ACT41 東都大学教授殺害事件2
「それじゃ記憶じゃなくて記録の方を教えてもらおうかな。橙子サンは、資料室で特調サイドのファイルを見てるんだよね?」
「ああ」
「俺は関係者じゃないから、閲覧させてもらえなかった。見たのは観察と、殺害現場での橙子サンの保護。青と黒の一冊ずつ」
(あ……)
即座に蓮はB4でのやり取りを思い出したが、余計なことは何も言わなかった。
「そうだ」
「この二冊に記された担当エージェントはどちらも同じだった?」
「うん、草薙拓馬と上尾有紀の男女ペアだった。観察の方は付きっきりにもなれないから、通常職員の名前も併記されていたけれど」
「そのファイル、初めて見たのは最近じゃないよね」
海の問いに、橙子は頷いた。
「事件のことを知って、すぐ」
「その後、担当者に会いに行ったことは?」
「あるよ、もちろん。その時は生憎、草薙さんは任務中で上尾さんにしか会えなかった。向こうは懐かしそうだったけど、私にとっては初対面同然だったから、微妙な反応をしてしまった。当時のことを教えて欲しいと頼んだが、元々口止めをされていたらしく断られた」
「記憶がないことは、当然上から聞かされているだろうからね。安易に話してせっかく安定している状態に悪影響を与えることを避けたんだろ。室長の判断しそうなことだよ」
「そうだな、だから直談判しても結果は同じだった。だけどやっぱり自力じゃどうにもならなくて、数年置きにチャレンジしてはいるんだが変わらず断られ続けている」
「それは今なら尚更無理だと思うよ。だって橙子サンのランクは今や特Aまで上がってる。比較的多いBやCだとしても躊躇するだろうに、そんな貴重なエージェントに対して、過去のトラウマに向き合わせるような真似できるわけない」
「あのー、特ランクって、本当にあるんですか?」
不意に別方向から食いついた吾妻に対し、海はあっさり答えた。
「あるよ、俺も特Sだもん」
「特S!? 海さん、すごい……」
「ランクって、給与明細とかステータスに載ってるやつだよな。俺は確かD……」
指を折って海との差に肩を落とす蓮を励ますように平山が口を挟んだ。
「Dは新人専用の期間限定枠だからそれが普通だ。一年後には適正次第でCかEに振り分けられる。下はFまで落ちると適正無しで現場離脱。上はそれなりの奴はその内Bに上がって、大体がそこまで。Aまで進めるのはほんの一握りだな。況してSに関しては数名と言われているが、特Sはこれまで聞いた事もない」
「そりゃそうだ、蓮が特調に来てからの俺の評価だからね。つまり俺の場合、蓮が傍にいてくれて初めて特Sなわけ。自分がどれだけ影響力がある存在か、これで分かった?」
ドヤ顔で見つめられ、自身のことではなく蓮のことを誇っている海に蓮はひどく複雑な気分になった。だが話が明らかに脱線していることに気付いて、そのことを指摘すると海は口を尖らせた。
「だって、あづが訊くからー。でも、関係ない話でもない。要するに、橙子サンの評価が高いからこそ、室長は情報を与えないってわけ。リスクが高いからね」
何となくそう纏めると、海は話を切り替えた。
***
「さて次に、橙子サンにノンリミの兆候が表れた時のこと教えてくれる?」
急に話題が大きく後退した気がしたので、橙子は少し不満そうに海を見返した。
「それが、事件と関係あるのか?」
「もちろん。見方によっては、それこそが根本的な原因とも言える」
「……?」
海の大げさな物言いに首を傾げつつも、橙子は要求に答えて説明した。
「八歳の時だったと思う。朝起きたらベッドの手すり部分が壊れていて。夜中に何があったのか不思議に思いながら起きたものの、その後顔を洗いに行って蛇口を壊して家中えらいことになった」
「あー俺も蛇口やったな」
「家の中ではそれなりに力が必要な場面だからね。それと寝ている間にリミッターが外れる報告も多いみたいだね」
自身の経験と重ねて呟く蓮に頷いて見せると、海は橙子に向き直って続きを促した。
「まあそれで、父がすぐに自分が勤める東都大の大学病院に連れて行って、その日にロスリミの診断がされた。それから半年くらい定期的に通院していたんだが――ある日、父がもう行かなくていいと言ったんだ」
「行かなくていい? もし本当にロスリミだったら、放っておけば命にかかわるのに?」
「うん。でも父は、確かにそう言って通院はやめた。実際私はロスリミではないから、痛み止めは必要なかったし肉体の損傷は一切なかったわけだけど」
「理由は聞いた?」
「聞いた。だが、必要ないからとしか。でも何も心配いらない、とも言っていた。私はとにかく父を信じていたから、自分でも物が壊れること以外はあまり気にしていなかったな」
「悲観的な空気はなかったか。ねえ、蓮は今の橙子サンの話を聞いてどう思う?」
急に話を振られたことにぎょっとしながらも、蓮は素直に自分の感想を口にした。
「いや、俺の経験からするとちょっと考えられない。俺は三歳で診断受けてからずっと怪我も故障もなかったけど、それでも母さんはいつ俺が危険な状態になるかもってビクビクしてたから」
「まあそれが普通だよね。未知の病気と言われて、成人も危ういと宣告されたら安心なんかできるわけない。あづも平山も、似たような経験してるんじゃない?」
顔を見合わせて頷く二人を確認すると、海は確信を得たように言葉を続けた。
「何も知らないってことはそういうこと。例えば嘘でも癌て診断されたら、何年症状がなくてもそれが嘘だったと分かるまで、家族の不安は消えないよね。でも片桐教授はそうじゃなかった。ロスリミと診断されながらも通院をやめるなんて普通に考えれば常軌を逸している。これがどうでもいいか死んでも構わないような相手であれば納得もできるが、対象は愛娘だ。その上でのこの判断は――ロスリミでないことを確信していたとしか思えない」
「……父が?」
「もしかすると、ノンリミであることにさえ気づいていたかもしれない。名称までは知りようがないけどね。実際、ノンリミの近親者が対象の正確な状態に気づいたケースも報告されている。その場合――」
「どうなるんだ?」
「消されるかな」
「!!」
「おい、水沼!」
ガタガタと机を倒して襟首を掴んできた平山の手を、海は迷惑そうに叩いた。
「落ち着けよ、冗談だって」
「質が悪いな」
「本当に冗談なのか? 父はまさか特調に……」
椅子に掛けたまま、青ざめた顔で静かに問う橙子に海はため息を吐きながら頷いた。
「冗談て言うか、言葉を省いただけ。そういうケースがあっても、消されるのは記憶だけだよ。一般人に対してそこまで血生臭いことはいくら特調でもやらない。納得したなら、放せよ」
「片桐教授は、特調に処理されたわけではない。それは確かなんだな?」
「確かだよ。犯人は残念ながら、被疑者に間違いはないと思う。そこはどうしても覆らない」
「……」
自身の唯一の居場所である組織が父を殺したと告げられるくらいなら、母親が殺した方が余程ましに思える。その異常性を自覚しながらも、橙子は与えられた事実にほっとしていた。
やがて海から手を離した平山が机を元に戻し始めると、海は歪んだ襟元とネクタイを正そうと手を伸ばした。するとその手を、横合いから伸びた手がそっと抑えた。
「蓮?」
「おまえ、ああいうところ本当に趣味悪いぞ。反省しろよ」
窘めるように軽く睨みながらも、蓮は海のネクタイを結び直してくれた。終わってぽん、と胸に触れた蓮にほわりと熱いものがこみ上げる。
「ありがと、蓮。でもさっきのことは、橙子サンにも必要なことだったんだよ。一度は特調を疑ったこともあるでしょ?」
「まあな。室長もはぐらかすばかりで、あの日のことをきちんと説明してくれたことは一度もなかったし。だが調べれば調べるほど、良く分からなくなった」
「少なくともこれで一つの疑念は晴れたわけだね。それじゃ次の疑問に行こうか。妻の綾女は、何故夫の透哉を殺したのか?」
未だ血を流し続ける内面の傷口に、ゆっくりメスが入って行く感覚に橙子はそっと目を閉じた。




