ACT5 異質な感触
壁も天井も白い個室の無機質なベッドの上で、蓮は先ほどからぐるぐると自分の置かれた状況や海について考えていた。
水沼海。
小学校五年生の時に家の隣に越してきて、それ以来ずっと一緒にいた幼馴染。性格もタイプも違っていたが、不思議と馬が合って何をするにもいつでも一緒だった。特に海は体が弱くて、生まれつき心臓の疾患もあって自分が守ってやらなくてはと思っていた。だけど――
それは全部、嘘だったのか。
『俺はおまえと同じ』
そう言った海の言葉が、頭の中で少しも咀嚼できていない。
先ほど目にしたすべてを、蓮は未だ受け入れらずにいた。
***
海の連絡で、すぐに救急車が一台と黒のミニバンが一台、路地に滑り込んできた。救急隊員が何も聞かずに手早く地面にのびた不良連中を回収すると、ミニバンから下りてきたグレーのスーツの中年男性が海に歩み寄った。どこか要人のような威厳をまとわせたその人物は、サングラスを取ると怒りを湛えた厳しい眼差しで海を見据えたが、当の海は気にした風もなく面倒くさそうに目を逸らした。
「これはどういうことだ? 状況を説明しろ、水沼」
「だから、さっき電話で伝えた以上のことは何も? 観察任務中に、民間人に絡まれてやむを得ず反撃しました……それだけ」
「目立つことは極力避けるよう、常に言って聞かせているはずだが」
「だから目立ってないですよ、敢えてここまで大人しく連れてこられたし。でも対象に危害が及びそうになったので、何度も言いますけどやむを得ず。あくまでこっちは被害者ですよ、不可抗力ってやつ」
周囲を見回し、最後に蓮に目を止めた後で彼は苦々しくため息をついた。
「とにかく起きてしまったことは仕方がない。ひとまず彼も回収する。おまえも後ろに乗れ」
「はいはい。蓮、乗って?」
すっかり思考の止まってしまった蓮は、海に促されるまま後部座席に乗せられ、そのまま霞が関の国家施設とやらに連れてこられ、ろくな説明もないまま宿泊施設の一室に押し込められたまま数時間が過ぎた。
やがてノックの音と共に、扉が開いて海が顔を覗かせた。こんな状態だと言うのに、見慣れた相手に安堵する自分に少し驚いた。ただその姿は見慣れたものではなく、初めて見るえんじ色のネクタイとベージュのニットの制服姿だった。海が差し出したコーヒーを、蓮は無言で受け取った。
ベッドの隣に腰かけると、海はまず自分のコーヒーを一口飲んだ。
「食事、食べなかったの? 怪しいものは入ってないから大丈夫だけど、警戒するのは悪いことじゃないよね」
手を付けられていないトレイを眺め、海が苦笑交じりに語り掛ける。別に毒物を警戒したわけではなかったが、食欲など微塵も湧かなかった。携帯は取り上げられなかったが、この部屋自体が圏外で何も行動はできずにいた。
「聞きたい事、たくさんあるんじゃないの? 明日からはお偉いさんたちも介在して忙しいと思うから、今なら答えてあげられるけど」
海に促されても、蓮はすぐには言葉が出てこなかった。一体何を訊くべきなのか、自分が何に一番ショックを受けているのか……未だによく分からない。それでも手渡されたコーヒーを一口飲むと、その温かさに緊張が和らいだ。それから眼鏡を取り去った海の横顔を眺めて、ぽつりとつぶやく。
「おまえ、目……」
「ああ、あれ? 俺の場合、逆に見えすぎるから。人からの視線や紫外線を遮るのに掛けてただけ。元々度は入ってなくて伊達だよ」
「その服って」
「ああこれはね、ここでの俺の制服。こう見えて特殊素材で作られた一点ものだよ。蓮もそのうち支給されるよ、デザインは個々のイメージで作られるから別物になるけどね」
「?」
イメージで作られるの意味が良く分からなかったが、蓮は質問をもっと気になることに切り替えた。
「あいつら、どうなった?」
「はぁ……それ訊く? 生きてるよ。まあ適当に記憶を弄られて放り出されることになるだろうね……とにかく蓮はもう気にしなくていいから」
笑ってはいたが、海の目と声はまるで氷のようで傷んだ心に容赦なく突き刺さった。それでも一線を越えずに済んだ事実は間違いなく蓮に救いをもたらした。
「ここ、どこだ?」
「ここは内閣情報調査室の管理する、所属員のための宿泊施設。要するに蓮を保護したのは、怪しい影の組織とかじゃなくて、国そのものってこと。だからそこは安心していいよ?」
「保護対象って……何だ?」
「へぇ、あの状況でちゃんと聞いてたんだ? 蓮はロスリミの診断をされてから、すぐにノンリミじゃないかって疑われてた。だから、専属で観察することになったわけ。俺が隣に越してきたのは、もちろん偶然じゃない。内調の指示だし、蓮が両親と思っていたのも、父親は俺の同僚だし、母親は事務方。要するに、家族を偽装してたわけ」
何年も家族ぐるみの付き合いをしていた人たちの姿を思い浮かべ、それが崩れていく感覚に蓮は泣きたくなった。それでも泣いている暇などなく、一番気になっていたことを海に問う。
「体は? おまえ、心臓……」
「悪いわけないよね?」
せせら笑うような海の声に、最後の砦が崩壊した気がした。
「見学の理由が必要だっただけ。俺は元々、力の調整は下手くそな方で。体育に参加するなんて狂気の沙汰だよ……だから蓮のことは、いつも器用だなって思ってて……」
言い終わらないうちに、蓮は海の襟首を激しく掴み、その手を怒りに震わせていた。海はその手を払うでもなく、黙って蓮の首のあたりに視線を注いでいた。
「ずっと、俺を騙してたのか……」
「……まあ、そうなるね」
「俺がお前の体調気遣ってんのも、さぞかし滑稽だったろうな?」
「蓮が俺を気にしてくれるのは、純粋に嬉しかったよ?」
「今日、苦しそうにしてたのも演技か」
「あのままじゃ埒が明かないから、蓮にもうひと押ししようと思って……顔色には薬も使ったけど、わりと名演技だったでしょ?」
海の言葉が耳に届いた瞬間、握りしめていたシャツを蓮は放した。そうして俯きながら、自分はさぞひどい顔をしているに違いないと自覚する。もういい。あとは明日考えよう。
「……帰る」
そう言って立ち上がった蓮の右手を、海は座ったまま咄嗟に握った。
「帰るって、どこへ? 蓮にはもう、ここ以外に帰る場所なんかないよ」
「何だ、それ?」
「もういい加減、認めなよ。蓮だって薄々分かってたはずだろ? 自分が日常になんて帰れるわけないってこと。だから、ロスリミじゃないってとっくに分かっていながら、両親にさえ言えなかったんだろ? 自分は周りと明らかに違う――って」
「……っ!」
海の言葉に、心臓が跳ねた。自分が世界の中で異質であること。確かに、その感覚は蓮の中でとっくに芽生えていたものだった。
だけど、と同時に思う。
あそこに、温かいあの場所に帰れないなんて一度でも考えたことはなかった。戸惑う蓮に、追い打ちをかけるように海は淡々と告げた。
「ここに来たら、もう俗世との繋がりは絶つしかない。何故なら、ノンリミは公式には存在しないことになっているからだ。世間では蓮は死んだことになり、おまえの両親には遺体の引き渡しもされないまま虚偽の死亡が伝えられる。存在は抹消され、おまえはここで、戸籍も失くした個人として生きるしかなくなるんだよ。俺たちは、ここでは誰もが繋がりを失って孤独になる……それがルールだ」
「何だ……それ」
ぐらりと視界が揺れ、再びベッドにへたり込んだ蓮の肩をトン、と押して、海は蓮をベッドに仰向けに横たわらせた。それから蓮の顔の真横に手をつくと、海はその体制のまま、蓮を上から見下ろしてにこりと微笑った。
「だから、蓮……俺と、本当の家族になってよ?」
言い終わると同時に、ちゅ、と海は蓮の首筋にキスを落とした。