第二九章 全力で投げたカットボール
台湾出身の陸坡と申します。
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
二年生たちが白井先生と片岡先生のことを騒いでいるせいで、
林友達は、野球部に何か大きな変化が起きるんじゃないかと心配していた。
その話を南極にしてみると、彼はいつものように笑って言った。
「心配したってしゃーないやろ。」
そして、軽く肩をすくめながら続けた。
「もし急にめっちゃ強くなったら、それはそれで最高やん?」
その言葉に、友達は余計に頭がこんがらがった。
けれど、南極の言いたいことは何となく分かった気がした。
一年生の中でも、監督のことでいちいち気にしてるのはごく一部だ。
同じクラスの蓮は「知らねぇよ」の一言で終わり。
宇治川は「ま、様子見やな」と言い、
流星は南極と一緒に、この前釣ったブリの写真を見ながら「すげぇな!」と盛り上がっていた。
小林と柴門はまったく興味がなく、榮郎は波風を立てたくなくて黙っている。
結局、監督交代の話をうっかり漏らした田中廉太だけが、
友達と同じように不安を抱いていた。
朝練の時間。
いつものように南極が遅刻ぎりぎりまで寝ていたせいで、
友達はしびれを切らし、宿舎の外で彼を待つことにした。
すると、すでにユニフォーム姿で自転車に乗った廉太が通りかかった。
宿舎の前の道で、二人は少し立ち話をした。
廉太は沈んだ顔でつぶやいた。
「……なんか、俺のせいで部がこんな空気になった気がするんだ。
みんな、本当は野球そんなに好きじゃないのかも。」
母親も兄の央一も「気にするな」と言ってくれた。
高橋監督にも直接謝った。
それでも胸の奥の重さは消えない。
友達はそんな廉太の肩を軽く叩いて言った。
「みんな、好きの形が違うだけじゃない?」
「釣りに行った時、流星も同じようなこと言ってたよ。
あの時も、みんな釣りしてるのに話題はずっと打撃とか守備の話でさ。
誰も釣りに集中してなかった。」
友達は笑って、夏休みの釣りの話をした。
「それに、あの寝坊野郎はめちゃくちゃ楽しそうだったよ。
俺が休みたいって言っても、キャッチボール付き合えってしつこくてさ。
でも、そういうのも“好き”なんだと思う。
みんな、それぞれのやり方で野球を楽しんでるんだよ。」
「寝坊野郎?」
廉太は目を丸くして聞き返した。
これまで、台湾から来たこの友達という部員を、
少し距離のある存在として見ていた。
外国人っぽい顔立ち、練習中の真剣な表情。
嫌いというわけではないが、
どう接していいか分からず、どこか壁を感じていた。
でも今、彼が軽く悪態をつきながら笑うのを見て、
(あ、こいつも普通にこういう顔するんだ)と思った。
小柄な友達が、少し不機嫌そうに男子寮を睨んでいると──
ドンッと勢いよくドアが開いた。
乱れたユニフォーム姿の南極が、慌てて飛び出してくる。
出てきた瞬間、真っ先に友達と目が合った。
「十五分。」
友達が冷たく言い放つ。
「え? うそ、十分やろ!」
南極は少しでも罪を軽くしようと、必死に笑いながら言い訳した。
「でも遅刻は遅刻でしょ?」
友達はそう言って自転車に跨り、廉太に向かって言った。
「田中くん、あいつは放っといて行こ。」
そう言い残してペダルを踏み出す。
「お、おう……」と返した廉太が振り返ると、
南極は困った顔で立ち尽くしていた。
「……次は、もうちょい早く起きろよ。」
そう言い捨てて走り出した南極は、
途中で「あ、チャリ!」と思い出し、慌てて自転車を取りに戻った。
「なあ、南極。お前、野球好きか?」
後ろから追いついた田中廉太が、息を切らしながら尋ねた。
「好きだよ。」
南極は振り返りもせず、当たり前のように答える。
「じゃあ……監督のことは、どう思ってる?」
「俺は、どっちも選ばないよ。」
「え?」
田中は目を瞬かせた。
「友達も心配してるみたいだけどさ、あいつ不安なの隠すの下手じゃん。
だから言ったんだ。──どっちの監督でもいいって。」
南極は笑って続けた。
「白井監督でも、片岡監督でも、
きっとみんな“坂海工を良くしよう”って考えてるだけ。
だから、田中が気に病む必要はないよ。
俺も、友達も、みんなそう思ってる。」
そう言って南極は軽く笑い、
ペダルを勢いよく踏み込んだ。
「おっそーい!」
友達が前から振り向きざまに言う。
「うるせー、待ってろ!」
南極は笑いながら追いつき、
二人の自転車が並んで坂道を駆け上がっていった。
その背中を見つめながら、田中はふと思った。
あの事件以来、ずっと胸の中でぐるぐる回っていた何かが、
少しずつほどけていくような気がした。
家族にも「気にするな」と言われた。
でも、不思議と今の方が心が軽い。
──きっと、自分は誰かに「大丈夫だよ」と言ってほしかっただけなんだ。
「待ってくれよー!」
田中廉太も笑いながら、ペダルを踏み込んだ。
※※※※
新学期が始まっても、学校の風景はあまり変わらない。
けれど、ほんの少しだけ何かが違っていた。
教室に入ると、友達は気づいた。
「林くん!」と声をかけてくるクラスメイトが増えている。
それに、呼び方も少しずつ変わってきた。
「リンくん」や「林同學」じゃなく、
流星たちが呼ぶように「ユウユウ」と呼ぶ男子も出てきた。
「台湾の野球チームって、日本とどう違うの?」
そんな質問まで飛んでくる。
友達は少し照れながらも、笑って答えた。
そして、相変わらずクラスの人気者は南極だった。
黒板の前で、彼は自分が描いた“南極ペンギン”の絵を説明している。
「こっちが普通に歩く時で、こっちが逃げる時!」
そう言って、ペンギンの歩き方と走り方の違いを全身で再現する。
「ぷっ……あははは!」
教室中が笑いに包まれ、先生まで笑っていた。
その様子を見て、隣の席の青木陽奈がぽつりと言った。
「南極って、野球選手っていうより……芸人みたいだね。」
南極の動きは、どう見ても滑稽だった。
けれど、友達には分かっていた。
毎日同じ寮で過ごし、練習もご飯もいつも一緒にいるからこそ分かる。
南極はふざけているんじゃなくて、
本気で“自分の知ってること”をみんなに伝えようとしているのだ。
──ただ、言葉だけじゃなく体を使って説明するタイプなだけ。
「日空は、別にふざけてるわけじゃないと思うよ。」
友達がそう言うと、隣の青木陽奈が顔を向けた。
「そうなの?」
そう言いながら、陽奈はなぜかじっと友達の顔を見つめ、
口元に意味ありげな笑みを浮かべた。
「……な、なに?」
友達は落ち着かずに聞き返す。
「ううん。夏休みの間に、友達くん、南極のことよく分かるようになったんだね。」
その柔らかい声と、少し含みのある言い方に、
友達はなぜか胸がざわついた。
「べ、別にそんなことないよ。ただ同じ寮で暮らしてるし、
部活もご飯も一緒にしてるだけ。」
友達はそう言ったが、陽奈はまだニヤニヤしている。
気まずくなった友達は、慌てて話題を変えた。
「それに、日空は本当にペンギン好きなんだ。
夜はいつもペンギンのぬいぐるみ抱いて寝てるし。」
「へぇ〜。じゃあ友達くん、南極の寝顔も見てるんだ?」
「み、見てない! たまたまだよ!」
友達は真っ赤になって否定した。
言葉がぐちゃぐちゃになり、外国語訛りが少し強く出てしまう。
学校生活は大きく変わらない。
けれど、十月末に行われる「阪海工学園祭」の準備が始まり、
教室の空気が少しずつにぎやかになっていた。
担任が言う。
「部活動に入ってる生徒は、学園祭に参加できるかどうか、
早めにクラス委員に伝えておくように。
特に運動部、吹奏楽部、合唱部は先生に相談してからね。」
「はい、分かりました。」
放課後、友達は隣で鞄を片づけていた陽奈に声をかけた。
「青木、もうすぐコンクールでしょ?」
吹奏楽部の彼女は、夏休みもほとんど毎日登校していた。
ときには野球部より遅くまで練習していて、
夕暮れの校舎に、音楽室から管楽器の音が響いていたのを
友達は何度も聞いたことがある。
「うん、もうすぐなの。夏はずっと練習だったから、
むしろ今の方が少し楽かな。」
陽奈は笑いながら答えた。
夏の間、友達は日本の生徒たちの“部活熱”を身に染みて感じていた。
それは台湾の体育班の仲間たちが、
夏休みの数日を休んだあとまたグラウンドに戻ってくるのと同じ。
ただ、音楽の部活までもがここまで真剣だとは思わなかった。
「陽奈って、すごいね。」
思わず、友達の口から自然に出た言葉だった。
突然の「陽奈」呼びに、陽奈は一瞬きょとんとした。
頬が少し赤くなり、それからふっと笑う。
「ありがとう。……でも、友達くんたちも忙しいでしょ?
一年生でも、もうすぐ試合あるんでしょ?」
「試合? 八月で終わったんじゃないの?」
友達が首を傾げた瞬間、
後ろから何か大きなものに抱きつかれた。
「うわっ!」
振り向くまでもなく分かる。
──日空南極だ。
南極の顔が肩にすり寄ってきて、
友達はうんざりしたように彼の頬を押し返す。
「やめろって。……ねぇ、九月も試合あるの?」
「あるよー。九月中旬、秋の府大会だ!」
南極は元気よく答え、いつもの笑顔を浮かべた。
放課後の風が、夏と秋のあいだを揺れていた。
陽奈のリコーダーの音が、
遠くの野球グラウンドまでかすかに届いていた。
秋季府大会──それは大阪府内の高校野球における重要な大会だ。
この大会で上位に進んだ四校、もしくは六校が近畿大会への出場権を得る。
そして、近畿大会で優勝した学校は十一月中旬に行われる明治神宮大会へ。
日本各地の秋季大会の優勝校が一堂に会し、全国の頂点を競う。
近畿大会の成績は、そのまま翌年春のセンバツ甲子園の出場校に直結する。
つまり──この秋で結果を残せなければ、
翌年の春まで公式戦の舞台には立てない。
残された希望は、夏の全国高校野球選手権大会のみ。
「明治神宮で優勝すると、その地方に“神宮枠”が一つ増えるんだよ。」
青木陽奈が説明し、すぐに付け加えた。
「でも、優勝校のおこぼれで出場なんて、正直あんまり嬉しくないけどね。」
──だから、藤田先輩たちはあんなに遅くまで練習してるんだ。
友達はそう思った。
三年生のキャプテン・田中央一は正式に主将の座を藤田迅真へと引き継いだ。
これで二年生が阪海工の主力としてチームを担うことになり、
そして友達たち一年生も、半年後には校章入りのユニフォームをもらえる。
それが正式な「坂海工野球部員」としての証だった。
「陽奈って、野球部のことほんと詳しいよな?」
南極が笑いながら言い、
ついでに友達の頬に顔をすり寄せてくる。
「やめろって!」
友達は慌てて逃げ出した。
「それぐらい常識でしょ。別に大したことじゃないよ。」
陽奈はそう言って、そっけなく教室を出ていく。
「なるほど……って、え? 今の俺、バカにされた!?」
ようやく気づいた友達が顔を真っ赤にして叫ぶ。
「友達くん、ほんと可愛いね。」
「うるさいっ!」
南極の一言に、友達はさらに赤くなった。
──陽奈、君は本当にすごいね。
音楽室でトランペットを吹きながら、
陽奈の頭の片隅に、あの時の友達の声がよみがえる。
あの真っすぐな目、
丸刈りの頭、
まっすぐな野球部員の姿。
その誠実な言葉が、胸の奥に静かに残っていた。
けれど同時に、別の顔も浮かんでくる。
同じ野球部にいた、もうここにはいないあの人の顔。
──思い出したくない。
でも、忘れたくもない。
「……あなたも、そんなふうに言ってくれたら、
きっと、こんなふうにはならなかったのに。」
陽奈は心の中でつぶやき、
そのまま息を吸い込んで、トランペットを鳴らした。
その音色は、まるで何事もなかったかのように
美しく、完璧だった。
※※※※
ここ数日、野球部の練習はこれまでとほとんど変わらなかった。
高橋監督は「引退した」と言っていたが、
グラウンドにはときどきその姿が見える。
友達たちは、彼を見かけるたびに帽子を取って、
「おはようございます!」と深々と頭を下げた。
白井先生はいつも通り、二年生を中心に厳しく指導している。
特に主力メンバーの動きを細かくチェックしていて、
声をかけられた選手は緊張した面持ちで返事をしていた。
ただ──一つだけ大きな変化があった。
女性の姿が、グラウンドに立っている。
片岡先生だ。
彼女は発言もせず、ただタブレットを手に
グラウンドの端から端まで歩き、
何かを記録していた。
白井先生の指導にも、選手たちの会話にも干渉しない。
ただ静かに観察しているだけ。
藤田と佐久間がバッテリー練習をしているときも、
片岡は通り過ぎる際に軽く微笑んだだけだった。
「……なんか、見られてると落ち着かねぇな。」
藤田が呟く。
「分かる。あの人、絶対なんか考えてる顔だよな。」
佐久間も同意した。
「お前と似てるよ。こっそり計画立てて、
気づいたら人を驚かせるタイプ。」
藤田がにやりと笑う。
「その“褒め言葉”、全然嬉しくねぇよ。」
佐久間はため息をついた。
藤田は決して、チームを鼓舞するような
典型的なエースやキャプテンではない。
名目上は三年の田中央一先輩から主将を引き継いだが、
実際には田中のバッテリーだった佐島真晴先輩が、
佐久間にこっそり本音を伝えていた。
──藤田にはエースとして集中させろ。
チームの裏回しはお前に任せる。
「結局、俺が黒幕ってことかよ……」
佐久間はぼやいた。
そんな中、田中龍二が片岡先生をちらちら見ながら、
「白井派の勝利だな」とか勝手に言って喜んでいた。
それを見た佐久間は思わず眉をひそめる。
「ほんと、あいつ……グラウンド以外は残念だな。」
そのとき、片岡先生が近づいてきた。
「日空南極くん、あなたの投球を見せてくれる?」
柔らかい声だった。
「それから……あなたは台湾から来た林友達くんね。
キャッチャー経験があるって聞いたわ。
少し受けてもらえるかしら?」
友達と南極は顔を見合わせ、うなずいた。
二人はバットを置き、ブルペンに戻って準備を始める。
南極が手伝いながら、友達はキャッチャー装備を身につけた。
準備を終えると、片岡先生の前に立った。
その様子を遠くから見ていた藤田は、
思わず顔を向けたが──
「藤田、集中しろ。」
白井先生の声が飛ぶ。
「……はい。」
藤田は渋々前を向く。
だがその横で、佐久間がさりげなく近づいてきた。
藤田のフォームを確認するふりをして、
視線はしっかり片岡と南極の方に向けている。
「……あの人、何する気だ?」
「さあな。」
藤田は首を振った。
二人には、なぜ片岡先生がいきなり一年生を指名したのか、まったく分からなかった。
けれど白井先生がこちらを見ている。
余計なことを言わず、藤田と佐久間はすぐに自分の持ち場へ戻っていった。
片岡の行動に気づいていたのは、もちろん白井も同じだった。
彼は片岡をちらりと見たが、
片岡はそれに気づき、軽く手を振って「心配しないで」というジェスチャーを返した。
──私は何も勝手なことはしない、という無言の合図だった。
「……どうしよう、友達。」
南極が不安そうに呟く。
友達はキャッチャーミットをはめながら、
彼の顔を見て小さく笑った。
無理もない。南極は、入部したばかりの頃に暴投をした以外、
投手として本格的に投げたことはほとんどないのだ。
「分かんない。でもさ、日空、ずっと“投手になりたい”って言ってたろ?」
友達はキャッチャーマスクをかぶりながら言った。
「とりあえず、この前の紅白戦と同じで行こう。
サイン、まだ覚えてるよね?」
「……覚えてるけど。」
南極は不安げに眉を寄せた。
すると友達が、拳で軽く南極の胸をトンと叩いた。
「大丈夫。俺がちゃんと受けるから。」
その一言で、南極の表情が少しだけ和らいだ。
二人はまだ一年生があまり使わないブルペンへ向かった。
そこにはすでに宇治川と田中廉太の姿があった。
ちょうど廉太がキャッチャー装備を外して、息を整えているところだった。
「……廉太、キャッチャーやってたんだ?」
友達は少し驚いた。
紅白戦のとき、廉太のいる紅組では佐久間先輩がずっとマスクをかぶっていたから、
彼が捕手をやる姿を見るのは初めてだった。
「お前らも呼ばれたのか。」
宇治川が南極を見て、それから友達の格好に目を留めた。
「え、友達……?」
「お疲れ。」
「南極がいるのに姿見えないと思ったら……まさかキャッチャーかよ。」
「まるで俺が南極専属みたいに言うなよ。」
友達は苦笑したが、マスク越しで表情は見えない。
宇治川はマウンドに立つ南極を見ながら、
少し顔を寄せて囁いた。
「本気で投げさせる気なのか? アイツ、まだまともにピッチングしてねぇだろ。」
「片岡先生の指示だよ。……しっ、聞こえるって。
日空、今めちゃくちゃ緊張してるから。」
そう言った瞬間、ちょうど片岡先生がブルペンに入ってきた。
「林くん、準備できた?」
「は、はい!」
友達はマスクをしっかりつけ、キャッチャーボックスにしゃがみこんだ。
──まずはストレートでいい。
ミットを構え、指でサインを出す。
南極は、少し息を吸い込んでから、
ゆっくりとモーションに入った。
友達はこれまで南極の球を何度か受けたことがある。
だがそれは、あくまで“キャッチボール”の延長だった。
南極が本格的にピッチングフォームを覚えたのはごく最近。
普段の練習は、タオルを振ったり、ネットにボールを投げたり──
「本物の投球」は、今日がほとんど初めてといっていい。
それでも、マウンドに立った南極がこちらに小さくうなずくのを見て、
友達の胸には不思議と期待が湧いた。
南極は深呼吸を一つ。
友達に教わった投球の動作を思い出す。
藤田先輩が言っていた「体全体で投げる」感覚も頭に浮かぶ。
──一気に。ためらわずに。
足を上げ、体をひねり、腕を振り抜く。
バシッ!!
キャッチャーミットに乾いた音が響いた。
「……ズレたな。」
「うん、思いっきり外れてる。」
田中と宇治川が顔を見合わせる。
だが二人の視線はすぐに手元のスピードガンに釘付けになった。
──144キロ。
「……は?」
口が勝手に開く。
投球コースこそ逸れていたが、球の速さは常識外れだった。
後ろで見ていた片岡先生は、
スピードガンの数字を見ても表情を崩さない。
ただ静かに頷いて、友達に手で合図を送った。
──続けなさい。
友達はもう一度サインを出す。
次はツーシーム。
二縫線の間に指をかけて投げることで、
回転を抑え、ボールが投げ手側へ沈み込む。
打者のタイミングをずらす球種だ。
南極がうなずき、再び腕を振る。
──低い!
友達は瞬時に判断し、捕球姿勢を切り替えた。
内八の体勢で膝をつく。
ドンッ!!
ボールは本塁の手前に叩きつけられ、土を跳ね上げる。
友達は素早く体で弾みを殺し、ミットで押さえ込んだ。
胸の奥に響くような重い感触。
土の匂いと、微かに焦げたゴムの匂い。
片岡が再びスピードガンを見る。
──146キロ。
直球とほぼ同じ速度。
その数字を見ても、彼女はやはり顔色一つ変えなかった。
「田中くん、宇治川くん。」
「は、はい!」
「日空くんって……あなたたち、たしか“野球始めたの最近”って言ってたわよね?」
「え、ええ。南極は……まだそんなに長くないです。」
「具体的には、どれくらい?」
宇治川は少し考え込み、ためらいながら答えた。
「入部してからですね。高橋監督に頼まれて、友達がルールとか教えてたんです。
本格的に理解したのは……たぶん一ヶ月前くらい?」
その言葉を口にしてから、彼自身が青ざめた。
──おいおい、そんな短期間で、
140キロ超えってありえるのかよ……。
南極は、次のボールを握り直していた。
額にうっすらと汗をにじませながらも、
どこか楽しそうに。
「そう……分かったわ。ありがとう。
あなたたちはもうグラウンドに戻って。
白井先生には、林友達くんと日空南極くんを少し借りるって伝えておいて。」
片岡先生はにこやかにそう言い、
宇治川の手からスピードガンを受け取った。
一年生。
野球歴、わずか半年。
球速──一四〇キロオーバー。
制球はまだ荒い。
だが、修正不可能というほどではない。
片岡里子は、内心静かに息を整えた。
高橋監督から事前に聞いていた。
「ほかの地域から来た二人の一年生がいる」と。
白井からも各学年の選手データを受け取っていたが、
日空南極の欄だけ、ほとんど空白だった。
──データは、やはりデータにすぎない。
今、目の前で実際に投げる姿を見ると、
その意味がよく分かる。
南極の身体の柔軟さ。
投球動作のしなやかさ。
そして、何よりも──
ボールを離す瞬間の感覚の鋭さ。
「……これは、掘り出し物かもしれない。」
心の中で、思わず呟く。
元・女子日本代表のエースとして、
片岡里子は動揺を抑えるのに必死だった。
見た目には冷静そのものだが、
胸の奥はざわめいている。
もし短期間で彼を伸ばせるなら──
変化球を武器にする技巧派の藤田迅真。
常識を超える速球を持つ日空南極。
そして安定感ある右腕・宇治川祥二。
この三人が揃えば、
坂海工の投手陣は一気に変わる。
相手打者を確実に混乱させるだろう。
「……面白くなってきたわね。」
片岡は心の中で微笑んだ。
ただし今はまだ、
その衝動を抑えるべきとき。
二年生主力の育成を優先しなければならない。
彼女は視線を捕手席へ移した。
そこでは、元・投手の林友達が
真剣な顔で南極の球を受けている。
──この二人、やっぱり何かある。
そう思った瞬間──
「わっ、ごめん! 友達!」
「だ、大丈夫! 気にすんな、日空!」
南極の球が少しそれて、
友達のミットからこぼれ落ちた。
土が跳ね、ボールが転がる。
片岡は笑みを漏らした。
──まだまだ粗削り。
でも、光っている。
──やっぱり、南極にカーブはまだ早かったか。
友達はマスクの中で眉をひそめた。
さっきから曲がり球はことごとくストライクゾーンに入らない。
スライダーはすっぽ抜け、チェンジアップは落差が極端すぎる。
ストレートも悪くはないが、ボール先行が多い。
「なんでこんなにコントロールが乱れるんだ……?
いったい誰に投げ方を──」
そこまで考えて、友達はふと気づいた。
──教えたの、自分じゃないか。
胸の奥が冷たくなった。
まさか自分の教え方が悪かったのか。
せめて、今この場だけでも南極に“いい投球”をさせてやりたい。
監督の前で恥をかかせるわけにはいかない。
けど、どんな球を投げさせる?
フォーシーム? ツーシーム? それとも──カット?
いや、まさか……南極がカットボールなんて投げられるわけ……
「日空!」
思考を遮るように、片岡先生の声が響いた。
南極がびくりと顔を上げる。
「全力で投げなきゃ、意味がないでしょ?」
片岡の口元には笑みが浮かんでいる。
だがその瞳は鋭かった。
友達はその一瞬、はっとした。
南極の表情──あれは驚きだ。
まるで「どうして分かったの?」と言いたげな顔。
……まさか、こいつ、今まで本気出してなかったのか?
全力じゃなくて146キロ?
「本気で投げなさい。
じゃないと、あなたのパートナーに失礼よ。」
「は、はいっ! すみませんでした!」
南極は慌てて帽子を脱ぎ、
友達と片岡の両方に頭を下げた。
友達はまだ頭の中で迷っていた。
今の南極が確実にストライクを取れるのは、フォーシームだけ。
だが、それでは彼の持ち味が出ない。
──どうすれば、南極の“凄さ”を見せられる?
ミットの中で、友達の指が小さく動いた。
「……カット?」
口の中で呟きながら、サインを出す。
カットボール。
直球に最も近い軌道で、ほんのわずかに球心をずらす握り方。
見た目は真っすぐだが、本塁に近づくと僅かにスライドし、
打者の芯を外す──。
「さあ、見せてくれ。
お前の“全力のカット”を。」
友達は拳でミットを叩き、合図を送った。
「カット……?」
南極は不安そうに繰り返した。
けれど、キャッチャーボックスの友達は
もう捕球姿勢に入っている。
──大丈夫。投げろ。俺が受ける。
その無言のメッセージに、南極の肩がわずかに震えた。
暴投が怖い。
本気で投げたら、また友達を危険な目に遭わせるかもしれない。
あのとき、防具もつけていなかった友達に当てかけた記憶が、
頭の奥でチラつく。
けれど──
今は違う。
マスクの奥で、友達がこちらをまっすぐ見ていた。
南極は最近になってようやく気づき始めていた。
どうしてあの頃──南極基地でキャッチボールをするとき、
いつも付き合ってくれたのは黒川曹士と、
野球経験のある自衛官だけだったのか。
他の人たちは、誰も近寄ろうとしなかった。
あの頃から、自分の投げる球は“制御不能”だったのだ。
まともな訓練を受けていない人間が受ければ、
一発で大怪我をする。
そう、知らず知らずのうちに、自分は危険な球を投げていた。
「日空っ!」
声が飛ぶ。
今度は片岡先生ではなかった。
キャッチャーマスクの向こうから、友達の声。
「緊張すんな。全力でいい。俺が受けるから!
まずは深呼吸!」
南極は素直に息を吸い込み、ゆっくり吐き出した。
そして、ミットを構える友達を見つめる。
その顔が──笑っていた。
彼はいつものように、静かにうなずき、
自分が教えてくれたあのフォームを思い出させてくれる。
投げる前に心の中で唱える。
──打者を三振に取る、最高の一球を投げろ。
足を踏み出し、体が自然に開く。
腕がしなり、まるで鷹が翼を広げるように大きく振り抜く。
鋭いスピンがボールを包み、
それは一直線にミットへ──
だが、軌道の終わりでわずかに外へ滑る。
カットボールだ。
バチィィン!!
乾いた爆音のような捕球音。
ミットに衝撃が走り、友達の手が一瞬しびれた。
力の波が腕を伝って体を押し返し、
そのまま尻もちをつく。
「う、うそだろ……?」
視界の端で、片岡がスピードガンを掲げていた。
──153km。
友達は思わず口から出た。
「幹……騙人……(クソッ……うっそだろ……)!」
台湾訛りの軽い罵りが漏れた。
あまりの現実離れに、言葉が追いつかない。
「はい、そこまでにしましょう、日空。」
片岡先生が手を叩いた。
その声でようやく、友達は我に返る。
目の前には、もう南極が駆け寄ってきていた。
倒れた友達を心配そうにのぞき込み、
「大丈夫!? どこか痛い?」
と言うや否や、両腕で彼をひょいと抱き起こした。
「わ、わっ! 大丈夫! 下ろして! 日空っ!」
慌てて暴れる友達。
南極は胸をなでおろして笑った。
「よかった……急に倒れるから、焦ったよ。」
「平気。ちょっと手が……しびれてるだけ。」
友達はミットを外し、
しびれた指先を何度も開閉した。
手のひらに残る、あの衝撃。
それが、日空南極という存在の証のように、
まだ熱を帯びていた。
片岡は少し離れた場所で、静かに微笑んだ。
──これが“全力”か。
この子、どこまで伸びるんだろうね。
夜の練習場に、雨上がりの風が吹き抜ける。
誰も言葉を発さないまま、
ミットに残る震えだけが、確かに彼らの胸に残った。
「友達、手は大丈夫? しびれ以外に痛みはない? 無理してないでしょうね?」
片岡先生が近づき、心配そうに言いながら友達の手を取った。
「だ、大丈夫です。ただ少ししびれてるだけで……」
友達は首を振った。
南極の全力投球がミットへ突き刺さったあの瞬間を思い出す。
目の前に迫る白い球、逃げる間もなく叩きつけられた衝撃──
まるで“弾丸を素手で受け止めた”ような感覚だった。
確かにボールには触れた。
だが、衝撃に耐えきれず、ミットから球はこぼれ落ち、
彼はそのまま尻もちをついた。
──自分は、南極の“全力の球”を捕り損ねたのだ。
「念のため、氷で冷やしておきましょう。
あとで外のアイスバケツに手をつけて。
南極も、あなたのフォーム、体のブレが大きすぎるわ。
あれじゃ肩と肘の靭帯に負担がかかる。
無理に全力で投げさせてごめんなさいね。」
「い、いえっ! 先生、俺は大丈夫です! ほら!」
南極は笑いながら腕をぐるぐる回した。
「こらっ!」
片岡が眉をひそめる。
「投球のダメージを甘く見るな、日空!
いい? あとで友達と一緒に氷水に腕をつけるの! わかった!?」
「は、はいっ! すみませんでした!」
南極は背筋を伸ばして頭を下げた。
「友達は……本当なら投球テストも続けたかったけど、
今日はやめておきましょう。
念のため、十分間冷やして、それでも麻痺が引いたら軽くストレッチして。
もし痛みが残るようなら、すぐ報告してね。」
「わかりました、片岡先生。」
友達は素直に頷いた。
二人は牛舎を出て、言われた通り手を氷水のバケツに沈めた。
真夏の熱気が残る空気の中、その冷たさが心地よく染みる。
「はぁ~、気持ちいいなぁ……」
南極はまるで風呂にでも浸かっているような顔でうっとりしていた。
「南極、お前ほんとに腕大丈夫か?」
友達は隣で尋ねた。
140キロ後半を超える球速、あの乱れたフォーム──
投げた本人の体が無事でいるのが不思議なくらいだ。
「平気平気。ほら、友達の方こそ、痛くないの?
あんな球受けたら、ちゃんと診てもらわないとダメだよ。」
そう言いながら、南極は氷水の中で手を伸ばし、
友達の手を包み込んだ。
冷たい水の中で、自分の手を大きな手が握る感触に、
友達は思わず眉をしかめた。
「おい……ちょっとは真面目にしろよ。」
「へへっ。」
南極は悪戯っぽく笑い、氷のような水面に小さな波紋が広がった。
その顔を見た友達は、思わず息をつく。
──まだ冗談を言えるなら、本当に大丈夫だな。
夏の午後、氷の冷たさと笑い声だけが、
坂海工の練習場に静かに残っていた。
※※※※
練習が夕方に近づくと、友達と南極はいつもどおり自転車で男子寮へ帰った。
夏休みとは違い、二年生が寮に入ってきたため、寮は以前よりずっと賑やかだ。
今日は一年生が後片付けを担当し、始業して間もないため白井先生が「今日はとりあえず通常メニューで終わり」と言って解散になった。
友達と南極は部の用具を片付けて戻ると、二年生たちはすでに食事の準備をしていた。
食堂の厨房からは料理の香りが漂い、炊飯器の白いご飯と、昆布だしの味噌汁が湯気を立てている。
ちょうどそのとき、一台の小型トラックが坂海工の男子寮へ向かってゆっくり走ってきた。
運転席と助手席には、白井修吾と片岡里子が座っている。
助手席の片岡は、運転する白井を見ながら言った。
「白井先生がワントントラックの免許を持ってるなんて、本当に驚きました。」
「監督になる前はいろいろやってたからな。」
白井は、一般の乗用車より少し大きめのハンドルを握り、マニュアルのギアを操作しながら答えた。
日本では法規上、小型トラックを運転するには準中型免許が必要だ。
軽トラなら運転できても、積載量や登坂力はやはり違う。
「これ、全部積んで大丈夫かな?」と白井は運転しながら助手の片岡に尋ねた。
「九月下旬の秋季府大会まで時間があまりない。急に方針を変えるのは、適応できない選手が出るんじゃないかと心配で。」
「適応できないなら、無理にでも適応させるしかないわ。」
片岡里子は言った。
「やり方は荒っぽいかもしれないけど、九月の秋季府大会は重要だし、十月の近畿大会にも影響する。個々の適応にあわせてゆっくりやっていたら、予選でほぼ敗退する可能性が高いのよ。」
「つまり、片岡監督は“改革しつつ無理やり慣れさせる”つもりだってことか。ちょっとやりすぎだろ。」
「反対されても、私は“リスクを背負ってでも”実行するつもりよ、白井さん。」
「そうなるだろうな。」
白井はそう言って、前を見据えた。
練習が終わる頃、二人ともその“暗黙の了解”を感じていた。
下校前、片岡がふと「白井先生、トラック運転できる?」と尋ねたとき、
白井は目的も聞かず、「軽トラくらいなら免許ある」とだけ答えた。
その時点で、二人とも相手の考えを理解し、黙って同意していたのだ。
小型トラックが男子寮の前に停まると、すでに引退した三年生の部員たちが外で待っていた。
白井が降りて、元主将の田中央一に声をかける。
「悪いな田中、また頼んじまって。
本当は“もう勉強に集中しろ”って言ったのに。」
「いえ、大丈夫です、白井先生。」
央一は笑って答え、他の三年生たちも頷いた。
「しかし……佐久間の母さん、よく許してくれましたね。
これ全部、寮に運び込むなんて。」
佐島真晴がトラックの荷台を見上げ、感心したように言う。
「いや、提案したのは私だけど、実際に社長夫人を口説いたのは高橋監督よ。」
片岡が肩をすくめて答えた。
──やはり高橋監督だ。
たとえ引退しても、地元との繋がりでは彼に敵わない。
地方に縁のない自分たち二人では、どうしても届かない領域がある。
「さあ、運び込みましょう。
場所は一番奥の、使われていない大広間(和室の宴会室)です。」
「了解!」
白井の掛け声で、三年生たちは一斉に荷物を運び始めた。
トラックから次々と物資が降ろされ、
男子寮の中で食事中の後輩たちは、ぽかんとした表情で通路を開ける。
「すまんね、ちょっと通るよ。」
三年生たちは笑いながら声をかけ、荷物を抱えて奥へ進む。
「な、なんだこれ?」
三杯目のご飯をかき込んでいた田中龍二が顔を上げた。
そこに兄・央一をはじめとした三年生たちが次々現れる。
「よく食うな、田中。」
「い、いえ、そんな……!」
龍二は慌てて立ち上がり、条件反射で礼をする。
「田中先輩? これは……?」
藤田が尋ねると、央一はただ笑って答えず、荷物を運び続けた。
藤田は隣の佐久間を見る。
「お前、知ってたのか?」
「いや、俺もまったく聞いてない。」
二人は顔を見合わせ、ますます混乱するのだった。
「みんな、こんばんは。」
三年生たちの姿とともに、なんと女性の片岡先生までもが男子寮に現れた。
その瞬間、食堂中がざわつく。
白井先生が続いて入ってくると、「二年生、静かに」と一言。
一気にその場の空気が引き締まった。
そして隅のほうで食事をしていた一年の友達と南極を見つけ、手を振って呼び寄せる。
「二人とも、手のほうは大丈夫?」
片岡が心配そうに尋ねる。
二人は頷き、友達は五本の指を握ったり開いたりして「問題ないです」と示した。
こうして一年の二人も二年生たちの輪の中に混ざり、
寮のホールに全員が集められた。
そのあいだも三年生たちは荷物を運び入れ続けている。
片岡は前に立ち、集まった野球部員たちに話し始めた。
「みんな、以前グループに送った書類、ちゃんと読んでるかしら?
あの中に“週の練習後に必ず数日間、ウェイトトレーニングを取り入れること”と書いてあったはず。
グラウンドにも機材はあるけど、錆びていたり、今の年齢に合わない物も多いの。
だから、野球選手向けの中古トレーニング器具をいくつか買い取ってきました。
これからは本格的にウェイトを導入します。
三年生が器材を組み立てて設置してくれたら、明日、白井先生と私で
各自のメニューを作るので、しっかり実行してもらいます。」
「えぇ──っ!?」
「うそだろ、いきなり!?」
「そんなの、勝手に決めすぎじゃないか!?」
ざわつく部員たち。
「静かに。発言は挙手して。」
白井の声が響く。
「……はい、田中。」
田中龍二が手を挙げ、不満げに言った。
「白井先生、俺たち何も聞かされてません!
急にこんなこと決められても困ります! あんまり強引すぎませんか!?」
二年生たちはうなずき合う。
確かに、何の説明もなく突然機材を運び込み、“明日からやれ”では納得できない。
「田中、提出された書類には実施日程も全部書いてあったぞ。
今日の搬入もその予定のうちだ。……まさか、最後まで読んでなかったんじゃないか?」
白井が言うと、龍二の顔がピクリと動く。
後ろを振り向くと、木村が小声で耳打ちした。
「“実施予定と備考”のとこ、ちゃんと書いてあったよ。」
「……マジかよ……くそっ……」
龍二は眉をひそめ、小さく舌打ちした。
「でも! それでも急すぎます!
ルールを守ったところで、本当に強くなれるんですか!?」
「ええ、強くなるわよ。」
片岡がすぐに答えた。
まっすぐに田中龍二の目を見据えて。
「強くなるどころか──大阪府大会ベスト4、
そして近畿大会出場も夢じゃない。
坂海工を近畿大会に連れていく、それが私と白井先生が立てた“当面の目標”です。」
「近畿大会……?」
龍二の声が、少しだけ落ち着いた。
近畿大会――それは、大阪府大会を勝ち抜いた強豪だけが
京都、奈良、和歌山の代表校と戦える、夢の舞台。
エースの藤田だけでなく、打線の中心である自分も、
いつかその舞台で強豪投手たちと打ち合いたいと密かに思っていた。
……けれど、坂海工がそこに届くなんて、
誰も本気で信じたことはなかった。
男子寮の一角に、沈黙が落ちる。
誰もが驚いたように息をひそめる中、
初めて見る田中龍二の“静かな顔”が、
薄暗い蛍光灯の下に浮かんでいた。
友達は、無言で立っている田中龍二先輩や、沈黙を守る二年生たちを見つめていた。
空気は一気に冷え込み、重く張り詰めたまま動かない。
――そのときだった。
隣の南極が、突然スッと手を挙げた。
「えっ……?」
友達は思わず目を見開く。
“ちょ、何してんだよお前!?” と心の中で叫ぶ。
白井先生が南極のほうを向いた。
「南極、何か言いたいことがあるのか?」
「はいっ!」
南極は元気よく立ち上がり、勢いのまま言った。
「そのウェイトトレーニングって、一年生もやっていいんですか!?
前に南極基地で、自衛隊の人たちがやってるの見たことあります!
すっごくカッコよくて、ずっとやってみたかったんです!
あの重りを“ぐわっ”て持ち上げるやつです!
僕、友達と一年生のみんなもやっていいですか!?
っていうか、今すぐでもやりたいです! いいですか!? 白井先生、片岡先生、いいですか!?」
一瞬の静寂。
学長たちの視線が、一斉に南極とその隣の友達に突き刺さる。
友達は背筋を冷たくしながら、心の中で悲鳴を上げた。
――やばい!完全に浮いてる!
だが、隣を見ると南極の目は本気だ。
まるで少年が新しい遊具を見つけたみたいに、キラキラしている。
二年の村瀬智也は、それを見て口を押さえ、笑いをこらえていた。
(さすが“南極”ってあだ名の一年。空気の温度までぶっ壊すとは……!)
「日空、今がどういう場面かわかってるのか?……もういい、座れ。」
白井先生は呆れたように言った。
友達は慌てて南極の腕を引っ張って座らせ、
小声で囁く。
「ば、ばかっ! 今は大会の話してんだぞ!? 空気読めって!」
「え、でもさ」南極は真顔で言う。
「一年後の秋の大会、俺たちも出るんでしょ?
今から練習できたら、いいことじゃない?
それに友達もさっき三年生が器具運んでるとき、“わあ!すごい!”って台湾語で言ってたじゃん。」
「言ってねぇよ!!」
友達は真っ赤になって否定した。
そのとき、別の声が上がる。
「先生、いいですか。」
「佐久間、どうぞ。」
キャッチャーの佐久間がゆっくり立ち上がり、言った。
「この器具、もうここに運び込まれたってことは、
うちの店の母も使用を許可したってことですよね。
……だったら、使わないなんて失礼です。」
(親父も母さんも、何も言ってなかったけど……やっぱり、そういうことか。)
佐久間は胸の奥でため息をついた。
母がこんな大がかりなことを承諾したのは、
きっと“圭一のため”――その気持ちは痛いほどわかる。
だからこそ、逃げられない。
――「ここまでやってもらって負けたら、言い訳はできない」
そんな無言のプレッシャーが、背中に重くのしかかる。
「……片岡先生、白井先生。
本当に、強くなれるんですか?」
その問いに、二人の教員は同時に答えた。
「もちろん、強くなる。」
ピタリと同じタイミングだった。
一瞬、二人とも「あっ」と顔を見合わせ、
そして思わず小さく笑った。
「でも……龍二の言う通り、今日いきなり全部の規則を守れっていうのは、さすがに無理があると思います。」
佐久間が静かに言った。
意外なことに、彼は田中龍二の味方に立った。
「え? そうかな……? 俺は早く始めた方が──い、痛っ!」
横から蹴りが飛び、藤田が呻いた。
佐久間が無言で藤田の脛を蹴り、目で「黙れ」と合図する。
――今は“田中派”を演じて、龍二の信頼を取る作戦中だ。
野球バカのこの男は、空気を読まずに余計なことを言う天才だから始末が悪い。
案の定、田中龍二はうなずいた。
「そうだよ! やっぱり、急すぎる!」
「そうね……確かにいきなり全部は大変よね。」
片岡は笑顔を崩さず、軽く手を打った。
「じゃあ、こうしましょう。
今日はまず“ひとつ”だけ、決められたことを守る。それでどう?」
途端に部員たちがざわめきだす。
「ひとつだけなら……」「それならいけるかも……」と、空気が和らいでいく。
白井は横でその様子を見ながら、心の中でため息をついた。
――やれやれ、やっぱり“温水(ぬるま湯)作戦”は効果抜群だ。
かつて自分がいた強豪校でもよく使われた手だ。
一度に何もかも課すと反発される。
だが“まずは一つだけ”と言えば、抵抗は消える。
そして気づけば二つ、三つ……いつの間にか全員が縛られていく。
(まったく……さすが高橋監督が連れてきた女だ。)
白井は片岡を横目に見ながら、思わず苦笑する。
彼女はまるで舞台の脚本家のように、生徒たちを操っていた。
「じゃあ、一番簡単なやつにしましょう。」
片岡が言って、わざと軽い口調で続けた。
「“寮の清掃と整理整頓”──これでどう?」
「整頓……?」
「そう。寮内を常に清潔に保つこと。それと、持ち込み禁止の物は持ち込まない。
もし見つかった場合は……」
「しょ、処罰!?」
中西亮太の声が裏返った。
部内一のトラブルメーカーにとって、その言葉は心臓に悪い。
「そう、処罰。強豪校の選手たちはね、
プレーだけじゃなく、生活面でも“規律”を持っているの。
私たちもそれを見習うべきよ。
寮の環境はみんなで作るものだから――もちろん、一年生も同じ。」
片岡はにこやかに言いながら、視線を一年の方へ向ける。
友達と南極は、同時に「えっ!?」と声を上げた。
「五分。」
片岡が手を挙げ、五本の指を立てる。
「五分だけあげるから、その間に自分の部屋をもう一度確認して。
汚れ、忘れ物、禁止物――見つけたらすぐ片づけること。
違反が多ければ、その分“ペナルティ”も増えるわよ。
終わらなければ、土日の練習後に続きね。」
パンッ。片岡が手を打った。
「さ、スタート!」
「そ、そんなの聞いてないぞーっ!!」
田中龍二が叫ぶ。
「はい、いまので残り四分三十秒~。」
片岡が涼しい顔で言うと、
一斉に野球部員たちが階段を駆け上がった。
「うわぁぁ! ヤバいヤバいヤバい!」
「俺の部屋、弁当の箱そのままだ!」
「靴下どこ行った!?」
寮中が一気に戦場のような騒ぎになる。
友達と南極も慌てて自分たちの部屋へ走ったが、
扉を開けた瞬間――友達は凍りついた。
「……終わった。」
彼は悟った。
――このルームメイト、日空南極という男の生活習慣は、終わっている。
「残り三分よ~。早くしなさい。」
片岡の声が響く。
白井は腕を組んで、騒がしく動き回る生徒たちを眺めていた。
(まったく、何度言っても片づけなんかしやしないくせに……)
だがその瞬間、ふと胃の奥が重くなった。
過去の記憶が一瞬よみがえり、吐き気のようなものが込み上げる。
若い頃、自分がいた“あの”寮のこと。
監督の怒声。夜中の罰走。
秩序と暴力の境界が曖昧だった時代。
息を整えて目を閉じる。
騒ぐ声が遠のき、次第にその記憶も薄れていった。
片岡が白井の様子に気づき、低い声で言う。
「無理しないで。……辛かったら、外に出てもいいのよ。」
「いや、大丈夫。」
白井は小さく笑った。
「たまに、昔のことを思い出すだけだ。……野球部とは関係ない。」
そう、自分はもう高校生じゃない。
今は“教える側”だ。
この部をどう導くか、決めるのは自分たちだ。
――あの頃の亡霊(こころの影)なんか、もう乗り越えなきゃな。




