第十七章 負けられない、でも勝てるのか
台湾出身の陸坡と申します。
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
地区大会で2連勝――本来なら嬉しいはずなのに、実際はそうでもなかった。それは男子寮にいる友達がひしひしと感じた空気だ。
学年の先輩たちはラフな部屋着で宿のリビングに集まっているけれど、その場の空気は明らかにピリッとしていた。
特にいつも笑顔の主将・田中央一までもが、珍しく眉をひそめてスクリーンに映る次の対戦校をじっと見つめている。
大阪で最多の甲子園出場回数を誇る名門――桐蔭高校。
その時、寮のドアがバタンと開いた。会議に呼び出された2年のピッチャー藤田迅真と、彼のバッテリー相手であるキャッチャー佐久間圭一が、足早にリビングへと入ってきた。
林友達と日空南極は、先輩たちの登場に自然と立ち上がった。坂海工はそこまで上下関係に厳しい学校ではないけれど、後輩としてはやっぱり礼儀正しく先輩に挨拶するのが自然だった。台湾出身の友達も、周りにつられてすっかりそういう習慣が身についてしまった。
「お疲れ様ですっ!」
しかし藤田は友達たちには目もくれず、急ぎ足でリビングに入りながら、何かを耳に装着している様子だった。中にいる3年生たちや高橋城之監督、白井先生に一礼し、「遅れてすみません」と頭を下げる。
「早く座れ、ちょうど相手のエースが登板するところだぞ。」
「はい!」
坂海工の男子寮は、もともとホテルの旧館を改装したもので、他の学生寮とは違い、少し古めかしくて昭和時代の日本旅館の雰囲気が色濃く残っている。
この男子寮は、もともと坂海工に通う遠方の学生のために用意されたものだが、実際に坂海工に通う生徒のほとんどは地元出身で、多少距離があっても自転車や電車通学を選ぶことが多い。そのため、最終的には3年生の野球部や柔道部など運動部の学生が合宿で利用する場所となっていた。
「なんか、ちょっと厳しい雰囲気じゃない?」
食堂からこっそりリビングの様子をうかがう南極が、そうつぶやく。そこではみんなが静かに、白井先生が撮影した桐蔭高校と横浜高校の練習試合の映像を食い入るように見つめていた。
坂海工のような無名校とは違い、桐蔭高校はシード校であり、地区のグループ予選では既に上位が確定している。坂海工のように下位から這い上がる必要もなく、挑戦を受ける側なのだ。
「会議って、そもそもこういうもんだよ。」
南極とは対照的に、台湾の中学で野球体育クラスに所属していた林友達にとって、こうした場面は見慣れている。ただ、台湾のミーティングは今ほど静まり返ってビデオを見つめるのではなく、監督が怒鳴ったり、みんなが意見を出し合ったりと、もっと活気があった。しかし、今ここに漂う雰囲気は全く違うものだった。
「でも、ホームルームの時はめっちゃ面白いじゃん。」
「うーん、でもホームルームと試合前のミーティングは、やっぱり雰囲気が全然違うと思うよ。」
この重苦しい空気に耐えられなくなった南極は、友達を男子寮の裏にある自販機まで連れ出した。ここはこの寮で唯一の自動販売機で、どうやら昔ホテルだった頃からの名残らしい。友達は今までこんな所に自販機があるなんて知らなかったし、南極もこの古い寮をしっかり探検しているんだなと感心する。
「お茶と水しかないじゃん。」
何か甘いジュースでも飲めるかと期待していた友達は、自販機に並んだ冷たい水と無糖緑茶だけを見て少しがっかり。隣には麦茶と乳酸菌飲料もあるけど、まるで誰かが「学生ならここに来るだろう」と見越して、炭酸飲料や不健康なドリンクを全部入れ替えたみたいだった。
「お、南極じゃん。」
「あっ、石川先輩、こんな時間に会うの珍しいですね。」
現れたのは、クマのように大きくてがっしりした先輩だった。友達は、南極に知り合いがいることに驚いた。その石川という先輩は友達を見て、親しげに笑いながら言った。「初めて見る顔だな。あっ、君が台湾から来た学生か?よろしく、石川丸大って言うんだ。」
「はじめまして、林友達です。」友達は敬語で挨拶したが、丸大は「そんなにかしこまらなくていいよ。君たちも野球部の新入部員なんだろ?田中たちが試合前のミーティングやってたけど、ああいう雰囲気は一年生にとっては緊張するよな、ハハハ」と笑った。
蒸し暑い夏、三人とも冷たい麦茶を買った。友達はここで初めて、石川先輩が学校の柔道部の部長だと知った。南極とは寮の大浴場で知り合ったらしい。その時、裸で背が高くがっしりした南極を見て、石川は思わず「柔道部に入らないか」と声をかけたそうだ。彼の体格なら鍛えれば県大会に出られると言っていた。
「先輩、僕は野球部です。」当時、日空は泡だらけになりながらそう答えたらしい。「でも、ああいう体を見たらつい聞いてみたくなるんだよな。柔道も野球と同じくらい面白いぞ」と、石川先輩はまた笑顔で南極に問いかけた。「どうだ、日空、柔道部に興味ないか?体験でもいいぞ。」
「やだ!柔道より野球の方がいいし、柔道は痛そうだもん。」南極は、南極基地で黒川たちと野球をした時のことを思い出した。あの時、黒川中尉ら自衛隊のおじさんたちが道着を着て本気の柔道をしているのを見て、すごく怖かったという。
「受け身ができるようになれば、そんなに痛くないぞ。」と石川は言った。
でも、やっぱり痛いんじゃないかな?と友達は心の中で思った。彼自身も痛いのは苦手だが、ケンカとなればまた別だ。そう考えると、昔台湾でマヤオたちとケンカしていたことを思い出し、今になって思えばあんなのは全部恥ずかしくてくだらないことだったなと思う。台湾の高校で野球をやっているマヤオたちは今どうしているだろう、きっともう夏休みが始まっているだろうな――。
三人は飲み物を持って食堂に戻った。前回、流星たちが友達の寮で食べ物を持ち込んで騒いでいたのがバレて以来、高橋監督に珍しく叱られたこともあり、友達はもうあんなことはしなくなった。
「その悪い癖を直さないと、ちょっとした隙を突かれて、たとえ一度だけでも逆転される可能性があるんだぞ。」
ちょうどその時、客室から白井先生の声が聞こえてきた。どうやら、これまでと最近の試合を観察して、先輩たちの打撃や守備の癖やミスについて話しているようだった。
真剣に頷いている先輩たちの姿がチラッと見え、友達も落ち着かない気持ちになった。この大きな男子寮で、聞こえてくるのは野球の実況中継と白井先生が試合のポイントを語る声、そして先輩たちの真剣な返事だけ。三年生の先輩たちが皆、厳しい表情をしているのを見て、友達は「今、自分も三年生たちの大事な試合に参加しているんだ」と強く感じた。これは台湾で野球をしていた頃には味わったことのない感覚だった。
当時は、たとえ先輩が試合に出ても、一年生の友達たちは特に気にせず、練習するべき時は練習していたし、試合を観るときも勝ってほしいとは思ったけれど、今感じているこの妙な緊張感はなかった。少しずつ慣れてきてはいるものの、やはりどこか落ち着かない。
しかし、友達以上にこの雰囲気が苦手なのが南極だった。南極はこうした厳粛な雰囲気をかなり嫌っているようだ。
「やっぱり、これが最後だからみんな真剣なんだよ。」隣にいた柔道部の部長・石川丸大が言った。「もしこの試合に負けたら、田中たち三年生の夏はそこで終わりだからな。」
「終わり?どういうこと?」友達は石川を見て尋ねた。
「ん?台湾にはこういうのないのか?この夏の大会で負けたら、三年生は引退して、次は二年生が引き継ぐことになる。それ以降はもう部活に参加しないんだよ。」
「えっ、なんで?」部活にもう参加しないと聞いて、林友達と南極は驚いた様子だった。石川は二人を見ながら、黙って麦茶を飲んだ。
「それがルールなんだ。夏に引退して、バトンを次の世代に渡す。その後は受験勉強や就職活動に専念することになる。」
石川の太い声と大きな体格には大人の風格があったが、実際、彼も今や三年生で、すでに十八歳の成人式を迎え、地元の造船所への就職も決まっていた。
「まあ、そういうもんさ。多くの人にとっては、これが本当に最後のグラウンドなんだ。その後は受験生か社会人。君たちもいつか田中たちみたいな顔をする日が来るよ。」
そう言って、石川丸大は麦茶を飲み干した。
「そう考えると、石川先輩の柔道もそうなんですか?今年の夏が最後の試合なんですか?」と友達が聞いた。しかし、隣の南極はすぐに手を振って否定した。「そんなことないよ、友達。石川先輩たちは、そもそも大会に出られないんだ。」
「え?」と友達は不思議そうに南極と石川先輩を見た。石川先輩は頭をかきながら、バツの悪そうな表情を浮かべた。
実は、柔道部には一応部員はいるものの、成績が悪くてほとんど一回戦負け。部員も、体験や趣味でやっている人ばかりで、練習やスパーリングも本格的ではなかった。石川丸大は主将とはいえ、二回戦まで持ちこたえれば良い方で、全体的にのんびりとした雰囲気で、野球部とは全く違った。
「だから、南極。もしももっと気楽な雰囲気がよければ……」
「いーや、僕は野球部だよ!」
石川先輩、まだ諦めてなかったんだな。林友達は、南極が珍しくしつこい柔道部の先輩に困っている様子を見て新鮮に感じたが、先に立ち上がって「もう戻ろうよ」と言った。
学長たちの話を盗み聞きしても意味がない、そう思ったからだ。友達がそう言うと、南極は少し遅れてその意図に気づき、うなずいて友達と一緒に柔道部石川先輩から無事に逃げ出し、自分たちの部屋へと戻った。
「アイツ、ほんとにしつこいなあ。」南極は両手を胸の前で組んで、床にあぐらをかきながら、助かったという表情でため息をついた。
南極がこういう顔をするのは珍しく、友達も新鮮な気持ちで椅子に座りつつ、振り返って言った。「でも、まさかこれが田中先輩たちの最後の試合だったなんて思わなかった。ただ野球がしたいと思えば、いつでもできるもんだと思ってた。」
小学生の頃からずっと野球と共に過ごしてきた林友達は、「もし自分が野球をできなくなったら、どうしたらいいのか、何をしたらいいのか」なんて考えたこともなかった。だからこそ、石川先輩や田中先輩たちが「負けたらもう野球ができなくなる」と言われても、どう向き合えばいいのか分からなかった。でも、今そんなことを考えても、きっと自分が考えすぎているだけなのかもしれない。
「日空、もし野球ができなくなったら、どうするか考えたことある?」と友達が聞いた。
「うーん……友達の質問、すごく難しいな……」と南極はしばらく考え込んだあと、ふと思い出したようにこう言った。「あっ!そういえば、僕、昔すごくなりたかったものがある!野球場でぴょんぴょん走り回る動物!」
「それって何?」と友達は戸惑う。
野球場で走り回る動物?
話はかなりシリアスなはずなのに、友達は南極の言うことがまったく理解できなかった。
「これ!動画見せてあげる!」南極はそう言うとスマホを取り出し、動画を探して友達に見せた。画面には野球帽をかぶった生き物がグラウンドを走り回っている。友達はやっと南極が何を言いたいのか分かった。
「チームのマスコットになりたいってこと?」と友達が言うと、南極は嬉しそうにうなずいて、「小さい頃、黒川中尉たちがこのペンギンを見せてくれてから、ずっとこのペンギンが大好きなんだ」と言いながら、持っていたペンギンのぬいぐるみを友達の顔に押し当てた。友達は手で払いのけて「やめてよ」と笑った。
南極が嬉しそうにペンギンのぬいぐるみを抱きしめて動画を見ているのを見て、友達はふと「何かおかしいな」と感じた。そしてしばらく考えたあと、やっと違和感の正体に気づいて南極に言った。
「日空、さっき見せてくれた動画の、グラウンドにいたマスコット……たぶんペンギンじゃないよ?」
「えっ?うそ!?どう見てもペンギンじゃん!」南極はびっくりした。
「それ、燕九郎だよ。ツバメなんだ。」友達は、東京ヤクルトスワローズの『燕九郎』だと思い出した。でも、そのぽっちゃりした体と黒白の配色は、友達自身も最初はペンギンかと思うほどだった。確かに、見た目はツバメよりもペンギンっぽいかもしれない。
今、南極はものすごくショックを受けて、自分のペンギンのぬいぐるみと友達のスマホ画面の燕九郎の写真を見比べながら、「どう見てもペンギンだよ……」とつぶやいていた。
「もう諦めなよ、どう見ても燕九郎はペンギンにはならないよ」と友達が言うと、
「だったら、ペンギンみたいなのは友達だけだ」と南極。
「なんで僕が関係あるのさ、意味わかんないよ」と友達は突っ込んだ。
南極が納得したようにうなずき、妙な理由で燕九郎がペンギンじゃないことを受け入れたのを見て、友達は「自分がペンギンに似てる」と言われたことにどうしても納得できず、なんだかモヤモヤした気分になった。でも、結局いつもの日常の雰囲気に戻ってきた。
坂海工と桐蔭高校の試合は三日後に迫っている。この時期、グラウンドはほとんど三年生の練習と準備に使われ、二年生はサポート役に回り、入部して三ヶ月ほどの友達たち一年生は、基礎練習や筋トレ、持久力トレーニングが主なメニュー。その後は解散となり、道具の片付けは二年生の控えメンバーが担当することになっている。もちろん、帰りが遅くなった一年生は、学年を超えて片付けを手伝わされることもある。
寮に住んでいる友達と南極もそうだった。流星たちよりも帰るのが遅くなり、二年生の田中先輩に手伝いを頼まれた。田中龍二は田中廉太の二番目の兄で、二年生のバッティング担当。当然、弟の廉太も一緒に残る羽目になった。
三人でグラウンドの土をレーキでならしていると、田中龍二は水まきをしていた。その様子を見て、廉太がぼやいた。「嫌な仕事だけ押し付けてくるし、たかが一歳上なだけで偉そうにしやがって。」
「廉太、何をぶつぶつ言ってるんだ。先輩が戻る前に早く終わらせろよ!」
「言われなくても分かってるよ!」
南極と友達が兄弟の口げんかを横で見ていると、見慣れた人物が大きなボールバッグを二つも持って、田中龍二のところへやってきた。
「え、えっと先輩、これ打撃練習用のボール全部持ってきました。」
大きなバッグを二つも運んできたのは、少しおっとりした性格の金井栄郎だった。その後ろには村瀬と中西もいて、どうやら彼らも一年生を手伝いに捕まえてきたようだ。しかし、栄郎のボールバッグは明らかにほかの二人より重そうで、田中龍二は少し驚いて言った。
「お前、見かけによらず力持ちなんだな。」
「い、いえ、そんなことないです。ただ偶然持てただけで……」と、突然先輩に褒められ、栄郎は戸惑いながらお礼を言い、そのまま立ち去った。田中龍二は栄郎が去った後で、「あれ、あの一年生って金井だったっけ?」と村瀬と中西に尋ねた。
「え、今さら気づいたの?」と村瀬がツッコミを入れる。グラウンドではバッティングでキレのある動きを見せる龍二だが、こういうところでは意外と鈍感だ。
「だって昔から中西はいつも監督に代えられてばっかりだったけど、ベンチでよく見かけたのは金井だったからな」と龍二。これに対して中西亮太が「いつも代えられてるとか言うなよ!」と抗議する。確かに下位打線だけど、一応正選手には入っている。
「そんな力があるのに、なんでプレーはやる気なさそうなんだろうな」と龍二が言う。
「まあ、そういうのも才能のうちなんじゃない?」
村瀬はあくびをして、龍二の肩を軽く叩き、顎で「あっちを見ろ」と合図した。龍二がそちらを見ると、藤田が投球練習をしており、捕手は佐久間だった。藤田が一球投げると、その鋭い内角へのスライダーがミットにズバッと収まり、そのボールに龍二は思わず眉をひそめた。
「打てないわけじゃないけど、あれを打ったとしても、内野ゴロになる確率が高いな……。兄貴の球筋はだいたい読めるけど、藤田の球はスピードこそないけど、コースがえげつない。」
「村瀬、お前、藤田みたいなスライダー投げられるか?」と龍二が尋ねる。
「やめてくれよ、俺にあんな球投げられるわけないだろ」と村瀬は笑う。龍二は続けて「じゃあ、うちの坂海工で藤田レベルの投手って他にいる?」と聞く。
「さあな……でも一年の宇治川は藤田と投球スタイルが似てるな」と村瀬。そしてふと整地をしている日空南極と林友達を見て、にやりと笑いながら「もしかしたら、うちの坂海工、次の世代は投手が意外と多いかもな?」と言った。
「お前も藤田みたいな球投げてくれると助かるんだけどな」と龍二。
村瀬は龍二を一瞥し、軽く尻を叩きながら「龍二さんに目をかけてもらえるなんて、光栄の極みだよ」とおどける。
「誰か一緒に練習してくれる人がいないと、藤田に勝てないだろ?」
「龍二、俺を踏み台にするの、そんなに隠さなくてもいいんじゃない?」と冗談めかして返した。
一方、南極たちがグラウンドで練習を終えた頃、流星たちは次に何をしようかと話していたが、宇治川は家の手伝いのため早めに帰宅。残った蓮と流星は制服のまま岬阪海の商店街を歩き、通りに夏祭りの旗やポスターが並ぶのを見て、夏の雰囲気を感じていた。流星がよく通う岬阪書店でも、夏祭りのポスターが目立つところに貼られ、逆に「全国高等学校野球選手権大阪大会」のポスターは隅っこに追いやられていた。
「また書店かよ。ゲームセンター行った方が楽しくない?」と蓮は文句を言いながらも、結局流星と一緒に書店に入った。
岬阪書店は、岬阪町商店街にある個人経営の古い本屋で、流星たちが生まれる前からやっているらしい。町の歴史や漁業、造船、釣り関連の本が特に充実しているのは、店主の趣味によるものだろう。でも流星がここに来る目的はほとんど漫画雑誌で、どうやら店主の娘さんも二次元好きらしく、地方にしてはアニメや漫画の蔵書が豊富だった。
「俺は二階に行くわ。帰るときは声かけろよ」と蓮が言い、流星は「ああ」と答える。これは二人が書店に来た時の定番パターンで、二階にはCDコーナーがあり、蓮はよくそこで海外のラップやロックを試聴している。流星はその間、漫画コーナーをうろうろ。
「ちょっと多すぎじゃないか……」と、流星はBL漫画がぎっしり並んでいる棚を見て眉をひそめた。最近の女子に人気なのは知っているけど、こんな目立つ場所にあると男子としてはちょっと恥ずかしい。そもそも、なぜ女の子たちはこういう漫画が好きなんだろう? 二人の男が恋愛する話って面白いのか? 流星にはわからなかった。
しかし、表紙が野球ユニフォーム姿で可愛いキャラの漫画を見つけ、思わず手に取ろうとした瞬間、ちょうど上段の本を取ろうとした女の子とぶつかってしまい、手にした本が床に落ちた。
「あ、ごめんなさい……」
ほぼ同時に声を上げ、流星とぶつかった女の子は顔を赤くして見つめ合った。
ぶつかった相手はメガネをかけた女の子だった。しかも、彼女が着ていたのは坂海工では珍しい女子の制服。制服姿の二人は、一目で同じ学校の生徒だと分かったし、どちらも少しだけ気まずそうだった。女の子は慌てて自分が落とした本を拾い上げ、もう一度流星に「ごめんね」と謝ったが、ふと流星の持っていた漫画に目を留めて、少し好奇心混じりに言った。
「はい、あなたの漫画……」
「ありがとう、あの……え?」
まだ顔が赤いままの流星は自分の手元の漫画を見て、さっきは可愛いキャラが野球ユニフォームを着ているだけに目がいっていたが、この本がBLコーナーにあったことに気付いていなかった。つまり、この可愛いキャラも男で、後ろにいるイケメンチームメイトとカップリングされているわけだ。
女の子の微笑みを見て、流星は受け取る時一瞬すごく気まずい気分になった。しかも自分も制服姿。これじゃ目の前の女の子に「こういう漫画が好きなんだ」と誤解されるんじゃ……いや、そんなことはないはず。自分は明らかにこういう漫画を見るタイプじゃないし、きっと目の前の女の子もそう思ってくれるはずだ。
「こういう漫画を読む男の子……珍しいよね」と女の子は言った。
この一言が、気まずさを和らげようとしているのか、逆にさらに気まずくしているのか、流星には判断できなかった。
「え、え、え、そうなの? あ、いや、キャラが可愛かったからつい……」
流星はうまく言葉がまとまらず、普段は男友達としかつるまないし、同い年の女の子と二人きりで話すこともなかった。しかも、相手がちょっと可愛い女の子だったりすると……。ふと、流星は家で裸のままベランダに出て、隣のコスプレ女子に会ったときのことを思い出した。最近、自分はなぜかこんな気まずい状況ばかりだ。
早くこの会話を終わらせたい――と思いつつ、なぜか話を続けてしまった。
「君、この漫画好きなの?」
「うーん、好きというより……」と女の子は少し顔を赤らめて言った。「この先生の作品、全部買ってます。すごく……刺激的だから。」
「そ、そうなんだ。刺激的……なるほど。」流星は、自分がとんでもない本を手にしてしまった気がしてきた。そのとき、女の子の手にあるもう一冊の漫画に気づき、「あ、『ダイアモンド・アライアンス』の新刊だ!」と声を上げた。
「え? 君、『ダイアモンド・アライアンス』知ってるの?」と女の子。流星は「すごく好きなんだ」と答えた。
まさか流星がリアルな女子とこんなに長く会話できるとは奇跡だろう。
もしかして、この女子生徒は実は何か最新の映像技術で投影された二次元キャラなのでは――と変な考えまでよぎる。
蓮は二階であまり面白いCDが見つからず、早々に一階へ降りた。流星を探していると、彼が女の子と話している場面に遭遇し、なんだか現実感がなくなった。「これ、もしかして流星の夢の中なんじゃ……? だとしたら俺みたいな邪魔者は早く消えたほうがいいのか?」
「ふふ、君も来てたんだね」
「広瀬さん……」隣から妙に犯罪チックな女声が。蓮が見ると、エプロン姿の書店店主の娘・広瀬姉さんだった。どうやら、流星と同じ学校の女子生徒が私服で話している光景は夢じゃなかったらしい。
「これがいわゆる、少年少女が本屋で同じ本を手にしたことで知り合い、その後学校で徐々に親しくなり、恋人同士になる……でもお互い言えない秘密があって、最後は別れてしまう、そんな学園青春ストーリーってやつよね~」と広瀬姉さんはクスクス笑いながら言った。
広瀬姉さんは悪い人ではないが、この妄想癖は初めて店に来たときから全く治らない。最近はむしろパワーアップしている気がする。以前は女子がいないときには、流星と蓮をカップル扱いしていたが、「蓮は攻めだね」と言われたので、あまり気にしていない。
「やっぱり、みんなお祭りの方が気になるよね」と蓮は話題を変えた。
壁の隅にひっそりと貼られた地方高校野球大会のポスターを見て、蓮はため息をついた。もしここが大阪市内だったら、きっと野球雑誌が山積みになって、「報知高校野球」とか「輝け甲子園の星」とか「週刊ベースボール」の高校野球特集号なんかが、一番目立つところに置かれているはず。でも岬阪書店で一番目立つのは、老舗の釣り雑誌「釣り人」だった。
「やっぱりこの町ってそういう場所なんだよね。野球はみんなの第一選択じゃないのよ。」広瀬姉さんが言った。「高校生が野球やってるのなんて、誰も気にしてないし、みんな気になるのはプロ野球選手の話とか、大谷翔平の年俸が何億円だとか、プライベートがどうだとか……そんな現実的な話ばかり。」
「現実すぎるわ。」と蓮が不満そうに言う。
「ようこそ、きたない大人の世界へ!」広瀬姉さんは笑いながら、雑誌を一冊蓮の頭に乗せた。蓮が見ると、それは今月号の甲子園特集号で、あまり大きくはないが表紙に「坂海工」の名前と、二年の藤田迅真の名前が小さく載っていた。
「広瀬姉さん、俺ほんとに期待してるんだよ。君と流星と宇治川が甲子園に行ったら、その時は店の入口にでっかい応援幕を飾るからね。」
「そんなこと、本当にあるのかな?」と蓮は疑いの目を向ける。
「……あっ、ああああ!お、お前、蓮、いつからそこにいたんだよ!」
「やっと気づいた?遅すぎるわ。」
流星がやっと自分に気づいて驚いているのを見て、蓮はその慌てぶりが可笑しくてたまらなかった。隣で広瀬姉さんも「本当に青春だね」とまた笑った。
「アイツはただのバカだよ。」蓮はそう言いながら流星の方へ歩いていった。さっきの女の子はもういなくなっていて、流星の“女子と初めての単独接触”も蓮にはバッチリ見られていた。蓮はこれをいいネタにからかってやろうと決めた。その様子に気づいた流星は、慌てて広瀬姉さんに「えっと、広瀬さん、会計お願いします!」と頼んだ。
「会計お願いしますって、どこの昭和のおっさんよ!」蓮がすかさずツッコミを入れた。
「蓮、お前には分からないよ、同じ趣味の人とマンガの話ができて、同好の士に出会えたときの気持ちなんてさ。」
「はいはい、それで、その女の子はどうだったの?」
帰り道、流星は必死に自分とその女の子は「同好交流」していただけだと弁解したが、同好交流でも同好交際でも、流星が女子と仲良くなったこと自体が蓮には面白くてたまらない。蓮は流星の肩に腕をかけて言った。「さっき、なんか自己紹介してて『野球部なんだ』とか『君も野球好きなの?』みたいなこと言ってたの、ちらっと聞こえたけど?」
「なんで盗み聞きしてるんだよ!」流星は赤面して抗議するが、蓮は続けた。「いいなあ、俺なんて全然女子と縁がないし。宇治川にも“流星大先生の恋バナ”をシェアしとこうかな。」
「やめろって!お前、絶対ダメだからな!」流星は必死で止めようとするが、蓮はニヤニヤしながら「じゃあ、その子の名前教えてよ」と迫る。
「絶対に教えない!お前が名前知ってどうすんだよ!」流星は言い張るが、蓮がわざと悲しそうな顔をして「女の子のために俺を“混帳”呼ばわりとは…これは野球部のグループLINEでみんなに報告しないと、俺の傷は癒えないなあ」と言いながらスマホを取り出す真似をした。
「わー!ダメだって、蓮!本当にやめて!」
最後は観念して、流星はその女子の名前を白状した。
流星が書店で知り合ったその子の名前は「川端 紬」。流星曰く、初めて同じ学校の女子と二人きりで話したとのことだが、「川端」という名前…どこかで聞いたことがあるような…。その後、流星と別れて夜にシャワーを浴びながら、蓮はやっと思い出した。
川端紬――坂海工一年・普通科の女子。
これは前にみんなで流星の家で髪を切っていた時、いろんな無駄情報が好きな小林が教えてくれたのだった。つまり、川端紬って、流星が一目惚れした、あのベランダでコスプレしていた女の子じゃないか!
「世の中って本当にそんな偶然ある?ありえねぇ…」と、髪を拭きながら蓮は自分の小さなアパートでごろりと横になった。結局、気になって宇治川にLINEを送ることに。
ちょうど風呂上がりの宇治川、スマホの通知を見て開いたら、蓮からの一言メッセージ:
「宇治川、運命って、信じる?」
こいつ、頭どうかしてんじゃね?と宇治川は眉をひそめるのだった。
—
「ん、青木さん?」
「友達くん?こんな時間に学校で会うなんて珍しいね。」
白井先生が野球場から事務室に何か持って帰るよう頼んだので、友達はついでに学校に寄った。まだ夕飯までに戻れる時間だったので、ちょっと遠回りしただけだったが、偶然、部活終わりの吹奏楽部・青木陽奈と出くわした。
青木が野球ユニフォームを着た友達を見るのは初めてだった。しかもそれは台湾時代の中学のユニフォームで、ちょっと新鮮に見えたが、同時に嫌なことも思い出していた。
「へぇ、ユニフォーム姿もなかなか様になってるじゃん。」
「青木さんも、その楽器、すごく格好いいですね。」
「あぁ、これ?」
青木陽奈が今まさに片付けようとしていたトランペット。その真鍮色のボディがライトの下でキラキラ輝いていた。陽奈は髪をかき上げながら言う。「だってもうすぐ地区大会だし、夏祭りでも演奏する曲も決まったし、手を抜けないんだよ。」
「楽器できる人って、なんかすごいなあ。」と友達が感心したように言った。
「そうなんだ?そういえば今日は南極くんが隣にいないね、またケンカでもしたの?」
「日空は先に寮に帰ったよ。それに、いつも一緒に行動してるわけじゃないし。」
「そっか。友達くん、ちょっと聞いてもいい?」
校門を出て、海沿いにある阪海工から下山する夕暮れ時、今まさに海に沈む夕陽の黄褐色と、海の紫がかった青色のグラデーションがとても綺麗だった。潮の香りが辺りにただよっていて、今では友達にとってももう特別なものではなかった。青木が振り返って問いかける。
「阪海工野球部って、本当に桐蔭に勝てると思う?」
「わからない。」友達は答える。「でも、先輩たちには勝ってほしい。」
「じゃあ、友達くんと南極くんは、桐蔭に勝てると思う?」
「え、えっと、僕と南極が……」友達はどう答えていいか分からなかった。
「……ごめん、変なこと聞いちゃった。じゃあ、また明日ね。」
「うん、また明日。」
『君と南極くんは桐蔭に勝てると思う?』――陽奈の問いに、友達はどうしても答えられなかった。正直いまの自分たちでは勝てないと思っている。だけど南極なら…と思う気持ちもあり、でも「勝てない」と口にしてしまえば、本当に負けたような気がして、それも言えなかった。
そして数日後、阪海工三年生にとって最後の夏がやってきた。
高校野球・大阪大会三回戦――阪海工 vs 桐蔭高校。




