ACT9 もう一度ここから始める
ACT9 もう一度ここから始める
深呼吸してから、蓮は教えられた海の部屋の扉をノックした。しかし返事はなく、躊躇いながらも再度ノックすると今度は煩わしそうな返事が聞こえた。
「誰?」
「えっと……俺だけど」
「蓮?」
すぐに鍵の外れる気配がして、薄く空いた扉から海が顔を見せた。その目は赤くて、寝不足なのか顔色も悪く、髪も少し乱れていた。
「どうしたの?」
「少し話がしたい、入っていいか?」
「え、話ってもしかして……」
「ち、違う! まだ返事とかそういうことじゃ」
「なんだぁ……だったら何の用?」
「あからさまに態度変えんなよ。それ以外にも色々、話すことあるだろ!」
「これでも俺、忙しいんだけどな……」
ぶつぶつ言いながらも下がって蓮を招き入れると、海は扉を閉めて再び鍵をかけた。
***
「何か飲む?」
部屋の中央に通されながら、海が訊ねてきたが蓮は首を振った。コーヒーにサイダーと立て続けに飲み過ぎて、正直苦しいほどである。机周りは書き損じらしい紙屑で散らかっていたが、海は片づけるでもなく床にクッションを投げると適当に座るよう促した。
「何これ?」
座りざま丸められた紙片を一つ掌で転がすと、海がうんざりしたようにため息を吐いた。
「始末書だよ。今回減俸だけじゃなくて、それも提出しろってさ。ダメ出しの書き直し三回目」
「へえ……サラリーマンみたいなこと言う」
「公務員だって、固定給だから正しくサラリーマンだよ。階級だけは維持できて良かったけど」
「ほほう、何か大変だな」
「人ごとみたいに言ってるけど、これからは蓮だって一緒だからね。室長と話したんでしょ?」
「うん、まあな。まだ実感湧かないけど」
ベッドサイドにふと目をやると、写真立ての中で自分と海が笑っていて思わず立ち上がって手を伸ばした。
「これ……」
「高校入学の時、蓮のお母さんが撮ってくれたやつ。俺のお気に入りなんだ」
桜の花と花弁が背景に見事に写っている。懐かしいと同時に、何だか胸が痛んだ。たかだか2ヶ月前のことが、既に遠い昔のように思われる。感慨に浸る蓮の手から写真立てを取り上げると、海が不思議そうに尋ねた。
「それで、話って? 告白の返事じゃないなら何?」
「態度悪ぃな……昨日まではあんなに可愛かったのに」
「だって本当の俺を見られた以上、今さらいい顔しても仕方ないし。嫌われたってわけでもなさそうだし」
「嫌いではない」
「でも好きでもない?」
「恋愛的な意味では、そうだな。まだそういう風には切り替えられない」
「生殺しだ……」
「昨日の今日だぞ? けど少なくとも俺にとっておまえは、そんな簡単に切れる奴じゃない。そこは誤解して欲しくない」
「ふーん。俺にとって蓮の価値は、逆のそれと比べられるものじゃないけどね。唯一で絶対。切るとか切らないの問題じゃない」
「何だその言い方……俺の方が軽いって言いたいのか?」
「そうだけど、それは仕方ないよ。俺が重すぎるだけだから、気にしないで」
気にしないでと言いつつ責められている感覚が腹立たしい。それでも喧嘩をしに来たわけではないので、蓮は再びクッションに座って仕切り直した。深く息を吸って、意を決したように口を開く。
「俺、自分のこともおまえのことも今まで何も知らなかったけど、今日室長からノンリミのこと聞かされて、初めて色んなことが分かった。昨日、ずっと騙してたのかって、おまえのこと責めたけどそれは謝る。おまえは仕事でやってただけで、そこに悪意はないって分かったから。寧ろ俺はおまえに、おまえたちに守られてたんだって分かった。一方的に被害者みたいなこと言って、ごめん」
「……そんな風に考えるの? やっぱり蓮はお人好しだな……もっと俺のこと、恨んだっていいのに」
「別に、俺がノンリミに生まれたのはおまえのせいじゃないし。誰を恨むとか筋違いだろ? 後はもう、俺が自分の中で納得して進むしかない。だからそっちはそれでいい……けど、その……」
海からの求愛のことを話すのに、蓮は顔を赤くしながら言い淀んだ。すると海は察したようにくすりと微笑い、耳元で艶っぽく囁いた。
「俺が蓮を好きだってこと? 何が訊きたいの?」
「~~~っ!!?」
ふっと、最後に息を吹きかけられて、蓮は弾けるように距離を取りつつ涙目で海を睨んだ。そんな蓮の反応をくすくすと笑いながら、海は大人しく距離を取って蓮のことばを待った。蓮は跳ねる心臓を押さえながら、改めて話を続けた。
「えっと、もうストレートに訊くけど。おまえ……元々男が好きなの?」
「いや。色々試してみたけど、性的嗜好はあくまでノーマルだよ」
「試した……?」
「いや、まあそこは深く訊かないで。蓮が気になるのはそもそもそこじゃないし」
「そうだな、だったら何で俺?」
「蓮が特別なんだろうね。つまり俺が好きなのは男でも女でもなくて、蓮てこと」
「っ……」
真面目な顔で告白され、蓮はどんな顔をしていいのか分からず思わず目線を逸らした。それでも赤くなる顔をごまかすように、蓮はぶんぶんと首を振ってわざと大きな声を出した。
「いや、だから! 何でいきなりそうなるのか分からないっつーか……俺たち、今までそれこそ兄弟みたいに過ごしてきただろ? 俺だって、そういう意味ではおまえのこと好きだし、大切だって思う。特に俺はおまえが心臓悪いってずっと信じてたから、俺なりに……できるだけ守ってきたつもりだ。たとえ全部嘘だったって言われても、俺の中では嘘じゃないこともたくさんあるって……信じたい」
「嘘じゃないよ」
蓮の声に重ねるように、海は即座に答えた。
「蓮にはちゃんと感謝してるよ……蓮はいつだって俺に対して真摯だった。面倒がって放り出すこともしなかったし、押しつけがましさも優越感もなかった。そんな蓮だから俺は好きになった」
「海……」
「でもね」
言葉を切ると、海はどこか自嘲的に笑った。
「兄弟みたい、ね。ほんと昔から、俺たちはよくそう言われたよね? でもそれはあくまで「みたい」であって、俺たちは兄弟じゃない。じゃあ何? 俺の蓮との五年が偽りじゃないと認めてもらえたとして、思いつくのはせいぜい幼馴染、親友? そんなのどれも、何かあれば一瞬で消えてしまうような脆い肩書だと思わない?」
「あ……」
ぐ、と手を掴まれ、蓮は海の腕に引き寄せられた。じっと近くで射すくめるように見つめてくる海の瞳があまりにも真剣で、一瞬も目が離せなくなる。
「俺はそんなものならいらない。誰よりも、蓮の両親より、蓮に近くありたい。俺はずっとおまえの側でそう思ってた。だから、無理やりでも身体だけでも欲しくて……昨夜は本気で蓮を抱くつもりだった」
「だ、抱くって……」
「けど蓮に叱られて、心にも届くかもしれないと思ったら欲が出た。正攻法で攻めて、全部手に入るなら俺だってそうしたい。好きだよ、蓮……もうおかしくなりそうなほど、おまえが好きだ」
目を白黒させている蓮の腕を引いて抱きすくめると、海は再び蓮にキスをした。戸惑う蓮の唇を味わうように最初はゆっくりと、途中から深く重ね、海は蓮の中に遠慮なく舌を差し入れた。歯列をなぞり、蓮の舌を誘いながら口内をかき乱す。時折、唇の端から漏れる吐息はひどく熱かった。
二度目のキスは、蓮を昨日ほど混乱はさせなかった。海の想いがひしひしと伝わってくるせいか、息苦しいのにひどく甘い。くちゅり、と海の舌が自分の中で動くたび、蓮はその身を震わせて喘いだ。夢中になって応えるうち、蓮は自然と海の背中にしがみついていた。やがて海がゆっくりと唇を離すと、その表情はどこまでも真摯だった。
「う、海……」
とろりと蕩けた眼差しで自分にしがみついている蓮。口の端から零れた唾液が濡れ光り、やけに扇情的だった。そのまま押し倒してしまいたい気持ちを無理やり抑えて、海は蓮に囁いた。大切なことを聞くために。
「好きだよ、蓮。何度でも言うよ、大好き。ねえ、蓮は? 蓮は俺のこと……好き?」
「う……み。俺も、す……」
キスの余韻で息を乱しながら答えようとした蓮は、不意に言葉の途中で正気に戻ったようにハッとした。
「あっぶね……流されるとこだった。おまえと違ってこっちはまだ混乱中なんだよ。そんな簡単に、全部かみ砕いて飲み込めるか! 男同士で幼なじみで偽装家族で、とか問題がデカすぎなんだよ!! 今日のところは保留だ、保留!!」
「えー……そこはまるごと飲み込んでよ。現に今、好きかなって思ったでしょ?」
「そ、それは、俺はキスとかスキンシップ自体、おまえが初めてだからっ……! そっちは何か、ムカつくくらい手慣れてやがるけどな?」
「やだなー、誤解だよ」
半眼でじろりと睨まれて、海はとぼけるようにあははと笑って見せた。
「とにかく、俺は素直過ぎるって橙子サンにも言われたし。この案件は持ち帰りだ」
「あれ、もう橙子サンに会ったの? 最初に室の女王様と接触するなんて、蓮もなかなかやるね」
「女王様? あんまりそういう偉そうな感じはなかったけど……」
「面白いでしょ、あの人? 男女の境界線をあまり引かないし面倒見がいいから、男も女も慕う奴が多くてね。お母さんて感じじゃないし、威張らないけど周りが勝手に傅くから女王様って信頼を込めて陰でこっそり呼ばれてる。その女王様と、どんな経緯で接触したのかな?」
「別に俺がどうってわけじゃ。室長の指示で、施設内案内してくれた。おまえのことも色々話してくれたぞ」
「何? 悪口じゃないだろうね」
「全然そんなんじゃない。寧ろ、フォローしてくれてた」
「へぇ、橙子サンが俺に援護射撃なんて珍しい。今度お礼しないとね?」
上機嫌な海に、訴えるなら力を貸すと言われたことは伏せておくことにする。話は終わったと立ち上がった蓮は、扉の前で振り返って手を差し出した。
「それじゃ、何て言うか……これからもよろしく」
「何、改まって」
「いいだろ、ここからってケジメだよ。ほら握手」
「だったらハグかキスの方が」
「どっちも今しただろ!! ほら、早く手出せ」
急かされて右手を出すと、蓮に強く握られた。
「痛いってば、蓮」
「俺の方が、昨日から散々なんだからこのぐらい我慢しろ。じゃあな」
海のしかめ面を見て満足したのか、蓮は上機嫌で去って行った。
「可愛いなぁ……蓮は」
結局、告白の返事をもらうことはできなかったが、新たな関係を構築できる可能性だけは手に入れた。最後に蓮の触れた自身の右手に唇を落として、海は目の前の現実である始末書に向き合うことにした。
***
特調に戻る車内で、海も蓮と同じ時を思い返していた。自分の肩にもたれて無防備に眠る蓮の寝顔を眺めながら、あの時から恋人関係に移行した今の幸福を噛みしめるように、海は蓮の手をそっと握った。