第二七章 じゃあ、どっちを支持する?
台湾出身の陸坡と申します。
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
「はい……わかりました。すぐに岬阪旅館へ行きます。本当に申し訳ありません。」
電話を切った田中家の母親(坂海工野球部保護者会の総代表)は、慌ただしく上着と帽子を身につけ、玄関を出ようとしたところで、仕事帰りの夫と鉢合わせた。
「こんな遅くに出かけるのか? 何か急用か?」と父。
「高橋監督の引退の話が広まっちゃったの。今から他の保護者に説明に行かなきゃ。央一が二年の頃から私が保護者会の総代表をやってるし、これは私の責任よ。」
そう言いながら靴を履く妻を見て、夫は車のキーを手に取り「自転車じゃ危ない。俺が送る」と言って車を開けた。
「あなた、仕事終わったばかりでしょ? ご飯もまだなのに……」
「後で食べればいい。高橋監督の件の方が大事だろう。それに……俺も坂海工の元野球部員だ。一緒に行くのが筋だ。」
「父さん、母さん! 俺も――」
慌てて制服のまま飛び出してきた廉太を、母親はぴしゃりと制した。
「明日も朝練でしょ。六時過ぎには起きるんだから。あんたは家にいなさい、廉太。」
「でも……!」
「二度は言わないよ。家にいなさい。」
そのまま両親は車で出かけてしまい、廉太は悔しそうに立ち尽くした。
「気にするな。大したことじゃないさ。」
そう声をかけたのは、兄の央一だった。弟を家の中に引き入れると、ため息まじりに言った。
「お前が母さんの電話を盗み聞きして、龍二にメッセージ送ったんだろ? 龍二の性格わかってるよな。宿舎に住んでるから、もう二年全員に広まってるはずだ。」
「……やっぱり俺のせいだ。」
「気にすんな。真晴から俺にも連絡きたくらいだ。三年の間でももう知れ渡ってるし、一年の方も時間の問題だろ……いや、もう知ってるかもな。」
央一は苦笑しながら、弟の背中を軽く叩いた。
「とにかく風呂入ってこい。俺は皿でも洗ってくるから。」
廉太が浴室に入って水音が響き出すと、央一は一人キッチンに立ち、携帯を取り出した。
――すみません、監督。ご迷惑をおかけしました。
高橋監督へそう送信した。
※※※※
「本当に申し訳ありません。うちの二人の息子がご迷惑をかけてしまって。」
田中の母親は岬阪旅館に到着するとすぐに、佐久間の母親や藤田の両親が玄関前に立っているのを見て、これからチームの主力になる捕手と投手の保護者に頭を下げた。空からは小雨が降り始めており、旅館の女将である佐久間の母親は、和服姿のまま傘を差し出し、田中の母を雨から守りながら言った。
「田中さん、大丈夫ですよ。私たちも突然のことで驚いただけです。ほかの保護者の方々には、宴会場で待っていただいています。」
そのとき、車から降りてきたのは校長と高橋監督だった。田中の父も車を止めて現れ、高橋監督に声をかける。
「高橋監督、お久しぶりです。すぐ近くに住んでいながら、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。」
「田中君、久しぶりだな。前より少し痩せたようだ。体には気をつけろよ。」
高橋監督はそう言い、田中の母が何か言おうとしたのを笑顔で制し、皆に向かって頭を下げた。
「まず宴会場に入りましょう。きちんとご説明します。……田中さん、お子さんたちの反応は自然なことです。引き延ばしてしまった私の責任です。本当に申し訳ない。」
高橋監督は長年、坂海工野球部の指導に関わってきた。形式上は外部コーチであり、学校の職員ではない。正式な監督の肩書きは、英語教師である白井に与えられていた。しかし、白井を部に引き入れ、実質的な指導の場に立たせたのは高橋自身だった。
そして、片岡里子が白井の過去の「傷」を見抜いたように、高橋もまた、彼が野球に対して深いトラウマを抱えていることを知っていた。ただ、それが暴力やいじめによるものだとは思いもしなかった。何人もの選手が情熱を失い、野球を嫌い、失望して去っていくのを見てきた。最初は残念に思っても、やがて「よくあること」だと麻痺してしまう。それは恐ろしいことだった。
この日の集まりに、すべての保護者が顔をそろえたわけではなかったが、それでも旅館の宴会場はかなりの人数で埋まっていた。その中には、林友達の姉と結婚を控えた川頼氏の姿もあった。
夏休み最後の日。学校はクラブ活動を休止させ、新学期の準備をするよう指導していたが、生徒たちにとってそんなものは形だけだった。宿題を大急ぎで片づけた流星と蓮は、宇治川家から借りた釣竿を担ぎ、林友達たちを海へ釣りに誘った。
「ほんとにのんびりしてるな、一年坊は。」
二階の廊下の突き当たり、窓辺から外を眺めながら佐久間がつぶやく。釣竿を持ち、自転車にまたがる友達たちの姿を見ながら、彼はふと思い出した。数年前、藤田も試合のない日はよく自分の家の旅館に手伝いに来て、小遣いを稼いでいたことを。背が高く顔が険しかったおかげで、十四歳とは誰も思わなかった。
「まるで少年院帰りみたいだったけどな。」
「少年院? 俺のことか?」
ちょうど自販機の飲み物を片手に藤田が現れ、佐久間に缶を放った。佐久間はそれを受け取り、ひと口飲みながら続ける。
「一年坊が無邪気なのを見るとさ。お前が中学や一年の頃、うちで働いてたのを思い出すんだよ。」
「ミズノのグラブが高かったからな。おばさんには感謝してるよ。」
「そんなに欲しかったなら、なんで俺に言わなかったんだ。……友達だろ?」
そう言って、佐久間は頭を藤田の胸に埋めた。むっとしたように「くせえ、藤田の匂いだ」とぼやきながら、結局は甘えている。藤田は仕方なく受け止め、その髪を撫でた。
「言ったらお前が買ってくれるだろ、佐久間。」
「買うかよ、バカ。誰がグラブなんか。」
「じゃあ、何をくれるんだ?」
「コンドームだ。」
「……使い道ないだろ。」
「誰がお前に使わせるって言った?この野球バカ!ケツ洗っとけよ、藤田迅真!」
「はいはい、きれいにしときます。……もういいか?」
「ダメだ。」
――また嫌なことでも思い出してるのか。藤田はそう感じた。自主練をしようと思っていたが、佐久間に絡まれれば無理だとわかっている。それでも悪くはなかった。引退試合で三年の捕手・佐島と比較され続け、きっと重圧が溜まっていたのだろう。
「新学期早々、面倒なことになったな。……なんでお前は平気でいられるんだ? エースなんだぞ? 龍二なんかブチ切れてるぞ。『あの女が高橋監督の席を奪うなんて許せねえ』とか言って、差別的なことまで口走ってた。」
「龍二の口は昔からああだ。中学の時も『何そのムカつく顔』って言われたしな。」
「……最悪だな、あいつ。」
藤田は佐久間の顔を両手で支え、胸から引き離した。
「練習しようぜ。……投げることを考えてれば、不安も少しは消える。」
「そんなの、お前みたいな野球バカにしか通用しないんだよ。」
「まあな。」
「……やっぱり誕生日プレゼントはコンドームにするわ。」
「やめてくれ、本当に。」
坂海工での一学期を過ごして、林友達が気づいたことが一つある。ここ岬阪出身の生徒は、やたら釣り好きが多いということだ。エサの付け方も投げ方も分からない友達にとって、流星や蓮がまるでご飯を食べるように当たり前に竿を振る姿は、少し羨ましく見えた。
ただ、南極は例外だった。彼は直下釣りを好み、南極基地でよくやっていた氷上の穴釣りに似たやり方で、短い竿にエサをつけて海に垂らすだけ。そうすると自然と魚がかかるのだ。流星たちの豪快な投げ釣りとは違い、堤防の端で短竿を垂らす南極の横に座って、ただぼんやりと過ごす友達の姿は、宇治川から見ると「なんやこの二人、ほんまに地元民ちゃうわ」と思わせるような、どこか水が合ってない雰囲気だった。
そこで宇治川は、自分が小さい頃からやっていた「撒き餌釣り」を教えた。小さなカゴに餌を入れ、海に沈めて軽く竿を引くと、小魚の群れが寄ってくる。それでアジやイワシが簡単に釣れるのだ。蓮は子どものころ、そのやり方でタイやサバまで釣り上げたことがあると自慢し、魚の特徴を色々説明して、友達の「魚の知識=刺身」レベルを少し更新させた。
「でも、やっぱりあの話は本当なんやな?」宇治川は新しいエサを投げながら言った。
「学長らが言うてるし、そら本当やろ。最初に知ったんは三号(田中廉太)やって聞いたで。ほんで田中龍二学長が寮で広めて、あっという間に知れ渡ったんや。宇治川んとこも、流星んとこの親も臨時会議に行ったやろ?」
蓮はそう言った直後、竿がグッと引かれ「来た来た!」と叫びながらリールを巻いた。だが魚は逃げてしまい、「クソッ!」と悔しがる。
「友達と南極も、もう聞いたやろ?」流星は尋ねつつ、ちょうど友達が初めて魚を釣り上げたのを見て「おぉ、やったな。友達、ついに釣れたやん」と笑った。
「釣れた!」と子供みたいな笑顔を見せる友達に、三人は意外と可愛らしいと思い、南極もまたアジを釣り上げていた。
「中西学長が急に部屋に飛び込んできて、その後ゾロゾロ二年生が押しかけてきた時はほんまビビったわ。」南極はあの時の状況を話す。二年生たちが部屋に集まり、高橋監督が引退するという話をしたのだ。
「実はな、もう一つ別の話もあるんやけど……あ、食った!」
流星は何か言いかけて、竿が引かれた瞬間に話を切り上げてリールを巻き始めた。
「なんやねん! 途中でやめんなや!」蓮が怒鳴る。
「後で言うわ! 先に助けてくれ! 蓮!宇治川! こいつデカい! 『先発メンバー級』の大物や!」
「先発メンバー級の魚ってなんやねん! おい流星、竿折るなよ!」
流星が引っ張られそうになるのを見て、全員竿を置いて駆け寄った。制服姿の男子五人が袖とズボンをまくり、互いに抱きつき合ったり竿を押さえたりする姿は滑稽で、周りの釣り客も思わず振り返る。やがて何人かが近寄り「糸切れるで、ゆっくり寄せろ」「タモ入れたるわ」と声をかけ、網まで準備してくれた。
「釣れたぁぁっ!」
流星の声に合わせて、五人が一気に後ろへ倒れ込む。目の前に現れたのは、目から尾まで一本の黄線が走る大物の魚だった。
「おぉ~小坊、やるやんけ!ブリ釣ったんかいな!岬んとこでこんなデカいん、めったに見れへんでぇ!」
「兄ちゃんら、運ええなぁ!」
「すげぇぇぇ!」
地面にへたり込んだ流星も、大人たちが差し出す網の中のブリを見て思わず驚きの声を上げた。最後に五人は、そばにいた釣り客にスマホで記念写真を撮ってもらい、その後ブリを海へと放した。
流星を含めた全員が、大物を釣り上げた興奮で胸がいっぱいになり、さっきまで話していた真面目な内容なんて、すっかり忘れてしまった。
※※※※
「……あっ。」
「栄郎、どうしたん?」
夏休み最後の日に金井栄郎と一緒に岬阪書店へ来た白石堇子は、店に入ってすぐに栄郎の声を聞き、目線を追うと雑誌コーナーに同級生の柴門玉里と“台湾の小林”と呼ばれている小林芝昭の姿を見つけた。
「なんか……めっちゃ微妙な組み合わせやな。二人って友達やったん?」
「たまたま本屋で会っただけや。君らに会ったのと一緒。」
白石は普通の声量で言ったつもりだったが、雑誌コーナーまでは自動ドアから五、六歩しかなく、しっかり柴門に聞こえていた。
「えっと、その……柴門さんと小林さんも参考書を買いに来たん?明日から新学期やし……」
気まずさを避けようと、栄郎が慌てて勉強の話題を振る。
「いやいや、普通の高校生がわざわざ新学期前に参考書なんか買わんやろ?」
柴門玉里はそう言いながら、手に取ったのは高校生向けではない女性ファッション誌。表紙のモデルはまるで『ジョジョの奇妙な冒険』のキャラのようなポーズを決めていた。
「夏休みっちゅうのは、学校で学べへんことを学ぶ時間やろ?」
小林が手にしていたのは軍事雑誌。特集は台湾の墓地地下に眠る防空壕についてだった。
その光景に白石は思わず「変な人らやな」という顔をして、栄郎に「私は家政の本見てくるから、あんたは参考書見終わったら来てな」と言い残して立ち去った。
「……うん。」
白石がわざわざ「参考書」と口にしたことで、栄郎は余計に気まずくなる。
「へぇ~、さすが一年の期末テストで学年二位取った男やな。ホンマに参考書見に来る奴、初めて見たわ。」
柴門が皮肉交じりに言いながら参考書コーナーまでついてくる。横の小林は手帳に何やらメモを取っていたが、栄郎には絶対ろくでもないことを書いているようにしか思えなかった。
「そ、そんなことないよ。たまたま練習もないし……」
栄郎は苦笑い。場を和ませようとしたのに、自分が一番気まずくなってしまった。
しかし柴門は少しからかっただけで、すぐに真顔になり参考書を手に取りながら言う。
「まぁ、でも君の言う通りかもしれんな。野球部のグループで、片岡先生が『勉強会やる』って資料送ってきたやろ?二年になったら授業ももっと大変になるし、ワイも何か買っとこかな。」
その言葉に栄郎は思わず驚きの表情を見せる。
「な、なんでそんな顔するん?」
「あ、いや……怒らんで聞いてほしいけど、柴門さんなら『勉強とかめんどくさい、成績さえ通ればええやん』って言うかと思ってたから。全然違ったからびっくりして。」
「それ、完全にコイツのセリフやで。」柴門は横の小林を指差す。
「え、小林くん?」
「その通り。勉強なんかクソめんどいだけや。」小林はあっさり肯定した。
「ところで、君らあの話聞いたか?」小林は手帳をめくりながら切り出す。
「高橋監督が辞めるって話?もうとっくに広まっとるやん。誰でも知ってるやろ。」柴門が答え、栄郎も頷いた。
「うちの親も知ってた。昨日なんか『本当に野球部続けるんか?辞めてもええんやで』って言われたわ。」
「まぁしゃーないわな。高橋監督は坂海工の野球部を最初からずっと支えてきた人や。急に抜けるってなると、みんな受け入れられへんやろ。後任もまだ決まってへんし。」
「でも、後任って白井先生ちゃうん?」栄郎が言う。
「白井先生?ワイは、最近急に現れた片岡先生のほうが可能性あると思うけどな。」柴門が返す。
「え?でも片岡先生って女性やろ?そんなのアリなん?」
「別にアカンことないやろ。監督は男じゃなアカンなんてルール、どこにもあらへんやん。」
柴門の言葉は、長いスカートにストッキング姿の男子高校生が言うからこそ、不思議な説得力があった。
「オレが言いたいのは、そのことや。」小林は眼鏡を押し上げ、二人を見据える。
「片岡派と白井派に二分されてるって噂、二年生の間で広まっとるんや。だから一年生の……柴門玉里さん、金井栄郎さん……」
「君らは、どっちに付くんや?」
※※※※
阪海工の男子寮の二階、とある部屋から大きな声が漏れていた。誰かが明らかに怒っていて、怒鳴り合うような気配が伝わってくる。二階の廊下に腰かけていた野球部三年の佐島真晴は、通りがかった柔道部や他の部員たちに軽く会釈し、両手を合わせて「ごめんね」というような仕草をして苦笑した。
「はぁぁ~!ほんま腹立つわ!なんで俺と中西だけ怒られなあかんねん?その上、練習終わった後にトイレ掃除まで罰やと?おかしいやろ!大人らもちゃんと説明せえへんくせに、なんで全部俺のせいやねん。なぁ、木村、お前もそう思うやろ?」
「え?え、ええっ、ぼ、僕?そ、その……そ、そうですね。」
同室の田中龍二にいきなり意見を求められた木村陸斗は、慌てふためいた。仲は悪くないが、龍二が怒り出すと同じ空間にいたくないのが本音だった。
「ええ加減にせえよ、龍二。友達の木村にそんな口きくんは脅しやぞ。」
寮で騒ぎ、処分に不満をぶちまける弟を見かねて、田中央一が部屋に入ってきた。龍二はトレーニング用のパンツ一枚で床に座り、不機嫌そうに腕を組んでいた。
「脅し?俺はただ木村の意見を聞いただけやん。な?木村!」
「そ、その、その……ご、ごめん、田中。でもやっぱりちょっと言い過ぎやと思う。」
「え?ほんまに?」
木村の違う意見を耳にして、龍二は少し冷静さを取り戻したようだった。
「お前と中西が罰を受けること自体が目的やなかったんや。自分で考えてみろ。もし自分の立てた計画が勝手に広められて、噂話みたいにされてええ気分になるか? 龍二、お前の軽はずみな噂話で、高橋監督も白井先生も片岡先生も迷惑してんねんぞ。中西なんかすぐに受け入れて謝ったやろ。正直、恥かくんが怖かっただけちゃうんか、龍二。」
「うるさいなぁ!分かってるっちゅうねん!母ちゃんにも監督にも白井先生らにも謝るわ!だからもう説教すんなよ、兄ちゃん!」
「その態度がなぁ……ほんまに……」
「ちょ、ちょっと先輩!龍二も反省してるみたいやし、このへんでやめときましょうよ。じゃないとまた爆発しますって!」
「誰が爆発すんねん!アホぬかすな、陸斗!」
「ここからは俺がなだめますから、央一先輩、頼みますわ。じゃないと俺、寝るまで延々とこいつの愚痴聞かされるんですから。」木村は央一の耳元で小声で懇願した。
試合では激情型の木村だが、プライベートでは龍二に振り回されがち。逆に試合では冷静沈着な龍二が、普段は短気という、なんとも対照的な二人だった。
「どうや、うまくいったか?」佐島真晴が央一の溜息を見て尋ねた。
「……半分、半分ってとこやな。」央一は苦笑した。
「小さい頃からそうやったやん?近所の小学生から『田中ジャイアン』って呼ばれてたんやろ?」(※ドラえもんの剛田武からのあだ名)
「まったく、ほんまに手のかかる弟らやわ。」央一はぼやいた。
「そう言いながらも、やっぱり可愛いんでしょ、央一兄ちゃん。」
「……まぁ、自分の弟やからな。」
佐島は子どもをあやすように央一の顎を撫で、その剃り残しの髭を感じながら笑った。
「こんなに面倒見のええ央一も、可愛いと思うけどなぁ。」
「からかうなや。」央一は照れ隠しに佐島の頭を軽く叩いた。
※※※※
新学期が始まる一週間前、多くの教師は先に学校の職員室に顔を出し、授業の資料を整理する。部活動やその他の理由で時々校内に出入りする教師も少なくない。白井修吾も、そんな教師の一人だった。
少子化の影響で、公立校に赴任したい教師は依然として少なく、阪海工の英語教師は白井ただ一人。普通科、職業科A・B、それぞれレベルの違う授業準備がある。しかも今は国際化の波もあり、日本の生徒もある程度の実用英語力を身につけねばならない。多くの生徒は卒業後、造船所や実家の漁業を継ぐことになるのだが、英語への関心は薄い。それでも白井は、自分の力不足を感じながらも、学生の将来を思って職務を全うしていた。
そんな英語教師である白井は、同時に野球部の顧問でもある。最初はこんなに長く続けるとは思っていなかった。苦しい記憶が甦ることもあるが、それでもやめずに続け、講習会に参加して審判資格まで取った。
──俺って、もしかしてMなんちゃうか。
そんなことを思いながら、白井は職員室の電気を消し、阪海工を出て近くの岬阪海商店街で軽く夕食をとろうとした。だがドアを開けた瞬間、もっとも会いたくない人物が廊下に立っていた。
「不在着信が六件」
白井の携帯に表示されていたのは、目の前にいる人物からのものだった。阪海工に新しく赴任する体育教師、片岡里子。
「少し話がしたいんです、白井先生。」
「俺たちに話すことなんかない。」
「高橋監督があの日言ったこと、あなたも聞いてたでしょ? これから私とあなたが阪海工野球部を任されて、監督と副監督になるって。あなたはその場で高橋監督や保護者のみんなの前で了承した。でも、あの空気──あなたと私の間にあるあの空気を解決しないと、周りに説明がつかないでしょ? ねえ!白井!」
「言ったろ、話すことなんかないって。」
なんて嫌な男。何も話すことがない? まるで痴話げんかみたいなセリフじゃない。鬱陶しい!高橋監督に頼まれなければ、わざわざ家から車を飛ばして学校まで来るもんですか。勘違いも甚だしい。高橋監督にしろ、父親にしろ、兄にしろ──そしてこの白井も!
男ってどうしてこうも幼稚なのよ!
「今はあなたが話したいかどうかの問題じゃない! これはきちんとケリをつけなきゃいけないことなの! 白井先生、白井!……白井先生!」
片岡里子は白井の後を追いながら声を張った。必死に冷静さを保とうとしながら、阪海工野球部の未来について語ろうとする。高橋監督や校長の期待、野球部の子供たちの将来、保護者たちの願い──そして高橋監督が白井なら監督にふさわしいと考えていること。
だが白井は立ち止まり、片岡を振り返った。息を荒くし、喉仏が動き、拳を握りしめている。そして後ろから延々と言い募る片岡に、ついに怒りをぶつけた。
「黙れ、女。」
「白井修吾! あんた、女に黙れって言ったわね!? 何様のつもり!? 私がこうしてうるさくしてるのは、あんたみたいに何もしないで自分を哀れむだけのクズ男がいるからよ! この男尊女卑野郎! 止まりなさいよ!人の話をちゃんと聞きなさい!」
「黙れ」という命令口調と「女」という侮蔑の響き。片岡里子の怒りは爆発した。
白井は呆然と立ち尽くし、全力で怒鳴る片岡を見つめた。無人の校舎の廊下に声が反響し、しばらく言葉を失う。数十秒経って、ようやく口を開いた。
「お前……今……」
「黙れって言ったな──」
片岡里子は白井の手を掴み、睨みつけた。
「だったら今すぐここで話すの!白井修吾先生! もし話さないなら──」
彼女は握った手を高く掲げ、続けた。
「私は“前国体選手にセクハラされた”って訴えるから!」
「なっ……!」
「それ以上一言でも口を開いたら、校長にも教育委員会にも“性差別教師”として正式に報告するわよ!」
白井は絶句したまま、片岡に腕を引かれるまま歩かされる。
気づいたときには、もう片岡の車の中にいた。




