第十二章 桐蔭高校の話はしないって約束
台湾出身の陸坡と申します。
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
「おはよ……ん?あれ?兄ちゃんいるんだ。」
朝早く、廉太は眠そうな顔でトレーニングウェアを着て階段を降りると、長男の央一が席に座ってトーストと卵の朝食を食べていた。トーストをくわえたまま、兄は弟に「おう、廉太、おはよう」と声をかける。
「央一、ご飯はきちんと座って食べなさい。そんな風に食べてると行儀悪いわよ。」
田中家の母親は焼き立ての卵をテーブルに置き、長男の行儀を見て少し小言を言った。央一は急いで水で口の中のものを飲み込むと、「ごめんごめん、母さん」と、ばつの悪そうな笑顔を見せた。
「廉太、龍二はまだ寝てるの?ちょっと起こしてきて。」
「えーっ、やだよ!龍二兄ちゃん、寝起き悪いし、また殴られるよ……」廉太は座ったばかりなのに不満げに言う。
「文句言わずに早く行って!もう二年生なんだから、野球やってる子がいつまでもだらだらしててどうするの。」
「そのセリフ、母さん、龍二兄ちゃんに言った方がいいよ……」
ぶつぶつ言いながらも、廉太は席を立った。
「おはよう。」
ちょうど階段を上がろうとしたところで、寝ぐせ頭の次男・龍二がトレーニングウェアのまま降りてきた。後ろからは田中家の父親も現れる。父親は黒いスーツをびしっと着こなし、前髪をきれいに整え、龍二を追い抜いてテーブルにつくと、妻に向かって言った。
「こんなに早く起きて、昨日は帰り遅かっただろう?もう少し寝てればいいのに。」
「央一、今日は高橋監督と出かけるから朝ご飯食べられないの。だから早起きして作ってあげたのよ。何でもいいって言うこの子、何を食べるかわかんないし、変なもの食べてお腹壊したら困るでしょ。」
「へへへ。」央一は照れくさそうに笑ったが、すかさず母親に「ほら見てごらん、まったく隊長らしさがないんだから」と突っ込まれた。
「いいじゃないか、時代も違うしさ。それに阪海工が今年は甲子園に行けるかもって言われてるんだし。」
母親と違って、父親はかなり気楽な調子で、央一と似た性格をしている。親子そろって楽天家だ。
「央一兄ちゃん、今日はどこ行くの?」
廉太が聞くと、隣の龍二に頭をはたかれた。「今日は夏の大会、地区予選の抽選会だよ。兄ちゃん、今日はユニフォームじゃなくて制服着てるだろ?それくらい察しろよ、三号バカ。」
「バカはお前だ!二号バカ!」
一年上の兄に言われ、廉太も負けずに言い返す。龍二は気にせずトイレへ向かう。そのとき、央一が龍二を呼び止めて、自分のヘアワックスを投げてやった。「髪、ちゃんと整えろよ。」
「サンキュー、兄ちゃん。」
龍二はあくびをしながら、お尻をポリポリ掻きつつトイレへ行く。その姿を見た母親は、「龍二!そんなだらしない格好やめなさい!」と小言を言う。
「はーい。」龍二は適当に返事をした。
その直後、母親は今度は卵焼きを手でつまみ食いしようとした廉太に気付き、「廉太、兄ちゃんの朝ご飯つまみ食いしないの!このあと部の朝練でしょ?龍二と一緒に早く支度しなさい!」と叱った。
「食いしん坊三号!」
トイレから龍二の声が響く。
「うるさいな!お尻掻き二号!」
廉太も負けじとトイレの方へ叫ぶ。
「はは、久しぶりに帰ってきたけど、廉太も龍二も相変わらず元気だな。」
央一は笑いながら、坂海工の制服に身を包み、少しレトロな学生帽をかぶりながら鏡の前で首をかしげた。「やっぱりどうかぶっても、なんか変だなあ。」
「なに言ってるの。他の学校だってみんなきちんと制服着ていくわよ。制服がだらしないと、気迫で負けるんだから。」
母親はそう言いながら、背の高い息子の制服にコロコロで毛玉やほこりを取り、襟と袖をきちんと直した。「もうすぐ大人なのに、いつまでも心配させて……」
「もう大人だろ、今は新制度で18歳が成人なんだから(昔は20歳)。」
コーヒーを飲みながらスマホをいじっていた父親が言った。「央一、監督のところまで車で送っていこうか?」
「大丈夫だよ、佐島と家の前で待ち合わせて、一緒に自転車で行くんだ。」
「えっ、真晴兄ちゃんも一緒なの?」
廉太が聞く。「途中でまたお腹痛くなって帰ったりしないかな?」
「それは何とも言えないな……」
央一は苦笑いしながら、「あいつは緊張しすぎなければ大丈夫だけど、あれこれ考えすぎて、俺まで緊張してくるんだよ」と言った。
「俺はむしろ、兄ちゃんがもうちょっと緊張してた方がいいと思うけどな。」
トイレで髪をセットし終えた龍二は、化粧水や防水コンシーラー、アイブロウペンシルにメンズ用の明るいリップまで使って、さっきまでの寝ぼけた姿とは別人になっていた。それを見た廉太は小声で「かっこつけすぎだろ……」とつぶやく。
「甲子園に行くって、約束したよな?」
龍二は真剣な表情で言う。
「もちろん、みんなで約束したから。」
央一は笑顔を見せ、珍しくキャプテンらしい雰囲気だった。
「そ、それでさ!兄ちゃん、俺さ、最近バッティングすごく伸びてるって監督に褒められたんだ!」
兄弟の会話に割り込むように廉太が自慢げに話し始める。龍二はまたからかおうとするが、央一が先に「廉太もバッティング本当に強いよな」とフォローする。
「まあまあだな。」
龍二はそっけなく言うと、「俺、もう行くわ」と出かけていく。
「あっ、俺も。じゃあ、行ってきます!」
廉太もリュックを背負い、後を追う。
「父さん、母さん、行ってきます。」
央一もバッグを背負い、家を出る。
三兄弟が家を出ていくと、家の中は一気に静かになった。田中家の父親はコーヒーメーカーでコーヒーを淹れ、妻にカップを手渡しながら「お疲れさま」と声をかける。
「毎朝毎朝、うるさいくらい賑やかで……もう高校生なのに。一人ならまだしも、三人連続で同じ学校で野球やってるなんて、遺伝って本当にすごいわよね。」
母親は阪海工野球部出身の夫を見て、「懐かしいわね」と言った。
場面は変わり、廉太と龍二は朝ランニングをしながら、打撃でのスライダー攻略について熱く議論していた。それぞれ譲らず、周りの部員たちは「朝から元気だなあ」と感心して見ている。
「いつまでも自分の好きな球ばかり待ってたら、三振するだけだろ!龍二兄ちゃん、そのやり方は通用しないって!」
廉太は、兄の“自分が好きな球種だけ打つ”スタイルがどうも好きじゃなかった。
「そんなに頑固になって全部打とうとするなら、実際に宇治川や兄ちゃんのスライダーを打ってみろよ。結局、偶然打ててもファウルになって捕られるだけ。それがお前が球を選ばないからだ。」
龍二も、弟がどんな球にも手を出そうとする無謀さを、現実はそう甘くないと諭すのだった。
「誰か、二号と三号を引き離してくれよ。朝っぱらからうるさすぎるんだよ!」
ランニングが大嫌いな佐久間は前方で喧嘩している田中兄弟をにらみつけて文句を言った。周囲の誰も返事ができず、なにせ佐久間の寝起きの悪さとクソ生意気な性格は有名なので、誰も余計なトラブルを起こしたくなかった。結局みんなの視線は、バッテリーの相方・藤田に集まる。
「俺を見るなよ。どうすりゃいいんだか……」
藤田はそう言ったが、みんなの視線に負けて、ため息をつきながら佐久間をなだめに行った。とはいえ、なだめるというよりは、二人の会話がだんだん大きくなっていき、最後はまるで田中兄弟の喧嘩と変わらない有様になった。
阪海工の二年生エース投手、藤田迅真。彼がバッテリーの佐久間をなだめる方法──
それは新たな戦場を作り、佐久間にストレス発散させること。
かなり恐ろしいが、意外と効果的だった。ランニング中の皆は、そんなことを思った。
「そういえば、三号。今日、田中キャプテンは地区大会の抽選会に行ってるんだよね?」
一年生の数人がグラウンド整備をしているとき、宇治川が一緒に作業していた廉太に聞いた。
阪海工では毎週、学年ごとにグラウンド整備などの当番が割り振られていて、普通は一年生が三日、二年生が二日か三日、三年生は一日だけ担当する。試合や特別な練習がある場合は、三年生は免除されて、一・二年生が全て担当する。
「うん、最初の対戦相手は誰かな?央一兄ちゃん、くじ運はまあまあいいはずだけど……」
廉太が言う。
「もし強豪校に当たったらヤバいよな?履正社とか仰星、それに桐蔭高校!」
流星が桐蔭高校の名前を叫ぶと、宇治川は顔をしかめ、蓮はすかさず口を挟んだ。「お前さ、そんな大声で騒ぐなよ。学年違うくせに、先輩の心配なんてまだ早いんじゃないか。」
「その『桐蔭高校』って、何かあるの?なんで話題になるとみんなスルーするの?」
そう聞いたのは林友達だった。蓮と廉太は宇治川をちらっと見て、口を閉ざした。だが流星だけは空気を読まず、「そうそう、なんで桐蔭のこと話しちゃいけないの?」と乗っかる。
「今はお前は黙ってろ、流星。」
蓮は、今すぐこの空気読めない流星の口を縫い合わせたい気分だった。
友達はこの妙な沈黙に、「あ、やばい。自分が変な質問しちゃったかも」と気まずくなり、思わず謝ろうとした。
すると突然、後ろから誰かに抱きつかれ、思わず声を上げてしまう。
「友達!白石先生が、今回の英語テスト、君は合格だったって言ってたよ!七十二点だって!」
南極はさっきまで監督室の掃除をしていたばかりで、背後から友達を抱き上げた。その姿はまるで母猫が子猫をくわえているようだ。両足が浮いたまま、南極にぶら下げられて友達は恥ずかしそうに言う。
「わかった、わかったから!降ろしてくれ、日空!」
「何を話してたの?」
南極と一緒に監督室の掃除を終えた小林は、その場の空気が少し重いことに気付くと、手元のノートをぱらぱらとめくりながら言った。
「もし抽選会のことなら心配いらないよ。強豪校と当たる確率はそんなに高くないと思う。」
「え?強豪校?なになに、どこか野球が強い学校があるの?」
南極が興味津々で聞いた。
「うん、そうだね。大阪だけでも野球部がある高校は百五十校近くあるし、伝統校もたくさんある。ここ最近の強豪校といえば、やっぱり『桐蔭高校』かな。日本一と言われるほどで、春夏甲子園の二冠を何度も達成しているし、プロ野球選手もたくさん輩出している。全体的に見ても日本トップクラスだよ。」
結局、話題はまた桐蔭に戻ってきた。小林芝昭は続けて説明した。「桐蔭がここまで強い理由のひとつは、『野球留学』の影響も大きいんだ。」
「野球留学?」
野球留学──
これはここ十年、日本の高校野球部界隈ではよく見られる現象で、甲子園出場を目指したり、プロ入りを意識している選手が、自分の地元や出身中学から離れて強豪校へ進学すること。野球以外に目的はない。有名な野球高校、例えば仙台育英、花咲徳栄、明徳義塾、花巻東などは、全国の中学野球で結果を出した選手にとって第一志望の強豪校だ。
「でも、誰でも行けるわけじゃないんだ。基本的には学校側からテストの招待が来たり、監督の推薦が必要だったり、学力審査や過去の試合経験も参考にされる。実を言うと、うちの岬坂中学からも昔、招待されたやつがいたよ……」
「余計なことは言うな。」
宇治川はただ小林の肩をポンと叩き、何も言わずに道具を放り出してその場を立ち去った。
「怒ったのかな?」
小林は宇治川の背中を不思議そうに見送り、みんなに振り返って言った。「え?宇治川って、まだあの話みんなにしてないの?」
「本当にありがとうね、状況をさらにややこしくしてくれて、台湾小林くん。」
蓮は呆れたように皮肉を言いながら、流星のシャツをつかんで無理やり引っ張る。シャツがめくれて流星の胸が見えそうになり、流星は「ちょっと、やめてよ!」と叫ぶが、蓮は気にも留めず、「こっち来い、バカ流星!空気くらい読め!」と怒る。
「俺、また何か悪いことした?」
流星は納得がいかず抗議する。
南極と林友達は顔を見合わせ、何が起きているのか分からない様子だ。すると廉太が二人に笑顔を向け、兄の田中キャプテンを真似るかのように、「大丈夫、大丈夫、気にしないで。宇治川はちょっとこの……この話題には敏感なんだよ。ほんと、大したことないから。気にしすぎないで、友達、南極」と言い、そのままみんなの後を追って行った。
「うん……」
林友達は軽く返事をした。
そのとき、小林が突然友達のそばに寄ってきて、まるで何かを記録するかのような仕草をし、友達に気づかれると慌てて距離を取り、恥ずかしそうに逃げていった。林友達には小林の行動がよく分からない。日本人で台湾に興味を持ってくれる仲間はありがたいが、小林は時にすごく積極的なのに、時にとても臆病だ。最近はランニングのときも、やたら後ろをついてくる気がする。
ふと林友達は、佐久間先輩が言った「阪海工野球部は変人ばかりだよ」という言葉を思い出す。
その「変人」には佐久間先輩自身も含まれているようだ。隣で小林の逃げる様子を見ていた南極に、林友達は尋ねた。「小林って、なんかいつも俺の周りにいるけど、でも気づくと急に逃げていくよね?」
「それはね……」
南極は少し考えたあと、明るい笑顔でこう答えた。「たぶん、俺と同じで、友達のことがすごく好きなんじゃない?」
「何言ってんだよ、バカ南極。」
南極の言葉に、林友達はつい突っ込むが、少し気分が楽になった。
授業中、ノートをとりながら林友達は宇治川の席の方を何度も気にしていた。宇治川も黙々とノートを書き写している。朝練のあの話が気になっているせいか、林友達はずっと落ち着かない。
「そんなに宇治川のことをチラチラ見て、何かあるの?」
「うわっ、いきなり話しかけないでよ、びっくりした……」
隣でノートをとっていた陽奈が、突然声をかけてきて、宇治川を気にしていた林友達を驚かせた。
林友達がこんなに緊張している様子を見て、陽奈はわざと考え込むふりをしながら宇治川の方を見た。
野球部の男子だけで言えば、宇治川の顔はこのメンバーの中ではまだ見栄えがいいほうだろう。口を開かなければ、なかなか悪くない——これが女子寮、トイレでメイクしながら情報交換している吹奏楽部女子たちの本音だった。
「もしかして、浮気してるの?」
「違うって!」
なぜ陽奈がそんなことを言うのか分からず、友達はすぐに否定した。
——自分が宇治川と浮気?あり得ない!
「私は友達がナンパ男(チャラい男)なのかなって思ってたよ。もう相手がいるのに、まだ他にも興味あるとか。」
「何言ってるか、全然わからないよ!」
「えっ、友達はナンパ男なんだ!」
横から突然南極が口を挟んできた。
「違うから!お前は急に話に入ってこないでよ!」
耳まで真っ赤になりながら怒る友達。その、皆にいじられてムキになる姿を見て、陽奈は「野球部のみんながよく友達をからかう理由が分かった気がする」と思った。林友達には、どうやら人をいじりたくなる天然のオーラがあるらしい。
「ねえ青木さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。」
再び自分の席から宇治川を見つめながら、友達は隣の青木に聞いた。「ねえ、なんで宇治川は『桐蔭高校』の話題がそんなに嫌いなんだろう?」
「その質問にはお答えできません。」
さっきまで優しく話していたのに、なぜか陽奈は突然きっぱりと冷たい口調でそう言った。その変わり様に友達は驚き、陽奈はそれ以降、一言も返してくれなくなった。
——『桐蔭高校』って、みんなが話題にしたくない魔法の言葉なのかな?
友達はますます分からなくなってきた。
そういえば、かつて自分が日本で野球をするために調べてみた有名校が桐蔭だった。小林に色々と説明されてから、自分が桐蔭に憧れていた頃、姉に「夢見すぎだよ」と笑われた理由も少しだけ分かってきた。
——
昼休みが終わり、午後一時になるころ、隣のクラスの廉太が突然やってきて、「高橋監督が野球部全員を中庭に集合させてるって!」と伝えにきた。
今日は抽選日だから、皆なんとなく理由が分かっている。きっとキャプテンの田中と副キャプテンの佐島が、夏の大会の初戦の相手を発表するのだろう。
案の定、高橋監督と白井先生が並び、副キャプテン佐島が自作のトーナメント表を広げた。田中キャプテンが説明する。「今年の夏の全国高校野球選抜大会、大阪の予選には156校がエントリーしている。AからHブロックに分かれて、俺たちはDブロックの77番。初戦の相手は、公立校の大阪府立北淀高校だ。」
北淀高校野球部は、坂海工と同じく部員が少なく、ほぼ全員が試合に出る学校らしい。
この知らせを聞いて、みんなはホッと胸をなでおろした。
やはり初戦で伝統強豪や野球名門校と当たらなければ、勝ち進むチャンスはまだあるからだ。
和やかな雰囲気が広がる中、廉太は兄・田中央一の笑顔の裏に、わずかな緊張を感じ取った。また、副キャプテンの佐島も、さっきから全然リラックスしていない様子で、むしろずっと固まっていた。
「確かに初戦で強豪と当たらないのは安心だけど、三年生の皆さんは油断しないでください。今年の目標は大阪代表として夏の甲子園に行くこと。だから、ちょっと悪いニュースも伝えなきゃいけない……」
田中は自分の気持ちを落ち着かせてから、静まったみんなに語りかけた。
「もし二連勝できれば、Dブロックの代表決定戦で当たるのは……」
——大阪桐蔭高等学校。
その場は一瞬、放課後の学校のような静けさに包まれ、中庭にはわずかな物音だけが響いていた。
桐蔭高校——
私立の野球名門、1988年創立。春の甲子園で4度、夏の甲子園で5度の全国優勝、さらに春夏連覇を2回達成し、「甲子園最速70勝」の伝説を持つ。大阪の野球部員たちにとって、まさに魔王のような存在だ。
再び桐蔭高校の名が出ると、林友達は宇治川の表情を観察した。宇治川は眉をひそめ、どうやら自分が話題にしたからではなく、「桐蔭高校」という校名そのものが、彼にとっては聞きたくない言葉のようだった。
今日話題になった「野球留学」のことを思い出し、林友達はある考えが頭をよぎる。
——もしかして、宇治川は桐蔭高校の野球留学テストに落ちたのかもしれない?
「でも宇治川は本当にすごいよ。あいつの投げる球、嫌な感じするもん。」
床に座りながらタオルと着替えを持ってシャワーに向かおうとしていた南極が、友達に話しかける。
そういえば、監督が先月、一・二年生混合で半分のイニングで勝負する練習試合をさせたことを思い出した。
速球は投げられるが制球に不安のある南極は、当然ながら投手には選ばれなかった。
投手は宇治川(Aチーム)と林友達(Bチーム)、Bチームのエースは藤田先輩、南極もBチームに入った。
Bチームは藤田先輩の力で一年生をあっさり三者凡退にしたが、実は監督と白井先生はすでに打撃力と守備力のバランスを考えてチーム分けしていた。二年の強打者・田中龍二や一年のスラッガー・豊里流星はAチームだった。
南極は自分が打席に立ったとき、宇治川の内角スライダーに何度も空振りし、ようやく打てたフライも、完璧に守備で捕球されて不満そうだった。まだ宇治川のリズムや各種スライダーの軌道がつかめていないようだ。しかし林友達から見ると、南極はすでに「怪物級」の存在だった。
そもそも林友達は投手出身で、打撃も決して悪くはないが、台湾の学生打者としては普通レベル。しかし南極は実戦経験がなく、誰からもスライダーやシンカー、カーブの打ち方を教わったことがない。それなのに、最初は空振り三振ばかりだったのが、徐々にコツを掴みはじめている。
だからこそ、林友達は投手マウンドで眉をひそめる宇治川を見て、二年の捕手と首を振りながら配球の相談をしている姿も納得できる。自分の球筋や配球パターンを南極に読まれたくないのだろう。
南極がここまで気付けるのは、半分は友達との雑談や、監督や先輩たちからのアドバイスがあったからだ。
「ヤバいな。」
「えっ、ヤバいって?……あ、友達、今からお風呂に行くの?もうすぐ終わっちゃうよ、今日はもうお湯に浸かれないかも。」
南極は、毎回みんなが風呂を終えてからやっと入ろうとする友達を見て言った。
「分かってる、大丈夫、別に湯船に入りたいわけじゃないし。」友達は答えた。
「おちんちんとかお尻なんて見られても別に平気だよ。そんなにみんなの裸を気にしなくていいって、一緒にお風呂に入ろうよ。すごく気持ちいいよ。」
南極は、友達が気にしていることをすぐに見抜き、にこにこと笑いながら続けた。「みんなで全部見られることで、仲良くなれるんだってさ、学長も言ってたよ。藤田先輩も佐久間先輩も、全然気にせず脱いでるし。」
「うるさいな、べ、別にそれが理由じゃないから!」
友達は、顔を真っ赤にしながらも、口では南極の言葉を否定し続けた。
「じゃあ、今度から俺もこの時間にお風呂に行って、一緒に入るよ。」南極は笑いながら言った。「まずは俺の裸を見て慣れれば、他のみんなのも平気になるって。友達、俺、全身どこでも見せてあげるよ。」
「誰が見るかよ!バカ!」
完全に裸を見られても全く恥ずかしがらない南極に対し、友達は怒ってドアをバタンと閉めた。
「また怒っちゃった……」
南極は頭をかきながら、よく分からないというように呟いた。「男同士でお風呂に入るのって、台湾じゃそんなに変なことなのかな?」
南極には理解できなかった。小さいころ南極基地では、黒川軍曹たち自衛隊員と一緒に普通に入浴していたのだから。
* * *
夜、商店街の外れにある宇治川家では、宇治川翔二が釣り道具をまとめ、ヘッドライトを頭につけて、夜釣り船に道具を運び込んでいた。大阪の外れ、和歌山県境に近い岬阪町は、かつては漁業で栄えた小さな町。今は漁業も衰退し、多くの地元の人は観光業や釣り道具の販売、あるいは転職して生計を立てている。
「お母さん、これは今日のお客さんの釣り道具と餌。あとで氷と救急箱を運ぶから、ちょっと待ってて。」
宇治川は言い、鉄板の階段を下りて行き、カンカンという音を立てた。
「もういいよ、翔二、ちょっと休みなさい。」
宇治川の母は、肩幅と同じくらい大きな救急箱を息子が担いで上がってくるのを見て言った。「明日も早いんでしょ?」
そう言って、宇治川母は翔二の肩をぽんと叩いた。「投手なんだから、ちゃんと肩は大事にしなきゃ。こんな重い仕事、少しは控えなさい。」
「大丈夫だよ、これやらないと逆に肩が弱くなるから。」
宇治川は答えた。「もう残り一箱だけだし、一緒に運ぶよ。」
岬阪町は山と海に挟まれた町で、砂浜もあり、魚の種類が特に豊富。そのため、全国から夜釣りに訪れる人が絶えない。父親が元気だった頃は、両親でこの仕事をしていたのだった。
「翔二、ちょっと聞きたいんだけど……」
宇治川が最後の箱を船に運び終えたのを見て、母親が尋ねた。
「本当は桐蔭に行きたかったんでしょ?お母さんにこれ以上苦労させたくなくて、行きたくないって言ってるだけなんじゃない?」
「考えすぎだよ、母さん。」
宇治川は荷物を所定の場所に置きながら、ひとつひとつ数をチェックしつつ笑顔で言った。
「俺なんか、ただの投手だよ。そんな、野球やってる奴みんなが憧れるような名門校に行けるほど、すごくはないって。」
「大丈夫さ、先輩たちも甲子園に行けるかもって言ってるし。みんな一生懸命やってるけど、野球って意外と運も必要だからさ。」
宇治川はそう言いながら、船から岸へ戻って何でもない風を装い、「じゃあ、俺もう帰るよ」と手を振った。
「翔二!」
母親が船の上から呼び止めると、宇治川は振り返った。
「名門校じゃなくてもいいんだよ。お母さんもお父さんも、翔二が甲子園に行けるように一緒に祈ってるから。」
そんな言葉を聞いて、宇治川は少し驚いた顔をし、それから「うん」とだけ答えて港を離れていった。
***
港の外に出ると、自分の自転車のそばに誰かの姿が見えた。
こんな遅い時間に、まだ阪海工の制服を着てリュックを背負っている人影。
宇治川は誰なのかすぐに分かった。そのまま近づきながら言った。
「お前って、ほんと人の一番ダサいときばっかり現れるよな。」
「はは、ごめん。でも、さっきのお母さんの話、なんかすごくあったかかったよ。」
制服姿のまま座り込んでいたのは、浅村蓮だった。
蓮はボロボロの自転車を引きながらしゃがんでいた。
宇治川は近づくと、いきなり蓮の体に顔を近づけて匂いを嗅いだ。
「ちょ、なに? 気持ち悪いんだけど。」と、蓮は押し返した。
「タバコの臭いはしないな。このクソ野郎、お前がタバコなんか吸って出場停止になったら、絶対ぶん殴って岬阪の海に放り込んでやるからな。」
宇治川は蓮がタバコを吸っていないことを確かめてから、自分の自転車にまたがった。
「お前、まさか流星の家でずっとゲームしてて、今になってやっと帰るとこか?もう何時だと思ってるんだ。」
「最初は泊まるつもりだったんだけど、あのバカ、今日の夜は両親が帰ってくるの忘れてたんだよ。それで豊里家にちょっと挨拶して、『もう帰るね』って。」
「はは、それはいかにも流星らしい失敗だな。」
宇治川と蓮は並んで自転車をこぎながら、すでにほとんど人通りのない商店街を走り、やがて蓮の家に着いた。
外から見ても年季の入った、昔ながらの集合住宅だ。
「着いたぞ。」宇治川が声をかけた。
「うん。」
蓮は自分のアパートの階段を見上げたが、なかなか自転車から降りようとしない。
「わざわざ俺に会いに来たのは、今朝のことを言いにきたのか?」
「うん。悪かったな、流星ならともかく、まさか友達まで気づくとは思わなかった。」
蓮は宇治川を見つめる。宇治川は特に表情を変えず、眉間にも皺が寄らない。蓮は、これなら少しは正直に話せそうだと感じた。
「前に家に帰りたくなくてサボってたとき、偶然、お前が監督に『桐蔭に行きたくない』って言ってるのを聞いちゃったんだ。その時、めちゃくちゃ長い間黙ってから、やっと『行きたくない』って言ったよな。翔二、お前、本当は行きたかったんじゃないの?すごい野球選手が桐蔭に行きたくないなんて、正直ウソにしか聞こえなかった。」
「うん、ウソをついたよ。」宇治川は素直に認めた。
桐蔭高校に行けると知った時、プロ選手も多く輩出しているあの学校に自分が行ける――その事がどれほど嬉しくて、舞い上がったか、本人が一番よく分かっていた。
でも……
「もし親父がまだ……ごめん、これ以上は言いたくない。別に、もう流星でも友達でも、誰に知られてもいいや。」
宇治川は大きく息を吸い、力を抜いて吐き出した。「もう他人のせいにできないよな。こんなに行きたかったのに、平気なふりしてる自分が一番カッコつけてただけだよ。」
「もしかしたら、俺、流星よりバカかもな。」宇治川は自嘲気味に笑った。
「それは難しいな。さすがにリコーダーのテストまで補習になるレベルのバカは、なかなかいないから。」
「そう言われると、思い出した。あいつ本当に、どうしようもないやつだな。」
二人は流星の話をしながら、思いがけず気まずい雰囲気を和ませていた。宇治川はふと蓮の家の方向を見上げて言った。
「もう帰るのか?」
「うん……でも、もうちょっとここにいようかな?」
蓮はそう答えた。
「じゃあ、うちに来るか?」
蓮の言葉で何となく察した宇治川が誘う。続けて、「この前、外国の釣り客にもらったドレイクの洋楽CDがあるんだ。興味あるか?」
「なんやねん……ほな、行ったるわ、アホ。」
蓮は宇治川の自転車を軽く蹴って、笑いながら返事をした。
高校生二人の自転車のライトが、公団住宅を越えて先の道へ伸びていく。一台前、一台後ろ、まるで子どもみたいにふざけ合いながら。やがて、公団住宅は小さな点になって見えなくなった。




