第三六章 喧騒の学園祭(上)
台湾出身の陸坡と申します。
發見してみると、以前使用していた翻訳AIは、台湾の文章を日本語に翻訳する際に多くの誤りが生じていました。現在は新しいバージョンの翻訳AIを使用し、誤訳となる文章は減っています。時間を見つけて、あらためて小説を翻訳し直すかもしれません。申し訳ありません。
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
季節は十月も終わりの頃。
阪海工の正門には、生徒会が手作りした巨大な看板が高々と掲げられていた。 今日は、普段は入れない一般客も、受付さえ済ませれば自由に出入りできる貴重な一日だ。
だが、かつて「不良男子校」として名を馳せた名残なのだろうか。 校門には、いささか物々しい立て看板が置かれている。
『特攻服・暴走族風ファッション厳禁』
時代錯誤ともいえるその警告文に、遊びに来た地元の卒業生たちは思わず苦笑いを浮かべた。 かつてはこの学校でヤンチャしていた彼らも、今では地元の造船所や漁業の現場で汗を流す立派な社会人。 当時の「ワル」な雰囲気からは、とっくに卒業しているのだ。
一方、在校生にとっても、今日は特別な解放日だった。
「指定のズボンかジャージ着用なら、上は自由」
そんな学園祭特別ルールのおかげで、生徒たちは堅苦しい学蘭を脱ぎ捨て、思い思いの奇抜な私服で登校してくる。 もともと髪型やカラーリングの自由度が高い校風も相まって、今日の阪海工はいつも以上に色彩豊かで、自由奔放な空気に包まれていた。
「あーもう! 流星のやつ、まさかデートに逃げたんちゃうか!」
バンッ!!
教室のドアが勢いよく開け放たれた。 怒声と共に飛び込んできたのは、蓮だ。 ヒップホップ好きの彼らしいダボッとした私服姿で、大げさに教室内を見回す。
その後ろから、宇治川も無言で入ってくる。 二人はキョロキョロと視線を走らせるが——肝心の流星の姿はない。
宇治川の視線が、教室の隅に止まった。 そこには、野球部の練習着姿で座っている林友達がいた。
宇治川はすぐに歩み寄り、声をかける。
「おい、流星見んかったか?」
友達が口を開こうとした、その時だ。
「ウチとシフト代わってからは、見てへんなあ」
艶のある声が、その場を制した。 声の主は、柴門玉里。 彼は積み上げられた机の上に優雅に腰掛け、美しい女装姿で店番をしていたのだ。
宇治川は一瞬動きを止め、玉里の顔と、彼が座っている机の山をじろりと見た。 そして再び友達の方を向き、「本当か?」と確認を求めるような視線を送る。
友達は、真顔でこくりと頷いた。
「クソッ! うまく逃げよったな!」
蓮が悔しそうに声を荒げる。 「彼女持ちの裏切り者・豊田流星」がここにはいないと悟ったのか、二人は仲間を引き連れて回れ右をした。
「行くぞ! 他を探す!」
ドカドカと足音を響かせ、男たちの集団は嵐のように去っていった。
教室に静寂が戻る。 玉里はふうっと息を吐くと、自分が座っている机の下——その隠れ家となっている箱を、拳で軽く叩いた。
コン、コン。
「行ったでー。出てきてもええよ。」
玉里がそう言い終えるか終えないかのうちに、机を覆っていた布がモゾモゾと動いた。 そこから、流星と、彼の彼女である川端紬がひょっこりと顔を出す。
「ぷはっ……!」
二人は大きく息を吸い込んだ。 流星はまず、彼女である紬を丁寧に机の下からエスコートして外に出す。 それから、照れ隠しのようにへへと笑った。
「サンキュな、ヨウダ、玉里」
だらしなく笑いながら礼を言う流星。 そんな彼を見下ろしながら、玉里は呆れたように肩をすくめた。
「まさか流星にホンマの彼女がおるとはなあ。ウチ、また脳内の『妄想彼女』やと思てたわ」
玉里がそう毒づくと、横にいた紬がじっと熱い視線を送ってくることに気づいた。
「ん? どないしたん、流星の彼女サン」
玉里が小首を傾げると、紬は興奮気味に口を開いた。
「あの……流星くんから『野球部に女装する人がいる』って聞いて、てっきりお笑い系のネタかと思ってたんです。でも……まさか、漫画のキャラみたいに綺麗な男の子だなんて……!」
紬の瞳がキラキラと輝きだす。
「凄すぎます……! あの、コスプレとか興味ありますか!?」
その勢いに、玉里はふっと口元を緩めた。
「へえ……流星よりずっと『お目が高い』子みたいやな」
玉里はファサッと自身の長い髪をかき上げた。 純白のロングワンピースの上に、無骨な男子制服の学蘭を羽織る。 そのアンバランスさが、かえって彼の中性的な色気と妖艶さを引き立てていた。
玉里は一歩近づくと、すっと手を伸ばし——紬の顎をクイッと持ち上げた。
「コスプレには興味ないけどな……お化粧とかウィッグの話なら、いつでも相談に乗るで?」
至近距離で見つめられ、甘い声で囁かれる。 普通なら引くところかもしれないが、紬の反応は違った。
「あ……はいっ……♡」
顎を持ち上げられたまま、彼女はうっとりと頬を染めている。 女装した玉里に迫られるシチュエーションに、まるで推しのアイドルか声優にファンサされているかのようなときめきを感じてしまっているのだ。
「お嬢さん、お名前は?」
「か、川端……紬、です」
「紬チャンか。ウチは柴門玉里。よかったら連絡先交換せえへん? 服とかメイクの話、もっとしたいし」
「は、はいっ! ぜひ! 柴門様!!」
まるで手練れのホストと、それにハマる女性客のようなやり取り。 横で見ていた友達は、あまりの展開にポカーンと口を開けて固まることしかできなかった。
一方、周囲で見ていた生徒たちからは、玉里の堂々たる「女装接客」に興奮したのか、「キャー!」やら「ヒュー!」といった黄色い歓声と野太い声が入り混じって上がる。
その空気に耐えられなくなったのは、彼氏である流星だ。
「おい柴門! テメェこの野郎! 人の彼女を堂々と口説いてんじゃねえよ!!」
顔を真っ赤にした流星が、慌てて二人の間に割って入る。 そして強引に紬の手を掴んだ。
「川端、行くぞ!」
「あ、はい……」
流星に手を引かれ、ようやく我に返った紬。 二人は野球部が模擬店として借りているこの教室から、逃げるように出ていく。
去り際、流星は振り返り、ニヤニヤと笑う玉里を子供のように睨みつけた。 だが、玉里はどこ吹く風だ。 妖艶な笑みを浮かべ、ひらひらと手を振って見送る。
「楽しんでな、オタクカップルさん」
野球部のグラウンドは校舎からあまりに遠すぎる。 その上、そこへ辿り着くには「阪海地獄」と呼ばれる、心臓破りの急勾配を登らなければならない。 そんな辺鄙な場所に模擬店を出したところで、客など来るはずもなかった。
そこでヨウダたちは、一年生総出で手作りの「ストラックアウト(九枚抜きの的)」や野球道具、防球用の厚手マットを校舎まで運び込み、借りている空き教室を改造することにした。 完成したのは、簡易的な「室内ブルペン」風のゲームコーナーだ。
もっとも、この配置や運営プランを考えたのは、ヨウダではない。 その大部分は、クラスメイトの**金井栄郎**の提案によるものだった。
「女子でも楽しめるように投球距離を短くする」 「景品の獲得条件に男女で差をつける」 「的を抜けなくても、2ゲーム遊べばペンギン人形をプレゼント」 「2ゲーム以内のパーフェクト達成で、野球帽とバットを装備しての『記念チェキ(一回200円)』を無料にする」
栄郎が組み上げた動線設計や収支計算、そしてアフターサービスの充実は、頭の中が筋肉でできているような「野球脳」のヨウダたちには、到底思いつかないレベルのものだった。
「なんでも器用にこなすくせに、肝心の野球だけが下手くそなんて……ホンマ、皮肉なもんやで」
柴門玉里は苦笑交じりにそう呟いた。 栄郎の計算通り、ストラックアウトの客足は好調で、売り上げは予想を遥かに超えている。
ヨウダはふと気になり、玉里に尋ねた。
「柴門、君って……なんだか金井くんのこと、特別気にかけてない?」
その言葉を聞いた瞬間、玉里の手がピタリと止まる。 彼はヨウダを一瞥したが、すぐに顔を背け、手元の作業を続けながら低い声で言った。
「あんた、南極と一緒やな。流星とか蓮みたいな連中とつるんでばっかおるから、空気読まれへんようになっとるわ」
「え?」
「そういう時はな、『あー、そうなんだ』とか『へえー』とか言って、適当に話を終わらせるのがマナーや。ヨウダ」
玉里は淡々と、諭すように続ける。
「自分の私生活とか、誰と付き合いがあるかとか……そういうことに敏感な人間もおるんよ。みんながみんな、流星みたいな『明け透けなバカ』とは限らんのやから」
「あ……ごめ、なさ……」
ヨウダが慌てて謝ろうとすると、玉里がそれを遮った。 彼はニッコリと笑い、ボールを一つ、ヨウダの手に押し付ける。
「ストラックアウト、一回どうや?」
「えっ」
「九枚全部抜けたら……ウチがなんで栄郎のこと気にしてるか、教えたるわ」
敏感な話題だと言っておきながら、条件付きで話すことには抵抗がないらしい。 この独特な距離感に、ヨウダは戸惑いを覚えた。
ふと、同じクラスの**青木陽奈**のことを思い出す。 吹奏楽部の期待の星でありながら、「男のためにこの学校に来た」と語っていた彼女。 だが、それ以上のことは何も教えてくれなかった。
『南極も苦労するわねえ。ヨウダくんは、まーだお子様なんだから』
そう言って、からかうように頭を撫でてきた彼女の真意も、ヨウダには未だによく分からない。
(日本人って……人の心の内を読むの、難しすぎない!?)
ボールを握りしめながら、ヨウダは心の中で「めんどくさい!」と叫ばずにはいられなかった。
「うわっ! 見ろよあの男子!」 「え、野球部? スッゲェ……」
周囲から驚きの声が上がる。 人だかりの中心にいるのは、ヨウダだ。
彼は教科書通りの美しいフォームから、次々とボールを放っていた。 バシッ! バシッ! 投じられたボールは吸い込まれるように、一枚、また一枚と的を射抜いていく。
(……まあ、外すわけないよな)
ヨウダは内心でそう思っていた。 マウンドからホームベースまでの距離は、正規の半分程度。 しかも手作りの「ストラックアウト」の的は、野球のストライクゾーンの優に五倍はある。 現役の投手である彼にとって、外す理由を探す方が難しかった。
だが、どうやらこれは罠だったらしい。 チラリと横を見ると、玉里が満足げな笑みを浮かべている。 「自分でもできること」を利用して、ヨウダに客寄せパンダをさせているのだ。 そしてそれは、「金井栄郎への想い」という核心への質問をうやむやにするための口実でもあった。
「さすがピッチャーやな。はい、これ景品」
「あ……ありがとう」
玉里から手渡されたのは、ヨウダ自身が準備期間中にせっせと縫った「野球ペンギン」のぬいぐるみだった。 自分で作ったものを自分で受け取る。 なんとも言えない微妙な気持ちになりかけた、その時だ。
「おいコラァ! そこのバカ二人!!」
怒号が飛んできた。 声の主は、田中廉太。 野球部名物「田中三兄弟」の末っ子であり、生真面目な性格ゆえに常に貧乏くじを引かされる男だ。
廉太は額に汗を浮かべ、必死の形相で叫んだ。
「遊んでんちゃうぞ! はよ手伝わんかい! ヨウダ! お前が目立つことするから、また客が増えてもうたやないか! せっかく行列さばき切ったとこやのに、どないしてくれんねん!!」
「あらあら、忙しくなりそうやねえ」
玉里は悪びれる様子もなく、ふぁあとあくびをしながら伸びをした。 そして、彼(彼女?)目当てで並んでいる女子客の方へ、愛想よく手を振りに行く。
「はいはい、お姉さんたち、お待たせ♡」
「うわ、待ってよ田中くん! 今行く!」
ヨウダも廉太に急かされ、慌てて列の整理に走る。 次から次へと押し寄せる客の対応に追われること数十分。 汗だくになりながら、ヨウダはようやく悟った。
(……やられた!)
玉里に一杯食わされたのだ。 自分がパーフェクトを出せば、客が「自分もやってみたい」と集まってくる。 その人混みに紛れてしまえば、あのデリケートな質問——「金井栄郎のこと」——を追求される心配はない。
(完全に計算通りってわけか……)
ヨウダはため息をつく。 だが、玉里は決してヨウダに関心がないわけではない。 むしろ、別の意味で強い関心を抱いていた。
忙しく立ち回るヨウダと、これから合流するであろう南極のことだ。
(……ヨウダと南極。あの二人、デキてんのか?)
男同士の恋愛。 普通の男子高校生なら、想像しただけで「ウゲッ」と顔をしかめるところだろう。 だが、女装男子である柴門玉里にとって、その真偽を確かめることは、ある種の研究対象のような、奇妙な好奇心をそそる謎なのだった。
** ** ** **
学園祭のシフトは、部活の模擬店とクラスの出し物を掛け持ちするのが一般的だ。 朝八時から午後三時半までの間、それぞれの持ち場で一時間程度働き、残りは自由時間となる。
ヨウダもようやくシフトの交代時間を迎えた。 入れ替わりでやってきたのは、蓮と宇治川だ。 二人はどんよりとした負のオーラを放っている。どうやら、例の「デート中の流星」を捕獲することには失敗したらしい。
「よし、教室に戻るか」
ヨウダは彼らに店番を任せ、教室へと向かう。 もうすぐ、南極のクラス当番も終わる頃だ。 二人はシフト明けに一緒に学園祭を回る約束をしていた。
そういえば、とヨウダは思う。 台湾人の自分にとっても、南極生まれ(?)の南極にとっても、日本の「文化祭」は初めての体験だ。
ヨウダの母校である台湾・台東の**「泰源中学」**は、山間にある生徒数の少ない学校だった。 日本のような文化系の祭りはないが、代わりに毎年盛大な「運動会」があった。
(懐かしいな……)
日本の体育祭とは少し違う、独特の熱気。 野球部の連中は、よく先生たちに駆り出されて会場設営を手伝わされたものだ。 開会式では、先頭に立って国旗や校旗を掲げて行進し、全校生徒の前で大會操(ラジオ体操のような集団演技)を披露する。
日に焼けた真っ黒な肌の、原住民のチームメイトたち。 彼らはまるで小動物のように、いつもギャーギャーと騒がしかった。 特に**馬耀**なんかは、いつも先頭を切ってふざけていたっけ。
「運動会の日なら、多少ハメを外してもコーチに怒られないからなー」なんて笑いながら。 まあ、その翌日には容赦なく練習があって地獄を見るのだが。
(あの頃の運動会、楽しかったな)
ヨウダの脳裏に、故郷の風景が蘇る。 三年生の最後の運動会は、超大型台風の直撃で中止になってしまった。 近隣の道路が土砂崩れで寸断されるほどの被害が出て、結局そのまま卒業することになったのだ。
もしあの台風がなければ、中学最後の思い出として、あの騒がしくも愛おしい時間をもう一度味わえていたのかもしれない。
ヨウダは少しだけ切ない気持ちを抱えながら、南極の待つ教室へと足を早めた。
「日空、日空?……あ、すみません。日空ってどこにいるか分かります?」
友達は教室に入るなり、接客に忙しいクラスメイトたちに声をかけた。 だが、肝心の南極の姿が見当たらない。
すると、近くにいた数人の男子生徒がヨウダに気づき、慌てた様子で彼を教室の隅へと引っ張っていった。
「ちょ、林……! お前、日空と仲ええんやんな?」
みんな、なぜか興奮気味だ。 何かあったのだろうか?
「ああ、うん。同じ野球部だし、寮も一緒だから……」
ヨウダがそう答えると、男子たちは前のめりになって食いついてきた。
「やっぱりか! なあなあ、あいつの家族って、もしかしてスゲェ有名人なんか?」
「え? 有名人?」
ヨウダは首を傾げる。 そういえば、いつか南極が話してくれたことがあった。
『おカン? 南極で働いてる科学者やで』
『最近は、地球温暖化の研究ばっかりしとるみたいやけどな』
寮のベッドに寝転がりながら、南極はさも「近所のスーパーで働いてる」かのような口調で言っていたっけ。 まるでそれが常識であるかのように。
日本は、世界でも有数の「南極観測先進国」だ。 アジアで唯一、初期の南極条約原署名国に名を連ね、1957年に開設された「昭和基地」をはじめ、これまでに四つの観測拠点を設けている。
南極の母親がいるのは、その中でも最新鋭の研究拠点——通称『新・南極基地』だ。
『ドームふじ基地にはな、深層の氷を掘るドリルがあるんよ。俺も日空博士と一緒に見に行ったことあるけど、あれはカッコええで!』
いつだったか、南極は目を輝かせて語っていた。
『なんでも、七十二万年くらい前の氷を調べて、昔の気候がどうやったか調べるんやて。……せやけど、あそこは氷ばっかりで動物もおらんから退屈やねん。それに比べたら、昭和基地の方がオモロいで』
『面白い?』
『おん。アデリーペンギンがおるからな。あいつら、チビで可愛い見た目しとるくせに、中身はとんでもないワルやぞ! めっちゃうるさいし』
ペンギンの話題になると、南極のトークは止まらなくなる。 ジェンツーペンギンに、ヒゲペンギン。運が良ければ、あの巨大なコウテイペンギンにも会えるらしい。
物心ついた時からペンギンと共に育ってきた彼にとって、ペンギンは「動物園のアイドル」ではなく「近所のうるさい鳥」なのだ。
ひとしきりペンギンの愚痴(ノロケ?)を言ったあと、南極は思い出したように母親の話に戻した。
『日空博士……ああ、おカンのことやけどな。どうもあの基地の責任者らしいねん』
『責任者!?』
『日本の南極研究のデータを全部まとめて、他国の基地の偉いさんたちと会議したり、その結果を世界に発表したり……まあ、よう分からんけど、言うなれば「日本の南極大駅長」みたいなもんちゃうか?』
『駅長って……』
南極の説明はいつもアバウトだ。 彼自身、母親が具体的にどんな役職なのか、正確には理解していないらしい。
ただ、幼い南極が見てきた母・**日空万里**の姿は、いつも忙しそうだった。
研究室にこもってデータを睨んでいたかと思えば、世界各国の研究者と飛び回るように会議を重ねる。 時には、海上自衛隊や設営隊の屈強な男たちとも対等に渡り合っていた。
南極基地と、自衛隊が補給を行う拠点は近い場所にある。 物資を運ぶ砕氷艦「しらせ」が接岸する時期になると、幼い南極は二つの拠点を繋ぐ通路を行き来して遊んでいたという。
そこで、自衛隊員たちに可愛がられていたのだ。
南極がよく口にする『野球を教えてくれた自衛隊の黒川軍曹』も、その中の一人だ。
日本唯一の女性南極研究権威であり、超論理的思考の持ち主である母・万里。 そんな非日常的な環境で、ペンギンと自衛隊員に囲まれて育った少年・南極。
ヨウダは改めて思う。 (やっぱりこいつの育ち、特殊すぎるだろ……)
「なんで急にそんなことを……?」
ヨウダが首を傾げていると、男子生徒たちは強引に彼を腕を引っ張った。 連れて行かれた先は、教室の前方に設置された「テイクアウトコーナー」。 そこでは、クラスで作ったクッキーやジュースが販売されているはずなのだが——。
「はい、こっち向いて〜! チーズ!」 「キャー! 南極くん、こっちもお願い!」
そこには、黒山の人だかりができていた。 しかも、客層が濃い。 全員、パーマをあてたり派手な服を着たりした、元気な**「大阪のおばちゃん」**たちだ。
その中心にいるのは、エプロン姿の南極だ。 彼はまるでお母さんアイドルかのように、おばちゃんたちに囲まれ、次々とツーショット写真の撮影に応じている。
「な、南極って……あんなにマダムキラーやったんか?」
ヨウダは目を丸くした。 まったく知らなかった。あの南極に、こんな隠れた才能があったなんて。
「ちゃうちゃう(違う違う)。あのおばちゃんら、みんな『南極のお母さん』目当てで来とんねん」
連れてきてくれたクラスメイトの一人が苦笑いしながら教えてくれた。 と、その時だ。
「ああっ!? オ、オカン!? 何しとんねん!!」
もう一人の男子生徒が素っ頓狂な声を上げた。 なんと、行列の中に自分の母親を発見してしまったらしい。 彼は顔を真っ赤にして駆け寄り、母親の腕をグイグイと引っ張る。
「恥ずかしいからやめてくれよ! ここ学校やぞ!」
だが、大阪のオカンは強かった。
「何言うてんの! あんた知らんの!? この子はあの日空博士の息子さんやで!」
お母さんは息子の手を振り払い、鼻息荒く力説する。
「日本を代表して南極に行ってる、あの世界的権威の日空博士の息子さんなんやから! 記念撮影は義務や、義務!」
「だからって、俺のクラスメイトやぞ! 息子のツレと写真撮りたがる親がどこにおんねん! 変やって!」
息子の悲痛な叫びもどこ吹く風。 順番が回ってくると、お母さんは満面の笑みで南極の隣に並んだ。
「はーい、南極くんコッチ見てー! Vサインいこか、Vサイン!」
「はいよー! お母さん、いい笑顔やね!」
南極はカメラを構えたおばちゃんに向かって、爽やかなアイドルスマイルを炸裂させる。 嫌がる素振りなど微塵もない。それどころか、あまりにも手慣れている。
「あ、お母さんら、せっかくやしクッキーもどう? クラスのみんなで作ってんけど、めっちゃ美味いで」
「あら、ほんま? ほな三袋もらうわ!」 「私も買うわ!」 「ウチもウチも!」
南極の見事な営業トークにより、山積みだったクッキーの在庫があっという間に完売してしまった。
「……ある意味、南極ってスゲェな」 「ほんまやな……」
ヨウダとクラスメイトは、ただただ圧倒されるしかなかった。
その時、行列に並んでいない一人の女性が、ヨウダの方へと歩み寄ってきた。 親しげな笑顔で、ヨウダに会釈をする。
「あら、こんにちは」
「えっ……あ、こんにちは?」
ヨウダは戸惑いながら挨拶を返す。 誰だろう? どこかで会ったことがあっただろうか。 ヨウダが記憶の糸をたぐり寄せようとしていると、女性は優しく微笑んだ。
「野球部の、田中廉太の母です。グラウンドで何度か顔合わせたんやけど……ふふ、覚えてへんかったかな。台湾から来た、リン・ヨウダくんでしょ?」
「あ! は、はい! すみません、気が付かなくて……!」
ヨウダは慌てて頭を下げた。 田中の母親——そう言われてみれば、目元が廉太に似ている気がする。
「ええのええの、気にせんといて。そんな大したことやないんやから」
田中のお母さんは朗らかに笑って手を振った。 そして、マダムたちに囲まれてフラッシュを浴びている南極の方を見て、納得したように頷く。
「やっぱり、凄い騒ぎになってもうたわねえ」
どうやら、彼女はこの状況を予想していたらしい。 ヨウダはおずおずと尋ねた。
「田中さんのお母さん……やっぱり、南極のお母さんって、そんなに有名なんですか?」
「あなたたち若い子は知らんかもしれへんけど……」
田中のお母さんは、懐かしそうに目を細めて語り始めた。
「南極くんのお母さん・日空万里博士言うたら、日本で唯一の女性南極研究員にして、世界も認めるアジアの権威なんよ。 当時はニュースでもよう取り上げられてな。黒髪ロングに眼鏡、分厚い南極観測服に身を包んで……あの『クールビューティー』な佇まいに、男女問わずものすごい数のファンがおったんよ」
彼女が表紙を飾った雑誌は、軒並み完売。 あの『週刊文春』ですら、日空博士の南極生活を特集した号は即日売り切れになったという。 しかも、その時の見出しが衝撃的だった。
『子供は欲しい。だが、男はいらない』
この発言が社会現象を巻き起こし、雑誌社には「増刷はまだか!」という電話が鳴り止まなかったらしい。 それほどまでに、彼女のカリスマ性は凄まじかったのだ。
「ひ、日空のお母さんって……そんなに有名だったんですか?」
ヨウダは呆然と呟いた。 南極が母親のことを話す時は、決まって「ただの科学者」とか「研究員」としか言わないからだ。 まさか、そんな歴史上の偉人のような人物だとは夢にも思わなかった。
その時——。
「あ! ヨウダ! もう終わったんか!」
最後のクッキーの箱を抱えた南極が、ヨウダを見つけて大きく手を振った。 マダムたちと写真を撮っていた時よりも、数段嬉しそうな満面の笑みだ。
彼は両手で十字を作って拝むポーズをする。
「ごめん! あと十分! ほんまにあと十分だけ待って! ……あ、おばちゃんクッキーお買い上げおおきに! へっ? ファンレター? はいはい、オカンにちゃんと写真撮って送っとくからな〜。ありがとう!」
――同時刻。昭和基地から遠く離れた、ドームふじ基地。
研究室で論文作成に没頭していた日空万里博士は、ふと何かの気配を感じて顔を上げた。
「…………」
視線の先には、幼い頃の南極が、自分が描いたペンギンの絵を持って笑っている写真が飾られている。 万里は眼鏡の位置を指で直し、その写真を数秒間じっと見つめた。
「……気のせいか」
彼女は小さく呟くと、再びキーボードを叩き始めた。
「お、おう……」
ヨウダは生返事をしながら、テキパキと接客をこなす南極を眺めていた。
(さすが、南極やな……)
普段、寮で一緒に暮らしていると、こいつの欠点は嫌というほど目につく。 ガサツだし、空気は読まないし、声はデカい。 けれど、こうして見ていると、彼はどこか「日本以外の場所から来た日本人」のような、不思議な特別感を放っている。
あの屈託のない笑顔を見せられると、どんなに呆れていても、結局は憎めなくなってしまうのだ。
ヨウダの表情があまりにも正直だったのだろうか。 横にいた田中のお母さんが、バッグからゴソゴソと何かを取り出した。
「はい、これ食べ」
手渡されたのは、息子である廉太のクラスが模擬店で作ったチョコレートだった。
「あ、ありがとうございます」
「あんたは、あんたのやるべき事だけやっとったらええんよ、ヨウダくん」
田中のお母さんは、慈愛に満ちた目で微笑んだ。
「ウチの廉太もな、いっつも上の兄ちゃんらみたいになろうって必死やねん。 でも、ウチは思うんよ。あの子は今のままでも十分ええ子やのにって。 ……それはあんたも、南極くんも、野球部のみんなもおんなじやで」
「……はい」
ヨウダは素直に頷いた。 その温かい言葉が、異国の地で張り詰めていた心にじんわりと沁みる。
「そういえば、ヨウダくんのお母さんにはまだ会うてへんねえ」 「あ、えっと……母は東京で働いてて、忙しいみたいで、なかなか……」
ヨウダが言い淀んだ、その瞬間だった。
「ヨウダ! お待たせ!!」
突然、背後から大きな声がかかった。
「うわっ!?」
驚いたヨウダの背中に、勢いよく飛び出してきた南極が激突する。 ドサッという衝撃。 バランスを崩したヨウダを支えようとして、南極が反射的に抱きつく形になり——。
ドタンッ!!
二人はもつれ合うようにして、床に尻餅をついてしまった。 あまりの出来事に、ヨウダの思考が停止する。 目の前には、至近距離にある南極の顔。
「あ、痛ッ……わりぃ、大丈夫かヨウダ?」
「……」
呆気にとられる二人を見て、田中のお母さんは「あらあら」と口元を押さえた。
「二人とも待ち合わせしてたんやね。ほな、おばちゃんはお邪魔虫やから、先に帰るわね」
「おう! バイバイ!」
状況を理解していない南極は、床に座り込んだまま元気に手を振り返す。
田中のお母さんの姿が見えなくなってから、南極は不思議そうに首を傾げ、ヨウダに尋ねた。
「なあ、誰やったん? あのどっかで見たことあるオバちゃん」
阪海工の敷地はそれなりに広い。 だが、学園祭で生徒が自由に動き回れるエリアは、校舎と、吹奏楽部や合唱部の発表が行われる体育館の二箇所に限られていた。
ヨウダと南極は、二年目の先輩たちと同じ寮で生活している。 そのため、試合で公欠している先輩たちのクラスがどんな出し物をしているのか、寮での会話を通じて事前にリサーチ済みだった。
二人は今、ある教室の前に立っていた。
「まさか、本当にこんなものがあるとは……」 「おもろそうやな〜」
ヨウダは目を丸くし、南極は楽しげに笑う。 今までアニメの中でしか見たことがなかった「日本の高校の文化祭のお化け屋敷」が、現実に目の前に現れたのだ。
教室の入り口は分厚い暗幕で覆われ、中が見えないようになっている。 入り口には、わざと古ぼけた和風の看板が掲げられ、おどろおどろしいフォントでこう書かれていた。
『猛鬼水族寮』
中からは「ヒュ〜ドロドロ」という不気味なBGMと、時折「ギャー!」という悲鳴が聞こえてくる。 なかなかに本格的な雰囲気だ。
だが、ヨウダの脳裏には、寮で同室の**中西亮太**先輩が、身振り手振りを交えて話していた言葉が蘇る。
『お化け屋敷〜? あんなもん、どうせ黒幕とゴミ袋で教室グルグル巻きにして、机で迷路作って、白衣着て「うらめしや〜」ってやるだけやろ! ガハハ!』
中西先輩は、野球の実力は「打撃特化・守備ザル」という極端なプレースタイルだが、性格は底抜けに明るいチームのムードメーカーだ。 よくヨウダのことを「おい台湾留学生〜!」とからかってくるが、そこに悪意はなく、ヨウダもそんな賑やかな先輩のことが嫌いではなかった。
(中西先輩の言う通り、手作り感満載の『呪われた寮』って感じだな……)
面白そうではあるが、入り口の料金表を見て二人はピタリと足を止めた。
『入場料:一回 350円』
「「…………」」
二人は顔を見合わせ、同時に無言になった。 金欠の男子高校生にとって、350円は大金だ。
ヨウダは毎月、母から仕送りとは別に、食費と小遣いをもらっている。 一方、南極はというと——。
「小遣い申請書、また書かなあかんのか……」
南極がげんなりした顔で呟く。 彼は一人暮らしで金回りが良さそうに見えるが、実はとんでもなく厳格な管理下に置かれていた。 母親の日空博士(またはその委託機関)から小遣いをもらうには、毎月**『小遣い申請書』**を提出しなければならないのだ。 「使用日時」「使用目的」「金額」を詳細に記入し、母の決裁(承認)が下りて初めて、口座にお金が振り込まれるシステムらしい。
(『お化け屋敷代 350円』……却下されそうだな)
結局、二人は鬼屋敷(お化け屋敷)を諦めることにした。 代わりに向かったのは、**田中龍二**先輩のクラスだ。 出し物は——『男装(女装?)メイド喫茶』である。
「いやー、残念やわー! ほんま残念!」
中西先輩が、わざとらしい悔しがりポーズで言っていたのを思い出す。
「試合さえなければ、あの『伝説のメイド・リュウジちゃん』を拝めたのになあ!? 龍二のフリフリエプロン姿、絶対おもろいやんけ!」
横にいた木村先輩も、それに乗っかって悪ノリする。
「ほんまやで。龍二、案外美人やったかもしれんぞ?」
「殺すぞ、ワレ。このボケ二人が」
龍二先輩が低い声で凄んだ。 口調は凶悪だが、耳のあたりが少し赤くなっている。 どうやら、公式戦の日程と被ったおかげで、屈辱の女装メイド役を回避できたことに安堵しているようだ。
龍二はコホンと咳払いをすると、ヨウダたち一年生に向かって言った。
「まあ、そういうわけや。お前ら、店行ったら俺の名前出せ。**『裏メニュー』**出したるから」
「お待たせしました! 野球カレーセットです!」
「おおっ! すげえ!」 「うまそうやん!」
運ばれてきたカレーを見て、二人は歓声を上げた。
普通に販売されているカレーは、水族館風に海の生き物を模したデコレーションがされているらしい。 だが、目の前の皿は違った。
ご飯は丸く盛られ、海苔で丁寧に縫い目が表現された「野球ボール」。 横には、バットに見立てたフランクフルトが添えられている。 まさに、龍二先輩考案の特製・阪海工野球カレーだ。 セットのドリンクは、久しぶりに飲むコーラ。
「いただきまーす」
ヨウダはスプーンを手に取り、ボール型のご飯を崩してカレーと混ぜ合わせる。 空腹の胃袋に、スパイスの香りが染み渡る。
スプーンを口に運びながら、ヨウダは何気なく周囲を見渡した。 すると、いくつかの視線に気づいた。
店内にいる何人かの上級生たちが、チラチラとこちらを見ているのだ。 いや、正確には——南極のことを見ている。
「……(ヒソヒソ)」 「……(あれが……らしいで)」
彼らは声を潜め、何やら噂話をしているようだった。 好奇心か、それとも別の感情か。 その視線に、ヨウダは少しだけ胸がざわつくのを感じた。
「まさか、ファン……?」
ヨウダは一瞬そう疑ったが、すぐに打ち消した。 田中のお母さんの話では、学校の生徒たちは南極の母親のことをほとんど知らないはずだ。 では、なぜ上級生たちは南極を見てヒソヒソと噂しているのか?
疑問は尽きないが、当の南極は「龍二先輩の名前出してよかった〜! 隠しメニュー最高!」と、カレーを頬張りながら無邪気に喜んでいる。 その能天気な姿を見ていると、ヨウダも「まあ、いいか」と考えるのをやめた。
食事を終えた二人は、再び校内探索へと繰り出した。
阪海工の学園祭は、ここからが本番だ。 一年生の出し物が「お化け屋敷」や「カフェ」といった王道(無難)なものだったのに対し、専門技術を学んだ二年生・三年生のクラス展示は、まさに「阪海工クオリティ」と言うべき独創的なものばかりだった。
「うわ、なんやこれ……!」
ある二年生の教室に入った二人は、その光景に息を呑んだ。 そこには、蛍光塗料で青く発光する巨大な滑り台が設置されていたのだ。
『ジェリーフィッシュ・ブルースライダー(水母藍光滑梯)』
海洋科らしい、幻想的な水母の世界観を表現したアトラクションだ。
さらに別のクラスでは、港湾土木科の本領発揮とも言える**『トレジャーハント・ショベル』**が行われていた。 水を張った巨大な砂場に、本物の小型パワーショベル(掘削機)が持ち込まれている。 客はそれを操作して、砂の中に埋められた宝箱を吊り上げるのだ。
「すげえ……本格的すぎるだろ」
ヨウダが感心している横で、見事に宝箱を吊り上げた南極が景品を受け取っていた。
「深海魚のぬいぐるみ、ゲットや!」
南極が嬉しそうに掲げたのは、グロテスクだが妙に愛嬌のある深海魚の人形だ。
「これ、ペンギンのエサにならへんかな?」 「ペンギンって、こんなん食うの?」
そんなのんきな会話をしながら、二人は三年生のエリアへと足を運んだ。
そこには、また違った空気が流れていた。 一・二年生のエリアがお祭り騒ぎだったのに対し、三年生のフロアは静かで、どこか落ち着いている。 出し物も、手作りの焼き菓子販売や、シンプルな喫茶・休憩所がメインだ。 集まっている三年生やその保護者たちの表情も、どこか少し重い気がする。 進学や就職——「卒業後の進路」という現実が、そこには漂っていた。
「なんか、場違いやな俺ら……」
その空気に耐えられず、二人は早々にその場を離れ、文芸部の展示教室へと向かった。 そこで、懐かしい顔ぶれに出くわした。
「お、久しぶりやな。ヨウダ、南極」
「あ! 先輩たち、お久しぶりです!」
そこにいたのは、野球部前キャプテン・**田中央一と、捕手の佐島真晴**だった。
陽一先輩は黒縁メガネをかけていた。 マウンドに立っていた時の、コンタクトレンズ姿の鋭い眼光は消え、どことなく垢抜けない、人の良さそうな「近所のお兄ちゃん」といった雰囲気になっている。 佐島先輩は相変わらずで、少し心配性そうな眉の形もそのままだ。
引退したとはいえ、やはり野球部員同士。 話題は自然と、現在二年生が中心となって戦っている秋季大会のことや、日々の練習のことになった。
話の流れで、二人の進路の話題になる。 驚いたことに、陽一先輩も佐島先輩も、大学へ進学しても野球部には入らないつもりだという。
「俺らの夏は、甲子園予選の最後の一球で終わったからな。もう選手としては十分や」
陽一先輩は穏やかに笑った。
「せやけど、野球が好きなことには変わりないし、これからは観る側として楽しむつもりや。 ……なあ、ヨウダ、南極」
陽一先輩はメガネの奥の瞳を細め、二人を真っ直ぐに見つめた。
「お前らがもし甲子園行ったら、俺がもう阪海工におらんようになっても、絶対に応援しに行くからな。アルプススタンドで叫んだるわ」
「そうだな。甲子園出場なんて言ったら、そりゃあ大ごとだからな。胃薬持って応援に行くよ」
佐島先輩も冗談めかして笑うが、その言葉には確かな重みがあった。
(……託されたんだ)
ヨウダは直感した。 自分たちが果たせなかった夢を、後輩たちに託す。 それは諦めではなく、願いだ。 何代もの先輩たちが、そうやってバトンを繋ぎ、まだ見ぬ「甲子園」というゴールを目指して走り続けてきたのだ。
ふと、今のエースである**藤田迅真**先輩の顔が浮かんだ。 強面で、ヤクザみたいな見た目をしているけれど、誰よりも野球に真摯なあの先輩。 彼もまた、この陽一先輩たちの想いを、その右腕に背負って投げているのだろうか。
「はい……! 絶対に、連れて行きます!」
ヨウダの力強い返事に、先輩たちは満足そうに頷いた。
「そういえば、ヨウダは初めてやったな。学園祭、どうや? 楽しめてるか?」
佐島先輩が、少し気遣うように尋ねてきた。 ヨウダと南極が大きく頷くと、陽一先輩はホッとしたように笑った。
「そらよかった。特にヨウダは台湾から来てくれたわけやし……なんちゅうか、ガッカリさせたくないっていうか。まあ、こんなもんやけどな」
「まあ、中には変な出店もあるけどな」 「変な出店?」
佐島先輩の言葉に、ヨウダは首を傾げた。 人気のある店もあれば、閑古鳥が鳴く「謎の店」もあるのが学園祭の常だ。
四人は会話をしながら、文芸部の展示室へと足を踏み入れた。 静かな展示室の片隅に、教室の雰囲気とは不釣り合いな、長机を並べただけの簡素なスペースがあった。 そこには、見知った顔が一人、ちょこんと座っている。
「小林?」 「あ……ヨウダくん、南極くん。それに三年生の先輩方」
そこにいたのは、野球部一年の**小林芝昭**だ。 そういえば、ヨウダと南極は、彼が立ち上げた『台湾研究会』という謎のサークル(?)に名前だけ貸していたような気がする。
机の上には、台湾ゆかりの品々が所狭しと並べられていた。 どうやら「台湾オタク」である彼の両親が収集したコレクションの一部らしい。 中には、かなりマニアックな雑貨や古本も混ざっている。
ふと、ヨウダの目に一冊の古いスポーツ雑誌が留まった。 表紙には、台湾プロ野球(CPBL)の黎明期を支えたチームのロゴが踊っている。 『兄弟エレファンツ』、『統一ライオンズ』、『時報イーグルス』、『三商タイガース』……。 懐かしさよりも、どこか複雑な感情が過ぎり、ヨウダはそっと別の雑誌を上に重ねて隠した。
「ヨウダ、この変なもん何や?」
南極が興味津々で手に取ったのは、砂時計のような形をしたプラスチックの塊と、紐で繋がれた二本の棒だった。 ヨウダには一目でそれが何かわかったが、日本語でどう説明すればいいのか言葉に詰まる。
助け舟を出したのは小林だった。
「それは『ディアボロ』……台湾では**『扯鈴』**って呼ばれてる、独楽の一種だよ。台湾の学生なら誰でも遊ぶおもちゃだって聞いたことある」
小林は眼鏡の位置を直しながら、早口で説明してくれた。 ヨウダと目が合うと、彼は少し顔を赤くして視線を逸らす。 「台湾人の本物」を前にすると、どう接していいか分からなくなるらしい。
「これがおもちゃ? どうやって遊ぶんや?」
陽一先輩も初めて見るらしく、不思議そうにそれを眺めている。 三人の視線がヨウダに集まる。 期待されている空気を感じ、ヨウダは苦笑しながら道具を受け取った。
「えっと……僕も小学校以来やってないんで、下手ですけど……笑わないでくださいね」
予防線を張ってから、ヨウダは地面にコマを置いた。 二本の棒を操り、紐をコマの軸の下に通して転がす。 コロコロと回転が生まれ、安定したところで、スッと紐を持ち上げる。
ヒュン、ヒュン、ヒュオオオ……!
コマは高速で回転しながら、空中で安定し始めた。 静かな文芸部室に、風を切る独特な音が響く。
「お、おおっ!?」 「すげえ! 浮いてる!」
周囲の視線が一斉に集まる。 ヨウダは昔の感覚を少しずつ思い出しながら、紐を交差させてコマを上下に弾ませてみた。 簡単な技のつもりだったが、初めて見る日本人たちからは「おぉー!」という歓声と拍手が巻き起こる。
「あ……」
注目されすぎて緊張したのか、紐が絡まってコマが止まってしまった。 気まずそうにするヨウダに、南極が目をキラキラさせて飛びついてきた。
「すっげええ!! カッコええわヨウダ! 俺にも教えてくれ! 俺もその**『ディアブロ(暗黒破壊神)』**やりたい!」
「ブフッ! 何言うてんねんお前!」
陽一先輩が吹き出した。 「ディアボロ」とゲームの「ディアブロ」を混同している南極の天然ボケに、場の空気が一気に和む。
その後、南極は見様見真似で挑戦したが、コマはゴロンと転がるだけで全く回転しない。 ヨウダが手を添えて教えても、紐が絡まるばかりだ。
「くっそ〜、むずいなこれ……」
「まあ、見ただけでできるような天才は、それこそ森川葵(ワイルド・スピード森川)くらいなもんやて」
佐島先輩がテレビネタで突っ込みを入れる。 悔しがる南極の姿に火がついたのか、陽一先輩と佐島先輩も「どれ、俺にも貸してみろ」と参戦し始めた。 四人の野球部員が、小さな台湾のコマを囲んでああだこうだと盛り上がる。
ふと、ヨウダはまた視線を感じた。 教室の入り口付近にいる数人の生徒たちが、こちらを見てヒソヒソと話している。 ヨウダがパッと振り返ると、彼らは慌てたように視線を逸らし、立ち去っていった。
(……やっぱり、何か言われてる?)
ただの好奇心にしては、どこか余所余所しい。 ヨウダの心に、小さな疑念の種が芽生え始めていた。
「ヨウダくん、どうしたの?」
キョロキョロと周囲を気にするヨウダに、小林が声をかけた。 ヨウダは「いや、なんでもない」とかぶりを振る。
小林はそれ以上追求せず、手元の小さなノートを取り上げた。 パラパラと数秒間ページをめくり、あるページで指を止める。 そして、眼鏡のブリッジをクイッと押し上げ、改まって口を開いた。
「ヨウダくん。君のクラスに、**青木陽奈**さんって子がいるよね?」
「え? ああ、うん。知ってるよ。吹奏楽部の子だろ?」
「最近、ある噂が流れてるんだ。『青木さんには、この阪海工の中に秘密の彼氏がいるらしい』って」
小林は探るような上目遣いでヨウダを見た。
「この話、知ってる?」
「え、それは……」
ヨウダは言葉に詰まった。 確かに、陽奈は以前言っていた。『男のためにこの学校に来た』と。 それが誰なのかは聞いていないが、その「男」の存在自体は知っている。
「……まあ、なんとなくは聞いたことあるけど」
ヨウダは曖昧に答えた。 小林は納得したように頷き、淡々と分析を続ける。
「やっぱりね。彼女は成績優秀で、一年生にして全国大会常連の吹奏楽部でレギュラー入り。おまけにあのルックスだ。まさに漫画から飛び出してきたような『学園のアイドル』だよ。 知っての通り、阪海工は生徒の九割がむさ苦しい男だ。みんな、高嶺の花である彼女の周囲には敏感なんだよ」
「だから、同じクラスの僕や南極が注目されてるってこと?」
「うん、半分正解。でも、彼らが見てるのは君じゃない……」
小林はペンを取り出し、ノートに何かを書き込みながら、核心を突く質問を投げかけた。
「そこで、ヨウダくんに聞きたいんだけど……」
ペン先がピタリと止まる。
「——南極くんって、青木さんに気があるのかな?」
「はあ? 南極が? まさか! ありえないだろ!」
小林の問いに、ヨウダは食い気味に、そして大声で否定した。 あまりの剣幕に、小林は少し驚いたように瞬きをした。
「……やっぱりそうだよね。僕もただの噂だとは思ってたけど」
小林は冷静にペンを走らせる。 だが、その視線だけは鋭くヨウダを射抜いていた。
「でも、ヨウダくん」
「え?」
「君の今の反応、意外だったな。南極くんと青木さんの関係を否定するのに、随分と必死に見えたから」
「ッ……!?」
図星を突かれ、ヨウダの心臓が跳ねた。
「ち、違う! 俺はただ、その噂があまりにもデタラメだから! 反応としては普通だろ!」
「ふーん……そうかな」
小林は意味深に微笑むだけで、それ以上は言わなかった。
ヨウダの胸中には、モヤモヤとした焦りが広がっていた。 まさか、南極と陽奈が付き合っているなんて噂が流れているとは。 確かに二人はクラスメイトだし、陽奈はよく南極に話しかけている。 だが、陽奈の態度はどう見ても、異性として南極を意識しているようには見えなかったはずだ。
どうしてそんな噂が? まさか……え?
ふと、以前陽奈に言われた言葉が脳裏に蘇る。 あの時、彼女は悪戯っぽい小悪魔のような笑顔で、こう聞いてきたのだ。
『ヨウダくん、南極との進展はどう?』
(……っ!)
ヨウダの思考がフリーズする。 あの言葉の意味。 そして、今自分が感じている、この胸のざわつき。
この混乱の原因は、陽奈のからかいのせいなのか? それとも——日空南極のせいなのか?
自分でも整理がつかない感情に、ヨウダはただ狼狽するしかなかった。
「おーい! おったおった!」
文芸部のドアの外から、よく通る声が聞こえた。 野球部の面々が振り返ると、蓮が入り口で大きく手を振っていた。
「二年生らが帰ってきたで! さっき校門にバス着いたん見えたわ。どうする? 一緒に迎え行くか?」
蓮の後ろには、宇治川や他のクラスメイトたちも控えている。 そして、その集団の中に——異様な姿の男が一人。
両手首を紐で縛られ、口にはガムテープ。 さらに顔面には油性マジックで落書きをされた、哀れな流星の姿があった。
バリッ!!
「むぐっ……! ぷはぁっ!!」
口のガムテープを勢いよく剥がされ、流星は酸素を求めて喘いだ。 そして、涙目で友達と南極に助けを求める。
「ヨウダ! 助けてくれぇ! 南極、頼むからこの縄解いてくれーッ!」
「えぇ……? なんで流星、縛られてんの?」
南極が純粋な疑問を口にする。
「彼女できただけで、ここまでせんでもええのになあ」
ヨウダは呆れてため息をついた。 その横で、三年生の陽一先輩と佐島先輩が何やら小競り合いを始めた。
佐島先輩が、ニヤニヤしながら陽一先輩の肩を肘で小突く。
「お前ん時も、こうして縛り上げときゃよかったな?」
「うるさいわ。……もう別れたやろ」
陽一先輩はバツが悪そうに言い返した。 その複雑な表情に、過去の「何か」を察したヨウダだったが、今は深く追求しないことにした。
「ほな、行くぞー!」
一行は流星(拘束状態)を引きずりながら、正門の方へと向かった。
** ** ** **
「あ、野球部や」
校舎の窓際。 一人の男子生徒が、眼下を行く集団を見下ろして呟いた。
校門からは、遠征から戻ってきたばかりの野球部員たちがぞろぞろと入ってくるのが見える。 道具車から降ろしたキャッチャー道具や、重そうな遠征バッグを背負った彼らの顔には、秋季大会の激闘を終えた疲労と、ある種の充実感が滲んでいた。
窓から彼らを見つめるその男子生徒は、阪海工の生徒ではない。
白い長袖シャツに、灰褐色のスラックス。 茶色を基調としたストライプのネクタイを締め、その上から濃いグリーンのブレザーを羽織っている。 全体的に英国風の気品を感じさせる、洗練された制服だ。
胸元には、他校の校章バッジが輝いている。 翼をあしらった盾のような幾何学模様に、細かな英文字の刻印。 高校野球に詳しい者なら、そのエンブレムを見ただけで震え上がるだろう。
そこには、こう刻まれているはずだ。
『大阪桐蔭(OSAKA TOIN)』
高校野球界の頂点に君臨する、「絶対王者」の証。
だが、そんなエリート校の生徒である彼は今、岬阪町のローカルフード**『魚団子』**を貪り食っていた。 魚のすり身で皮を作り、中に餡子や黒糖を入れた、甘じょっぱい味が特徴のこの地域の銘菓だ。
彼はよほどこの団子が気に入ったのか、口いっぱいに頬張り、リスのように忙しなく咀嚼している。 まるで、誰かに奪われるのを恐れているかのように。
「……見つけた」
その時、背後から冷ややかな声がかかった。
廊下を歩いてきたのは、女装姿の柴門玉里だ。 玉里は「大阪桐蔭の男」を見つけるなり、露骨に嫌そうな顔をした。
彼は男の向かいの席に座ると、腕を組み、足を組んで、不機嫌オーラ全開で言い放った。
「あんたな……急に『いま阪海工おる』とかLINE送ってきて、どういうつもりや?」
口の中の団子をお茶で流し込み、男はのんびりと答えた。
「しゃーないやん。宇治川のやつ、電話しても出えへんし。せやからお前に連絡したんや」
「ウチをスペア扱いすんなや。いきなり押しかけてきて……誰もお前の相手してる暇なんかないねんぞ? 今日は学園祭でみんな忙しいんやから」
玉里はため息交じりに、その男の名前を呼んだ。
「それで……神谷。あんたが今日ここに来たこと……」
玉里の声が、一段低くなる。
「**陽奈**は、知っとんのか?」
「言えるわけないやろ? あいつ、まだ絶対怒っとるしなあ」
神谷は頬をポリポリとかきながら、面倒くさそうな表情を浮かべた。 陽奈と顔を合わせるのは、彼にとってもそれなりにリスク(精神的ダメージ)があるらしい。
だが、次の瞬間にはケロッとした顔で玉里に向き直る。 この切り替えの早さが、神谷という男だ。
「つーかさ、柴門……」
神谷は自然な動作で手を伸ばし、玉里の頬に触れた。 指先で肌の感触を確かめるように撫でると、驚いたように目を丸くする。
「お前、また綺麗になったんちゃうか? ほんま凄いわ。男のくせに、そこらの女よりよっぽど美人やで」
歯の浮くようなセリフを、真顔で、しかも息をするように自然に吐く。
パシッ!
「あんたのそういう軽薄で、脳みそ空っぽなところが……みんなに嫌われんねん」
玉里は冷ややかな目で、神谷の手を容赦なく払いのけた。
大阪桐蔭高校 一年 神谷 蒼士
かつて岬阪中学野球部で、あの藤田迅真をも超える素材と謳われた天才エース。 投手としての才能もさることながら、打撃センスも規格外。 中学硬式野球の最高峰『リトルシニア日本選手権』では、中学生離れしたパワーで二本のホームランを放っている。
その実力ゆえに、履正社、近江といった名だたる強豪校からスカウトが殺到した。 だが彼は当初、それらを全て断っていた。
『俺は、みんなと一緒に阪海工に行く』
そう仲間たちと約束していたからだ。 しかし——彼は最後の最後で、その約束を反故にした。
私立の超名門・大阪桐蔭高校からの招待を受け入れ、仲間たちを裏切る形で進学を選んだのだ。
宇治川や柴門といった、阪海工に残った者たちと比べても、その才能は頭一つ抜けている。 間違いなく、同世代における、この地域で——。
『最優秀』の選手である。




