第二六章 選手を放任するのも欠点
台湾出身の陸坡と申します。
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
阪海工野球部三年生の引退試合は、二年生の藤田迅真・佐久間圭一と、三年生の田中央一・佐島真晴の組み合わせに焦点が当てられていた。
もっとも、田中央一の弟である田中龍二も、この二年生チームが打撃をつなげられるかどうかの重要な鍵を握る存在だった。しかし三年生側にも、決して侮れない主力選手がいる。
そもそも野球という競技は、いくら藤田迅真が阪海工にとって数年ぶりに現れた、強豪校と渡り合える稀有なエース投手であっても、絶対にミスをしないわけではないし、打たれないわけでもない。藤田の得意とする速い内角スライダーは、この地域の中学野球の流れからすでに広く知られている球種だった。たとえば、一年生の宇治川も同じくスライダーを得意としており、地元出身者が中心の阪海工野球部にとって、その球筋への対応法を心得ているのは当然のことだった。
最も単純な攻略法は、内角スライダーがバットの根元に近づきやすい特性を利用し、打者がしっかりとした打撃フォームを作り、十分なスイングスペースを確保することだ。内角スライダーは打者の体に向かって横に曲がり、スイングポイント付近で沈むため、思い切ったスイングでタイミングを合わせることができれば、絶好の打撃チャンスとなる。
そのため、感覚の鋭い三年生たちが、藤田の投じる得意球をうまく狙った時には、その打球は中堅を破るほどの破壊力を生むのだった。
カンッ!
力強い打球音と共にスイングしたのは、三年生捕手・佐島真晴。打球はファウルラインぎりぎりに飛び、二年生の木村陸斗は追いつけず捕球失敗。その間に佐島は二塁へ到達し、三塁にいた主将・田中央一が本塁へ返ってくる。九回裏、スコアは「2対6」。三年生は二年生に4点差をつけられていた。
佐島真晴の二塁打で田中央一が生還、一死の場面でまだ三年生には攻撃の兆しがあった。しかしその後、藤田は一切容赦なく、三年生打者二人を三者凡退に抑え、結局、三年生はそれ以上ランナーを進めることもなく試合は終了した。
「整列! 二年生、三年生!」
白井先生が防具を外し、大声で叫んで二、三年生を本塁前に整列させ、互いに礼をしてこの試合を締めくくった。試合がすべて終わり、二、三年生がグラウンドでの挨拶を終えてベンチへ戻ると、一年生の林友達たちは空気を読んでグラウンド整備に入った。
藤田は水を飲みながら、一年生が拾い忘れた道具を見て少し手を伸ばそうとしたが、突然聞き慣れない声が彼にかけられた。
「俺なら、そうはしないね。」
振り返った藤田の目に映ったのは、スーツ姿の女性だった。だが普通の女性教師とは違い、その肌はこんがりと日焼けしており、しかもスーツにはまるで似合わない阪海工の野球帽を被っていた。
片岡里子は、目の前の阪海工二年生投手・藤田迅真の表情を見て、思わず笑いそうになった。高橋監督から「顔は怖いが性格は真面目」と聞いていたが、こうして近くで見ると、本当に80年代のヤンキーを思わせる顔立ちで、不良っぽさ全開。だが藤田が口を開くと──
「失礼ですが……先生は、うちの学校の先生ですか?」
その強面からは想像もつかない、丁寧な敬語だったので片岡は思わず吹き出しそうになった。しかしぐっと堪えて、柔らかい笑みを浮かべる。
「ええ。二学期から体育を担当する片岡里子です。あなたは野球部二年の藤田迅真くんね。よろしくね、藤田。」
「は……はい、よろしくお願いします?」
藤田は戸惑ったように答え、視線を道具の方へ戻した。
「それ、手を出しちゃダメ。」片岡はすぐに見抜いて言った。「あれは一年生がやるべきこと。先輩であるあなたが拾って渡すことじゃないの。もし忘れていたら、呼んで指示してやらせる。それが先輩の役割よ。」
「どうしてですか?」藤田は不思議そうに聞く。
「だって、君は“先輩”だから。」
その言葉に、藤田は理解できずに片岡を見つめた。自分が後輩に忘れ物を届けることと、先輩であることとがどう繋がるのか分からない。ただ藤田は、片岡里子の顔をじっと見つめ、なぜ彼女がそんなことを言うのかを理解できずにいた。
「二年生になったからには、三年生が引退して主力になる立場。学長としての姿をちゃんと学ぶべきだと思うわ。藤田、あなたは昔から断るのが苦手で、誰にでも優しいタイプでしょう?」
「は、はい……その通りです。」
藤田の頭の中はぐちゃぐちゃだった。勝ったはずなのに、今の顔はまるで負けたかのよう。
「これからは“断る”ことを覚えなさい。そして先輩としての権──」
「藤田。」
後ろから呼びかける声。振り向けば白井先生だった。白井は一年生が置き忘れた用具を拾い、藤田に手渡しながら肩を軽く叩き、坊主頭を撫でて言った。
「倉庫にいる一年に渡してやれ。それから、次は必ずグラウンドをもう一度確認するよう伝えてこい。毎回道具を落とすなって。整理が終わったら集合、そう伝えろ。」
「は、はい!」
藤田は白井先生と片岡を交互に見て、小さく頭を下げると、早足で駆けていった。
「私の生徒に、上下関係の発想を勝手に植えつけないでいただきたいですね、片岡先生。」
「まあ、聞いてたのね、白井先生。」
片岡里子の視線を受け、白井修吾の顔にはあからさまな不快感と拒絶が浮かんでいた。
「白井先生の方針って、学年に関係なく自主性を重んじる部風なんですって?」
白井を見据えながら片岡が問いかける。
「今後もそのスタイルで続けていくおつもりですか?」
「そうだとしたらどうする?」白井が答えると、片岡は作り笑いを消し、やや怒気を含んだ声で言い放った。
「ふざけないで。あなたは選手たちを停滞させるつもりですか。」
態度の急変に白井は対応できずにいた。だが片岡は間を与えず続けた。
「はっきり言います。白井先生。私の説明を聞く前から“学長学弟制”を全否定しているけど、あなたには別の育成方法もない。結局やっているのは“放任”です。聞こえはいいけど、勝ちたい、勝てる力を持った選手にとって、それはあまりに不公平です。」
「放任にも限度があるはずです。」
白井は反論できなかった。
「片岡先生、言葉が過ぎますよ。」
場を和ませようと高橋監督が口を開いた。
しかし白井は耐え切れず、吐き捨てるように言った。
「今日が初日なのに、勝手なことばかり言う女が、俺と部を何知ってる? お前こそ、野球部を上下関係のいじめの場にしたいのか?」
「白井!」
普段穏やかな白井から飛び出した罵声に、高橋監督は驚きを隠せなかった。
白井はすぐに頭を下げると、小さな声で言った。
「高橋監督、申し訳ありません。今日はこれで失礼します。」
「白井……白井! はあ……」
高橋監督は背を向けて去っていく白井を見送るしかなかった。
「高橋監督、後ほど私から白井先生に改めて話します。すみません、確かに私も言い過ぎました。」
そう言いつつも、片岡里子の胸中には、白井が逃げ出したことへの苛立ちが募っていた。
強豪校出身であり、高校野球の指導も理解している第二監督が、自分のチームをこの程度の水準に放置していいはずがない。白井先生の部に対する態度を思い出すと、片岡の胸はどうしても苛立ってしまう。さっきの試合を見れば、選手たちの素質は決して悪くない。むしろ水準はある。だが、片岡里子の望む「野球の姿」とは程遠かった。
三年生は中学生でもやらないような初歩的なミスを繰り返し、二年生の布陣も歪で、集中力を欠いた選手が少なくない。プレーに気を取られず、走塁指示を理解していない。なぜこの場面でその配球なのか。一年生はベンチに突っ立って先輩の試合を眺めているだけで、時々白井先生が技術や考え方を指摘しないといけない。こんなことは試合で起きてはならない。
端的に言えば、阪海工の選手には十分な素質があるのに、チーム全体の連携も集中力も判断力も不足している。それが観戦している片岡をますます苛立たせ、試合が終わるや否や目をつけた選手に声をかけたくなった。
──藤田迅真。
この凡庸なチームにあって、ひときわ輝く投手。
これほどの投手がいるのに、周りがまるでそれを活かせず、試合を掌握できない。
なんという無駄だろう!
これこそが、片岡里子が白井に対して怒りを抑えきれなかった理由だった。
強豪校出身であり、さらに現役プロとして活躍する兄を輩出した家の名前をいまなお記憶させるほどの存在。それなのに、自分の学校の野球部をどうしてこんな有様にしてしまったのか──。片岡には到底受け入れられなかった。
この衝突は、部員たちが集合する前に有耶無耶に終わった。倉庫から藤田と一年生たちが走って戻ってくると、彼らは先ほどの女性──片岡──が高橋監督の隣に立っているのを目にする。藤田は事情を察したようだが、不思議なことにそこに白井の姿はなく、複雑な気持ちが胸に広がった。
自然と一年生の列に並んだ藤田。その視線と片岡の視線が交わる。片岡は微笑んで言った。
「藤田、あなたは二年生の列に。」
「はい。」
言われて初めて、藤田は気づいた。いつもは一緒くたに混ざっている二、三年生が、今日は学年ごとにきちんと列を作っている。
状況を呑み込めずざわつく部員たちの前で、高橋監督が紹介した。
「こちらは片岡里子先生。元・全日本女子野球代表の新任体育教師で、これから白井先生と共に野球部を指導してくださる。」
林友達も皆と一緒に挨拶したが、視線は藤田先輩の方へ。
いつものように黙って立っている藤田だが、どこか微妙に違う空気を纏っているように友達には感じられた。
──夏休みが終わり、二学期が始まる。
新学期を迎える前に、男子寮には変化があった。三年生は戻らず、その代わりに二年生が入寮してきたのだ。
食堂で食事をしていた友達と南極の前を、荷物を抱えて二年生の先輩たちが続々と入ってくる。中西先輩、村瀬先輩、さらには佐久間先輩までもが。
「佐久間? お前も住むのか?」中西が驚いたように声をかける。
「二年は全員寮生活だと決まったからな。」佐久間は淡々と答える。
「いやいや、お前は家から通うと思ってたよ。」中西は思わず言った。なにしろこの男子寮は、もともと佐久間家のホテルが学校に寄贈したものだからだ。まさかその御曹司本人がここに入ってくるとは。
「何を言ってるのか分からん。」
驚く中西を無視し、佐久間は迷いなく荷物を抱えて二階へ。藤田迅真の部屋のドアを開け、荷物を置いた。その様子を見ても、藤田は慣れたもののように気にも留めなかった。
「いくらバッテリー同室の決まりがあるって言っても、藤田、お前、佐久間に気を許しすぎやろ。」
ちょうど階段を降りてきた田中龍二が、佐久間の行動を見て言った。「部屋に勝手に入らせてええんか?」
「別にええやろ。佐久間は昔からこうやし。」
友達の向かいに座った藤田は、まったく気にせずおにぎりを頬張る。
「おいおい、それはあかんやろ。藤田、お前もうちょいプライバシー考えろや。……もし佐久間がドア開けた瞬間、お前がエロ動画見ながらオナってたらどうすんねん?」
田中龍二の言葉に、友達は口の中のおにぎりで思わずむせそうになる。藤田は眉をひそめて「それは、さすがにまずいな」と答えた。
「ほら、やっぱり俺の言う通りやろ?」
龍二が自信満々に頷く。横で村瀬がボソッと「極道の妻に浮気現場見つかる、ってやつやな」と下品に呟き、中西が笑いを堪えきれず吹き出した。日下尚人は「下品やな……」と顔をしかめる。
「でも、相手が佐久間なら……まあ、別にええか。」
藤田がさらっと言う。
「えっ? ええええ!? 藤田先輩、それは違うでしょ!」
友達が顔を真っ赤にする。
「お前ら、俺の悪口言ってへんか?」
藤田の一言に、友達はますます自分の日本語力を疑い、意味を取り違えてるんじゃないかと焦る。
ちょうど荷物を置いて降りてきた佐久間は、空気で察した。これは自分のことをコソコソ言ってるな──捕手としての「投手の嫁」的な第六感で。
「そういや、この夏休みの寮って、友達と日空だけ残ってるんやろ?」
龍二がニヤリとしながら二人を見る。その目つきに友達は悪い予感しかしなかった。
案の定、龍二は二人の間に割って入り、肩を抱き寄せて言った。
「お前ら二人きりの寮生活、まさかヤバいこととか……言えへんこと、起きてへんよな?」
「ちょっとエッチなやつとか。……そういや友達君、こういう話題いつも避けるよな。あかんあかん、俺も後輩と男の話ちゃんとしときたいんや。」
今度は中西も加勢して、二人にグイっと近づいてきた。
「おいおい、中西、田中……それ、セクハラやぞ。俺らはまだしも、後輩にまでそういうこと聞くなや。」
日下がさすがに黙っていられず口を開こうとしたその時、意外にも先に声を上げたのは村瀬だった。
相変わらず気だるげで、まるで他人事のような調子だったが、さっきまで下ネタばかり言っていた彼の口から、仲間を止めるような言葉が出たのは意外だった。
「友達のことは知らんけど……俺には先輩たちが欲しがるもんなんて、たぶん無いで。」
そう言って南極は、あの太陽みたいな笑顔を浮かべる。
彼の言葉に、先輩たちは「え?」と信じられないような顔をし、友達も半信半疑の視線を送った。だが南極は全く気にせず続ける。
「だって考えてみろや。俺、昔の生活は南極やぞ? 周りにおるんはペンギンと氷と、毎日よくわからん実験やってる研究者だけや。先輩らの言うようなもん、あるわけないやん──」
「お、お待たせ! やっと着いた! ふぅ……ごめん、寝坊してもうた!」
背中にリュックを背負い、その上にはバットまで突っ込んでいる木村陸斗が、息を切らしながら飛び込んできた。
入ってすぐ、全員が食堂にそろっているのを見て目を丸くし、慌てて言う。
「えっ、なんでみんな揃ってんの!? す、すんません! 本当は一緒に来る予定やったのに、うちの猫が目覚まし壊してもうて……」
「遅刻に言い訳すんな、木村。」
「ほんまそれ。お前、遅刻魔のくせに反省ゼロやな。言い訳ばっかや。」
話題はすぐ木村の常習的な遅刻に変わり、友達と南極はそっとおにぎりを食べ終えると、気配を消すように部屋へ戻っていった。
──試合が終わって数日後。
ついに片岡里子先生が正式に野球部のグループに加わった。数日後、二学期に向けての変更点が次々と共有される。
まず、二年生全員が男子寮に入居すること。そして、生活を管理する宿長を選出すること。
さらに食事、入浴、消灯時間に加えて、スマホやネットの使用制限、勉強会や自習の時間、個人トレーニングのルールまで──すべて細かくまとめられたスケジュール画像が送られてきた。
「なんやねん、あの片岡とかいう女教師……」
突然のルール攻勢に、田中龍二を中心とした二年生は驚き、すぐにグループ通話で愚痴をこぼす。
「なんで俺らに一言も相談せんと、いきなり勝手に決めるんや。マジで気に入らんわ!」
「ほんまやけど……やばいわ。うちの親、片岡先生のカリキュラム気に入っとるっぽい。『これでバカ息子が野球とテレビばっかで宿題サボらんようになる』ってさ。」
中西が苦笑する。だが他のメンバーはその意見に思わずうなずき、「それは正しいかも」と言い出す。
「おいおい! なんでみんな親側に立っとんねん!」中西が慌てて突っ込む。
「まあ、悪いことばかりやないやろ。勉強会で成績ギリギリでも保てたら、練習時間もっと増えるやん。」
冷静に日下が言い、藤田も無言で同意する。
その時、シャワーを終えタオルで髪を拭いていた佐久間が、まだノースリーブ姿でトレーニングしている藤田に目をとめた。
「おい藤田、お前……まさかまだ筋トレしとるんちゃうやろな?」
「ちょっと軽い筋トレを──」
「やめろ。さっさとベッドに行け、この野球バカ!」
佐久間は容赦なく藤田の言葉を遮り、命令口調で叱り飛ばした。
田中龍二ら数名の二年生は最初こそ不満を口にしたが──
一年生グループでは田中廉太の言葉によると、その日の夜に龍二は央一と長く話し込み、最終的に央一に説得されたらしい。
「とりあえず様子を見よう」という立場に落ち着いたのだ。央一に言わせれば、新任の片岡先生は元・女子野球部出身で、さらに元日本代表。やり方に理由があるはずだし、何より高橋監督も特に反対していない。
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野球部の一年生たちは、正式に阪海工の練習用ユニフォームと名札を受け取った。
もう中学時代のユニフォームを着る必要はない。──もっとも、小林だけは林友達が着ていた台湾のユニフォームにいつも強い興味を示していたが。
「……でかっ。」
南極のユニフォームを見た友達は、思わずそう呟いた。
理由は忘れてしまったが、今、部屋の中で友達は南極のユニフォームを試しに着ていた。
袖口からは指先しか出ず、裾は膝に届くほど。
その姿を見た南極は、まるで夢に出てくる野球の妖精のようだと心の中で思いながら──
口から出た言葉はなぜか、
「友達、それ……ズボン履いてへんガキんちょみたいやな。」
「もっとマシな例えはないんか!」
そう言って友達はユニフォームを脱ぎ、南極に返した。
二人とも四角いトランクス一枚のまま、部屋でユニフォームを試着していた。
友達の名札を見れば、そこに縫われていたのは「林」ではなく「友達」という二文字。
最初はさすがに困惑して、高橋監督に確認した。
監督は資料を見比べてから「これはメーカーの手違いやろな」と言い、
「交換をお願いできるはずやから、それまで名札は付けんときなさい」と助言した。
すると南極が口を挟む。
「えっ、別に“友達”って名札でええやん? みんなもそう呼んでるし。漢字で“友達”って背中にあるの、マンガの主人公みたいでかっこええやん!」
「日空、これは友達のユニフォームや。本人の名字を付けるか“友達”を付けるかは、友達自身が決めることやで。」
監督にそう諭され、南極は「あ……そうか」と友達の方を見た。
友達は手を振って「気にしなくていい」と示す。
最終的にメーカーに連絡を入れたものの、友達はあえて「友達」と縫われた名札をユニフォームに付けた。
意外にも違和感はなく、むしろアニメに出てきそうな野球ユニフォームみたいで、少し誇らしい気持ちになっていた。
台湾の学生用ユニフォームには「学校名+地名」が入るのが普通で、個人名をわざわざ刺繍することはない。だが日本では逆に名前を背中につけるのが一般的で、部内で誰が誰かすぐ分かるようにするためだ。
友達はもう自分のユニフォームに名札を縫い付け終わっていたが、南極はまだ苦戦中。畳の上にあぐらをかき、歪んだ縫い目を見て友達は思わず眉をひそめた。
「……俺、残りのも縫ったるわ。」
「え、いいの?」
「名札、持ってきて。」
このままじゃ一晩かかっても終わらなさそうだったので、友達が手を出したのだ。
こうして二人は向かい合って──南極は床に、友達はベッドの上に座り、それぞれ南極の練習用ユニフォームを縫い進めていた。
ほとんど縫い終わろうとしたその時、下の階から騒がしい声が聞こえた。
思わず二人そろってドアの方を見る。
なんやろ……?と友達が思いながら無意識に南極へ視線を移すと、ちょうど南極もこちらを見ていて、不意に目が合った。
友達は気恥ずかしくなって目をそらし、手を動かし続けた。
「……友達。」
「ん? なんや?」
「さっき田中先輩が言ってた“オナニー”のことやけど──」
「えっ……またその話すんの?」
友達は思わず声を裏返した。なぜ南極が急にその話題を出すのか分からず、頬が熱くなる。
こっそり視線をやると、南極はまだ一着目と格闘しながら、こちらに気づかず続けた。
「ほんまは嘘ついてた。南極の基地におった自衛隊のおっちゃんら、みんなそういうの隠し持っとったんよ。」
「……そ、そうなん?」
「一回、大きい兄ちゃんに見せられたことある。でもな、その頃の俺はまだガキで、なんで女の人が裸になってる写真ばっかりなのか全然分からんかった。……友達は、そういうの見たいん? 裸の女の子の絵とか。」
そう言って顔を上げた南極は──友達がずっと自分を見ていたことに気づき、思わず後ろにのけぞった。
驚きと戸惑い、そしてほんのり赤く染まった頬。
──なんや、南極……めっちゃ可愛いやんけ。
不意にそんな考えが友達の頭をよぎった。
「お、俺は……あんまそういうこと考えへん。」
それは嘘ではなかった。中学時代の友達の頭の中は、ほぼ野球一色だったのだ。
同級生の馬耀や福定は、そういうのに興味を持っていたらしく、よく女子の声が流れるリンクを送りつけてきたりして、友達をからかっては笑っていた。
「そ、そうなんや……」
南極はそう言いながら、床に置いたペンギンの抱き枕を掴んだ。
その仕草は普段の天真爛漫な彼とは違い、どこかぎこちなくて。
でも友達は、そんな南極を不思議と気にならなかった。
──いや、むしろ。普段とは違う、今みたいに顔を赤くしてる南極を、もっと見ていたいと思ってしまったのだ。
「と、友達……もし、もしもやで。そういうの見たくない人って、変やと思う?」
「ううん。」
友達は首を振った。「全然。俺も野球のことばっか考えてるし。」
「えっ? ほんまに? 友達は変やと思わへんの?」
「思わんよ。」
南極は急に距離を詰め、床からベッドに座ってる友達を見上げた。
顔を赤らめて近づいてくる南極に、友達の方がむしろおかしい気分になる。
息がかかるほどの距離。普段なら押しのけて避けていたはずなのに──さっき見た南極の、あの不意に赤くなった顔が頭をよぎり、「もう少し見ててもええんちゃうか」と思ってしまう。
──女の裸の写真を見るより、こっちの方がよっぽど変かもしれへんな……。
二人が見つめ合ったその瞬間、数秒後に突然ドアを叩く激しい音が響いた。
「うわっ!」
二人同時に飛び上がる。
ドアが開いて飛び込んできたのは中西先輩。
「やっばい! 大変やぞ!」
顔を真っ青にして早口でまくしたてる。
廊下からは他の先輩たちのざわめきも聞こえ、男子寮の二階は一気に騒がしくなった。
「な、中西先輩? は、はやすぎて分からん! 俺、日本語ついていけへん!」
友達は混乱し、必死に聞き返す。
「とにかく大事件や!」
中西は友達をベッドに押し倒そうとする勢いで近づいた。
「中西先輩!」
友達が声を上げた次の瞬間、中西の体は後ろに引き倒された。
南極が咄嗟に腕を掴み、ぐっと引きはがしたのだ。
周りの先輩たちも慌てて部屋に駆け込み、「おいおい、中西、突っ走りすぎや!」と笑い混じりに止めに入る。誰も南極の行動を咎める様子はなかった。
「悪い悪い、友達、南極。こいつ、場所知った途端に突っ込んでしもて……」
そう言いながら入ってきたのは藤田先輩と佐久間。
気づけば二年生全員が部屋に集まり、友達と南極は完全に押し込まれる形になっていた。
友達は深呼吸して落ち着き、藤田に向き直った。
「……で、何があったんですか、藤田先輩。」
藤田は短く答えた。
「……さっき聞いたばっかりなんやけどな。」
九月、新学期から──
野球部総監督・高橋城之が監督を辞任。
チームは白井修吾先生と片岡里子先生、二人の新体制で進むことになる。




