ACT8 過去と助言と炭酸の泡
「保護すると言っても我々はきみたちを遊ばせておくわけではない。今までと同様、もしくはそれ以上の学問と平行して、その力に見合った職務を全うしてもらうことになる。それに対し国はきちんと報酬を支払う……つまりきみたちは、戸籍がなくとも事実上の公務員ということになり、自立した一人の人間として扱われる。そのことを忘れないでほしい」
最後にそう説明すると、今日の予定はこれだけで、あとは住居部分を含めて施設内を案内させようと如月が言った。
「顔見知りと言えばやはり水沼だろうが、今は報告書と始末書に追われているところか。それでもきみが望むのであれば呼び出して案内させるが」
「あ、いえ、大丈夫です」
気を遣って遠慮したと捉えられたようだが、実のところ海と会話をするのは少々気が進まなかった。
(また返事だ何だ言われても困るしな……)
蓮の葛藤には気づかず、如月はどこかに電話をかけた後、蓮に告げた。
「迎えに来るよう指示を出しておいたから、ここを出て右へ行ったオフィスの休憩所エリアで待ちたまえ。それでは、今日はご苦労だった。退室して宜しい」
やはり教師のような雰囲気だと改めて実感しながら、蓮は皆に倣って一礼して下がった。来る時に通ったルートを戻りながら、ぼんやりと自販機と簡素な椅子のある辺りに歩いて行くと、自販機の前にオフィスの中では少し異質な後ろ姿が目に映った。
腰まである長い黒髪のサイドを中央のバレッタで束ね、黒のセーラー服を身にまとっている。スカートの丈は今時の女子高生には珍しく、ひざ下である。ラインナップに悩んでいるのか、右に左に細い指をすべらせながら、ようやく一つのボタンを押す。ゴトリと音がすると、さらにもう一つ重ねて今度は迷わず隣のボタンを押した。しゃがみ込んで二本のペットボトルを両手に抱えると、彼女は急にこちらを振り返った。黒い髪がサラリと揺れて、蓮はその流れるような仕草に一瞬で目を奪われた。黒目がちの涼し気な目元と、その左目の下にある小さな黒子が印象的な綺麗な顔立ちをしている。同年代だろうか? と見とれているうちに、彼女の方が先に口を開いた。
「きみが、柴田蓮?」
抑揚の少ない、でも鈴の音のような心地良い声だった。無駄にどぎまぎしながら頷くと、彼女はこちらに歩み寄りながらペットボトルの片方を差し出して見せた。
「どっちも炭酸だけど、きみはこっちでいい?」
差し出されたのはシンプルな昔ながらのサイダーで、蓮は戸惑いながらも礼を言って受け取った。彼女の手に残った方を見ると、そちらはグレープ味らしくぶどうの絵が描かれている。どうやらこちらを長く迷っていたらしい、と思うと自然と顔がほころんだ。自分が笑われていることにも気づかず、目の前の少女はまたサラリ、と髪を流しながら首を傾げた。
「さて、どうしようか? 室長にきみを案内するよう頼まれたんだが、喉が渇いているならそこで休んでからでもいいけど」
椅子を示しながら問われ、手の中の汗をかいた冷たい飲料を眺めながら、蓮は首を振った。
「いや、さっきコーヒー飲んだばかりだし大丈夫。それより、あの――」
「ああ……すまない、名乗るのを忘れていた。私は片桐橙子。水沼とはそれなりに馴染みで、きみのことはあいつからよく聞かされていた。きみたちよりは二つ年上の十八歳だ、よろしく」
「あ……こちらこそ、よろしく」
差し出された華奢な手を、蓮は躊躇いがちに握った。しっとりと瑞々しい肌の感触と、ふわりと香る香料ではない自身の清潔な匂い。学校で顔を合わせていた女子生徒とは、どこか根本から違っているような気がした。化粧気のまるでないその顔は、飾り立てていないにも拘らずこれまで会ったどんな女性より清々しく美しかった。蓮のそんな感嘆など気づきもせず、橙子はさっさと先に立って歩き出していた。
***
「で、あっちが食堂で、こっちが休憩エリア。今は講義の時間だから空いているが、夕食後はテレビを見ながらダラダラ集まっていることも多いな。図書室は本を読んだり勉強したり……市井のものと用途は変わらない。もちろん借りて自室で読むことも可能だ。施設内は全て最初に与えられるIDカードで事足りるようになっている。あちこちの自販機も全てこれで買える。きみにもすぐに支給されるだろう」
写真の入った免許証のような携帯カードを胸ポケットから取り出すと、蓮の目の前にかざしてから再び大事そうにしまい込んだ。それから蓮を誘導して休憩エリアの隅に座ると、隣を示して蓮も座るように促した。そこでようやく抱えていたペットボトルの蓋を開け、そのままゴクゴクと何口か飲んだ。蓮も歩きまわって少し疲れていたので、ずっと持たされていたボトルを開けて一口飲んだ。シュワシュワと炭酸特有の感触が喉を滑り落ちて行き、冷たさも相まって心地よかった。ほっと一息ついた蓮に、橙子は不意に探るように口を開いた。
「きみはさっきから妙に落ち着いているが、本当に心から納得してここに残ると決めたのか?」
「……それは……だって、仕方ないから」
「泣いて騒いで、帰せと暴れたところでどうにもならない? まあ、確かにその通りなんだが。でもきみには家族がいるんだろう? これきり一生会えなくなっても、本当に平気なのか?」
「平気じゃない、平気なわけない。でも俺のせいで家族が狙われたり傷つけられたりするなら、俺は側にいない方がいいのかなって」
「室長にそう言われたのか。相変わらず子供相手に逃げ場のないえげつない攻め方をする人だ。子供を子供扱いしないところがあの人のいいところでもあり、欠点でもある。それでも自分にも厳しい人ではあるから、まあ悪く思わないでやってくれ。あんなお堅い様子で愛想もないような仏頂面をしているがね、あれでも奥さんの誕生日には花とケーキを買って帰ることを欠かさない愛妻家なんだそうだ」
「へぇ……俺の父さんも、結婚記念日には必ずピンクの薔薇の花を買ってくるよ。母さんの好きな花だから」
「そうか、仲の良い家族だったんだな」
そう言って、橙子は少しだけ笑った。それから再び真顔になる。
「もう一つ訊いていいか?」
「なに?」
じっと見つめられて居心地が悪くなり、ペットボトルに口をつけながら問い返すと即座に切り込まれた。
「水沼と何があった?」
「……!!」
途端に咳き込んだ蓮を眺め、橙子はペンギンのマークの入ったハンドタオルを差し出しながら苦笑した。
「すまない、単刀直入すぎたか? でもきみも少々素直過ぎる……そんなに顔と態度に全部出してしまったら、捜査員としてはやって行けない。事務方が向いているならそちらの方がいいかもしれない」
タオルを受け取って口に当てながら、蓮は必死に言葉を探した。
「べ、べ……」
「ん?」
「別に、なにも……」
咳き込んだ後の涙目でようやくそれだけ言う蓮を、橙子は憐れむように見やった。
「柴田……それは、無理だ。それではどんな幼児も騙せない」
「でも、本当に」
「ふぅん……じゃあ、そのキスマークはいつから?」
「へっ……!?」
指さされ、ばっとシャツの襟を掴んで首元を覗き込む蓮に、橙子は憐れを通り越して悲しい気持ちになった。
「嘘だよ、本当に大丈夫かきみ?」
「そっちこそ、何でそんな嘘吐くの?」
「水沼の様子がおかしいから、鎌をかけてみたんだが。やっぱりそんなものが付くようなことをしたのか?」
「し、してないよ! あのさ、俺のことどんな風に聞いてるの?」
キスはされたということは隠して問い返すと、橙子は顔色も変えずに言った。
「想い人なんだろ、水沼の」
「俺は、親友のつもりだったんだけど」
「そう接していたことも聞いている。だけどそれ自体、稀有なことだよ。あいつはきみや私と違って元々家族はいない……ここには施設から連れて来られたと聞いている。当初は誰にも心を開かず、私が後から来た際にも、全く笑わない人形のようなやつだった」
「……」
海の表情で思い浮かぶのは、穏やかにこちらを向いて笑むものばかりだった。記憶にあるそれらとかけ離れた話に、蓮は驚きを隠せず黙って耳を傾けた。
「ところがきみの側で保護観察を続けるうちに、人形のようだったそれが、段々人間らしい表情に変わって行った。きみと共に日々過ごした内容を、世間話として私や他の同僚にも語るようになった。それは驚くべき変化だった。たとえ任務だったとしても、きみといることであいつは確かに変わった――人間としていい方向にね。だからこそ、きみの観察は異例なほど長引いたのかもしれない。或いは水沼としては、家族と過ごすきみの時間を、ほんの少しでも守りたかったのかもしれない。美談にすぎる解釈であれば申し訳ないが」
(海が……俺のことをそんな風に)
昨日、事情も知らずに責めてしまったことで後ろめたい気持ちになる。蓮の表情を見守りながら、橙子は続けた。
「それでもきみからしたら、水沼はきみを騙していた側の人間だ。どんな理由であれ、全てが偽りで、裏切られたと思われても仕方がない。しかしきみに拒絶され、きみを失うことだけは……あいつにとって何よりも耐えがたかったに違いない。多分これまで積み上げてきた、水沼と言う人間全てが瓦解するほどに。だからこそ、水沼は選ぼうとしていた筈だ。きみを傷つけてでも無理やりにでも繋げて、自分のものにする方法を」
『痛くても、憎まれても……俺はもっと絶対的な、確かなものが欲しい』
(あれは、そういう意味だったのか)
告白のことでうやむやになってしまったが、根本的な部分の誤解を解かないといけないのかもしれない。
「さて、私の話は以上だ。どうする柴田?」
「うん。たぶん俺、海ともう一度ちゃんと話さないといけないんだと思う。保留にしたまま核心だけ話せるか自信ないんだけど……」
「いや、私の訊いている『どうする』は、『ヤツを訴えるなら力になる』という意味なんだが」
「え、何で?」
「何でって。きみ、夕べあいつに手籠めにされたんじゃないのか?」
「手籠め……」
日常生活では絶対聞かないであろう単語に、うんざりしたように蓮は頭を抱えた。
「あのね、誤解だから。あいつにはキスしかされてない」
「そうなのか? あれほど思いつめてたわりに未遂とは驚いたな。でも同意がないならキスだって十分セクハラだよな、やっぱり訴えるか」
「いや、だから……て言うか、あの話の流れで何でこうなんの? 片桐さん、海のこと今さんざん擁護して……友達じゃないの?」
「友達じゃない、ただの同僚だ。そもそも水沼と友達になるような奇特な人間はきみくらいだよ。それに、どんな理由や背景があれ、水沼がやり方を誤ったのなら正すべきだ。我々は戸籍はないが、人権はある。ここでの独自の法も裁きも存在する。きみがその気なら、本当に水沼を正式に罰することも可能だ」
憎まれ口を織り交ぜながらも、橙子の言葉が海と蓮とどちらも本気で考えてくれている結果だと身に染みて分かったから、蓮も真剣に今の気持ちをまとめながら言葉を返した。
「……気持ちだけ受け取っとく。話してくるよ、海と」
迷いが吹っ切れて澄んだ目をした蓮を、橙子は温かい眼差しで見返した。
「そうか、なら行くといい。ただ、全部をいきなり許そうなんて身構える必要はないと思う。きみが知らなかった部分の水沼を、側にいてゆっくり見極めながら理解してやるといい。相手のことを本当の意味で知らなければ、許すことも憎むこともできないからな」
リン、と鳴る鈴のような声に、蓮は頷き返した。
「今日はありがとう、片桐さん。今度また良かったら色々教えてほしい」
「橙子でいいよ。任務以外で施設にいる時ならいつでも。きみは素直だから少し不安にはなるが、こちらも話していて楽しい」
「それじゃあまた、えっと、橙子サン?」
「うん、またな柴田。水沼の部屋はそこの奥にまっすぐ行った角だ」
「ありがとう」
「今度襲われそうになったら、大声を出すといい。可能な限り駆けつける」
「はは……頼もしいね」
少しぎくしゃくした笑みを浮かべながらも、蓮は橙子と別れて海の部屋に向かった。