ACT43 東都大学教授殺害事件4
「さてと。これから話すことは、橙子サンにとっては多分初めて知ることばかりで、別の意味でしんどいかもしれないけど……覚悟はいい?」
「今さらだろ。ここまで来て後に引くつもりはない」
「オーケー。それじゃさっき、中途半端だった教授の立場について話をしようか。橙子サンという症例を間近に見ていたことで、恐らく教授はノンリミの存在に気づいていた。なのに記憶操作をされた節がない。これはどういうことだと思う?」
「どうって、単に特調が気づいていなかっただけじゃないのか?」
「そんな訳ないよ。あそこは国立の大学病院だから、橙子サンの通院を止めた時点ですぐに状況は分かった筈。下手すると専門外とは言え、論文なんかに着手してたかも」
「それはまずいだろう」
「まずいよね、とても。だからすぐに行動を開始して、教授自身に接触した結果、記憶操作より相応しい選択肢を見つけた」
「それは……?」
「片桐教授をこちら側に引き込んだ。つまり、彼は特調保安室の民間協力者だった」
「!?」
「民間協力者……って?」
ポカンとしている蓮に、海は丁寧に説明した。
「文字通り民間の協力者。つまり内調にも特調にも所属せずに、外で普通に生活しながら手を貸してくれる存在。滅多にあることじゃないけど、各都道府県に数名は存在するって話だよ」
「確かに聞いた事はあるが、まさか教授がそうだったとはな」
「それは、確かなのか水沼」
「根拠はね、橙子サンの経歴。ちょっとこっち集まってくれる? 近くじゃないと見えないから」
海の言葉に反対側の三人が立ち上がり、全員で海の手元を囲むように集まる。示されていたのは、蓮から拝借したIDカードだった。全員の注意が向いていることを確認し、裏面に指を滑らせて経歴の項目をタップする。すると横線の上に点がいくつか刻まれた簡易な図が表示される。
「これはね、個人の略歴。自分のことなんて本来分かり切ってるから、わざわざ見たことない人間の方が多いと思うけど。橙子サンは見たことある?」
「いや……」
「だよね。俺も今回初めて知った。俺の経歴は特殊で分かりづらいから蓮で説明するけど、この端の起点が――」
言いながら端の点を指で触ると、ポップアップして「発症」の単語が浮かび上がった。
「蓮の場合、特調が観察を開始するかなり前に発症しているから、病院の受信履歴の初回が起点になってる。で、次の点が観察開始」
次の点に触れると、言った通り「観察開始」と表示される。そうして終点に触れると、「観察終了」「保護」「認定」の三単語が浮かび上がる。
「保安室への保護と同時に、観察も終了してノンリミ認定が確定。だから蓮の履歴はこれで終わり。あづも平山も、自分のを確認してみてよ。起点は異なっても、終点は大体同じような内容になってるから」
言われて二人が海の操作を思い出しながら確認すると、その通りだったのか納得した様子で頷いていた。それを見届けてから、海が橙子に手を差し出した。
「じゃあ肝心の橙子サンの番。カード貸して?」
橙子がIDカードを渡すと、海が先ほどと同じようにスムーズに画面をタップする。
「起点は二人と同じ。だけど終点をよく見て」
より密着するように視線が集中する先で「観察終了」「保護」の二単語が浮かび上がる。それを見て、橙子が自身で疑問の声を上げた。
「……認定がない?」
「そう、そこ。で、前の点を見ると――」
「あ」
目の前に現れたのは、「認定」の二文字。その不自然さに、その場の全員が気が付いた。
「保護の一年前に認定? そんなことってあり得るのか?」
「特調に連れて来て、指定の検査をすれば可能だね。つまり橙子サンは保護の前に一度ここに来ている」
「私が、ここに?」
「多分、お父さんと一緒にね。大学病院の他にどこか医療機関で検査した記憶ない?」
「……ある。確かあの時は車で迎えが来て、父と一緒に……あれは特調の車だったのか」
古い記憶を呼び覚まして、橙子は愕然とした。正式に特調に迎えられた時には気絶していたから、きっと入口や状況の類似性に気づけなかったのだろう。
「それじゃあノンリミと分かっていたのに、一年も外に置いていたということか? おまえ良くこんなことに気付いたな」
感心する橙子に、海は微妙な表情を浮かべた。
「ヒントをくれたのはミストだったんだけどね。とにかく、普通ならその選択肢はあり得ない。だからそれこそが教授が民間協力者だった証。多分すぐに保護しないことは、教授が提示した交換条件だったんじゃないかな。それでも猶予はぎりぎり一年……恐らくあの事件の日、橙子サンは教授の手から特調のエージェントに受け渡される予定だった」
「だからあの日は、誕生日でもないのに私の好きなことばかりさせてくれたのか」
その日が親子として暮らせる最後の日だと分かっていたからこその父の行動に、橙子は胸が熱くなった。
「だけど一つだけ誤算があった。待ち合わせ場所として指定した研究室に、いるはずのない人間が現れた」
「母だな? 確かに一体どうして」
「受け渡しを止めるためじゃない?」
「え?」
「普通に考えれば、それ以外あり得ないと思うけど。民間協力者になったと言ってもそれは教授個人の話で、たとえ身内でも特調に関わることを第三者に漏らすのはご法度だ。だから教授は、秘密裏に事を進めていたと思う。だけど一つ屋根の下で、百パーセント徹底することは難しい。基本電話で行われるやり取りを、聞かれたとしても不思議はない」
「それじゃ母は、父と特調のやり取りを聞いていた……?」
「可能性としてはそれが一番高いと思う。何より橙子サンは一度、ロスリミの診断をされている。通院を止めたことに不安を感じても、教授は自分の妻を見下していてまともな説明を一切していないだろう。違う?」
「いや、おまえの言う通りだよ。いつも父は『どうせ説明しても分からない』と無下にあしらっていた。きっと、エージェントが訪ねて来た時も、まったく事情を説明したりはしなかったろう」
「したくてもできないのも確かだけどね。ただ普段から信頼し合った夫婦だったら、ここまでこじれることはなかったんじゃないかな。正面から訊いたところでまとに相手はしてもらえない。だけど何やら娘に関して、旦那が不穏なやり取りをしている。約束の場所とやらに、自分も行かなくてはと」
「それって……」
「お母さんは橙子サンの身を案じて、大学まで尾けて行った。そして黒服の怪しげな連中――実際はエージェントだけどね――の手に渡されようとしている娘を守るつもりで、結果的に教授を刺してしまった。包丁を持って行ったのは、あくまで自衛か脅しのつもりだったんじゃないかな。あれは殺意あっての行動じゃなくて、突発的な事故だったと思う。これが俺の見解」
「何だそれは」
海の言葉を聞いて、橙子は力が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。
「片桐、大丈夫か?」
慌てて隣に膝を突いた平山の声は全く聞こえていない様子で、橙子は独り言のように呟いていた。
「……あの人が。母が、私を守ろうとしていた? そんなこと……」
「ただ行動原理が善意だったとしても、引き起こしたのはわりと最悪の事態だった。橙子サンにしてみれば、民間協力者だった教授とはここに居ても定期的に面会できた可能性が高い。なのに勘違いで殺してしまったお母さんが、その時間を永久に奪った。だけど元々は彼女の存在を無視し続けてケアを怠った教授自身が招いたこととも言える。それでも両親なりに……なんて言うか……」
表現に迷って言い淀んだ海の言葉を、蓮が引き継いだ。
「二人とも、それぞれの形で橙子サンを想っていたのは間違いないよな。互いにはすれ違っていたとしても、娘を愛していたことだけは確かだと思う」
「そうそう、そういうこと。俺には良く分からないけど、蓮がそう言うならきっとそうなんだよ」
「何か最後だけ適当だな」
「そう言わないでよ、蓮。頑張ったんだから俺」
「そうだな、偉い偉い」
蓮に頭を撫でられて嬉しそうな海を、平山は呆れたように横目で見た。
「まったく、緊張感の持続しないやつらだな。片桐、立てるか?」
「ああ、うん。ありがとう」
平山に手を借りて立ち上がった橙子は、いつもに比べて少しぼんやりしている様子だった。それでもその瞳は晴れ渡った空のように曇りがなく、先刻までの憂いは跡形もなく消え去っていた。




