第二二章 物事はいつも予想外に
台湾出身の陸坡と申します。
2025夏の全国高校野球選手権大会において、
沖縄尚学が見事に優勝を果たしました。
台湾でもこの試合が生中継され、
選手たちのインタビューまで視聴することができ、とても嬉しく思います。
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
それは坂海工がまだ夏休みに入る前、野球部のいつもの練習日だった。
「日空、ちょっと来い。」
「はい!」
高橋監督が声をかけ、グラウンドの端でTスタンド打撃練習をしていた日空南極を呼んだ。
南極は小走りで駆け寄る。その横では、友達が蓮たちと一緒に反応球の練習をしていた。南極は気づいた。確かに友達とは同じ部屋に住み、同じクラスで席も隣同士、最近は勉強や野球のことなど、友達のほうから話しかけてくれるようになった。
だが唯一、練習の時だけは友達と一緒に混ざることがなかった。今のように、南極が数人と一緒にスイングを練習している時、友達はひたすらゴロの処理や不規則なバウンド球の対応を練習している。南極は知っていた。もし走って行って何でもかんでも質問したり、つい抱きついたりすれば、友達は嫌そうな顔をしたり、必死に腕を振りほどこうとする。だが結局はきちんと答えてくれるのだ。
それが「同室の仲間だから」「先輩や先生に頼まれたから」なのか、それとも「友達として」なのか。南極には分からなかった。たとえ「面倒を見ろ」と言われて仕方なくでも悪くはない。けれど、もし友達が自分の意思でそうしてくれているなら……南極は、もっと嬉しい気がした。
南極基地で育ち、一人きりで野球ごっこをしていた頃は、投げるか打つか捕るかしかできなかった。だが友達に野球の知識や試合経験を教わるうちに、だんだんと分かってきた。捕ったらすぐ送球すること、三振を狙うか失点を防ぐ判断、スイングのコツ、投球の仕方。友達がそれを真剣に説明する横顔を、南極は真面目に聞いていたが……時々、台湾人らしい濃い顔立ちをぼんやり眺めてしまうこともあった。
台湾人ってみんなこんなに眉毛が濃くて目が大きいのか?
南極は一度、トイレの鏡の前で自分の目尻を引っ張り、「もし自分が台湾人だったら」と想像したことがある。だが台湾オタクの小林によれば、友達は普通の台湾人ではなく「原住民」という民族らしい。
「なるほどね。」南極は分かったふりでうなずいたが、実際は「原住民」が何なのかさっぱり分からない。本当に今度友達に聞いてみてもいいのか? だがそれは失礼にあたらないか? まるで沖縄出身の人に「本当に日本人なの?」と聞くようなものではないか――そんな失礼なこと……。
そんなことを考えながら、南極は監督の前に走った。なぜ急に呼ばれたのか分からない。まさか自分が何かやらかして叱られる? いや、違う! もしそうなら流星も一緒に呼ばれるはずだ。
同じクラスで野球部員、打撃好きの豊里流星は、南極にとって面白い存在だった。裸になって青白のユニフォームをお尻からかぶり、靴下を手にかぶせ、「見ろよ、俺はペンギンだ!」とお尻で歩いて見せ、南極を吹き出させたり、一緒に「ペンギンごっこ」をしたり。雨の日にはスライディングして泥遊びをしたり、バット一本で股間を隠し合い、「当たったら負け」みたいなバカげた遊びをしたり。
とにかく流星と一緒にやることはどれもくだらなくて、けれど皆を笑わせた。二、三年の先輩ですらつい笑ってしまう。だが友達だけは全く理解できず、きょとんとした顔をしていた。その度に白井先生に見つかっては怒鳴られるのがオチだった。
監督の前に着くと、そこにはもう一人、二年生の先輩が立っていた。日下尚人――痩せて背が高く、物静かで、野球部というより文芸部のような雰囲気をまとった先輩だった。
「ここ数か月で何を学んだか、少し試してみよう。日空。」
高橋監督が言い、日下を見る。日下は小さくうなずき、南極に向かって言った。
「さっき練習してたスイングから始めようか、日空。」
「はい、先輩。」
南極はそう答えて、日下の後に続き、グラウンドの反対側へ向かった。
その後の紅白戦。
藤田のスライダーが打ち返された瞬間、驚いたのは白組の友達たちだけではなかった。紅組のメンバーですら予想外の光景だった。誰も、南極が藤田迅真の変化球を捉えるとは思っていなかったのだ。
打球を放った南極は、一気に走り出した。遊撃の廉太が飛び込んで捕ろうとしたが届かず、ボールは地面に弾む。南極はスピードを緩めず二塁を蹴り、そのまま三塁へ。外野から返球が戻る直前、間一髪でベースを踏んだ。
これが白組にとって、初めて藤田から奪った三塁打だった。
南極は「やった!」と声を上げ、ベンチの友達たちに手を振って嬉しそうに合図した。
「ナイスバッティング。」
三塁を守っていた日下尚人は、南極が藤田の球を打ち返した瞬間、表情をほとんど変えなかった。ただ眉がわずかに動いただけで、南極が塁に達したあと、いつも通りの落ち着いた顔で大柄な後輩に賞賛の言葉をかけた。
あの時のことを思い出す。三年生が夏の甲子園に集中していた頃、ほかの部員は忙しいかサボっているか、そんな状況で自分は打撃練習をしていた。その時、高橋監督が自分の前に現れて言ったのだ。
「日下、ちょっと手伝ってくれ。」
監督の頼みは、日空南極の習得状況を試すこと。
もちろん思った。なぜ藤田や佐久間じゃなく、自分なのか、と。だが同時に、あの奇妙な実力差のある新入部員の本当の姿を見てみたい、という好奇心もあった。
そして今、紅白戦で目にした南極のスイング。
佐久間、お前は南極を甘く見すぎている。
田中龍二の目に藤田しか映らないように、佐久間もまた一年を視野に入れていない。だが、あの時彼を試したのはお前ではなく、この俺だったのだ。
日下は藤田へボールを投げ返し、手袋を強く叩いた。脳裏には南極のスイングが鮮明に焼きついている。
あの時、自分はただのトス練習のつもりで球を投げた。
――シュッ!
目の前を鋭い風が切り抜けたかと思えば、次の瞬間には硬球がネットに突き刺さっていた。さらにもう一球。今度はじっくり観察しようとした。
――シュッ!カンッ!
鋭い音とともに、南極のスイングはブレもなく、重心も崩れず、鋭い眼差しで打球の先を見据えていた。その姿は自分の目の前で異様に大きく見えた。
「準備運動はいらなそうだな。次はマシンを使え。日下、設定してこい。」
「はい……でも監督、パラメータは?」
「ランダムで120〜150キロ、内角と外角のカーブにしようか。」
「えっ、それって……いえ、了解です。」
それは藤田が得意とする球筋だった。
だが南極は、その変化球をも打ち返してみせた。
もちろんすべてが完璧ではなく、早打ちや遅れも目立つ。けれど監督は笑みを浮かべた。
「むやみに振っているわけじゃない。考えた上での判断だ。まだミスは多いが……ようやく『打者』として立てるようになってきたな。」
「監督……」日下は汗をにじませながら呟いた。「南極、本当に三ヶ月しか打撃を練習してないんですか?」
古い二輪式のマシンが出す球は、完璧に投手を再現できるものではない。だがそれでも簡単に打てる類のものではなかった。
もしこれが、たった数か月の成果だとしたら。
実戦を積み、さらに練習を重ねた南極は、一体どんな存在になるのか。
藤田、田中龍二、そして日空南極。
その三人が主軸となる坂海工を、高橋監督は思い描いているのかもしれない。
次の大会では、三年生が出場できない場面もあるのだろうか――。
そう思った瞬間、日下は目の前の南極に、得体の知れない畏れを感じていた。
「日下、お前、また眉間にシワ寄せて悪いこと考えてるんじゃないか?」
高橋監督が声を掛ける。
「はっ、すみません、監督。」
「責めてるわけじゃない。」
監督の声は穏やかで、感情の起伏もなかった。
「白井先生から聞いた。お前の悪い癖は、余計な想像をしすぎるところだ。考えすぎて、打席で球を見送ってチャンスを逃す……。」
監督の視線は再び南極へ。
「南極はその逆だ。ただ目の前の球に集中し、余計なことは考えない。」
ちょうどその時、南極は外角スライダーを打ち返した。完璧ではないが、絶妙な角度で野手の動きを外す打球だった。
「……監督、僕も南極みたいになるべきですか?」日下が問う。
「いや、真似をしろとは言わん。尚人。あれはあくまで一年の南極だからこそだ。力強いが、まだまだ未熟。むしろ見えるのは、誰かの指導を受けた痕跡……あるいは学んだ相手の影響だな。」
監督の視線は、グラウンドのもう一方にいた台湾からの留学生、林友達へ向かった。
友達もまた、こちらを見ていた。その視線は南極に注がれている。
「白井先生と相談して二人を組ませたのは、正解だったようだ。」
「南極……」
友達は、藤田の球を打って三塁に立つ南極を見て、なぜか胸が高鳴った。
「ほんまに打ったんか? ウソやろ。」
村瀬先輩は、驚きのあまり自分が登板するよりも動揺していた。
次の打者は柴門玉里。
実力は決して悪くないが、藤田を相手にするにはまだ厳しい。南極の一打は意外だったが、それも“たまたま”にすぎない――佐久間の頭にはそういう計算があった。
藤田が投げた内角球。玉里はスイングをしかけて引っ込める。大きく沈んだその球は、白井先生がボール判定。次も同じコース。玉里は迷いながらもバットを出し、空振り。一ストライク・ワンボール。
やっぱり難しい。玉里はバットを握り直す。藤田は中学の頃から常に期待され続けてきた存在。本来なら名門私立に進むはずだったのに、なぜ坂海工に残ったのか。
一方の自分は、高校に上がる時に声をかける人など誰一人いなかった。少しは気にしている。でも今の玉里の気持ちはもっと単純だ。
“自分には打てない球を、南極はたった数か月で打てる。しかも悪くない打球で。”
あいつ、ホンマに天才なんちゃう?
「ムカつく……アタシも注目されたいわ!」玉里は吐き捨てるように呟き、振り抜いた。
しかし空を切る。二ストライク目。
「柴門、めちゃくちゃ振ってるだけやな。」宇治川は冷静に見ていた。普段の玉里なら藤田相手でも、もう少し粘れるはずだ。
「柴門先輩、もしかして南極の打撃を見て……ちょっと緊張してるんじゃ?」
隣で榮郎が言う。彼には宇治川ほどの洞察力はないが、それでも今日の玉里の雰囲気が普段とは違うのはわかる。あの「他人がどう思おうと関係ない」という独特の気迫が薄れている。
ボール判定。ツーストライク・ツーボール。
低めの内角球。白井先生の厳格なジャッジがなければ、三振だったかもしれない。玉里は深呼吸し、次に賭けようとする。ふと視線を上げると、ベンチの宇治川が手で何か合図を出していた。
「え?……なんや今の?」玉里は見えず首をかしげる。
すると今度は榮郎が、わかりやすい手ぶりでサインを送ってきた。
「えっ?」玉里の顔に戸惑いが浮かぶ。
「次も内角スライダーやろな。」中西が呟く。
「同じ球種を五球も? バカにしすぎやろ!」田中龍二は憤る。
「それが佐久間のやり口や。アイツは相手をイラつかせるのが上手い捕手やからな。……ってか、おい、ホンマに俺をマウンドに立たせる気ちゃうよな!? おい! なんで二人とも答えへんねん!」
村瀬智也は返事のない仲間を見て、完全に漫才のツッコミ役みたいになっていた。
藤田が投げた。やはり内角スライダー。
藤田は玉里の構えを見ていたが――「あれ?」と違和感を覚え、咄嗟に佐久間へ声を掛けた。
遅れて気づいた佐久間は、すぐに理解する。
柴門玉里が仕掛けてきたものを。
そう、バントだった。
三塁を守っていた南極は、玉里の動きに真っ先に気づき、藤田が投げる瞬間に飛び出していた。牽制の危険など全く考えずに。玉里も素早くバントに切り替え、白球を転がす。
その打球は絶妙に転がり、一塁・二塁・マウンドの真ん中という絶妙な“死角”に弾む。しかもピッチャーマウンドに跳ね返り、藤田・佐久間・一塁手が一瞬迷う。藤田が必死に拾い直し一塁へ送球するが――僅かに遅い。
南極がホームイン!
「一点入ったぁぁ!」
白組ベンチが総立ちになり歓声をあげる。
「やった!友達、見たか!?オレ点取ったぞ!」
「見た見た!……って、ちょ、南極待て待て!あっ、うわぁ!」
捕手防具をつけていた友達は、そのまま南極に抱き上げられる。
重装備のまま軽々と持ち上げられ、思わず悲鳴を上げる。――これじゃ毎回抱きつかれても振りほどけないはずだ。
ちょうど攻守交替。
ベンチに戻る両軍を見た白井先生は、まだふざけている南極を見て怒鳴る。
「日空!ふざけてないで早く守備につけ!」
「すんませーん!すぐ行きます!」……謝ったのはなぜか友達の方だった。
友達はぶつぶつ言いながら南極を引き剥がし、二人で守備位置へ向かう。
一方その頃。
村瀬は二人のやり取りをポカンと見ていたが、すぐに宇治川に肩を掴まれる。
「先輩……お願いします!」
「えっ……いやいや宇治川、お前それマジで考え直した方が――」
「白井先生!投手交代お願いします!」
宇治川は即断即決。
「はぁ……なんて運の悪さだ。」村瀬智也は大きく溜息をつき、ボールを受け取った。
こうして白組の投手は宇治川から村瀬へ。宇治川はそのまま三塁へ回る。
「珍しいな、宇治川が自分からマウンドを降りるなんて。」
打席に備えていた蓮が思わず呟く。宇治川なら最後まで投げ切ると思っていた。
“もし友達が投げてきたら、オレには打てる気がする。”
蓮はそう感じていた。友達の球は――「お利口さんピッチング」だ。
そう名付けたのは流星だ。
変化球は多彩だが球速はそこまで速くない。捕手との配球勝負になるタイプ。だが白組には経験豊富な捕手がいない。友達自身が組み立てるしかないし、南極が捕手では戦力にならない。
「でも……逆にチャンスかもな。」蓮は考える。
南極は初心者、ミスも多い。
だがマウンドに立つのは――村瀬?
「先輩、投手やったことあったっけ?」蓮だけでなく、二年生ですら首をかしげていた。
「こいつら自暴自棄か?」
佐久間は冷笑した。「村瀬なんて、もう何年も投げてないだろ。奇襲のつもりか?」
その横で打席準備をしていた藤田は、その会話を耳にする。
――戦術を組み立てるのは自分より佐久間の方が向いている。
二年のエースと呼ばれていても、自分は投げるだけ。戦い方を決めるのは捕手。
そう、藤田は理解していた。
「佐久間、もうちょっと真面目にやったらどうだ?」藤田が言った。
佐久間は一瞬黙り込み、数秒後、不機嫌そうに返す。
「……オレが不真面目に見えるのか?」
「そうじゃない。相手を甘く見すぎるなってことだ。」藤田はそう言ってマウンドに向かった。
実際、佐久間が手を抜いているわけではなかった。だが藤田にすれば過度に慎重すぎる。村瀬智也――あの投手としての名前を口にする必要はない。中学卒業してからほとんど投げてないし、打線の力を考えれば過剰な警戒は不要、そう佐久間は踏んでいた。
「佐久間、オレも藤田と同じ意見だ。」
「日下……?また心配性な助言か?」
普段ほとんど口を開かない日下尚人が言ったことで、佐久間は少しだけ身構えた。日下はマウンドを見やり、あくびして白井先生に怒られている村瀬を見て、頭を掻いて「すまん」と言う。そして視線を本塁に向け、捕手の林友達をじっと見つめた。
「気をつけるべきは捕手だ。」
「捕手?」――林友達のことか?
その頃。
「先輩、大丈夫ですか?」捕手の友達は、相変わらず気の抜けた様子の村瀬を心配し、サインの確認ついでにマウンドへ駆け寄った。小柄な友達を見て、村瀬は「あぁ、これじゃ南極が抱き上げたくなるのも分かるな」とぼんやり思う。
「大丈夫大丈夫。オレがヘマしたら……中西は笑って済ますかもしれんけど、二号(田中龍二)はキレるだろうな。はは。――で、学弟、ちょっと耳貸せ。」
「え?」友達がマスクを外して近づくと、村瀬はグラブで口元を隠しながら囁いた。
その言葉を聞き、友達は表情に出さぬよう細心の注意を払った。
「先輩、本当に全部オレに任せていいんですか?」
「もちろん。安心しろって。お前に任せるよ、学弟。」村瀬智也は全く頼りにならない笑顔を見せた。
通常なら二年投手と一年捕手のバッテリーは、上級生が主導するものだ。だが村瀬は逆に、判断のすべてを林友達に委ねた。意外性のある作戦――ではなく、ただ単に責任を負いたくなかっただけ。
(悪いな、台湾の後輩。全部押し付けちまう。)
村瀬智也は心の中で友達の背中に謝った。
スコアは1対2。白組が一点差で追う展開。
打席には田中廉太。友達はサインを出し、急遽交代した村瀬と確認を取る。サインは宇治川のものをそのまま継続することにした。
廉太は積極的にバットを振るタイプで、宇治川のボールでもストライクでなくても手を出すことが多い。
だからまずは外角から――。
友達がサインを出し、村瀬がうなずく。次の瞬間、村瀬は腰をぐっと落とし、体を前に傾ける。腕がねじれるようにしなり、下からすくい上げるように投げ放たれたボールは、水切りの石のようにすっと浮き上がり、捕手ミットに吸い込まれた。
驚いたのは友達だけではない。打席の田中廉太も思わず目を見開く。
――こんな投げ方、高校の試合では初めてだ。
「まさかアンダースローを見るとはな……。」
外野のベンチ脇で見ていた三年生たちがざわつく。特に投手の田中央一にとっては衝撃だった。コーチから「変わったフォームの後輩がいる」と噂を聞いたことはあったが、まさか自分の引退後に目にするとは。
「潜水艦投法」――そう呼ばれる低いアンダースロー。
友達もネットで映像を見たことはあったが、実際に捕手として受けるのは初めてだった。
村瀬は肩を回し、手の感覚を確かめる。久々に立つマウンドに一瞬の感慨が走る。
(もう二度とここには立たないと思ってたのにな……。変な紅白戦だ、オレを引っ張り出すなんて。)
友達のサインを見て、村瀬はうなずく。
「よし、もう一球いくぞ。」
再びアンダースロー。沈んだかと思えば浮き上がる球に廉太は空振り。ツーストライク。
そして最後は外れ気味のボールで釣り、振らせて三振。紅組一死。
「……まだ投げられるとはな。」
その声に三年生たちは思わず背筋を伸ばした。
振り返ると――。
「監督!」と一斉に敬礼。
高橋監督がそこに立っていた。
「結局、お前ら我慢できずに観に来たんだな。」
三年生は苦笑いしながら頭をかく。
夏はもう終わりを迎えているはずなのに、どうしても気になってしまう。三年間を野球に捧げたのだ、そう簡単に割り切れるものではない。
「監督、村瀬が投手だったって知ってたんですか?」央一が尋ねる。
「知ってたさ。」高橋監督は静かにうなずいた。
高橋監督は思い出していた。以前、村瀨に投手経験を尋ねたとき、彼は「もう全然投げてないっすよ。球速もコントロールもボロボロで、投手はとっくに諦めました」と、あっけらかんと笑っていた。
だが、監督の目には村瀨智也が必死に隠そうとしている“元投手”の癖がはっきりと残っているように見えていた。
例えばキャッチの際にミットを高く構えないこと。投げる時も、つい腰の位置から低い腕の振りでボールを放ること。
村瀨のだらけた性格や「やる気がない」というイメージのせいで、それが単なる怠け癖にしか見えなかったが……。
今の野球界は速球とパワーが求められる時代。アンダースローのように球速の限界がある投げ方など、もはや絶滅危惧種だ。
(白井も気づいているだろうな。)
主審を務める白井の横顔を見ながら、監督は小さくつぶやいた。
「やっぱり心配の種だな……」
二人目の打者に対しても、村瀨はあっさりとツーストライク・ワンボールのカウントを作る。
自分でも驚いていた。少しは個人的に練習したことはあるが、それも三、四時間程度いじっただけ。
(まあ、オレにしてはよくやったほうか……。)
「ストライーク!」
二人目の打者も三振。
「……マジかよ。」村瀨は内心で目を丸くする。
捕手の林友達とは一度もバッテリーを組んだことがないのに、不思議と重荷を感じない。
むしろ、この台湾から来た後輩は自分の投球スタイルをよく理解しているように思えた。
思い返せば、小学校でポジション希望を聞かれたとき、投手や強打者、内野手を選ぶ子はいても、捕手をやりたいという声はほとんどなかった。
この学弟、まさか自分から捕手を望んだのか?――いや、違うだろう。
それでも、妙に頼もしい……。
次の投球。村瀨が放ったボールに打者が食らいつく。
「やばっ!」と思った瞬間、幸いファウル。
(あぶねぇ……。オレの球なんて、やっぱり簡単に当てられるよな。長打にされたら、後輩の前で立つ瀬がねえ。)
顔を上げると、打席にはあの空気を冷やす張本人――日下尚人。
無口でリアクションもなく、こういう相手は村瀨が一番苦手とするタイプだ。
お笑い担当の中西と違い、全くボケにも突っ込みにもならない無言の存在。
友達がサインを出す。――「ストレート」。
「マジかよ……こんな場面で直球? 思い切ったな、台湾の後輩。」
だが村瀨はふっと笑った。
(そうだよな。試合ってのは――こうでなくちゃ! 面白くねえ!)
腕を振り抜く。
「ん……? スライダー? いや、これは――ストレートだ!」
試合に立った瞬間から、日下はずっと考えていた。
村瀨智也がどんなボールを投げるのか――いや、それよりも林友達がどう配球するかを考えるべきかもしれない、と。
村瀨ならスライダーだろう。いや、この投げ方なら横に曲がる変化球、サイド気味のスライダーもあり得る。
どうせ村瀨のことだ、球種をわざわざ変えるなんて面倒がるはず。結局はスライダーが来るに違いない。
そう読んでいた。
だが来たのはストレート――いや、ストレートなのに少し落ちてくる球。
バットを引く間もなく、無理やりスイングしてしまい、高く上がったフライ。外野手に難なく捕られてアウト。
「……やられたな。」
日下はマウンドを降りる村瀨の背中を見て、歯ぎしりする思いだった。
あの男がストレートなんて投げるはずがない。
やっぱり全部を後輩に丸投げしてるだけじゃないか。
(全く……いい加減にもほどがある!)
日下にとって村瀨は昔から気に入らない。
気だるげな態度、怒られてもヘラヘラ謝ってごまかす性格。藤田のようなエースでもないくせに、人の上に立ったような顔をする。
同じ学年でありながら、その姿勢が余計に癪に障るのだ。
一方の村瀨は、日下の鋭い視線に気づいても、さっと顔を背けて「見なかったこと」にする。
(やっぱりアイツ、付き合いにくいな……。)
両者は同じことを心の中で思っていた。
紅白戦は八回へ。白組はいまだ一点ビハインド。
だがこの展開は、高橋監督の意図的な采配によるものだった。紅組の藤田を下げ、一年生の田中廉太をマウンドに立たせたのだ。
そのため試合は、わずか一点差を保ったまま進んでいる。
藤田は文句を言わなかった。
この試合が「勝敗」ではなく、各選手の成長を見るための場だと理解していたからだ。
もっとも、一年生にとっては初めての実戦。必死に全力を尽くしている。その姿に、藤田自身もこの紅白戦を真剣に受け止めるべきだと感じていた。
そしてふと佐久間のことを思い出す。
自分でさえ監督の狙いに気づいているのだ。佐久間の頭脳なら分からないはずがない。
なのに、なぜあんな挑戦のない配球をした?
しかも、自分の首振りを無視してまで……。
藤田はそこでふと、自分なりの答えに思い至った。振り返るとすぐさま佐久間のもとへ駆け寄る。ちょうど捕手の防具を外していた佐久間は、息を切らして走ってきた藤田を見て、問いただす前に声をかけられた。
「圭一……お前、俺が本気で投げるって分かってて、わざと簡単な球種や配球を出して、俺の負担を軽くしようとしたんだろ?そうなんだろ?」
試合よりも自分を優先して考えている――藤田はそう確信した。
佐久間はキャッチャーマスクを外し、無表情で藤田を見据えると、両手をぱっと開き、そのまま藤田の頬を思い切り叩いた。藤田は「痛っ!」と声を上げる。
「今さら気づいたくせに、よくも『エース』なんて名乗れるな。」
苛立った表情を浮かべた佐久間は、そのまま藤田の頭を軽く小突き、唇をつまんで言った。
「さっき誰が俺に向かって『真剣じゃない』なんて抜かしたんだ?」
「……悪かった。」藤田は素直に謝った。
佐久間はその謝罪に少しだけ気持ちが和らぎ、吐き捨てるように続けた。
「まあ、お前の言う通りだ。まさか一年があの球を打つとは思ってなかった。」
「それは俺の力不足だ。もっと球速を上げて改善しないと。」藤田は真剣に答える。
「違う、俺が言いたいのはそうじゃない。……まあいい、お前はいつもそうだな。」
佐久間は苦笑し、藤田には通じないと分かっていながら、それでも胸の内で思った。
(俺はただ……藤田を甲子園に連れて行きたい。それだけだ。)
数万人の観衆の前で、堂々とマウンドに立つ姿を――。
一方その頃。
「村瀬先輩、大丈夫ですか?」
「悪い……さすがにちょっときついな。」
久々のマウンドで昂ぶりすぎたせいで、リズムや体力配分を忘れていた。投手がどれほど消耗するポジションか、改めて痛感する。
荒い息をつく村瀬を見て、林友達の直感は告げていた。このまま村瀬が九回まで投げれば、追いつくどころか全滅もあり得る、と。宇治川も同じことを感じ取っていた。
「村瀬先輩、やっぱり俺が投げます。」宇治川はそう言ってから、一瞬ためらい、隣の友達を見た。
「……いや、友達、お前が投げた方がいいんじゃないか?」
「えっ、俺が?」友達は驚きつつも、胸の奥で高鳴る感情を抑えられなかった。台湾ではずっと投手として投げてきた。再びこの舞台で投手として投げたい――その想いがこみ上げる。
だが同時に現実的な疑問も浮かぶ。
「でも宇治川……捕手は誰がやるんだ?」
これは白組にとって大きな問題だった。捕手の実戦経験があるのは友達以外にほとんどいない。仮に友達が投手に回ったとしても、誰が捕手を務めるのか――それが頭の痛い問題だった。
選手たちが困惑している間に、田中龍二先輩が外野へ鋭い当たりを放ち、二塁へ進塁する。八回裏、白組にはまだ反撃のチャンスが残っている。
「ふふ、毎年こういう時に同じ壁にぶつかるんだよな。」
「高橋監督、お疲れさまです!」
白組の面々は、グラウンドに歩み寄ってきた高橋監督を見て、慌てて礼をする。黙って両軍の様子を見ていた高橋は、彼らがどんな問題に直面しているか当然理解していた。そして、それを選手自身に解決させるのも試練の一つだと考えていた。指導者に頼らず、自分たちで局面を判断し、危機に対応できるかどうか――それこそが成長の糧になる。だが現代の高校生は、自分の慣れたポジションに固執しがちで、新しい役割に挑むのを恐れる。失敗を恐れ、仲間に責められるのを嫌うのだ。
「行け、友達。マウンドに立て。」
高橋監督の言葉に、友達はまだ捕手をどうするか迷っていた。だが次の瞬間、監督が笑みを浮かべて宇治川に声をかける。
「宇治川……日空を呼んでこい!」
八回裏、白組は得点できず。九回表、紅組の攻撃。ここで白組は投捕を入れ替える――
投手:林 友達 / 捕手:日空 南極




