第二十章 ギリギリ合格の成績表
台湾出身の陸坡と申します。
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
野球部が負けたことについては、学校ではあまり話題にならなかった。
それよりも皆が話していたのは、吹奏楽部がもうすぐ関西支部大会に進むということだった。勝てば全国大会に出場できる。ここ十数年の間に坂海工はダークホースとして二度も出場し、支部大会の強豪となり、他校から無視できない存在になっていた。
野球部の冷遇に比べて、青木陽奈や吹奏楽部の女子たちは一際注目を集めていた。けれども青木陽奈自身は、そうした学校の視線など気にも留めていなかった。
むしろ隣の席で、先輩の敗退に少し落ち込んでいる林友達の様子のほうが気になっていた。
正直に言えば、陽奈から見た友達はまるで悩みを抱えた子犬のようだった。思わず頭を撫でたくなる――でもそれは心の中で思うだけで、実際にはしない。だって今はもう日空南極が坊主頭を撫でまくっていて、案の定、友達は「うっとおしい!」と文句を言っていたから。
放課後に野球部のアホなやり取りを見ていると、ほんま癒されるわ、と陽奈は思った。
そして口をついて出た言葉は――
「先輩が負けたくらいで、そんなに落ち込むもんなん?」
「だって、試合が終わったその日の午後の部活で、田中先輩たちが引退を宣言したんだよ。それに勉強とか就職とかで、もう誰も続けて野球やる人がいないんだ。」
子供の頃から野球をやっている友達は、頭ではわかっていた。けれども三年生の田中先輩たちが一人ひとり、監督や白井先生、部員全員に感謝を述べたあの場面を思い出すと、どうしても気持ちが沈んでしまう。
「そっか、残念やな。」陽奈はそう返した。
でも本当は、彼女が聞きたかったのはこの話じゃなかった。実際は大阪桐蔭のことを知りたかったのだが、それをわざわざ口にする気はなかった。
「友達、元気出しや!」
「うるさいって!暑いねんから、やめろって!」
南極は後ろから友達に覆いかぶさるようにして、わざと体をこすりつける。友達は必死で体をよじって逃れようとするが、倍近い体格差の南極からはどうしても逃げられなかった。
「おーい!南極、友達!行くで行くで!一緒にグラウンド行こや!」
廊下の外から流星が教室に向かって声を掛けてきた。彼の隣には蓮と宇治川。三人で廊下に立って待っていた。
そのとき、楽器を背負った陽奈がふと宇治川と目を合わせた。数秒間視線が絡んだあと、宇治川はすぐに逸らす。その眼差しには、わずかな気まずさが混じっていた。
「じゃ、私先行くわ。明日な。」陽奈は言った。
背後で「じゃあ明日!」と友達と南極の声を聞きながら、彼女は宇治川たちが立つ前方へ歩いていった。だが友達があまりにのんびりしているので、蓮と流星が教室の中に駆け込んで彼を冷やかす。結果、廊下には宇治川と陽奈の二人だけが残った。
「……あのクソ野郎、出場したん?」
陽奈は遠慮なく、その人物を「クソ野郎」と呼んだ。
宇治川は誰のことか察して、首を横に振る。
「いくらアイツがすごくても、大阪桐蔭にはすごい奴が山ほどおる。一年のアイツが出られるわけないやろ。」
「そうなんや。」陽奈はそう言って、小さなトランペットケースを提げ、宇治川の脇をすり抜けた。
数秒後、背後から声が届いた。
「青木……お前、アイツとまだ……まだそういう関係なんか?」
「さあね……。」
青木陽奈は一度も振り返ることなく、そのまま音楽室の方へ歩き去った。
潮風球場では、練習の中心が三年の田中先輩から、二年の藤田先輩に移っていた。二年生の練習は途切れることなく続いており、むしろ一層きびしい目標を立てて取り組んでいる。変わったのは、高橋監督があまり顔を出さなくなり、代わりに英語教師の白井修吾先生が、ほぼ完全に監督の役割を兼ねていることだった。
「それにしても、白井先生って野球のことめっちゃ詳しいんやな。ちょっとびっくりしたわ。」
素振りの練習をしていた流星が言った。
この意見に他の一年生も大きくうなずく。交代でバットを振っていた田中廉太が続けた。
「兄ちゃんが言うとったけどな、白井先生って昔、学生時代はかなり有名な強豪校の野球部におったらしいで。」
「え、ほんまに!?全然そうは見えへんけど。運動苦手そうやんか。」
「まぁな……逆に見た目はスポーツできそうでも、運動神経アカンやつもおるしな。」
そう言いながら、廉太と流星の視線は自然と金井榮郎へと向かう。榮郎は必死にバットを振っているのだが、そのフォームがどうにもぎこちない。
「どこがアカンのやろなぁ?」
蓮が苦笑しながら榮郎のスイングを見てつぶやいた。
榮郎自身も周囲の視線に気づいていた。自分のフォームが笑われていることに気づくと、余計に体がこわばり、ますます変な動きになっていく。
もっと力を入れたらええんかな……? そう思って全力で振り抜いた瞬間、勢い余って体ごとくるりと回転してしまい、尻もちをついてしまった。バットは床を転がり、周囲から「金井〜、お笑い芸人か!」と笑い声があがる。榮郎の顔は真っ赤に染まり、ますます恥ずかしさで縮こまった。
「スイングの軌道が長すぎるんちゃう?」
その時、友達が榮郎を見て言った。視線の先では、同じく大柄な南極が力強く、しかも美しいフォームでバットを振っている。友達は榮郎の動きを思い返しながら、何か気づいたように前へ出ようとした。
「ほんま、見とれんわ。」
友達よりも先に、一人の影が一年生の列から自信満々に歩み出た。堂々と榮郎の前に立つと、地面に落ちていたバットを拾い上げ、腰を抜かした榮郎に向かって言い放った。
「よう見とき。スイングっちゅうんは、こうやるんや。」
そう言って柴門玉里が思い切り振り抜いた瞬間、束ねていた髪がほどけ、サラリと宙に舞った。その髪が一瞬きらめき、もともと女性のように整った顔立ちに、見事なフォームが重なり……榮郎はその光景に目を奪われ、数秒間、頭の中が真っ白になった。
「おい──! わかったんか?」
玉里は目を見開いた榮朗をじっと見つめて問いかけた。
「え、あ、あぁ、その……す、すんません、はっきりとは見えへんかったです……」
我に返った榮朗は慌てて答え、思わず正座してしまう。
「正座してどないすんねん! 立てや! もう一回見せたるわ!」
玉里の鋭い目つきに射抜かれ、榮朗はごくりと唾を飲み込み、真剣な顔でうなずいた。
柴門玉里は髪を結び直すと、深呼吸をして再びバットを握りしめた。
投球をイメージし、体を前へ運び、力を込めて――腕と腰、下半身の動きを連動させる。最後は全身の力をボールに乗せるように振り抜く。
流れるような一連のフォームに、空気が一瞬張り詰めた。
「おお、めっちゃええやん!」
廉太が思わず声を上げた。
榮朗は必死に目で追うが、二度目を見ても自分が本当に理解できているのか自信がなかった。
「……で、わかったんか?」
玉里が確認するように問いかける。しかし榮朗は口ごもってしまう。
数秒の沈黙。練習場の空気が気まずくなっていき、榮朗は何か言わなきゃと思うほど、逆に言葉が出なくなった。玉里の表情には、はっきりと苛立ちが浮かび始めていた。
「金井!」
その時、声を発したのは榮朗でも玉里でもなく、横にいた友達だった。
「柴門はな、お前のスイングが長すぎるって注意しとるんや。」
「……スイングが長い?」
榮朗が聞き返すと、玉里はため息をついた。
「そういう言い方があるんや。バットの軌道は上に二十度以内が理想やけどな。背の高い選手は腕が長い分、角度が極端に上向いたり下向いたりしてもうて、結果、ボールを当てるために腕の力だけで打とうとするんや。」
メガネをかけた小林が前に出て、ノートを開きながら言葉を継いだ。
「柴門のスイングは角度が正しくて、下半身から連動して力を伝えています。しかし金井くんは、手だけでバットを振っているんです。」
「うんうん、小林の言う通りやな。」
友達がうなずき、ふと小林に視線を向けて笑顔を見せた。
「説明ありがとな、小林。」
友達に笑顔でお礼を言われた小林は、瞬間的に耳まで真っ赤になり、そっとチームの輪に引っ込んでつぶやいた。
「台湾人の林友達にお礼言われるなんて……なんか、へんな感じやな。」
「おい小林、なに言うてんねん、アホちゃうか?」
蓮がすかさずツッコむ。
みんな、小林が妙に友達の「台湾人」という身分に興味津々なのは知っていたが、まさか道謝ひとつでここまで照れるとは思わなかった。
そのとき南極がにこにこと榮朗のところに駆け寄り、元気に言った。
「全身で一緒に回ればええんや! 見てみ、オレやるで!」
そう言って南極は楽しそうにスイングをしてみせる。動きは驚くほど標準的で、まるで正規の指導を長年受けてきたかのような完成度だった。ほんの数か月前まで野球に触れたことがなかったとは信じられない。
玉里は思わず眉をひそめた。南極の動作自体は間違っていない。むしろ、以前から宇治川や何人かの先輩、そして友達も言っていた通り、この男は覚えるのが異様に早いのだ。しかしここまで早く形になるとは……。
一方で、同じく180センチ台の榮朗は、何年も野球をやってきたのに、いまや初心者に近い南極に教えられている始末。
「ほんま情けないわ。恥ずかしいとも思わんのか?」
そう考えると玉里の胸に怒りが湧いた。南極の才能にではなく、榮朗の必死さにでもなく──ただこの状況そのものに。
「せっかく見せたんやから、ちゃんとわかったんやろな?」
玉里が問いかける。
「は、はいっ……!」
榮朗は慌ててうなずき、フォームを構えてスイングした。
「どう、ですか?」
恐る恐る尋ねた榮朗だったが、玉里の不機嫌な顔を見てすぐに理解した。
「さっき友達らも言うてたやろ! 全身の力や、全身! ったく、打つ時は肘の角度とバットのヘッドの軌道を一致させるんや。こんなん中学野球でも教わるやろが!」
玉里はぶつぶつ言いながら榮朗の腕をつかみ、姿勢を直していく。そしてもう一度スイングさせた。
完全とは言えないが、榮朗自身が自分の欠点を意識し、修正しようとしたおかげで、先ほどよりもずっと「野球のスイング」に近づいていた。
「おぉ、今のはなかなかやったで!」流星が言うて、バットを担いで寄ってきた。ニコニコしながら自分のスイングを見せびらかす。普段はアホでドジばっかりやけど、先輩に怒られてばっかりやけどな、友達も玉里も分かってる──流星が実は一番バッティング上手いんやって。
「うわぁ、めっちゃカッコええやん、流星!」南極が横で拍手するみたいに褒めた。
「へっへっへ!ワイ、スイングめっちゃ得意やで!──あいたたたっ!」
「コラ、アホ!見せびらかすんはええけど、人の練習の邪魔すんな!」宇治川が呆れて言うた。隣の蓮はすぐに流星の襟首をつかんで、自分らの打撃練習エリアに引っ張って戻した。最初はちょっと気まずい空気やったけど、いまは一年生の打撃練習もええ雰囲気になってきた。
ちょうどその時、グラウンドに入ってきた高橋監督が遠目から様子を見て、ふっと笑った。
「ほぉ……わしの出番、いらんみたいやな。」
高橋監督は顔を二年生のメンバーへ向けた。メインのグラウンドで、それぞれ白井先生に割り振られた練習をやっとる。監督はしばらく眺めてから、ぽつりとつぶやいた。
「確かに白井らしい練習の進め方やな。ただ……まだ足らんとこがあるわ。」
その言葉には何か含みがあったけど、監督はそれ以上は言わんかった。ちょうど後ろから声をかけられる。振り返ったら、坂海工業前キャプテン──田中央一の姿。ユニフォームやなくて、坂海工の制服を着とる。
「おぉ、久しぶりやな田中。大学受験の準備、調子はどうや?」
「どうも、高橋監督。これがなぁ……あんまり言いたないけど、全然得意やないんですわ、試験勉強。けど、海事大学入りたいんで、今は必死に英語を勉強してますねん。」央一は頭をかきながら、苦笑いで答えた。
「今日、わざわざ呼んだ理由は分かっとるやろ?」監督が言う。央一は笑って頷いた。
「はい、監督。分かってます。まさかもう三年経ってもうたとは思いませんでしたわ。自分も先輩らと同じように、このチームの伝統を受け継ぐ番やって。」
「どうや、緊張しとるか?」
「そりゃちょっとはしてますわ。……いや、ちょっとやなくて、だいぶドキドキしてます。ほんまに強い一年と二年の後輩ばっかりですから。なるほどなぁ、今になってやっと、あの時の先輩らの気持ちが分かりますわ。」
央一は打撃ゲージの一年生たちを見て、それから視線をマウンドに投げる藤田迅真へ向けた。藤田が足を高く上げ、力強くボールを捕手ミットに叩き込む。インコースへのチェンジアップ気味のスライダー。
「……ほぉ、ええ球や。」
央一は数日ぶりに見るグラウンドの空気に、胸がうずいて仕方なかった。
「ふふっ、やっぱり野球やりたい気持ちは残ってるんやな。」
「そうやな。」田中央一は頭をかきながら、少し照れ笑いした。
「監督、来てはったんや。おっ、田中か。どや?ちゃんと勉強してるか?」白井先生は田中を見つけてすぐ声をかけ、ついでに言った。
「英語の点数、もうちょっと頑張らなアカンで。」
「分かってますって!白井先生。」田中は赤面して返した。どうしてみんなして勉強のことを言うんやろ、と内心ぼやいた。
白井先生が一、二年を集合させると、藤田や佐久間ら二年生は田中先輩の姿を見て、さらに高橋監督まで来ているのを見て、これから何が発表されるか察した。部員たちは監督に挨拶し、半円に集まってしゃがみ込んで耳を傾けた。
「三年が引退した後、白井先生から一、二年の状況を聞いとる。みんなよう頑張っとるし、雰囲気もええな。夏の選手権は残念やったけど、八月末からは秋の大会や。目標はそこに置いてくれ。」
「はいっ!」
「それと……八月近くになったら、うち坂海工には伝統行事がある。」
――伝統?
友達は監督の言葉に耳を傾けつつ、横に立っている三年の田中先輩を見た。監督に呼ばれた田中先輩が小走りで前に出て、学弟たちに向かって言った。
「坂海工野球部の伝統や。引退した三年全員と、一、二年の混成チームで、交代試合をやるんや。試合は七月末にやる予定やから、みんな全力で頼むで。」
――えっ!?三年の先輩らと対戦するん!?
友達は思わず田中先輩を見た。田中先輩はにこやかに言った。
「秋の大会に向けた練習試合やと思っとき。藤田、よろしく頼むわ。」
田中はそう言って藤田迅真を見た。藤田は立ち上がって、田中先輩と監督にうなずいてみせた。
続いて白井先生が言った。
「まぁ、そういうことや。それまでに一、二年で小グループの試合をやって、そこから九人と控え一人を選ぶ。二年は『一年との試合やし余裕や』なんて思ったらアカン。身内やからこそ自分の強み弱み、クセもバレバレや。一年もビビらんとき。こういう試合はこれからも増えるし、慣れとかなアカン。そして一番大事なことやけどな……」
そこで白井先生は言葉を切り、部員全員を見渡してから厳しく言った。
「今回はみんな学科成績が赤点なし。ええことや。そのまま続けるんやで。一科目でも落第したら、試合に出る資格はあらへん。以上、わかったな?」
「はいっ!」
「ええ──!?そんなんひどいやん!」
「頭悪い奴いじめやろ、それ!」
「おい、今の聞こえたで、豊里、中西。お前ら気ぃつけや。」
流星と中西が同時にヤバイ声をあげ、即座に名指しされて慌てて「はいはいはいっ!」と叫んだ。その様子に先生も部員たちも思わず笑った。実のところヤバイのは流星と中西だけやなく、友達の成績も似たようなもんやった。ただ必死に勉強してなんとか期末をギリギリ通過したのだ。
――結局、勉強からは逃げられんのか。
林友達はため息をついた。そんな彼の背中を南極の大きな手がバシッと叩いた。
「大丈夫やって!今回、全部通ったんやろ?」
「まぁ、そうやけど……ギリギリやねん。」友達は苦笑いしつつ答えた。もっと勉強時間を取らなアカン、野球だけじゃあかん、と心に決める。南極の影響か、最近は寮に戻ると復習してから自主練に行く習慣がついてきた。おかげで成績も少しずつ上がってきていた。
夏休みはもうすぐ。第一学期もいよいよ終わりに近づいていた。
本の高校の夏休みは七月末から始まり、だいたい二十日ごろに入る。台湾の高校生である林友達の夏休みとは少し違って、台湾では七月の初めから八月いっぱいまで休みになる。六月にはすでに期末試験を終えるのに対して、日本では七月上旬にテストがあり、七月中旬に成績表が渡される。
「……まぁ、ぎりぎりやな。ま、勉強はちゃんとやってるってことでええか。」
南極が風呂に入っている間、友達の母親がビデオ通話越しに成績表を見ていた。
同じく画面に映っていたのは、姉の鈺雯だった。
「意外と悪くないやん。もっとひどいと思ってたわ。まさか全部ギリギリ合格できるなんてね。だって台湾の体育クラスのときなんか、あんたの成績って……」
「うわっ、ちょ、やめて! 昔の話は言わんでええから!」
友達は慌てて遮った。母親の前でそれ以上バラされたくなくて、必死の表情だった。鈺雯はそこで口をつぐむ。その後ろでは、長年付き合っている彼氏の川頼さんがビールを飲みながら、友達の慌てぶりに思わず笑ってしまう。どうやら自分が学生の頃を思い出したらしい。やっぱり成績表を家族に見られるのは、台湾でも日本でも学生にとって一番怖い瞬間なのだろう。
「合格したからって安心したらあかんよ、友達。野球続けたいんやったら、成績は落としたらあかん。学生の本分は勉強や。わかったか?」
「わかったってば!」
また母親に説教され、友達はうんざりした顔をする。
「もうすぐ夏休みやろ。友達、何か予定あるん?」
場を和ませようと、鈺雯が笑顔で聞いた。
「台湾に帰ったら? 友達にも会いたいやろ?」
姉に言われて、友達はようやく夏休みに台湾へ帰ることを思い出した。八月の夏休み、阪海工の野球部では部員全員が強制的に練習に参加するわけではない。彼らは地方で有名な強豪校でもないからだ。それに比べて吹奏楽部や合唱部は、ほぼ毎日のように夏合宿や練習があるらしい。
男子寮の舎監からも言われていた。夏休み中は帰省する生徒が多いので、浴場や食堂は閉まる。残る者は自分で工夫して生活しなければならない、と。
「まだ決めてへんわ。」友達は答えた。日本に来てから、やっぱり台湾が少し恋しくなっていた。馬耀たちとは数ヶ月前、日本に来たばかりのころに一、二度ビデオ通話をしただけで、その後はお互い野球に追われ、まとまった時間もなく、せいぜいメッセージを送り合う程度だった。
「日空、おまえは夏休み帰るん?」
風呂上がりの南極が戻ってくるのを見て、友達は家族との通話を切りながらそう尋ねた。
短パン姿で風呂上がり、全身ぽかぽかしてる南極は、友達に聞かれて首を振った。
「いや、寮に残るじゃ。行くとこなんかあらへんしな。」
「…あ、そっか。ごめん。」
南極の答えを聞いて、友達はふと思い出した。日空南極が南極の基地で生まれた特別な生い立ちを。母親は長年南極で研究を続ける、日本でも指折り、そして唯一の現役女性極地研究博士だ。大阪にも親戚や家族はいないらしい。
「友達は夏休みどうすんねん? やっぱ野球の練習やろ?」
南極は笑いながら、楽しそうに投球の動作をしてみせた。
「俺な、いま色々覚えたんやで。キャッチとか打撃とかさ。最初にお前が言ったやろ、『投げるだけやったら仲間困る』って。ほんまやなって思うんよ。」
「ありがとな、友達。」南極がぽつりと言った。
「別に大したことやないし。」友達は短く返す。
南極がわざと「名前」を「友達」と発音してからかっているのは分かっていた。それは自分の中国語の名字と同じ漢字「朋友」の読みを使った冗談だ。
南極は確かにときどき状況をよく分かってない。だが同じ部屋で寝起きを共にし、クラスも同じ友達は、野球部の先輩や監督から「南極に色々教えてやれ」とよく言われた。最初は戸惑ったが、今では慣れっこになっていた。
少なくとも今は、南極は練習の最初からいきなり投げようとせず、ちゃんとキャッチボールから始める。二人の状態を確認して、軽いアップや投手の腕のケアもするようになった。暴投の確率はまだ高いし、あの豪速球を受けるのはやっぱり怖い。逆に南極は友達の球を怖がらず、しっかり受け止めていた。
「まぁな、少なくともお前の球は取れてるやん。」
南極がさらっと笑う。
「…うん。」
友達はついそう返してしまい、南極の「ありがとう」に対して自分の照れを隠した。
140キロを超える球速。そのボールを捕った瞬間の腕の痺れは、やっぱり圧倒的だった。
夜、布団の上で横になった友達が何気なく視線を動かすと、狭い部屋の畳に布団を敷いて寝ている南極が見えた。部屋自体は蒸し暑くはないのに、南極は布団を蹴飛ばし、大きなペンギンのぬいぐるみを抱え、小さい方を下敷きにして、パンツ一丁のまま豪快に無防備に眠っていた。
寝相めっちゃ悪いし、顔もブサイクやな。
窓の外から差し込む街灯か月の光か、そのわずかな明かりで、友達は南極を見つめていた。
三年生の先輩らは、引退試合が終わったら家に帰るって聞いた。藤田先輩も「久しぶりに実家帰るわ」って言ってたし、夏休みは通いで球場に来るらしい。ほな、この男子寮には南極ひとりだけ残るんやろな。
南極…ひとりで寮におって、寂しないんやろか?
友達は考え始めた。南極はいつも冗談ばっかり言うてきたり、やたら触ってきたりするけど、別に本気で嫌ってるわけやない。ただ単にベタベタされすぎて、うっとおしいって思うだけや。そういや、前に馬耀らもよう似たようなことしてきたな。もしかしたら自分は昔から、自分よりでかい奴に弄られるんに慣れてもうたんかもしれへん。
結局、自分の問題なんか? ほんま、なんやねん!
友達は寝返りを打った。でもしばらくすると、また南極の方に顔を向けてしまう。
あ〜、うざい! なんでオレ、こいつが寂しないかどうかなんて気にしてんねん?
まるでオレが南極と特別な関係みたいやんか! あ〜もう、うっとおしいわ!
頭ん中でごちゃごちゃ考え続けるうちに、友達はその雑多な思考と一緒にだんだん眠りに落ちていった。
――今日は学期最後の登校日。終業式の校長先生の話と夏休みの注意事項を聞いたあと、正式な成績表を受け取って、クラスのみんなと一緒に大掃除をした。
これは日本の学校で学期末に必ずやること。各クラスの生徒が担当の区域を掃除して、私物を持ち帰り、夏休みの宿題を配られる。太宰治の小説を読んで感想文を書け、なんて課題を見て、友達は思わず眉をひそめた。文字だらけのもん読むんは大の苦手や。それに「自由研究」とかいう課題もあって、いったい何のことかさっぱり分からん。
けど、夏休み突入ってことで、みんな浮き足立った雰囲気やった。野球部のメンバーも一緒。蓮と流星なんか、もう花火大会の日程とか新しいゲームのこととかで盛り上がってて、選抜の試合の話もしながら、宿題のことなんかすっかり頭から飛んどった。
「ええか、お前ら。今回は絶対に手ぇ貸さんで!」
宇治川が現実に引き戻すように言った。彼はまだ覚えている。中学の時、この二人は夏休みの宿題を、最後の最後、始業式の週になってから必死にやってたことを。
「その時は宇治川さまにお頼みしますわ〜」
「宇治川大明神!どうか救うてくだされ〜!」
「おのれら!宿題ぐらい自分でやらんかい!」
宇治川が怒鳴ると、蓮と流星はガキみたいに「わ〜っ!」と叫びながら逃げていった。
――その後。
「南極くん、夏休みはどう過ごすの?」
帰ろうとしていた青木陽奈が、まだ席に座っていた南極に声をかけた。
南極はちょっと考えてから答えた。
「寮に残るわ。んで朝走って、野球練習して……ま、とりあえず宿題からやな!」
「そっかぁ……じゃあ、友達くんは?」
陽奈はあまり宿題の話なんて聞きたくなかった。本当は別のことを知りたかった。少し含みのある言い方で南極に聞いた。
「友達くんと一緒に、なにか計画とかないの? 南極くん。」
「友達か? たぶん台湾に帰るんちゃうかな。」
南極は笑って言った。
「よう台湾の話してるしな。あいつ、きっとめっちゃ帰りたいんやと思うで。」
「もし帰っちゃったら……南極くん、寂しくない?」
その瞬間、陽奈は自分でもどうしてそんなことを言ったのか分からなかった。思わず心の奥を吐き出すみたいに口から出てしまったのだ。でもすぐに、自分の声の調子が重すぎると気づき、慌てて言い直した。
「ま、まあ……私も夏休みはずっと練習やしね。コンクールも近いし、朝から晩まで吹奏楽部みんなで泊まり込みよ。」
「え?毎日なん? うわ〜大変やなぁ。」
トイレから戻ってきた友達が、ちょうど陽奈の「吹奏楽部みんなで泊まり込み」って話を耳にした。
彼はリュックを背負い、袋を手に持ちながら南極に振り向いた。
「なんで言うたやん。寮で待っといてくれたらええのに。」
「ええやん、いっしょに帰ろうや。」南極は笑って答えた。
「お〜、仲ええなぁ。でも残念やなぁ、もうすぐ誰かさんは帰国してまうんやろ?」
陽奈がわざと変なイントネーションで言った。まるで友達に聞かせるように。
「南極くん、かわいそうやん。一人で寮に残らなあかんね。」
「ん? 俺も寮に残るで?」
友達は陽奈の言葉にきょとんとした顔をした。
「えっ?」
陽奈は一瞬固まって南極の方を見た。南極も同じく固まっていて、その顔がほんのり赤くなる。次の瞬間、彼女は足を振り上げて、南極のお尻を思い切り蹴った。
「いったー!」南極が声を上げる。
「もうっ、無駄にいろいろしゃべってもうたやん!」
陽奈はそう言い捨てて、「練習行くから! お邪魔せんとくわ!」とプンプンしながら去っていった。
「……なんで怒ってんのやろ?」
南極はお尻をさすりながら呟いた。
「さあなぁ……」
友達は首をかしげて答えた。
「なぁなぁ、とりあえず置いといて!友達!ほんまに残るん?
台湾は?小籠包は?うまい滷肉飯とかタピオカミルクティー、もういらんの?」
「お前、どこでそんなデタラメ仕入れてきてんねん。」
友達は南極の顔見てちょっと吹き出しながら、気楽そうに言った。
「俺、帰ったら先輩らとの試合に出られへんやろ。
それに学校の近くの商店街も、ちゃんと歩いてへんし。
それと……その……南極……」
──もう、いつでも一緒にキャッチボールできる相手がおらんようになるやんか。
「俺な、帰ったら絶対に腕落ちる思てるし。
台湾の野球部の仲間にバカにされんのも嫌や。
せやから先輩らと野球やって、自分がどこまでやれるんか確かめたいねん。せやから俺は……」
言い終わる前に、友達の顔に何かが覆いかぶさった。
ふっと鼻をくすぐるのは南極の体の匂い。
それは野球少年特有の汗の匂いと、安っぽい学生用のデオドラントが混ざった、なんとも言えん匂い。
でも南極がしょっちゅう抱きついてくるせいか、いつの間にかその匂いが当たり前になっていた。
「とにかく、この夏は一緒に野球やろや。」
「離せって。くっさ!」友達は抗議する。
「友達も同じ汗くさい匂いやんけ。」
「…………ほんま、怒るで。」
こうして、高校一年の夏が始まった。




