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第三十章 強豪校のトレーニングメニュー

台湾出身の陸坡と申します。


この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。

白井修吾は一軒の居酒屋に入った。

今夜は坂海工業高校の前監督・高橋城之とここで落ち合う約束だった。

引き戸を開けると、店員の「いらっしゃいませ」という声が響く。

店内は広くはなく、すぐに高橋監督の姿を見つけた白井は、

軽く頭を下げながら席へと向かった。


「すみません、高橋監督。遅くなってしまって……。」


「いいんだ、いいんだ。座れ。何を飲む?」

高橋は笑いながら言った。

「それに、もう“監督”じゃないさ。今は“白井監督”だろ?」


その言葉に白井は苦笑しながら席に腰を下ろし、

「とんでもないです」と返す。


ほどなくして店員が注文を取りに来た。

白井は高橋と同じ生ビールを頼み、

店員はタブレット端末を軽く操作して確認を済ませると、

「少々お待ちください」と言って奥へ下がった。


「便利な時代になったもんだな。」

高橋がジョッキを持ちながらつぶやく。

「昔、バイトしてた頃は全部手書きだったんだぞ。

 今はボタンを押すだけで終わりだ。

 でもな、いまだに携帯であの四角いコードを読み取るやつ、

 あれはどうにも慣れん。」


そう言って苦笑する高橋に、白井も小さくうなずいた。

最近はどこの店も“QRコード注文”が当たり前になったが、

この界隈ではまだこの店だけが紙のメニューを使っている。


岬阪町――。

ここも時代の波には逆らえない。

かつて漁業と、七〇年代の造船景気で栄えた町は、

近年観光業へと方向を変えつつある。

だが大阪市のような喧噪とは無縁で、

人の流れも少なく、まるで時間が止まったような静けさがあった。

人口が減っても、町の空気はどこか昔のままだ。


「で、どうだ?」

高橋がジョッキを置いて尋ねる。

「片岡先生と組んで、何日か経ったな。

 あの子たち、ついてこられてるか?」


白井は少し考え、グラスの中の泡を見つめながら答えた。


「監督……やっぱり分かっていたんですね。

 俺があの子たちに厳しい練習を課せない性格だって。

 だから“黒い役”を片岡先生に任せたんでしょう?」


「さあな。」

高橋は笑いながらビールを一口飲み、

喉を鳴らしてから言った。


「ただ、俺は引退した後も、

 あの子たちを導ける誰かが必要だと思っただけだ。

 ちょうど昔のプロ仲間から、

 “娘が女子代表を引退した”って話を聞いてな。

 偶然に過ぎんさ、白井。」


「……偶然、ですか。」


白井は表情を変えずに返した。

しかし心の奥では、素直に信じることができなかった。


(本当に“偶然”なのか……?)


そう思いながら、

自分が坂海工野球部に呼ばれた経緯を思い返す。

――もしかして、この道も最初から高橋監督の仕組んだ“布石”なのではないか。


ビールの泡が静かに弾け、

白井の胸の中に小さなざらつきだけが残った。


「だからどうだ? 公立の子たちに、私立並みの練習量をやらせるのはきついだろう?」


「反感というほどではありませんが……片岡先生のメニューは、短期間でこなすには少し無理があります。

 それに、野球部の皆はずっと“自由”なスタイルに慣れてますから。

 急に食事・入浴・消灯まで全て決まりごとにされたら、そりゃ抵抗も出ますよ。」


白井は静かに言った。

この子たちはまだ十六、十七歳。

つい最近まで家庭で自由に過ごしていたのに、突然寮生活になって、

しかも昔ながらの団体規律を押しつけられる。

現代っ子には理解しにくいのも無理はない。



※※※※



「中西、これはなんだ?」


部屋の点検が始まり、ぱっと見はきれいに整っていたが、

白井が中西のロッカーを開けた瞬間――。


中からぐちゃぐちゃの服、漫画やラノベ、

そして……どう見ても“そういう趣味”の雑誌が出てきた。


「……これは、持ち込み禁止物だな。明日の練習後、処分しろ。」


「す、すみません!」

中西は真っ赤になって頭を下げた。


(だから言ったのに。絶対バレるって……)


同室の村瀬智也は心の中でため息をついたが、すぐに自分の番が来た。


「村瀬。部屋でカップ麺とお菓子は禁止だと言ったよな? これは何だ?」


「え? そ、それは俺じゃ……」


自分の棚にカップ麺が山ほど詰まっているのを見て、村瀬は唖然。

そして振り返ると――中西が合掌して「ごめん」と無言で謝っていた。


(こいつ……自分の隠し物が入りきらないから、俺の棚に詰めやがったな!)


「消灯前に食堂の棚へ戻せ。いいな。」

「はい、すみません……!」


中西は内務点でマイナス五点、村瀬はマイナス一点。

白井の後ろでは、佐久間がスマホでその点数を記録している。

本来ならこれは主将・藤田の役目だが、

藤田は優しすぎて甘くなりがちなので、

白井が直接指示して、最も怖がられている佐久間圭一に任せた。


点検が終わると、中西は村瀬に必死で頭を下げた。

「ご、ごめん! 本当にごめんって!」


村瀬はあまり気にしていなかった。

(まあいいか。俺だってこっそり“裏グラビア”隠してたしな。

 一点減点くらい、いい罰だ。)


だが中西が本気で落ち込んでいる顔を見ると、

ちょっとイタズラしたくなった。


「じゃあさ、中西。アレ見せろよ。“Tバック”やってくれたら許す。」


「え? それで許してくれるの?」

「もちろん。さあ早く!」


中西は一瞬ためらったが、すぐにノリ始めた。

上も下も脱ぎ、パンツを手でくいっと尻に食い込ませると、

ベッドの上で構えた。


「ホームラン打った時は──」


「Tバックポーズッ!」


叫ぶと同時に、脚をクロスして前を強調、

T字に決めて変顔。

そのあまりのアホさに村瀬は腹を抱えて笑い転げた。


(減点一の代わりに、最高の芸が見れたな。)



※※※※



みんな口では文句を言いながらも、内務の出来は意外と悪くなかった。

日下尚人や川原慎のような、もともと几帳面で生活にリズムのあるタイプは、

消灯やスマホ禁止のルールもきちんと守っていた。


だが、そうでない者もいる。

中には白井が頭を抱えるような生徒も――。


「吉岡……いくらなんでも、スポーツ用のパンツをベッドの端に掛けておくのはどうかと思うぞ。」


「えっ? これ、ダメなんですか?」

吉岡大河は首をかしげて、本気で不思議そうな顔をした。


さらに、野球用の靴下に文房具を突っ込み、

教科書にグラブを挟み、

机の前には『阪神タイガース日本一! 行くぞォドボーン堀川!』

と叫びながら飛び込む裸の男たちをコラージュしたポスター。


どれも直接の違反ではない。

だが白井は思わず眉をひそめ、静かに言った。


「他のは見逃すとしても……吉岡、そのポスターは外しておけ。」


「え? わかりました。」

大河は素直に頷き、白井が去ったあとでポスターを外しながら、

小首をかしげた。


「これのどこが変なんだろ? 普通じゃない?」


――いやいや、大河、お前の“普通”が一番わからないよ。


川原と日下は、心の中でそっとツッコんだ。



※※※※



「…………」


白井は藤田と佐久間の部屋を覗いた。

ユニフォームは左右対称にきれいに畳まれ、

教科書は机の左と右にきっちり分けて並べられている。

他の部屋と違い、二人の机は長机をくっつけて共有。

帽子も並んで掛けられ、グラブも並び、

さらには下着と制服まで同じ棚に収納されていた。


「佐久間……服、間違えたりしないのか?」

後ろで記録をつけている佐久間に白井が尋ねる。


佐久間は当然のように答えた。

「大丈夫です、白井先生。藤田の服は、見ればすぐ分かります。」


「うん、俺も。佐久間のズボンは見たら一発で分かる。」

藤田は握力ボールを握りながら、真顔で頷いた。


白井は何か言いたそうだったが、

「藤田、やりすぎて腱を痛めるなよ」

とだけ言って、その場を終えた。



※※※※



意外だったのは田中龍二だった。

あれほど文句を言っていたのに、部屋は誰よりも整っている。

弟と同室で育ったせいか、整理整頓が身についているらしい。


ただ、規則どおりにスマホを廊下のロッカーに入れていなかったため減点。

「スマホ使えないなんておかしいだろ!」と不満を漏らしつつも、

結局は渋々スマホを鍵付きボックスに入れた。


木村陸斗は――中西と同じく、

ベッドの下からエロ雑誌や漫画を掘り出されて白井に叱られた。


「……陸斗。」


白井が出ていったあと、龍二が木村のところにやって来た。

しゃがみこんで、床に置かれた雑誌の山をじっと見つめる。

木村はてっきり笑われると思ったが、龍二は意外なほど真剣な表情で、

一冊の女優グラビア雑誌を手に取った。


「これ……中身、そんなにいいのか?」


「ええ、超おすすめです! 特に白シャツだけのページ、最高っす。」


「今夜、必ず貸してくれ。頼む。」


「了解っす! 龍二もこの水着特集、見てくださいよ。巨乳最高っすから!」


減点を食らっても、

野球バカたちの本能はどうやら抑えきれないようだった。


「日空……これはダメだぞ。」

「へへ……ごめんなさい。」


南極は頭をかきながら、気まずそうに笑った。


白井がロッカーを開けると、中は服がぐちゃぐちゃに押し込まれていた。

まるで点検直前に慌てて突っ込んだような痕跡が残っている。

さらに、大きさの違うペンギンのぬいぐるみが二つ――

どうやら林友達の棚に避難させられているらしい。


他にも説明不能な飾り物がいくつか。

白井は横にいた友達を見て、尋ねた。


「友達、日空はいつも床で寝てるのか?」

「はい。ベッドが小さいみたいで……。」


白井は南極の体を見上げた。

百九十センチを超えるその巨体では、確かにベッドが狭いのも無理はない。

だが――どうにも引っかかる。


「……友達。南極の布団、君のベッドのすぐ下にあるのはなぜだ?」


「えっ……」

友達は言葉に詰まった。


――本当は、南極が「一緒に寝よう」と言うことが時々あって、

 話をしているうちにそのまま並んで寝てしまうのだ。

 でも、そんなこと正直に言えるわけがない。


「だって、その方が友達と話しやすいから。」


困る友達をよそに、南極があっさり答えた。

白井はこめかみを押さえ、「こら」と軽く頭をはたいた。


「寝る時は寝る。学校でいくらでも話せるだろ。

 それに、もし友達が夜中に降りてきて蹴ったらどうする。

 改善しなさい。減点、一点。」


「友達もだ。ノートパソコンの使用時間はスマホと同じだろ。

 時間が来たら片づけなさい。机の上に出しっぱなしは禁止だ。」


「はい、すみません。」


白井が出て行ったあと、友達は出口近くの佐久間に呼ばれた。


「おいで。」


不思議に思いながら近づくと、佐久間が声を潜めて言った。


「……お前、南極と一緒に下で寝てるだろ? 一度や二度じゃないよな。」


友達の目が見開かれた瞬間、佐久間は確信した。

――あの小さな掛け布団。どう見ても南極のサイズじゃない。


「やっぱりな。あいつが布団を君のベッドの横に敷いた理由、

 “甘~い”ってやつだな。」


「からかわないでくださいよ、佐久間先輩。」


友達がむくれると、佐久間は口元をゆるめ、

しかし急に声を低くして言った。


「でもな、ハネムーンがいつまで続く?

 友達、お前と南極は“相棒”じゃなくて、“ライバル”だぞ。」


そう言って、軽く友達の肩を押し返し、部屋を出ていった。


「ライバル……」


友達はその言葉を繰り返しながら、

南極が服を畳んでいる背中を見つめた。


――もし今週の減点が八点を超えたら、

 週末の練習は体力罰になる。


自分だけ罰を受けたら……

それこそ、情けなくて仕方がない。



※※※※



林友達はピッチャーになりたいと思っている。

台湾の中学時代はチームの先発、いや、エースだった。

球速こそ平凡だったが、制球は常に正確で、多彩な変化球を持つのが特徴だった。


だが――日本では、こうした技巧派タイプの投手は珍しくない。

もはや「特徴」と呼べるほどの強みではなかった。


数日前、南極が登板したあと、

片岡先生は友達にブルペンで投げさせた。

捕手は田中廉太。


廉太のサインに合わせ、友達は次々と球を投げる。

スライダー、カーブ、そして厳しいインコースへの変化球――

すべてが正確にストライクゾーンへ吸い込まれた。


「友達、お前の最速はどのくらいだ?」

片岡先生が尋ねた。


「132キロです。」


平均球速は128キロ、最速132キロ。

変化球を投げると124キロ前後に落ちる。

だがコントロールは抜群。

高校野球全体で見れば、すでに上位レベルの投手だった。


宇治川も同じようなタイプだが、

彼の方が球速はやや速いものの、球種の幅では友達に及ばない。

むしろ藤田迅真や田中央一――坂海工の先輩たちと同じ系統の、

典型的な「坂海工式フォーム」だった。


「友達のピッチングは、すでに多くの高校生投手を上回っています。」

片岡は白井との打ち合わせでそう口にした。


しかし――


「だが、この球速では甲子園には届かない。」

白井が言った。


居酒屋のざわめきの中、

白井と前監督・高橋は、一・二年生のデータを手にしていた。


「我々の時代なら、台湾出身の林友達でも宇治川でも、

このスピードは驚異的だったよ。

ましてや藤田なんて、当時ならスター選手クラスだ。」


高橋が感慨深げに言うと、白井は小さく笑って答えた。


「でも、それは三十年以上前の話ですよね、高橋監督。」


高橋は静かに頷いた。


今や野球の進化は止まらない。

トレーニング理論も科学的に進化し、

甲子園を狙う投手の平均球速は130キロを下回らない。

むしろ140キロが“当たり前”になり、

中には佐々木朗希のように、高校三年で163キロを投げる選手もいる――。


「たとえ坂海工の古いピッチングマシンでも、

 うちの打撃練習は時速145キロ以上でやっていた。

 打ち損じや空振りなんて日常茶飯事だったよ。」


高橋監督が言うと、白井はうなずいた。


「僕と片岡先生は、その打撃速度を150キロ近くまで上げたいと考えています。」



※※※※



「一年生の強打者……二年生の強打者……」


投手陣のテストを終えた片岡は、さらに坂海工野球部の打撃データを確認していた。

グラウンドで撮影した練習映像を再生し、一人ひとりの打撃フォームやスイング軌道をチェックしていく。


画面に映ったのは田中龍二。


ピッチングマシンの設定は140〜150kmのランダムボール。

1球目――龍二はバットを振らず、じっと球を見送った。

その鋭い目つきでボールの軌道を見極め、腕を伸ばし軽く素振りをしてから、再び構え直す。


2球目はやや低めのインコース。

龍二は迷いなくスイングし、ファウル。

だが焦る様子もなく、静かに息を整え、再び立ち位置を微調整した。


――打球を外野に飛ばすつもりはない?

彼のスイング軌道が一瞬、片岡にそう思わせた。


そして3球目。球速148km。

龍二は腰を沈め、コンパクトにスイング。

打球は高く上がらず、内野で一度バウンドしたあと素早く外野へと転がっていった。


しかし、龍二は内野安打に喜ぶこともなく、すぐ次の球を打つ準備をした。

構えを少し高く取り直し、4球目を捉える――今度は綺麗な外野ヒット。


「なるほどね……この子が坂海工で調子に乗れる理由が分かるわ。」

片岡は映像を止め、スマートフォンにメモを取った。

打撃センスは確かだが、まだ矯正すべき点も多い。


田中龍二の次は木村。

打撃フォームは似ているが、スイングが早く、焦りが目立つ。

中西の方がスイング自体は安定していたが、打球は高く上がりすぎ、結局はフライアウトばかり。


投手の藤田、捕手の佐久間の打撃も悪くはないが、

二年生全体としてはまだ「基礎の欠落」が目立った。


「まったく……」


片岡はデータを見つめながら、思わずため息を漏らした。

白井への不満が心に浮かぶ。

――もし彼がもっとしっかり基礎を叩き込んでいたら、

 チーム全体の打率は今よりずっと良かったはずだ。


だが、しばらく考えたあと、彼女は思い直した。


白井修吾は「何もしていない」わけではない。


「皆は“お前の母校は強打のチームだった”って言うけど、

 実際にはお前が選手だった頃の練習は、

 打撃よりも守備を重視していたんじゃないか?」


高橋監督が、二杯目の生ビールを口にしながら言った。


「それに、坂海工の守備全体は“エース主導”の傾向が強い。

 三年の田中央一を中心に、投手を軸とした守備陣形。

 勝敗が投手力に大きく左右されるスタイルだ。

 これはお前のせいじゃない、白井。

 お前がそう教わってきた結果だ。」


PL学園の選手たちはかつて、守備の「完璧さ」を絶対条件として叩き込まれていた。

わずかなミスでも連帯責任――。

その病的なまでの練習方式によって、全員がエースのための駒として動き、

守備全体が投手を中心に完璧に機能する“投手主導の防御陣”を形成していた。


――エースを中心に守りを回す。

白井が知る限り、それが最も勝率の高い戦い方だった。


しかも、選手数の少ない坂海工には、この方式が意外なほど合っていた。

エースが崩れなければ、チームはどんな強豪にも対抗できる。

だが逆に、エースが打ち砕かれた瞬間、守備全体が一気に崩壊する――。


高校野球には、いくつかの典型的なスタイルがある。


一つは「エース主導型」。

投手を軸とし、守備全体で勝負を支えるタイプ。


もう一つは「組織守備型」。

エースや四番打者に頼らず、全員の連携と戦術で得点を奪うバランス型。


そして最後に「強力打線型」。

守備よりも打撃重視で、打ち勝つことで試合を制するタイプだ。


坂海工は――長年、どのタイプにもなりきれなかった。

強打線を組めず、個々の技術差が大きすぎる。

だからこそ、白井はエース投手を中心にした守備戦術を選ぶしかなかった。


だが、私立の強豪校と対峙したとき、

坂海工はそのエース戦術ごと、あっけなく崩れ去ってしまう。


片岡は、それを痛感していた。

白井が他の方法を知らないのではない。

彼自身が強豪校出身で、「エースを中心に守る」ことを体に叩き込まれてきたのだ。

だから無意識のうちに、その戦術を坂海工にも当てはめていた。


だが――強豪校が強豪校でいられるのは、

全員が高い基礎能力を持つ「才能の集団」だからだ。

公立の坂海工では、同じやり方は通用しない。

人数が少ないからこそ、別の道を探す必要がある。


ある日、片岡がこの考えを白井に伝えた。

二人はグラウンドの隅にある監督室で、長い沈黙を共有した。

一年生たちが道具を片付けに来るまで、誰も口を開かなかった。

答えのない沈黙――。


「自分のやり方の“盲点”に気づけたのは良いことだよ、白井。」

高橋城之がゆっくりと口を開く。


「片岡も同じだ。

 二人とも、かつてはエリート式、あるいは暴力的な訓練方式を受けてきた世代だ。

 だが、今の時代――公立校で同じことが通用すると思うか?

 その“どう使うか”を模索するのが、これからの指導者の役目だ。」


「……だから、僕は一つ考えがあります。」

白井が言った。


「坂海工に“小さな強打線”を作るのは、可能でしょうか?」


「打者の育成に賭けるしかないわね。」

片岡は考えながら答える。


かつて女子野球日本代表にいた彼女は、

投手でありながらチームの四番打者でもあった――いわゆる“二刀流”。

もし白井が築いたエース中心の守備体系を短期間で変えられないのなら、

打撃力を底上げするしかない。


それが、坂海工を変える唯一の道。


異なる環境、異なる経験を持つ二人の指導者が、

ついに一つの結論にたどり着いた。


――「打撃強化」こそが、坂海工を救う鍵だ。



※※※※



「なんか最近……練習、前よりキツくなってない?」

素振りをしていた蓮がぼそっと言った。


隣で同じように汗だくでバットを振っていた豊里流星も、息を切らしながら答える。

「オレなんか家に帰ったらもう風呂もメシもムリ。床に倒れてそのまま寝たい気分だよ……」


「え、汗くさいまま寝るの? うわっ、最悪! 流星マジで無理!」

宇治川が思いっきり距離を取る。


それを見て、南極や友達たちも「やばっ」と言わんばかりに一歩引いた。

「ちょ、ちょっと待てよ! 例えだって! ちゃんと風呂入ってるって!」

流星が慌てて否定する。


「大丈夫だよ。あいつ見た目は汚いけど、一応ちゃんと風呂入ってる。」

昨夜同じ部屋で寝た蓮が冷静に言う。

「証拠もあるしな。泡まみれで遊んでる動画、オレ持ってるぞ。」


「なっ……! なんでそれ撮ってんだよ! 消せって言っただろ!」

流星が真っ赤になって蓮に飛びかかる。


その瞬間――。


「何してるの、あなたたち!」


鋭い声がグラウンドに響き渡る。

全員がビクッと肩をすくめ、南極と友達が慌てて二人を引き離した。


片岡先生がゆっくりと歩いてくる。

あの不気味な笑み――誰もが悟った。

(終わった……。)


「一年生、ずいぶん元気そうね。じゃあ素振りを一人百回追加。

 あとでベースラン二十往復、増やしておきましょうか。」


「えぇぇぇっ!?」「うそだろ!?」

一年生全員が悲鳴を上げた。


「……素振り、さらに五十回追加。」

片岡は無表情のまま淡々と告げる。

「返事は?」


「は、はいっ!」


「よろしい。

 練習が終わったら、道具を片付けてから教室に戻ること。

 遅刻しても、私が先生に弁解することはありません。

 それと――授業中に寝ないこと、豊里。」


流星がビクッと固まる。


「二回目です。もう一度やったら……しばらく練習、見学ね。」


「す、すみません! もうしません!」


坂海工野球部の改革は、ついに一年生にも本格的に及び始めた。

体力も、練習方法も――すべてが変わろうとしていた。


球場ではユニフォーム着用が義務だが、それ以外の場では校内制服を着ること。

ユニフォーム姿で学校と球場を行き来するのは禁止。

さらに、一年生は二年生より早く球場に来てグラウンド整備を済ませ、

全員が強制的に朝ランとウォーミングアップに参加――。


その結果、林友達と日空南極は毎朝早くからスポーツバッグを背負い、

自転車で宿舎を飛び出す生活が始まった。


宿舎点検が行われるようになってから、

少なくとも南極は自分の服をすぐ見つけられるようになったのが救いだった。


潮風球場に着くと、片岡と白井の両先生がすでに入口で待っている。

一年生全員の点呼が終わると、倉庫裏で着替えを済ませ、整備作業に取りかかる。


潮風球場はもともとラインが常設されているため、

作業内容は整地、石拾い、防球ネットとバッティングゲージの設置、

そして冷蔵庫やアイスバス、水筒の準備。

すべて整えた頃に、ようやく二年生が到着する。


ウォーミングアップはこれまでの「グラウンド周回ラン」から一変、

阪海工から潮風球場へと続く坂道――通称「阪海坂」へ。


一見なだらかな坂だが、走ると脚にくる。

小林曰く、この道はかつて野球部の大先輩たちから「阪海地獄」と呼ばれていた。

坂の途中で嘔吐して担がれて戻った者も多く、

冬場には海風が凍てつくように身体を刺すという。


「マジかよ……」


一年、二年の部員が目を丸くする。

坂道ランは“上り下り三往復”。


二回目の途中ですでに脱落者が出始め、

三往復目の途中では金井榮郎が完全にバテて地面にうずくまった。

汗が泥の上に滴り落ちる。


「金井、歩いていい。最後まで歩ききればいい。」

背後から白井の声が飛ぶ。

白井は走り寄って冷たいタオルを金井の首に当てる。

榮郎は小さくうなずき、立ち上がってゆっくり歩き出した。


その時、向かいの道から柴門玉里が走ってくる。

玉里は無言のまま榮郎を一瞥し、すれ違う。

その一瞬の差だけで、榮郎は自分との距離を痛感した。

次の瞬間、彼は歩みを止めず、小走りに変わった。


坂道ランが終わると、次は筋力ウォームアップ。

サイドクロスラン、ペアでのプランク、腹筋、自重トレーニング。

全身の筋肉を温めたあと、キャッチボール、守備練習、そして地獄の折り返し走。

こうしてようやく、午前練習が終了する。


「田中くん、もうダメなの?」

片岡が倒れ込む田中龍二の前にしゃがみ、穏やかに微笑んだ。


「ま、まだ……いける……っ!」

龍二は息を荒げながらも立ち上がる。


「さすが強打者ね。格好いいわよ。」

片岡は背中を軽く叩き、彼の耳元で小声で囁いた。


「これはね、強豪校の“新入生・一日目”の基本メニューにすぎないの。

 ここで倒れられると困るわ。

 だって、あなたの白井先生の時代は、これの何倍もやってたのよ?」


龍二は目を見開いたまま、去っていく片岡の背中を見つめた。

そして隣で黙々と走り続ける白井を見て――小さく呟いた。


「……クソッ……。」


初めての強度だった。

林友達は息を切らしながら地面に座り込む。

一年生たちも同じく、倒れたり、仰向けになったり――まるで戦場のようにグラウンドに散らばっていた。

強豪校の練習に完全に圧倒されたのだ。


「水分補給を忘れるな。脱水や熱中症になるぞ。」

白井が声を張り上げる。

「手を洗って、休憩スペースにあるおにぎりを食べていい。」


「おにぎり!? 友達! おにぎりだって! 早く行こう!」

南極が嬉しそうに友達の腕を引っ張り上げた。


ほとんどの部員が動けなくなっている中、

一年生で唯一、全メニューをやり切ってまだ立っていたのは南極だけだった。

もちろん息は荒いが、彼の顔にはまだ余力があった。


「どうやら南極は、南極基地で退屈だった時に自衛隊員と一緒に体力訓練をしていたらしい。」

白井が呟く。

「藤田、田中龍二、佐久間、柴門玉里……体力のある選手は他にもいるが、

 日空はその中でも別格だ。」


「ほう、そりゃすごいな。」

元監督・高橋城之は笑い声を上げた。


「高橋監督、もしかして日空の野球の才能を知っていて、

 わざわざ受け入れたんですか?」


白井が問う。

南極のように学歴の空白がある特別な生徒を、公立高校が受け入れるのは異例だ。

小・中学校の卒業証明もなく、同等学力認定だけで坂海工への入学を許可されたのは、

確かに普通のルートではあり得ない。


「いや、日空南極を坂海工に入れたのは私の意志じゃない。」

高橋は即座に否定した。

嘘ではなかった。

彼自身、南極が野球部に入るとも、あんな才能を見せるとも思っていなかったのだ。


「それに、もう一人想定外の存在がいた。」

「……林友達、ですね。」


「そうだ。」

高橋は頷き、静かに続けた。


「日空南極と林友達。

 二人が出会ってまだ半年も経っていないのに、

 もう互いに呼吸を合わせようとしている。

 しかも、どちらも“投手志望”だ。

 強豪校の常識で考えれば、どうすると思う?」


白井は即答した。

「自分の価値を示すために、練習し、結果を出し、

 監督に“自分こそエースだ”と認めさせる。

 公平な競争で他を上回る。それが正しいあり方です。」


「――さすが、強豪校出身者の模範解答だな。」

高橋は笑い、グラスを持ち上げた。


「二人を互いのキャッチャーにさせてみた時、

 南極も友達も一切反発しなかった。

 むしろ自分たちで“どう組めばいいか”を話し合っていた。

 ――白井、お前はそれをどう思う?」


「え……それは……申し訳ありません、高橋監督。正直、分かりません。」


確かに、普通なら“エース意識”のある投手は、

自分がマウンドに立たない立場を嫌がる。

キャッチャーを任されるなんて、プライドが許さないだろう。


だがこの二人――林友達と日空南極――は違った。

彼らの間に生まれている呼吸や信頼感は、

白井にとってもこれまでに見たことのないものだった。


「私も同じだ。

 こんなケースは初めて見る。

 片岡先生にとっても、きっと初体験だろうな。」

高橋監督は静かに笑った。



※※※※



飯おにぎりを頬張りながら水を飲む友達。

ようやく“地獄のような”朝練が終わった安心感に包まれていた。

とはいえ、数分後にはグラウンド整備をして、

制服に着替えて授業に向かわなければならない。


そんな時、友達は動かずに座ったままの金井榮郎に気づいた。


「金井、食べないの?」

「……あ、林……ごめん。ちょっと、ムリだ。

 水も……もう入らなくて。」


声をかけられた金井は、どこか焦っているようだった。

自分より小柄な友達が、あの過酷なトレーニングを平然とこなす。

それを見た瞬間、自分の無力さが胸に重くのしかかった。


「少しでも食べないと、授業で倒れるよ。」

「ありがとう。でも、やっぱり……」


「えー? でもこのおにぎりめっちゃうまいよ? 鮭だよ、鮭!」

日空南極が二個目をかじりながら無邪気に言う。


「日空、君はほんとによく食べるなぁ。」

榮郎は苦笑いを浮かべた。


その時だった。

「食べられないんじゃない。食べなきゃいけないのよ。」


振り向くと、柴門玉里が歩いてくる。

結んでいた髪を解き、風になびかせた姿は、

まるでアイドルのように眩しかった。


「運動はね、食事とセットで初めて意味を持つの。

 この強度に身体を慣らすには、栄養を入れるしかないの。

 さっきの運動を無駄にしたくないなら、食べなさい。分かった?」


――“食べられない”んじゃない。“食べなきゃいけない”。


「柴門、金井がイヤなら無理に食べさせなくても……」

友達が口を挟もうとした瞬間、

柴門は鋭い目で彼を睨んだ。

その圧に、友達は口を閉じる。


横で南極がぽつり。

「こわっ……でも、食べたら意外と美味しいかもよ?」


「いや、そういう問題じゃないって……」

友達は苦笑しながら呟いた。


「これも訓練よ。」

柴門の言葉は冷たくも真っ直ぐだった。


榮郎には、彼の言いたいことが分かっていた。

だが、あの強度の練習で何度も吐き気を覚え、

今も喉が焼けるように苦しい。

本当に食べられるのか――。


“自分みたいに、他の皆についていけない選手に、

 野球部に残る意味なんてあるのか?”


握ったおにぎりを見つめながら、榮郎は迷った。


「……ごめん、やっぱり無理だ。」


そう言って、手の中のそれをそっと置く。


叱られると思っていた。

だが柴門は、ただ短く「そう」とだけ言い、

そのまま背を向けて去っていった。


それが――この一週間、

金井榮郎と柴門玉里の唯一の会話だった。


「数週間経ったけど、あの子たちは慣れてきたか?」

高橋城之が問いかける。


「一年生の中にはまだついていけない者もいますが、二年生はほぼ順応しています。

 村瀬もサボる回数が減って、真面目に投球練習を再開しました。

 ただ――打撃は相変わらずダメですね。」

白井は苦笑いを浮かべながら答えた。


放課後、朝の体力訓練とは違い、技術練習の時間が始まる。

それぞれのメニューを黙々とこなしながら、個別練習に入る者も多い。


藤田と佐久間は白井の助言を受け、スライダー以外にもう一つ、

打者を惑わせる変化球を試していた。


田中龍二は口では「面倒だ」と言いながらも、

片岡の打撃指導を受け入れていた。

木村もまた、打席での我慢のなさを矯正されている。

強打者の中には天性の感覚で打つ者もいるが、

龍二は理論と選球眼で“打撃”を語れるタイプだった。


「意外と教えるの上手いじゃない、田中。」

片岡が笑って言う。


突然の褒め言葉に、田中龍二は耳まで赤くして、

小さな声で「……ありがとうございます」と答えた。


「三日後には府大会だな。」

高橋が空いたビールグラスを見つめながら言う。


「子どもたちのことは、白井と片岡に任せた。」


「い、いえ! とんでもありません、高橋監督! 全力でやります!」

高橋監督に軽く会釈され、白井修吾は慌ててグラスを置き、深々と頭を下げた。


「……私はね、いつも物事がうまくいくように願っている。

 けど、結局のところ、自分にできることなんて限られているんだ。

 だからこそ、白井や片岡のような若い人たちが責任を背負う今、

 私もまだ何かすべきだと思っている。」


「生徒たち、高橋監督のおにぎりを本当に喜んでましたよ。全部なくなりました。」

「そうか、それは良かった。」

高橋監督は穏やかに笑った。


「ふぅ……暑いな、まったく。」


スーツの襟元を緩めながら、

阪海工業高校野球部・一年の浅村蓮の父親は、

外回りの仕事を終えて車に乗り込んだ。


腕時計を見ると、すでに夜の九時近い。

家に着く頃には十時を回るだろう。


――やってられんな。


そう思いながらも、もうこの歳で仕事を辞める勇気もない。

せめて古いマイカーがまだ動いてくれることを感謝すべきだ。

満員電車で帰るよりはマシだろう。


耳に差し込んだイヤホンから、ニュースが流れる。

『――今年の大阪桐蔭高校からは、この二名がプロ入りを表明――』


毎年八月になると、野球、野球、野球。

甲子園、プロ野球、国際大会――どこを見ても野球ばかり。

それが延々と続く。


「どうせ……看板に映る奴以外、誰も見ちゃいねぇんだ。」

浅村の父は吐き捨てるように言った。


車窓の外、阪神タイガースのスター選手たちが並ぶ巨大な広告看板。

その光を背に、車は静かに走り去っていった。

――あの輝きから、どんどん遠ざかるように。



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