしれません。申し訳ありません。


この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。

一日は、実に楽しく過ぎ去ったはずだった。


野球部の出し物である「ストラックアウト」は大盛況で幕を閉じ、景品の「手作り野球ペンギンマスコット」も好評だった。 南極も自分のエナメルバッグに一つぶら下げている。 もっとも、ペンギンマニアの彼から見れば、「家政部が作ったこのペンギン、一体なんの種類やねん?」と首を傾げたくなる造形ではあったが。 それでも、普段は地味な家政部が、野球部とのコラボのおかげでマダムたちに手工芸品を爆買いしてもらい、感謝されていたのは良いことだ。


だが、そんな祭りの熱気も、今は遠い。


「なあヨウダ、後で一緒に練習せえへん?」


寮の部屋。 南極はベッドに寝転がっている友達ヨウダに声をかけた。 しかし、ヨウダは天井をぼんやりと見つめたまま、反応しない。


「…………」


あの日、二年生の先輩たちが試合から帰ってきて以来、ヨウダはずっと塞ぎ込んでいる。 店番の片付けをしている時も、みんなで談笑している時も、どこか上の空だ。 特に、エースの藤田先輩や、捕手の佐久間先輩と話をした後から、その傾向は顕著だった。


南極には、ヨウダがなぜそうなってしまったのか、なんとなく心当たりがあった。 だが、それを口にしていいものか、迷っていた。


最近の部活での出来事だ。 投球練習の球拾いをしていた時、同じく投手志望の**宇治川ウジガワ**が、ボソリと言ってきたことがある。


『お前、ヨウダと少し距離置いた方がええんちゃうか』


『は? なんで?』


南極はきょとんとした。 自分とヨウダは同じ寮のルームメイトであり、共に「異邦人よそもの」のような立場で、同じ目標を持つ親友だ。 なぜ距離を置く必要があるのか、理解できなかった。


宇治川は淡々と言った。


『一年生の間はええかもしれん。せやけど、俺らが二年になったら……お前と、俺と、ヨウダ。この中の誰か一人が、藤田さんの跡を継いで阪海工のエースにならなあかんねんぞ』


『……うん』


『その時、お前らが仲良すぎると……競争する上で絶対に問題が起きる』


『まさか〜! 俺らなら大丈夫やって!』


南極はいつものように能天気に笑った。 だが宇治川は、呆れたような、それでいて哀れむような目でこちらを見た。


『お前、もっとよう考えろよ。いつまでも「親友」ってだけの関係で競争できるわけないやろ』


『うーん……宇治川のその口調、なんか片岡コーチみたいやなぁ』


『はぁ……お前な』


宇治川はため息をつくと、足元に落ちていたボールを拾い上げ、ポイッと南極に投げ渡した。


『わっ、とと!』


慌てて捕球する南極を見ながら、宇治川はさらに言葉を重ねた。


『南極、お前いまだにヨウダに頼り切りやろ? 考えたことあるか? もしこの先、ヨウダがエースになれんで……お前がエースになったとしたら』


宇治川の目が、スッと細められた。


『……ヨウダは本当に、嫉妬せえへんと思うか?』


『…………』


『あのマウンドはな、ヨウダが一番欲しがってる場所なんやぞ。 クラスメイトとしても、チームメイトとしても……友達としても。俺は、お前らの友情を壊したくないから忠告してやってるんや』


宇治川の言葉は、冷たいようでいて、核心を突いていた。 ボールを握りしめたまま、南極は言葉を失った。


(ヨウダに依存しすぎてる……か)


その指摘は、宇治川だけではない。 片岡コーチや白井監督、そして野球とは無縁のはずの**青木陽奈アオキ・ヒナ**にまで言われたことだった。


『ねえ、南極くん。君ってほんと、いっつもヨウダくんにベッタリだよね』


陽奈は悪戯っぽく笑いながら、ペンの先で南極の頬をつついた。


『南極くんがヨウダくんのこと大好きなのは分かるけどさぁ』


彼女の声色が、ふと真面目なトーンに変わる。


『もし……ヨウダくん無しじゃダメになっちゃったり、あるいはヨウダくんの方が、君に同じくらいの執着を持ってなかったりしたら……』


彼女の瞳の奥に、寂しげな色が揺れた気がした。


『その時、一番辛い思いをするのは君だよ?』


それは、単なる説教には聞こえなかった。 まるで彼女自身が、かつて同じような経験をして傷ついたことがあるような——そんな「経験者」としての警告のように、南極の胸に刺さっていた。



** ** ** **



「試合に負けたんは、しゃーないやろ」


南極はそう言うと、ズカズカとヨウダのベッドに這い上がってきた。


「……まあ、そう言われればそうなんだけど」


ヨウダは顔をしかめた。 視界いっぱいに広がるのは、天井ではなく、南極のデカい顔。 至近距離で見下ろされている状況は、正直言って暑苦しいし、ちょっと気持ち悪い。


だが、ヨウダは抵抗する気力もなく、ただ眉間に皺を寄せた。 まるで、目の前の南極の顔が、解読不能な数学の難問であるかのように。


近畿大会の行方は、高校野球オタクやネットの実況民たちが最も期待していた展開へと収束しつつあった。


天才・**壬生公平ミブ・コウヘイ**を擁する名門・龍谷大平安が順当に二連勝。 夏の王者・京都国際と再び激突することが決まったのだ。 京都大会の決勝カードの再現となるこの一戦。 リベンジか、返り討ちか。近畿の野球ファンの話題はそれで持ちきりだった。


一方、阪海工は——。


一回戦こそ、兵庫の古豪・東洋大姫路に辛勝したものの、続く二回戦で敗退した。 相手は滋賀県の県立校、彦根東ヒコネヒガシ高校。


同じ公立校とはいえ、元不良校の阪海工とは格が違う。 進学校でありながら甲子園常連、文武両道を地で行く伝統校だ。 滋賀学園や近江といった強豪ひしめく滋賀県で、常に上位を争う実力は本物だった。


試合は、力の差を見せつけられる展開だった。 三回に長打二本とバントを絡められ先制を許すと、外野の捕球エラーでさらに失点。 エース藤田と捕手佐久間のバッテリーが必死に食らいつき、その後のピンチを凌いだものの、打線が援護できず、スコアボードには「0」が並んだまま。


結果は『0対2』。


阪海工の秋は終わった。 ベスト4に進出した彦根東は、次戦で大阪大会の覇者、あの「大阪桐蔭」と対戦することになる。


(……あの時の、藤田先輩の顔)


ヨウダの脳裏に、試合直後の光景が蘇る。


バスから降りてきた先輩たちのユニフォームは、泥と汗にまみれていた。


「すまん。……負けてもうたわ」


校門まで出迎えたヨウダたちを見て、藤田先輩は力なく笑い、最初に謝罪の言葉を口にした。


秋の敗退。 それはつまり、来春の「センバツ(春の甲子園)」への道が絶たれたことを意味する。 三年生と同じ舞台に立つチャンスは、もう永遠に失われてしまったのだ。


「なあ、日空……」


ヨウダは、目の前の南極に問いかけた。


「先輩たち、あんなに努力してたのに。なんで負けちゃうんだろう」


ヨウダにとって、藤田迅真フジタ・ジンマという投手は特別な存在だ。 日本に来て初めて心を奪われた選手であり、目標そのものだった。 誰よりも練習し、誰よりも野球に打ち込んでいた姿を、ヨウダは一番近くで見てきた。 地元紙に取り上げられるほど注目され、確実に進化していたはずなのに。


それでも、勝てなかった。 相手も同じ公立校だというのに。


「努力すれば報われる」なんて言葉が、ひどく空虚に響く。


「……まあ、相手も強かったんやろ。せやから、ワイらがもっと強くなればええだけの話や」


南極はあっけらかんと言った。


「お前……なんか適当に敷衍ふえんしてないか?」


「そんなことないで? それにほら、運もあるやんか。ワイかて運気が絶好調の時は、ボール玉かて減るしな!」


「運頼みかよ。……お前はまず、ストライクの数をボールより多くしてから言え」


ヨウダは呆れて、目の前でヘラヘラと笑う南極の頬をつねった。


「いひゃい、いひゃい(痛い、痛い)!」


無邪気なその顔を見ていると、張り詰めていた心が少しだけ緩む気がした。 だが同時に、心の奥底で宇治川の言葉が棘のようにチクリと刺さるのを、ヨウダは感じていた。


日空南極という男。 球速は速いし、球威も申し分ない。 だというのに、なぜ未だにボール率がストライクの倍もあるのか。


自分の経験則で教えられることは、全部教えたはずだ。 かつてコーチは言った。『投手にはそれぞれの個性と癖がある』と。 だが、ヨウダには理解できなかった。南極のその「サイコロを振ってもストライクが出ない」レベルの悪癖が一体なんなのか。 一年生で南極の球を受けたがるのがヨウダ以外にいないのも納得だ。ヨウダ自身、何度も暴投にキレそうになったことがある。


(……やっぱり、練習あるのみか!)


そう決意して、ヨウダは気合を入れてガバッと起き上がった。


だが、自分の真上に南極の顔があることを忘れていた。


ゴチンッ!!


盛大な衝突音が部屋に響く。


「いっつ……!」 「いったぁ……!」


二人は同時に額を押さえ、苦悶の表情でベッドの上でのたうち回った。


「うぅ……ヨウダ、また怒ってる……」


南極が額を押さえながら、怯えたようにベッドから逃げ降りる。 ヨウダは痛みに涙目になりながら、必死に弁解した。


「ちゃうわ! 怒ってへんわ! ただ不注意で……ってお前が上に乗っかっとるから悪いんやろ! 日空! ……あーもう、ごめん! 怒ってない! 怒ってないから!」


痛さと焦りで日本語が支離滅裂になりながら、ヨウダはベッドを飛び降り、南極を追いかけた。


結局その日、二人は夕食と風呂を済ませた後、仲良く夜の自主練へと向かったのだった。



** ** ** **



一方、その頃。 風呂を上がり、部屋に戻った**佐久間圭一サクマ・ケイイチ**は、珍しい光景を目にしていた。


ルームメイトであり、相棒の**藤田迅真フジタ・ジンマ**が、机に向かって本を読んでいるのだ。 以前買ったものの、ずっと積読つんどくになっていた野球選手の自伝エッセイらしい。


練習の鬼である藤田が、この時間に部屋で大人しくしている。 佐久間はタオルで髪を拭きながら、揶揄うように言った。


「お前がこの時間に部屋におるとか、異常気象やな。まさかまた『失踪』の計画でも立てとんのか? 迅真」


「……あの時は本当にすまなかった。反省している」


藤田は本から目を離さずに、大真面目なトーンで返した。


「冗談や、この野球バカ。いちいち真に受けて謝んな」


佐久間は苦笑した。 以前から、この藤田のクソ真面目な反応を面白がると同時に、その融通の利かなさに少しイラッともしていた。


佐久間は歩み寄り、藤田のベッドの縁に腰掛けた。


「で、今日は投げへんのか?」


「ああ……」


藤田は小さく頷き、ページをめくった。


「……反省会で監督も言うてたけど、戦力差はなかった。ただ、後半のチャンスを活かせなかった俺らの弱さが敗因や。 彦根東の守備に、完全に封じ込められた」


敗戦の記憶が蘇る。 最後の失点は、ライトを守っていた中西のファンブル(お手玉)がきっかけだった。 同じく外野の村瀬がすぐにカバーに入りバックホームしたが、二塁ランナーの生還を阻止できず、判定はセーフ。 それが決定的な一点となった。


「なんとなく……ただ闇雲に投げるより、先人の言葉から何かヒントを得られんかと思ってな」


「それで伝記か?」


「ああ。意外と面白いぞ」


佐久間が茶化しても、藤田は大真面目に答える。 (こいつ、顔さえ怖くなけりゃ、この天然で努力家な性格は女子にモテるやろうになぁ……)


佐久間はそう思いながら、そのまま後ろへ倒れ込んだ。


ドサッ。


藤田の股の間に頭を乗せ、太ももを枕にして仰向けになる。 そして手持ち無沙汰に、藤田のスネ毛を指先でプチプチと弄り始めた。


「監督、明日は野球部オフにする言うてたやろ。せやから、明日はパーッと学園祭回ろうや」


「ああ……でも、野球部の模擬店は?」


「あんなん適当でええねん。一年坊主に任せとけ。先輩の特権や」


「それは良くないんじゃ……あ、痛っ! 毛を抜くな……」


藤田が眉をひそめるが、佐久間はお構いなしだ。


「たまには先輩風吹かせてもバチ当たらんやろ? なあ、迅真?」


藤田が困惑した顔で見下ろすと、佐久間はニヤリと悪人の笑みを浮かべていた。 昔から、佐久間がこの顔をする時は、ろくなことにならない。


マウンド上では対等にサイン交換ができるようになった今でも、プライベートでは相変わらず佐久間のペースに巻き込まれっぱなしだ。 藤田は諦めたように息を吐いた。


「……羽目を外しすぎん程度になら」


「よし、決まりや」


佐久間は満足げに笑い、再び藤田のスネ毛をプチッと抜いた。



** ** ** **



夜も更けた頃。男子寮の大浴場。 人のいなくなった一番風呂に、遠慮のない水音が響いた。


バッシャーン!!


「っはー! 極楽極楽ゥ!」


マナーもへったくれもない勢いで湯船に飛び込んだのは、中西亮太だ。 彼は湯の中で手足を伸ばし、プカプカと浮きながら至福の表情を浮かべる。


ふと、洗い場で体を洗っているルームメイトの背中を見て、中西は首を傾げた。


「おい村瀨。お前、さっき頭洗ってへんかったか?」


「……あ? そうやったっけ?」


村瀨智也ムラセ・トモヤは、泡だらけの手を止めて気の抜けた声を出す。


「中西と一緒に住みすぎて、俺も中西おじいちゃんみたいにボケてきたんかもしれんなぁ」


「誰がハゲ散らかしたボケ老人や! 殺すぞ!」


中西の鋭いツッコミに、村瀨は「くくっ」と肩を揺らして笑った。 その笑い声に、中西は安心したように再び湯に浸かる。 村瀨がただボーッとしていただけだと思ったのだろう。


だが、村瀨の心はここにはなかった。 数時間前の記憶——コーチ陣との面談の場に、意識が飛んでいた。


敗戦後のミーティング。 中西のエラーと、その後の失点。 二人はコーチに呼び出されたが、それは叱責のためではなかった。 あのプレーのプロセスと、今後の連携についての確認だった。


面談が終わり、中西が先に部屋を出た後。 村瀨も続こうとしたところで、引き止められたのだ。


「ちょっと待て、村瀨」


声をかけたのは、片岡コーチだった。


「なんすか、センセー」


村瀨はいつものように、やる気のない返事をした。 片岡はモニターを操作し、あの失点シーンのリプレイを再生する。


画面の中で、中西が打球を後逸する。 その瞬間、カバーに入った村瀨がボールを拾い上げ、中西の前に割り込むように叫んだ。


『ホーム!!』


迷いのない判断。 そして、右腕から放たれたレーザービームのような送球。 ボールは一直線に捕手・佐久間のミットに収まった。 判定こそセーフだったが、タイミングはほぼ同時——完璧なバックホームだった。


「判定は覆らんけど……お前の判断から送球までの一連の動作、見事やった」


片岡は鋭い視線を村瀨に向けた。


「そこで聞きたいんやけど。あんな大掛かりな送球動作スローイングして、腕に違和感はないか?」


「……別に。問題ないっすよ」


村瀨は平然と答えた。


「古傷ならもう完治してますし、心配いりませんて」


言いながら、チラリと横にいる白井監督を見る。 おそらく、過去に自分が肘を壊していたことは、白井先生から聞いているのだろう。


(たぶん、古傷を心配して、外野から負担の少ないポジションにコンバートするつもりなんやろな……)


村瀨はそう予想していた。 昔は、藤田や他の凄い奴らに負けたくなくて、無理をして、その結果壊れた。 だから今は、こうして適当に、のらりくらりと野球を続けるのが丁度いい。 そう思っていたはずだった。


だが、片岡の行動は予想外だった。 彼女は無造作に歩み寄ると、村瀨の右腕——投げる方の二の腕を、グイッと掴んだ。


「……ッ?」


筋肉の付き方を確認するように、指先が食い込む。 片岡はニヤリと笑みを浮かべ、満足げに頷いた。


「村瀨。お前、まだ隠れて投球練習ピッチングやっとるやろ?」


「……あー、いや、まあ。昔の習慣みたいなもんっすよ」


図星を突かれ、村瀨は視線を逸らした。 隠しているつもりだったが、元トップアスリートの目は誤魔化せないらしい。


「なら話は早い。私と白井先生からの提案やけどな……」


片岡は単刀直入に告げた。


「お前、阪海工の**『先発投手』**やってみいひんか?」


「…………は?」


村瀨は間の抜けた声を上げた。 予想していた脚本とは、まったく違う展開だ。


「え、俺がっすか?」


『エース』になれとは言わなかった。 あくまで『先発』だ。 だが、今の村瀨にとって、再びマウンドに立つという選択肢は、困惑以外の何物でもなかった。


なぜ今、自分なのか? 高橋前監督ですら、古傷に気を使って、投手をやらせようとはしなかったのに。


最後にマウンドに立ったのはいつだっけ。 そう、あの一年生との紅白戦で、投手が足りなくて仕方なく投げた時以来だ。


「おーい、村瀨ー? のぼせたかー?」


「……あ、わり」


中西の声で、村瀨は我に返った。 頭にかかったシャワーの湯が、冷め始めている。


(先発、か……)


泡を洗い流しながら、村瀨は自分の右腕をじっと見つめた。 古傷の痛みはない。 だが、胸の奥で燻っていた何かが、チリチリと熱を帯び始めているのを感じていた。


「やっぱり、村瀨。お前なんか変やで」


湯船に浸かって目を閉じていた村瀨が薄目を開けると、視界いっぱいに中西の顔があった。 驚くべきことに、中西は村瀨の膝の上に跨るような体勢で座り込んでいたのだ。


(いつの間に登ってきよったんや、こいつ……)


体勢が、非常にマズい。 村瀨の下半身に、中西の太ももあたりの「フニフニした柔らかいもの」がムギュッと当たっている。 男同士、しかも風呂場でこの距離感はアウトだろう。


「どけや」と言おうとした村瀨だったが、中西の次の言葉に口を閉ざした。


「村瀨……お前も、俺が試合負けさせたこと、怒っとんのか?」


中西の声は、いつものふざけた調子ではなかった。 マジなトーンだ。 村瀨は仕方なく、跨られたままの体勢で答えた。


「……なんやねん急に。さっきまで飛び込み水泳しとったくせに」


「今は……みんなの顔、まともに見れへんねん。特に佐久間とか龍二とかな……」


中西はしゅんと項垂うなだれた。


「俺、チームの足引っ張ってばっかりや。藤田があんなに頑張って投げたのに、俺のせいで全部台無しにしてもうた……」


中西の背中が小さく震えている。 普段は明るいムードメーカーだからこそ、一度落ち込むと深いのだろう。


「大げさやな。次があるやろ?」


村瀨は濡れた手で、中西の髪の毛をガシッと鷲掴みにした。 そのまま強引に顔を上げさせ、自分の目を見させる。


「俺らは三年まで野球するんやぞ? 今からそんなシケた面してどないすんねん、中西」


湯気で視界が白い。 互いの肌には水滴が光り、風呂の熱さのせいで頬は紅潮している。 そんな状況で、至近距離で見つめ合う男二人。


村瀨は、捨てられた子犬のような目をする中西を見て、思わず吹き出した。 そして、パンッと中西の尻を叩いた。


「安心せえ。誰も責めへんよ。俺もな」


「え、せやけど……」


「文句や愚痴は多少あるかもしれん。けどな、責任をお前に押し付けるような奴はここにはおらん。 田中も、俺も、佐久間も……藤田かてそうや。誰だってミスはする。 藤田なんか、打たれるたびにマウンドで晒しもんになっとんねんぞ? いちいち気にしてられっか」


村瀨はニヤリと笑い、わざとらしく腰を動かした。


「……それにしても、ええ感触やな。お前のケツ、無駄に誘惑してくるやんけ」


その言葉で、中西の表情がパッと明るくなった。


「ヘッヘッヘ! そらそうよ! これぞ中西シェフ特製! **『特選・中西三枚肉バラニクヒップ』**やぞ!」


「ほほう、なら遠慮なく頂いたろか!」


「うひょー! やらんかーい!」


村瀨が中西の腰に抱きつき、ふざけて水中で腰を振る。 バシャバシャと激しい水音が響き渡り、二人はキャッキャとじゃれ合った。


その時だった。


カコーン!!


入り口の方で、プラスチックの桶が高い音を立てて床に落ちた。 二人の動きがピタリと止まる。


ゆっくりと振り向くと、そこには一人の男が立ち尽くしていた。 **川原慎カワハラ・シン**だ。


几帳面で真面目な彼は、目を限界まで見開き、浴槽の中で繰り広げられている地獄絵図——村瀨の上に中西が跨り、村瀨がそれを後ろからホールドして腰を振っている図——を凝視していた。


川原の純粋な心に、衝撃が走る。


「……お、お邪魔しましたッ!!」


川原は脱兎のごとく踵を返した。


「待てェェッ!!」 「アカン! 中西、慎を捕まえろ!!」


「川原、川原待てぇぇ! お前が想像してるようなことちゃうねん!!」


村瀨と中西は慌てて浴槽から飛び出した。 誤解されたままではマズい。 特に川原のような堅物が本気にしたら、明日には野球部内で「村瀨と中西が風呂場で愛を育んでいた」という噂が確定事項として広まってしまう!


「うわあああ! 来ないでくださいぃぃ!!」 「聞けっつってんだろ!!」


更衣室で繰り広げられる、全裸の男子高校生三人による醜い取っ組み合い。 誤解を解くために、二人は死に物狂いで川原を取り押さえ、必死の弁明をする羽目になったのだった。



** ** ** **



阪海工の学園祭も二日目を迎えた。 日曜ということもあり、昨日と変わらぬ人混みで校内は賑わっている。


そんな中、ついに「その時」がやってきた。


試合日程の都合で初日を回避していた**田中龍二タナカ・リュウジ**だったが、クラスの同調圧力には勝てなかったのだ。


「クソが……見世物ちゃうぞ、コラ!」


フリフリのエプロンドレスに身を包んだ龍二は、凶悪な面構えで客を睨みつけている。 だが、その羞恥心は限界突破していた。 クラスメイトたちに囃し立てられ、無理やりポーズを取らされ、知り合いが来るたびに「死んだ魚のような目」で接客をするハメになっていた。


そこへ、兄の**央一ヨウイチ**と弟の廉太が冷やかしにやってきた。


「何しに来たんじゃボケ! 早よ帰れや!」


身内に対しては容赦なくキレる龍二。 だが、その直後——。


「龍二……お前、その格好で大丈夫か?」


バッテリーを組む**木村陸斗キムラ・リクト**が、苦笑しながらも優しく声をかけた。 すると、龍二の態度がコロッと一変した。


「おお、木村か……。聞いてくれや、こいつらホンマ頭おかしいんじゃ。俺にこんな格好させて……」


さっきまでの殺気はどこへやら。 龍二は木村にだけ、まるで親に愚痴る子供のように甘え始めたのだ。 普段はグラウンドで誰よりも熱く、短気な龍二だが、心を許した木村の前でだけは、こうして弱音を吐き出す。


「まあまあ、似合ってるで? 記念に一枚撮っとこうや」


「……お前が言うならしゃーないな。ほら、早よ撮れや」


木村がスマホを構えると、龍二は文句を言いながらも、満更でもない顔でピースサインを作った。 あまつさえ——。


「せっかく来たんや、カレー食ってけよ。俺が考えたメニューやから味は保証するわ。ほら、席こっちや」


甲斐甲斐しく案内し、嬉々として野球カレーの説明まで始めたのだ。


「おい! 俺らの時と対応が違いすぎるやろ!」 「えこひいきや!」


クラスメイトたちがブーイングを飛ばすが、龍二は鼻で笑って言い放った。


「うるさいわ! 俺は木村には優しいんじゃ! 文句あるか!」


「開き直りよった……」 あまりの清々しい「木村一番」ぶりに、周囲は呆れるしかなかった。


一方、一年生の模擬店コーナー。


「……パーフェクトやな」


藤田先輩が、ヨウダの手作りストラックアウトに挑戦し、当然のように全枚抜きを達成した。 景品の「野球ペンギン人形」を手渡しながら、ヨウダは言葉を探していた。


(何か……言わなきゃ)


昨日の敗戦のこと。 悔しかったはずなのに、気丈に振る舞う先輩に対して、気の利いた慰めの言葉の一つでもかけたかった。 だが、喉まで出かかった言葉は、形にならずに消えていく。 結局、口から出たのはありきたりな一言だった。


「……お疲れ様でした」


「ああ、ありがとうな。これ、大事にするわ」


藤田先輩は優しく微笑んで、ペンギンを受け取り去っていった。 その背中には、どこか近寄りがたいような、彼だけの世界があるように見えた。


その背中を見送りながら、ヨウダは自分の不甲斐なさに唇を噛んだ。


「言葉が見つからへんのなら、無理して言わんで正解ちゃう?」


横で店番をしていた柴門玉里サイモン・タマサトが、見透かしたように言った。


「下手に気を使って、変な空気にするよりマシやろ」


「それは……そうだけど。でも、なんか一言くらい……」


ヨウダはまだ藤田の背中を目で追っている。 憧れの先輩が負けたという事実。そして、それをどう消化していいか分からないモヤモヤ。


「柴門は……先輩たちが負けたこと、どう思ってる?」


「どうって?」


「悔しいとか、残念とか……」


「別に。何とも思わへんよ」


玉里は即答した。冷たいとも取れるその言葉に、ヨウダが驚いた顔をする。 玉里は頬杖をつきながら、淡々と続けた。


「彦根東かて強豪やし、そこに互角に渡り合えたんやから、阪海工ウチの先輩らは十分強いってことやろ。 それに——」


玉里は、藤田の去っていった方向を一瞥した。


「俺らが心配したところで、あの人らには関係ないわ。 藤田先輩には佐久間先輩がおるしな。あの二人の間には、他人が入り込む隙間なんてないと思うで」


玉里の言葉には、妙な説得力があった。 確かに、あのバッテリーの絆は特殊だ。 誰もが知っているけれど、誰も触れない「絶対的な領域」。 後輩の慰めなど、彼らにとってはノイズでしかないのかもしれない。


「……そう、かもな」


玉里のドライだが核心を突いた意見に、ヨウダは少しだけ肩の荷が下りた気がした。


シフトは今日も玉里と同じ時間帯だ。


ふと、玉里は教室の入り口を眺め、口元を歪めて笑った。 昨日、流星の彼女(川端さん)にちょっかいを出したせいだろうか。 今日は流星も、その彼女も、全く姿を見せない。 どうやら、玉里という「危険人物」を避けて回っているらしい。


「ふふっ……」


玉里は小さく呟いた。


「やっぱり、男の嫉妬も見苦しいもんやな」



** ** ** **



昨夜のことだ。 家に帰った柴門玉里は、珍しく自分から宇治川翔二に電話をかけた。 話題はもちろん、突如として学園祭に現れた「神谷蒼士」についてだ。


だが、電話の向こうの宇治川は、神谷の帰郷に驚く様子もなかった。 まるで、最初から知っていたかのように。


「オカンから聞いてん。神谷のじいちゃん、一昨日亡くなったらしいわ。あいつ、葬式のためにこっち戻ってきとるんよ。学校に顔出したんも、そのついでやろ」


宇治川は淡々と事実を告げた。 その一方で、手元のスマホでは別の戦いが繰り広げられていた。


野球部のグループLINEだ。 流星が『今日、彼女の前で恥かかされた! 精神的苦痛や! 慰謝料請求する!』などと寝言のようなメッセージを連投している。 宇治川は無表情で**『黙れ』**のスタンプを送信した。


「じいちゃん亡くなったん!? そんな時にあいつ、学校来てあんな適当なこと言うてたんか……」


柴門は絶句した。 身内の不幸があった直後に、あんな軽薄な態度で元チームメイトをからかっていたというのか。


「あいつは昔からそうや。触れられたくないことほど、わざとチャラけて誤魔化すねん」


宇治川はため息をつく。 LINE画面では、流星が『悔しかったらお前らも彼女作ってみろや!』と煽ってきたため、宇治川は蓮と結託して**『死ね』**のスタンプを五十連打して流星を撃沈させた。


「……それにしても、まさか大阪桐蔭から戻ってこれるとは思わんかったわ」


柴門は信じられないといった口調で言った。


大阪桐蔭高校野球部。 高校野球ファンならずともその名を知る、超名門校だ。 だが、その実態は「軍隊」か「修行僧」に近いとも噂されている。


朝五時の早朝練習に始まり、夜十時の就寝まで分刻みのスケジュール。 土日も休むことなく練習漬け。 全寮制で携帯電話の使用は禁止(または制限)。 全員が一律の五厘刈り(坊主頭)。 唯一の楽しみといえば、週に一度のコンビニへの買い出しのみ。


そこは、プロ野球選手、あるいは大学・社会人野球での活躍を義務付けられたエリートたちが集う、野球の虎の穴だ。 「恋愛」などという世俗の欲求は、真っ先に捨て去らねばならない場所のはずだ。


「いくら厳しい言うても、身内の不幸があったら一時帰宅くらい認めるやろ」


宇治川は冷静だが、柴門は心の中でツッコミを入れた。 (あんた、桐蔭のことどんだけ地獄やと思うてんねん……まあ、あんたもそこ目指してたんやけどな)


「ま、あいつも寂しかったんちゃうか? わざわざ俺らに『来たで』って電話してくるくらいやしな」


「ウチは違うと思うで」


柴門と宇治川の見解は違った。


「あいつ、陽奈ヒナのために来たんやろ」


柴門がズバリと言うと、宇治川はあからさまに声を曇らせた。


「……あいつらのことは、俺には関係ない」


「関係ないことあるか。あんた、陽奈がなんで阪海工に来たか知ってる数少ない人間やろ」


「知らん。俺を巻き込むな」


宇治川は頑なに拒否し、逆に矛先を柴門に向けた。


「そう言うお前こそ、神谷に告白されたんがきっかけで、あいつらと仲良うなったんやろ?」


「ッ……! 蒸し返すな!」


柴門は苦々しい顔をした。 かつて、神谷は女装した柴門を面白がって、ゲーム感覚で告白してきたことがある。


「あいつは昔からそうや。ウチを女扱いして、面白がって……そういう最低なこと平気でするやつやねん。 せやのに、顔だけはええし、野球の才能はずば抜けてる……ほんま、ムカつくわ」


「まあ、いくら神谷がチャラくても、わざわざリスク冒してまで『元カノ』に会いには行かんやろ」


宇治川が結論づけようとした、その時だ。


「…………」


電話の向こうから、柴門の声が消えた。 不自然な沈黙が流れる。


「……おい? もしもし? 柴門?」


数秒後。 柴門玉里の、低く、震えるような声が聞こえた。


「……宇治川。あんた今、『元カノ』って言うた?」


「は? せやから、神谷と青木は……」


「別れてへんで?」


「…………は?」


宇治川の思考が停止した。


「神谷と陽奈……あいつら、まだ付き合っとるで」


戦慄が走った。


「明日は来るな」と釘を刺したところで、神谷蒼士という男は必ず来るだろう。 しかも、あの目立つ大阪桐蔭の制服を着て。


もし、万が一。 『大阪桐蔭野球部のエース候補』と『他校の女子生徒』の交際が公になったら——。


それは間違いなく**「一発アウト(NG)」**だ。 最悪の場合、神谷は無期限の謹慎、あるいは退部処分もあり得る。連帯責任でチームが大会出場停止になる可能性だってゼロではない。


「……マジかよ」


宇治川の声が震えた。 これは、ただの痴話喧嘩や青春ドラマではない。 高校野球界を揺るがす、特大の爆弾だ。


(あいつら、会わせたらアカン……!)


柴門と宇治川の脳裏に、共通の危機感が点滅していた。



** ** ** **



「ええなあ、お前ら。陽奈ちゃんからチケットもらえるなんて」


野球部の連中から羨ましがられたのも無理はない。 今日の体育館で行われる男子合唱部と吹奏楽部の演奏会は、学園祭におけるプラチナチケットだ。 近年、両部ともコンクールでの成績がめざましく、地域住民からの人気も高い。そのため、入場は部員の家族か、数量限定のチケットを持つ者だけに限られていた。


部員一人につき四、五枚配られる招待枠。 友達ヨウダと南極は、多少なりとも私的な交流がある陽奈から、その貴重な招待券を譲り受けたのだ。


会場に入ると、そこはすでに満員だった。 野球部の試合では、いつもスタンドがガラガラなのに……。 この人口密度の差に、ヨウダは少しだけ複雑な気分になった。


だが、演奏が始まると、そんな雑念は吹き飛んだ。 クラシック音楽の知識など皆無な二人でも、肌で感じる音圧と迫力には圧倒されずにはいられない。 さすがは大阪府代表として全国大会に出場し、金賞を総なめにする実力校だ。


そして、ハイライトが訪れる。 一年生ながら首席奏者トップを務める青木陽奈の、トランペット独奏ソロパートだ。


透き通るような、それでいて力強い音色が、静まり返った体育館に響き渡る。


「……すげえな、ほんまに」


ヨウダが思わず呟くと、隣の席から声がした。


「ああ……大したもんだ」


その声に振り向くと、いつの間にか隣に座っていた男性と目が合った。


彼は阪海工の制服ではない。 白シャツに、茶系のネクタイ、そして濃いグリーンのブレザー。 英国紳士を思わせる洗練された着こなしだが、髪型は潔い坊主頭だ。 そして何より、ヨウダのような男から見ても「カッコいい」と認めざるを得ない、整った顔立ちをしている。


普通、知らない人と目が合えば気まずくて逸らすものだ。 だが、その男はヨウダを見据え、さらにその隣にいる南極へと視線を移した。 二人は普通の制服姿で、野球部のジャージなど着ていないにも関わらず、彼は確信を持って尋ねてきた。


「野球部?」


「……あ、はい。そうですけど」


ヨウダが答えると、男は人懐っこい笑みを浮かべ、右手を差し出した。


「やっぱりな。なんとなく雰囲気で分かったわ。 俺は神谷蒼士カミヤ・ソウシ投手ピッチャーやってる」


「ど、どうも。林友達リン・ヨウダです。僕もピッチャーです」 「ワイは日空南極! ワイもピッチャー志望や!」


三人は順に握手を交わした。


神谷は、南極の手を握った瞬間、眉をピクリと動かした。 (デカい手やな……それに分厚い。こいつ、間違いなく馬力がある。速球派か)


続いて、ヨウダの手。 (こっちは……掌は普通やけど、指が長くてしなやかやな。マメの位置もええ。かなり投げ込んどる証拠や)


神谷の瞳に、興味の色が浮かぶ。 田中先輩や藤田先輩、それに宇治川。 彼らとはまた違う、未知の原石たち。 (ええなぁ。こいつらが投げる球、どんなんか見てみたいわ)


その時、陽奈のソロが終わり、再び全楽器による合奏トゥッティが始まった。 激しくも美しい旋律がクライマックスを迎え、指揮棒が振られると同時に、音の波がピタリと止む。


ジャンッ!!


一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手が体育館を包み込んだ。


「凄かったな!」 「おん!」


ヨウダと南極も夢中で手を叩き、ふと隣を見た。


「あれ……?」


神谷の姿は、煙のように消えていた。


(間違いへん……あいつや。あのバカ……)


さっき客席で、ヨウダと南極の横に座っていた、あの目立ちすぎる大阪桐蔭の制服。 間違いない。


トランペットを片付けるのもそこそこに、青木陽奈は体育館の客席へと走った。 だが、目当ての人物の姿はどこにもない。


(見間違い? ……いや、そんなはずない)


陽奈は一瞬そう思ったが、すぐに打ち消した。 あいつは昔からそうだ。いつもマイペースで、神出鬼没。 何の前触れもなく現れては、ふっと煙のように消えてしまう。 いかにもあいつらしい、人を食ったような行動パターンだ。


陽奈は諦めかけて舞台裏へ戻ろうとした。 その時——男子トイレのドアが開き、一人の男が出てきた。


「あ……」 「あ……」


二人の視線がかち合う。 数秒の静止。 次の瞬間、男は脱兎のごとく走り出した。


「ちょ、待ちなさいよ!!」


陽奈も反射的に駆け出した。 客席と舞台裏を繋ぐ通路で繰り広げられる、謎の鬼ごっこ。


その時、ステージ上では次の曲目が始まろうとしていた。 日本を代表するフュージョンバンド・T-SQUAREの名曲、『OMENS OF LOVEオーメンズ・オブ・ラブ』。


パパパーン! パラララララ……!


軽快なドラムとシンセサイザーのイントロが弾ける。 アルトサックス、トランペット、トロンボーンが織りなす、疾走感あふれる青春のメロディー。 コードが高速で進行し、高揚感を煽るそのリズムは、まるで恋に向かって全力疾走する若者たちの鼓動そのものだ。


そんな爽やかなBGMに全く合わない、ドタバタとした足音が通路に響く。 男は一向に止まる気配がない。


「逃げんなコラ! 止まれ! 神谷蒼士カミヤ・ソウシ!!」


陽奈は腹から声を出して、大阪桐蔭のエースのフルネームを叫んだ。


その声に、神谷は思わず振り返った。 視線の先には、長い黒髪をなびかせ、息を切らして追いかけてくる陽奈の姿。 阪海工の制服——少しレトロなデザインのセーラー服が、走るたびにふわりと翻る。


その姿があまりにも眩しくて。 神谷は逃げている最中だというのに、つい見惚れてしまった。


「あ、奈ちゃん……めっちゃ可愛ええ〜……」


デレデレと顔を緩めた、その瞬間。


「……って、うわ、ああっ!?」


ガッシャーーーン!!


漫画のようなベタな展開だった。 前方不注意の神谷は、次の演劇部の出し物で使う小道具が入った巨大なカゴに、頭から豪快に突っ込んだのだ。


「ひいっ!?」


運んでいた演劇部の生徒たちが悲鳴を上げる。 カゴからはみ出した両足が、犬神家の一族のように情けなくバタついていた。


「…………はぁ」


その一部始終を見ていた陽奈は、深く大きなため息をついた。 走るのをやめ、ゆっくりと歩み寄る。


カゴの中でもがく神谷の前に立ち、冷ややかな目で見下ろす。 ようやく顔を出した神谷は、バツが悪そうにへらりと笑った。


「よ、よう……奈ちゃん、久しぶり」


「……手、貸そうか?」


陽奈は呆れた顔で手を差し出した。


数分後。 なんとかカゴから脱出した神谷は、陽奈と一緒に演劇部の部員たちに頭を下げた。


「ほんまスンマセン! 弁償しますんで!」


一通り謝り終え、神谷は「ほな!」と再び逃走を図ろうとした。 だが——。


ダンッ!!


逃げようとした神谷の進路を塞ぐように、陽奈の手が壁を叩いた。 いわゆる「壁ドン」。ただし、やったのは可憐な女子で、やられたのは体格の良い野球部員だ。


神谷は背筋に冷たいものを感じた。 目の前の陽奈から、どす黒いオーラが立ち上っている。


「……何か、私に言うことがあるんちゃうんかな? 蒼・士・クン?」


「えっ……へへ……いや、あの、その……」


「『聞いてくれ』?」


「あ、はい……スンマセン……頼むからちょっとだけ弁解させて……」


陽奈は聖母のように優しく微笑んでいる。 だが、神谷にはその背後に、怒り狂う阿修羅の幻影が見えていた。


その時、体育館では『OMENS OF LOVE』の演奏が終わっていた。 盛大な拍手に続き、次の曲の紹介アナウンスが流れる。


一年生の陽奈もよく知っている、三年生の先輩たちが得意とする曲。 『The Seventh Night of Julyたなばた』。


七夕の夜、年に一度しか会うことを許されない織姫と彦星の悲劇を描いた、美しくも切ない旋律。 それが、まるで二人の運命を暗示するかのように、静かに流れ始めた。


「なあヨウダ。なんで陽奈の出番、あんな少なかったん?」


男子トイレから出てきた南極が、不満げに言った。


「せっかく招待してもろたのに、もっと陽奈のラッパ聴きたかったわ」


「だから、陽奈が言ってたろ? 学園祭はあくまで三年生の引退公演がメインなんだよ。一年生はサポート役で、最初と最後しか出番がないって」


ヨウダは濡れた手をハンカチで拭きながら、南極の愚痴に付き合う。 二人は会話を続けながら、通路の壁際で向かい合っている男女の横を、何気なく通り過ぎた。


スタスタ……。


数歩歩いて。 二人の足が、ピタリと止まる。


「「…………ん?」」


何か、猛烈な違和感を感じた。 二人は同時に振り返る。


そこには——。 壁際に追い詰められた神谷蒼士と、彼に詰め寄る青木陽奈の姿があった。 しかも、ただの立ち話ではない。 陽奈の右手が、神谷の胸倉むなぐらをガシッと掴んでいるのだ。


「えっ……」


その瞬間、ヨウダの脳裏に電流が走った。 以前、陽奈が意味深に語っていた言葉。


『私、男を追っかけてこの学校に来てん』


(……そういうことかよ!)


全ての点と線が繋がった。 彼女が追っていた「男」とは、この大阪桐蔭のエース・神谷蒼士だったのだ。


「陽奈? お前らそこで何し……」


状況が飲み込めない南極が声をかけようとした、その時だ。


「シーッ」


陽奈が素早く人差し指を口元に立てた。 その瞳は笑っているようで、全く笑っていない。 有無を言わせぬ圧力が、ヨウダと南極を貫く。


「ヨウダくん、南極くん」


陽奈は甘い声で、しかしドスの利いた響きで言った。


「これから見ること、聞くこと……他言無用でお願いね? もし誰かに喋ったら……分かってるよね?」


「う、うん……」 「わ、わかった……」


二人はブンブンと首を縦に振った。 逆らってはいけない。生物としての本能がそう告げていた。


陽奈は満足げに頷くと、再び目の前の神谷に向き直り、その胸倉をグイッと引き寄せた。


至近距離で睨まれた神谷は、脂汗を流しながら、必死に愛想笑いを浮かべる。


「そ、その……あれやな! さっきの演奏、めっちゃ良かったで! やっぱ奈ちゃんのラッパは日本一や!」


神谷なりの、決死の褒め殺し作戦。 だが、陽奈の表情はピクリとも動かない。


「黙れ。その感想は今求めてへん」


冷徹な一刀両断。


「はい、スンマセン……」


高校野球界最強の男が、一人の女子の前で小さくなっている。 その光景を見て、ヨウダは改めて思った。


(……この学校で一番強いの、間違いなく青木さんだ)

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