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第二五章 最悪の先輩後輩制度

台湾出身の陸坡と申します。


この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。

坂海工野球部といえば、最も象徴的なのは選手ではなく、この古株の監督・高橋城之だろう。

高橋城之監督は、京都の伝統的な野球強豪校「平安高等学校」の出身である。1932年に日本プロ野球が誕生したものの、多くの選手は安定した就職先となる社会人野球を選んでいた。


50年代、60年代までは社会人野球が依然として野球少年の目標であり、高橋監督も戦後のベビーブーム期の若者たちと同じように、社会人野球チーム「松下電器」に進んだ。しかし数年後、理由は不明だが安定した仕事を捨て、70年代に大阪最南端の坂海工に赴任し、監督を務めることになった。


当時の坂海工は男子校で、悪名高き不良校だった。70年代は日本の左派社会運動・学生運動の最盛期でもあり、生徒たちは反抗的で教師の言うことを全く聞かなかった。そんな劣悪な状況下で坂海工に赴任したのは、高橋監督の胆力の証ともいえる。彼は絶対的なスパルタ管理を実行し、野球ができると目をつけた生徒を岬阪町の街中で追いかけ回し、つかまえてはグラウンドに連れてきた。その姿は、当時の校内の教職員や生徒たちを驚かせたという。


「まさか……」

英語を教え、野球部のマネージャー兼守備コーチを務める白井修吾は、隣に座る温和な高橋監督を見て、先ほど校長が語った“生徒を追い回す監督”と同一人物だとは信じられなかった。


夏休みのある日、白井教師と高橋監督は校長室にいた。前任の校長が亡くなり、新任校長が坂海工に赴任して以来、一連の改革が進められていた。近年成果を上げている合唱部や吹奏楽部の強化に加え、男子校から共学校への移行もその一つだ。校長の対外的な説明では「男子校は荒々しさが強すぎるため、女子を加えることでバランスを取り、異性を尊重する心を育てる」とのことだった。


しかし、実際のところは日本の少子化が進み、伝統的な男子校の経営が立ち行かなくなったことが背景にあり、女子生徒の募集は時代の流れであった。


「白井先生、コーヒーをもう一杯いかがですか?」

「は、はい。すみません、ご面倒をおかけします。」

「気にしないでくださいな。うちの主人が生きていたら、そんなに堅苦しくしなくてもいいのにと言うでしょうし。」

「は、はい、失礼しました……。」


校長は微笑みながら白井に気楽にするよう促したが、白井はどうしても肩の力が抜けなかった。対照的に高橋監督はリラックスしてコーヒーを口にし、「これはなかなか旨いな。以前、海外から持ち帰られた豆ですか?」と尋ねた。


「ええ、いいでしょう?台湾に行ったとき、友人に頼んで特別に買ってきてもらった『古坑コーヒー』です。日本統治時代から台湾中部の山林で栽培されてきたもので、今ではおしゃれなカフェでも人気ですけれど、この台湾のコーヒーには、どこか懐かしい、控えめで青い香りが残っていて、とても気に入っているのです。」


校長は優雅に腰掛けながら、口に含んだ古坑コーヒーに満足げな笑みを浮かべ、こう言った。

「この味には、懐かしい日本を思い起こさせるものがございますわ。」


高橋は肩をすくめて笑いながら答えた。

「でも、俺の人生を振り返るなら、コーヒーより日本酒やろな。」


「そう言われれば本当にそうですね。」


そう言って校長と高橋監督は声を合わせて笑った。白井もつられて笑みを作り、この二人の大先輩に挟まれて、場の空気が重くならないようにしていた。


「そういえば、うちの野球部ももう創部50年以上になりますね。あの子たちが甲子園に出場したとき、あなたも彼も本当に興奮していましたね。初戦で敗れはしましたが、今でも懐かしい思い出です。彼が亡くなったあと、私が副校長から校長に就いたとき、一時は野球部を解散してしまおうかと考えたこともあります。思い出が強すぎて、少し辛かったのです。でも、彼が言った言葉を思い出して……」


うちの生徒たちは、いつか必ず優勝してくれるよ。


「その一言が、私に解散を踏みとどまらせました。彼が珍しく口にした願いでしたから。」


「そうですな。あいつは学生のころから野球は下手だったが、夢ばかりはよく語る人間でした。」高橋監督が笑って言った。


白井教師は、校長室に漂う独特な雰囲気を肌で感じていた。今まで知らなかった坂海工野球部の過去を、次々と聞かされることに居心地の悪さを覚えたが、この場で下手に口を挟むのは失礼だと考え、黙って座っていた。


「年寄りは昔話をすると止まらなくなってしまって、申し訳ありません。白井先生、何か聞きたいことがあるのでしょう?」


校長が再びコーヒーを口にしながら白井を見つめた。白井には確かにいくつも聞きたいことがあったが、教師としての本能から「いいえ、特にございません」と答えそうになった。だが、その時、隣の高橋監督が肩を軽く叩き、「白井、本当に気になることがあるなら聞いてみろ。大丈夫だ。」と促した。


「は、はい……。その、わ、私……」


高橋に背中を押され、ようやく質問を切り出せそうになった白井だったが、言葉が喉に詰まり、どうしても口にできなかった。


「し、失礼しました……。」


白井の言葉が途切れたその瞬間、校長室の外からノックの音と声が響いた。扉が開き、スーツ姿の女性が入ってきた。彼女は校長、高橋監督、白井に向かって軽く頭を下げ、申し訳なさそうに言った。


「お待たせして申し訳ありません。できるだけ急いできたのですが、渋滞に巻き込まれてしまって……。」


「いいのですよ。私が急にお願いしたのだから、責任は私にもあります。」


校長は立ち上がり、女性に白井の隣のソファを勧めた。スーツ姿の女性は軽く会釈して腰を下ろす。白井は彼女を見て、自然と視線が下へと向いた。ストッキング越しにも分かる、引き締まった脚の筋肉。それは彼女がただの一般人ではないことを物語っていた。


「コーヒーはいかがですか?あっ、座ってていいですよ、私が淹れますから。そうそう、白井先生、まだご紹介していませんでしたね。こちらは夏休み明けから体育を担当していただく予定の片岡先生です。そして、片岡先生、こちらは英語を担当されている白井先生です。」


「片岡里子と申します。どうぞよろしくお願いいたします、白井先生。」


「は、はじめまして……白井修吾です。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。」


「二人の先生が同じソファで軽く会釈し合うと、校長はコーヒーを片岡里子の前に置き、こう言った。

『もともと体育を担当していた竹本先生がこの夏で退職されるので、その後任として片岡先生にお願いしようと思っています。しかも片岡先生のお父上とお兄さんは野球経験が豊富でしてね。だから今日、野球部の関係者にも紹介したかったのです。』


『片岡……? まさか、あのプロ野球選手の片岡和義……』


『それは私の兄です。今は中日ドラゴンズでコーチをしています。』

『そうか……君のお兄さんか。』


白井はそう答えたが、小さく何かを呟いた。その顔色は決して良くはなかった。片岡里子はその違和感に気づいたが、あえて触れず、話を続けた。

『でも、今は兄とはほとんど連絡を取っていません。ですから、もしサインが欲しいと言われても……難しいかもしれません。』


『そうですか、わかりました。』


白井は引きつった笑みを浮かべた。片岡が話題を自然に流したことは理解していたが、彼女の意図は「ここで終わらせたい」というものに思えた。


校長が補足するように言った。

『片岡先生は本当に優秀で、京都両洋高校(西日本でも有名な女子野球の強豪校)でエース投手かつ四番を務め、マドンナジャパン(女子野球日本代表)でも六番バッターのレギュラーでした。彼女が来てくれれば、野球部にとって大きな助けになるでしょうし、若い視点も与えてくれるはずです。』


『……』


白井は校長が豆を挽きながら話すのを聞きつつ、横で控えめに微笑む片岡に視線を向けた。わざわざ彼女の脚の筋肉を見なくても、馬尾に結った髪、薄化粧、そして立ち居振る舞いから、彼女が現役アスリートの空気をまとっているのは一目瞭然だった。しかも白井よりずっと若い。


――ということは、指導者としての経験は少ないのではないか?


白井がそんな疑念を抱いた時、校長は香り立つコーヒーをカップに注ぎ、自分の席に戻った。

『やはり若い意見は、この古い学校を改革するうえで大切です。特に体育部の指導方針は、昭和のような“殴って育てる”や“根性論”は、私は今でも認められません。』


『……それはつまり、遠回しに私を責めているのか?』高橋監督が笑いながら校長に振り向いた。


『もちろん非常時には非常手段も必要です。でも言いたいのはね……高橋、あなたが引退した後、同じようにプロ野球経験を持つ若い指導者を入れることが大切だと……』


『ゴホッ、ゴホッ! け、けほっ! い、引退……?』


校長の言葉を聞いた瞬間、白井はコーヒーを飲んでいて盛大にむせた。慌ててハンカチで口を押さえ、目を見開いて高橋監督を見つめる。


監督はそれを見て、ふうっと息を吐き出した。

『……本当は、もう少ししてから伝えるつもりだったんだがな。こうして知られてしまったか。』


『あらあら、私ったら余計なことを口にしてしまったかしら。』校長が小さく笑みを浮かべて高橋に目をやった。


『なにしろ私はもう七十を超えている。今の高校野球の監督はどんどん若返り、戦術も柔軟になってきた。今の子どもたちが何を考えているのか、何をやりたいのか……片岡先生や白井先生、君たちの方が私なんかより理解できるはずだ。』


『で、でも高橋監督、野球部はあなたがゼロから築き上げてきたんです。誰よりも理解しているのはあなたで……』


『だからこそ、変わらなきゃいけないんだよ、白井。』高橋は微笑んだ。『君も気づいているだろう。今の私には、一試合すべてを見通して的確に指導する体力は残っていない。だからこそ、その役目を君に引き継いでもらいたいと思っている。片岡先生を呼んだのも、校長ではなく、この私の判断なんだ。白井先生。』


『そ、それは……で、でも……』


隣でコーヒーを飲んでいた片岡里子は、白井修吾が何か言いたそうに口を開きかけ、結局飲み込んでしまうのを敏感に感じ取っていた。


この人の習慣なのか? それとも、ただ受け入れてしまっているから多くを語らないのか?


片岡里子はそう考えた。実は自己紹介を聞いた瞬間から、白井修吾という名前にどこか聞き覚えがあるような気がしていた。しかし、やはり自分の知り合いではなく、今日が初対面のはずだ。片岡は白井をこっそり観察し、この人には典型的な「体育会系の癖」があるように感じた。


体育系の部活動に所属していた人間には、しばしば「体育会系の癖」がにじみ出る。これは学術的な研究ではなく、片岡自身の考えにすぎない。たとえば会社や学校でも、体育会系出身者は言いたいことを飲み込む習慣があり、日本人全般にも場をわきまえて発言を控える傾向はあるが、特に体育会のような高圧的な集団生活を経験した人間は、個人的な場面でも反射的に言葉を呑み込み、上の決定に従うことが多い。強豪校出身であればあるほど、あるいは制度化された運動部に所属していればいるほど、その傾向は顕著になる。


坂海工野球部を指導しているこの白井先生も、過去に野球部員だったのだろうか。片岡はそう思った。そのとき、ふと何かを思い出し、確信には至らないものの、少し試してみれば彼が気になって仕方がない理由がわかるかもしれないと考えた。


「失礼します。」片岡は軽く手を挙げ、校長と周囲の視線が自分に集まると口を開いた。

「突然の発言で申し訳ありません。ですが高橋監督がおっしゃったように、現代の日本において野球部の指導方法は改革が必要だと私も思います。ただ、過去のやり方を全否定する必要はないのではと考えています。例えば──」


片岡は一旦言葉を切り、隣の白井を観察した。そして言葉を続けた。


「先輩・後輩制度です。」


この言葉を聞いた白井は、それまで無表情だったのに、驚愕の表情で彼女を見た。「何を言っているんだ」と目が語っていた。


「そうですか?」高橋監督は少し反応し、校長も「なるほど」とうなずきながら片岡を見つめた。

「しかし一般的には、どの部活動でも先輩・後輩制度はあまり歓迎されません。権力の濫用やいじめの温床になるからです。どうしてそう考えるのですか?」


「確かに校長がおっしゃる通り、先輩・後輩制度には弊害があります。ただ私の考えでは、先輩が後輩を指導することは、本来は学びの場であり、後輩が早く状況に慣れる助けになるはずです。」


片岡はそう言いながら、横目で白井を見た。白井は明らかに顔色を曇らせた。


──また言葉を飲み込むつもり? それなら、もっと続けるしかない。


「先輩に一定の権限を与えることで、先輩自身が努力を正当化でき、自分を律する動機にもなる。それが部全体の向上につながると思います。ですから──」


「ふざけるな! そんな権力で先輩後輩を分ける野球部など、認められるはずがない!」


白井の声が、片岡の言葉を完全にかき消した。片岡はその真剣で、やや怒りを含んだ顔を正面から見つめた。冷房の効いた部屋で、彼の額には汗がにじんでいた。──ようやく言葉にしたわね、と片岡は心の中で思った。


白井の様子に少し動揺した校長が口を開こうとしたが、高橋監督は目で合図し、しばらく黙って見守るように促した。


「そうですか。白井先生なら、私の意見に賛同してくれると思っていました。」

「賛同できるはずがない! そんな時代遅れの制度、いじめと同じだ。あなたもその制度の中でやってきたのなら、わかるでしょう? 片岡先生。」


二人の視線がぶつかる。声は荒くないが、空気は一気に重くなり、沈黙が長く続いた。

片岡は動揺を見せず、さらに探りを入れるように口を開いた。


「白井先生がそこまで反対するということは……」


──過去に何か嫌な経験をしたのですか?


その瞬間、白井の顔は歪み、急に立ち上がった。


「白井先生!」校長が声を上げる。


「失礼します、校長、監督。少しお手洗いへ。」


そう言い残し、白井は校長室を足早に出て行った。校長の呼び止める声も聞こえないかのように。


「白井先生、どうしたんでしょう。体調でも悪いのでは?」

校長は少し心配そうに言った。しかし、長年白井と一緒に過ごしてきた高橋監督は、校長に向かってこう答えた。

「心配いりませんよ。白井はちょっと具合が悪くなっただけです。数分休めば落ち着くでしょう。それより……片岡先生、あなた、何か知っているのでは?」


高橋監督の視線を受け、片岡里子は表情を変えずに答えた。

「いいえ、実際のところは分かりません。」


「そうですか、分からないのですか。でも……少しは心当たりがあるんでしょう? 白井のことについて。」


「まあ、確かに。彼が私の兄の名前を口にした時から、もしかしたらと思っていました。」


片岡は高橋の問いに答えた。二人の会話は外から聞けば回りくどく、含みのあるやり取りだった。ちょうどその時、コーヒーが淹れ終わり、校長が席を立ちながら言った。

「それで、あなた方は白井先生について何かご存知なんですか?」


「ええ、たぶん。……高橋監督に伺いたいのですが、白井先生は過去に野球部だったのでしょうか?」


「白井は学生時代、確かに野球部でした。」高橋監督は答え、そして片岡の意図を察したように付け加えた。

「それに、彼はあなたのお兄さんと同じ学校の野球部の出身ですよ。」


「やっぱり……そうだったんですね。」片岡は静かに言った。野球に詳しくない校長だけが、意味が分からずに首をかしげた。

「同じ野球部? それってどういう意味なんです?」


――「オエッ……ゲホッ……ゲホゲホッ……!」


夏の静まり返った校舎。男子トイレに入った白井修吾は、洗面台にしがみついて激しく嘔吐した。まるで何か腐ったものを口にしたかのように、胃の中のものを吐き出し、それが尽きると反射的に空嘔きが止まらない。


片岡の言葉が、彼の身体に生理的な拒絶を呼び起こした。耳鳴りが頭の中で響き、あの寮での光景がフラッシュバックのようによみがえる。それ以上思い出してしまえば、さらに吐き気に襲われるのは分かっていた。


――もう何十年も経っているのに。忘れられたと思っていたのに。


片岡の口から「先輩・後輩制度」という言葉が出ただけで、体が勝手に反応してしまう。


高橋監督がかつて、自分に監督職を引き継がせようとした時も、今と同じように吐き気が込み上げた。そのため、白井は監督を継ぐことを拒み、経理兼守備コーチの立場に甘んじていた。生徒たちが楽しそうにプレーする姿を見ることで、ようやくその不快感を抑え込むことができていたのだ。


「うわ、最悪だ……!」


白井は洗面台に突っ伏しながら、苦悶の声を漏らした。


「PL学園?」


校長はそう聞いても、深く考えずに言った。

「確か宗教法人が母体の学校でしたね。昔は多くの生徒を抱えていましたが、今は募集状況が悪化して、五十人にも満たないそうです。でも、それが白井先生とどう関係するんですか?」


「片岡先生、校長に簡単に説明していただけますか?PL学園について。」

高橋監督が促した。


「はい。」片岡里子はうなずいた。


PL学園は、かつて各地から有力選手を集め、高校野球で輝かしい成績を収めてきました。今でも夏の甲子園最多優勝校の記録保持者です。しかしその栄光の裏には、徹底的な管理と、ほとんど奴隷制度のような上下関係――いわゆる『先輩後輩制度』が存在していました。


各先輩には二人の後輩が付き、布団を敷く、食事を作る、洗濯や用具の手入れまで担当。寮や練習場では先輩が後輩の生活を完全に支配していました。さらにその上で、野球の実力や学業成績も維持しなければならなかったのです。


「兄は表立って語ることはありませんでしたが、家では『あそこは地獄だった』と漏らしていました。卒業後も同じ部員同士はほとんど交流がなく、異様な雰囲気でした。兄は一度も当時のチームメイトについて語ったことがありません。」


「そんなことが……信じられない。我が校では暴力事件を減らすために努力してきたのに、生徒同士でそんなことを放置する学校があったなんて。もし白井先生がその環境で野球をしていたのなら、強く反発するのも無理はありませんね。」


「いや、中にはそういう環境に“慣れて”しまう選手もいるんです。」

高橋監督は続けた。

「野球をやる子は純粋ですから、野球のためなら自分を納得させようとします。正直に言えば、私もかつてはPLほど極端ではなかったにせよ、選手を厳しくコントロールし、結果を出せなければ体罰すら辞さなかった。昭和の運動部では、それが当たり前だったんです。」


高橋監督は、自分も高圧的な指導をしてきたことを否定はしなかった。しかし、心の中には常に「ここまではやってはいけない」という良心の線引きがあった、と。


「でも、未熟な上級生に後輩を懲罰させるような仕組みでは……」


「取り返しのつかない事態になる。」高橋が言うと、片岡も言葉を継いだ。


「以下は私の推測ですが……白井先生は私の兄のことを知っているようでした。兄がプロ入りしたのは80年代半ば。もし白井先生がその後輩にあたるとすれば……」


1986年、PL学園野球部でのいじめ事件が社会問題となり、日本中を震撼させた。これまでのようなケガや転校で済む話ではなく、報道に「死亡」の二文字がはっきりと記された。


PL学園野球部の寮「研志寮」で、一年生部員が二、三年生からの集団暴力を受け、死亡したのである。学校側は当初「偶発的な事故」「急病による突然死」と説明したが、病院の検査で多数の外傷が発見され、PL学園における長年の上下関係による暴力体質が白日の下にさらされた。


「ま、待ってください……!すみません、ちょっと落ち着かせてください。」

校長は、部員が死亡する事件を耳にし、受け止めきれず大きな声で驚いた。慌ててコーヒーを一杯飲み干し、気持ちを整えようとした。


「片岡先生……白井は、その事件を目撃したり、巻き込まれたりした可能性があると?」


「そこまでは分かりません。ただ、あの反応を見る限り、単なる“知っている”や“聞いたことがある”ではない気がします。」


「そうか……」高橋は低くうなずいた。その言葉に片岡はさらに追及した。

「監督は、何かご存じなんですか?」


「白井がPL学園で野球をしていたのは事実です。私は、それが彼の“言葉や態度の厳しさ”の理由だと思っていました。けれど実際には……もっと深い傷を負っているのかもしれません。」


高橋は真剣な眼差しで言葉を続けた。

「私は彼に、自分の心と向き合ってほしいと思っています。それは白井自身のためにも、そして坂海工野球部のためにも。だから――片岡先生、悪いが、少し頼らせてもらえませんか。」


「……私にはそんな大それた力はありません。買いかぶりすぎです。」

片岡里子はそう答えた。


自分はカウンセラーでも何でもない。本当は安定した職を求めて、公立学校の体育教員の欠員に応募しただけなのに──。

片岡里子は、自分がいつの間にか高橋監督という老獪な狐の船に乗せられてしまった気分だった。皺だらけの顔に浮かぶその笑みも、今はどう見ても含みのあるものにしか思えない。


「失礼します。」

校長室の扉が再び開き、白井が戻ってきた。少し落ち着きを取り戻した様子で、まずは場の全員に頭を下げる。

「申し訳ありません、先ほど体調が急に悪くなってしまいまして。」


「片岡先生も、初対面なのに感情的になってしまって、すみませんでした。」

「いえ、こちらこそ。説明が足りなかったのは私の責任です。」


二人は互いに謝罪を交わしたが、片岡はすぐに気づいた。白井の視線に、どこか警戒心が宿っていることに。まあいい、こういう態度には慣れている。女性に偏見を持つ人間の視線なんて、白井のものよりもっと不快なものを今まで散々浴びてきたのだから。


「それで伺いたいのですが、片岡先生。」謝罪のあと、白井は急に切り出した。

「先ほどの“先輩後輩制”の件……本気でおっしゃったんですか?」


「ええ、本気です。」片岡は頷いた。そして白井の表情の変化を見て、すぐに補足した。

「ただし、白井先生が理解している“先輩後輩制”とは、私の言いたい意味は少し違うと思います。」


「……そうか、違うんですね。」


投げやりな返事。説明を聞く気はないのだろう。片岡は心の中で小さく嘆いた。

(分かっていたら、こんな地雷は踏まなかったのに……)


これから野球部で一緒に働く以上、白井と共にやっていかなければならない。そのことを思うと、思わず「やめられるものならやめたい」と頭に浮かんでしまった。だが条件を受け入れて引き受けた以上、もう後悔しても遅い。


「では、この後グラウンドに行ってみませんか?」校長が声をかけた。

「今日は三年生の引退試合があるそうです。片岡先生にも彼らの姿を見ていただきたい。今後の部の方向性を考える上で、参考になるかもしれません。」


「えっ、もうそんな時間に?」白井は腕時計を見て、慌てたように立ち上がった。

確かに一時間後には試合開始だ。急いで球場に向かわなければ、部員たちが閉まったままのグラウンドを前に暴走しかねない。


「申し訳ありません、先に失礼します。校長先生、高橋監督、片岡先生。」


そう言って足早に校長室を出て行った。静かな廊下に、彼の早足の響きが遠ざかっていく。


その後、高橋監督と共に校長室を後にした片岡は、潮風球場へ向かう坂道をゆっくりと登っていった。昨日突然の呼び出しを受け、今朝また校長からの電話で坂海工に来た理由が、ようやく見えてきた気がした。


「まさか、まだ新学期が始まる前から働かされるとはね。」

車に揺られながら片岡が呟くと、ハンドルを握る高橋はにやりと笑って答えた。

「でも片岡先生、もし本当に嫌だったら、私や校長から声をかけた時に承諾しなかったはずですよね?」


ただの愚痴に過ぎない。結局、この時代、男であろうと女であろうと──野球を愛し、野球選手だった人間が、人のプレーを見ることに興味を持たないはずがない。仕事だから、趣味だから、あるいはただの衝動だから。理由はどうあれ、試合に胸を躍らせる本能は消せない。


元女子野球日本代表、片岡里子もまた、その一人だった。



※※※※



今日は三年生の引退試合だった。夏休み中とはいえ強制参加ではないが、やはり先輩たち最後の試合ということで例外なく全員がユニフォーム姿で球場に集まっていた。試合に出場しなくても、きちんと正装で臨むのは礼儀。これは日本に限らず、台湾でも、きっと世界共通のことだろう。


友達と南極、そして一年生たちはほとんどが潮風球場を一望できる斜面に座って観戦していた。球場は山の斜面にあるため風が強く、ネットなどの防球設備はほとんどない。ファウルボールが飛び出せば斜面を転がり落ちて林に消える。そのたびに部員たちが探しに行くのが日常だった。彼らが陣取る場所は、ちょうどファウルが飛んでくる位置。だから観戦といっても、全員がグラブを手にして、いつでも先輩たちの打球を受け止められるようにしていた。


「やっぱりすごいな。」

蓮が思わずつぶやいた。


「うん。」友達も頷く。その背後で友達に抱きつくようにしていた南極も、無意識に頷いていた。


現在のスコアは七回、1対4。だが4点を取っているのは三年生ではなく、藤田先輩と佐久間先輩に率いられた二年生チームだった。マウンドに立つ藤田迅真は、味方のエラーによる失点を除けばほぼ完璧。三者凡退を繰り返し、かつてのキャプテン・田中央一すら手玉に取っていた。


打撃でも、普段は短気で後輩をこき使う二年の田中龍二が、今日は驚くほど粘り強く球を見極め、好機を作り出してチームに得点をもたらしていた。


試合を眺めながら、林友達は心の中で結論づけざるを得なかった。――藤田先輩はやはり自分たちとは別格の存在だ。特にあの内角へ切れ込むスライダー、ほぼ140キロに迫る速球。自分が打席に立っても、打ち返す姿がまるで想像できない。


藤田に見入る友達の横顔を見つめながら、南極の胸にはどうしようもないざらついた感情が広がっていた。確かに一緒に暮らすうちに友達との呼吸は合い、怒鳴られることも減った。夏休みは一緒に練習を重ねる時間も多かった。だが、それでも。もし自分がマウンドに立つ投手になれないなら、友達は決して自分にあの眼差しを向けてはくれない。藤田を見るときの、あの尊敬と憧れの混じったまなざしを。


――もっと強くならなきゃ。


南極は胸の奥でそう誓う。彼は夢想する。いつの日か自分が坂海工のエースとなり、先発の友達が疲れ果てたその時、自信に満ちた声で告げるのだ。


「残りは全部、俺が抑える!」


だが今のところ、それは夢の中だけの光景。目が覚めれば、現実は何も変わらない。


さすがに容赦がない。田中央一はマウンド上の藤田迅真を見ながら思った。普段からあの顔は不良みたいで慣れてしまえば怖くもないが、グラウンドの上では違った。藤田の放つボールは、その見た目以上に、まるで喧嘩の一撃のような殺傷力を持っていた。


「ストライク! 三振!」


先輩たちはことごとく藤田の球に押さえ込まれ、面目丸つぶれ。自分も情けない先輩だと央一は苦笑した。攻守交代。佐久間はベンチに戻ると同時にキャッチャーギアを外し、真っ先に藤田の元へ歩み寄ると、彼の手をつかんだ。


「握ってみろ。」


七回終了時点で藤田の投球数は九十球。普通なら百球を超えてもおかしくない局面で、まだ余力を残している。それだけでも藤田の力は他の投手を凌駕していた。しかも相手は年上の三年生たちだ。佐久間は藤田の握力を確かめ、腕や手首を軽く掴んで言った。


「まだ大丈夫だな。ただ、少し握力が落ちてきてる。」


「球速はそんなに落ちてない。九回までは持つ。」藤田は淡々と答える。


彼の頭の中では、九回まで百二十球以内。球速は一三六キロを維持し、要所で威力のあるスライダーを混ぜる――そのプランができていた。


その時、「ストライク!」と審判の声。中西が三振に倒れたのだ。佐久間は振り返り、苛立ちを抑え込んだ表情を見せる。


「よく我慢したな。」藤田は肩を叩き、からかうように笑った。


「当たり前だ。バカに怒ったって無駄だろ。こっちは必死に点差守ってんだ、少しは塁に出ろっつーの。クソッタレめ。」


佐久間はわざと怒ってみせるが、その姿に藤田は安心する。本気で怒った時の佐久間は無表情になり、台風の目のような静けさを纏うからだ。今はまだ大丈夫。


――せいぜい口が悪いだけ。


「なるほど。」

駐車場の方向から潮風球場全体を見下ろしながら、片岡里子は口を開いた。

「人手不足のため、地元の野球に詳しい方々に審判をお願いしているようですが、最終的な判定は経験豊富な白井先生に委ねられているんですね。」


「白井は『野球審判員』の資格を取っている。だから最終判定を任せるのは当然だ。」高橋監督が応じる。


「ええ、それは少し意外でした。」片岡は望遠鏡を覗きながら答える。視界の中で藤田が内野をかすめるゴロを放ち、一塁へ駆け込んでいた。二年生は一死一・二塁のチャンスを迎えている。


──あのPLでの過酷な体験を思えば、普通ならもう野球をやめているはず。

自分だって、もし高校時代に仲間が先輩に虐げられ命を落とす場面を見たとしたら、耐えられたかどうか分からない。


最初は、白井先生は野球に傷つけられた「被害者」として距離を置いているだけかと思っていた。だが実際は、マネージャー、コーチ、時には審判まで引き受けている。資格まで取っているのだ。

……白井先生は、私が想像する以上に野球を愛しているのかもしれない。


「では片岡先生。元選手として、あの子たちの野球をどう見ますか?」高橋監督が問いかける。


やはり来たか、と片岡は思った。予想していた質問だが、まさかここで切り出されるとは。


「そうですね……確かに、印象に残るプレーはあります。」


「遠慮はいらん。坂海工を前に進めるために、正直な意見を聞きたい。」高橋監督の声は柔らかいが、本気だと分かる。場面を取り繕うための言葉など求めてはいない。


「では、訂正させていただきます。先ほどの言い方は生ぬるかったですね。」片岡は息を整え、冷徹に告げた。


「正直に申し上げます。――まったく話になりません。」


その声音には一切の情けもなかった。

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