ACT4 虚構と現実の狭間
「帰るぞ、海」
「授業終わったの? お疲れさま、蓮」
放課後、自分と海の鞄を持って保険室を訪ねると、海はベッドに腰かけて蓮を待っていた。眠ったせいか、先ほどより顔色は良くなっていた。
「あら、お迎え? 気を付けて帰りなさいね」
養護教諭に会釈して、蓮は海を先導するように保健室を出た。
「もう夏服でもいいよなー……温暖化ってどんどん進行すんだろ? そのうち、季節の半分が夏になっちまうんじゃねーの?」
ブレザーを脱ぎながら季節にそぐわない暑さに愚痴を言うと、海は涼しい顔で実際涼しそうに冷静に返してくる。
「蓮は動いたから、特に暑く感じるのかもね。俺は座ってるか寝てるかだったから、別に」
「ふーん。なー、体育の時、わざわざ見学しなきゃいけないわけじゃないんだろ? そろそろ日差しもきつくなって危ないから、なるべく教室にいろよ」
「うん……でも、一人でいるより、近くで蓮達を見てる方が楽しいから」
「……嘘つけ、本読んでただろ」
「本も読んで、蓮のことも見てるの」
「それって楽しいか?」
「うん、楽しい。参加できなくても、声が聞こえたり雰囲気が味わえる方が俺はね」
「……そっか」
微妙な表情でそう言われてしまっては、蓮はそれ以上の忠告はできなくなった。夏の暑さもだが、冬になれば今度は寒さを理由に外出がしにくくなる。それを思えば、間の季節くらいは確かに自由にさせてやりたい。
「ごめんね? 蓮が心配してくれてるのは分かってるんだけど」
「別にいい。俺がその分気にしてやるから」
「蓮は優しいね……俺のこと、面倒になる時とかない?」
「はぁ? 何だそれ」
「だって、いつもこうやって一緒に帰ってくれるし。本当は蓮だって他の友達と、たまには寄り道したり遊びに行ったりしたいんじゃないかなって」
「くだらねーこと言ってんな。俺は自分がやりたいことやってるだけだよ、今だっておまえと帰りたいから帰ってるだけで、別に誰かに強制されてるわけじゃない」
軽く頭をコン、と小突くように触れると、海が苦笑した。
「ありがとー、蓮」
ふわりと笑った海の表情がやけに照れくさくて、蓮はわざと難しい顔をして頷いた。
***
そうしていつもの通学路を帰っている途中で、そう言えば、と蓮は保健室での海の発言を思い出していた。あの時、おまえ何の話しようとしたの? そう尋ねようとした途端、目の前をやけにガラの悪い他校の連中が広がって塞いでいた。迂回して横をすり抜けようとしたが、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら再び遮ってきたので、どうやら通す気はないらしいと分かった。
「どけよ」
蓮が全く動揺せず、静かに低い声で言うと、目の前の男が少し感心したように眺め、それでも見下すように鼻で笑った。
「どけねーなぁ? 何せ、やっと見つけたんだからよ、なあ兄ちゃん?」
「は? 俺はてめーらなんか……」
「おっと、アンタじゃねーよ。そっちの後ろの兄ちゃんだよ、なあ?」
「……海?」
海を見返ると、目を細めて黙って連中を見据えていた。
「おまえ、こいつら知ってんのか?」
「うん……先週の日曜に、道端でえらく騒いでたから誰かが警察呼んだんだよね。その時に、俺もすぐ後ろにいたから顔覚えられたんだと思う」
「……へえ」
理由としてはさほどおかしなものではない。それでも蓮は心のどこかで違和感を覚えた。人や動物が絡まれていたり被害に遭っていれば、蓮でも警察くらいは呼んだかもしれない。でも、「騒いでいた」くらいでわざわざこんな連中に敢えて関わるだろうか? 海は自ら争いに巻き込まれるタイプの人間ではないはずで、顔を覚えられたことも普段の海からは考えられないほどうかつに思える。それでも、今それを問いただしている暇はなかった。
(海は走れないし、いっそ抱えて逃げた方が……)
多少、異常な運動能力を晒すことになっても。そうして距離を計算して警戒する蓮の背後から、驚いたことに海が進んで前に出た。
「俺に用があるんでしょ? いいよ、話聞くよ。でも彼は関係ないから、帰してやって」
「へえ、物分かりがいいじゃねぇか」
「……っ、ふざけんな海!! 一人で帰れるわけねえだろ!!」
肩を組むように連れて行かれる海の手を掴もうとしたが、他の男によって阻まれる。
「はっ、美しい友情だねぇ……どっちにしても帰さねぇよ。おい、そっちのオトモダチも一緒に連れてこい」
両側から押さえつけるように腕を掴まれ、蓮は海の身を案じて無抵抗のまま成り行きを見守るしかない状況に歯噛みした。
***
普段から使い慣れているのか、人気のない袋小路に誘導され、先を歩いていた海が突き飛ばされるように押されて膝を突く。
「海!」
腕を引きながらぐ、と前のめりになると、すかさず海の頬にナイフが突きつけられた。
「勝手に動いてんじゃねぇ」
蓮をけん制するようにピタピタと海の頬に触れる刃先を、蓮は舌打ちしながら睨み付けた。
「まずは、謝罪の言葉が聞きてぇな?」
「謝罪? 誰が誰に?」
「フザケてんのか、テメェ?」
「ふざけてない……だって俺は謝らなくちゃいけないようなことしてないし。それともこんな理不尽な行動について、急に後悔して謝ってくれるの?」
「はっ……面白ぇこと言うじゃねーか。この状況でそんな口が利けることだけは褒めてやるよ」
ぐい、と乱暴に海のネクタイを引っ張ると、海は一瞬むっとして、それから不意に苦しそうに胸を押さえてうずくまった。
「? 何だコイツ、急に……」
「!!」
その光景を目にした瞬間、蓮は両側から押さえつけていた男を二人まとめて肩の動きだけで投げ飛ばし、地面に叩きつけていた。そのまま海に駆け寄ると、ナイフを突きつけていた男を突き飛ばして海を抱き起こす。
「海! しっかりしろ、海!!」
必死に声をかけると、海はうっすら目を開けて蓮を見た。何かを言おうとしたがその息は荒く、顔色は紙のように白い。一刻を争う状況だと蓮は海を抱えて立ち上がったが、この期に及んでまだ二人を取り囲む連中に焦りといら立ちを覚えて舌打ちする。
「どけよ……見れば分かるだろ、こいつ持病があるんだ。早く処置しないと、命にかかわる。分かったら、さっさとどけ」
「フザケんな、こっちの話はまだ終わってねーし。テメェにもブン投げられたしなあ?」
そう言いながら両手の塞がった蓮に殴りかかってくる金髪を、軽くかわして足払いで転ばせる。続けて後ろから襲ってくる奴に視線もくれずに回し蹴りを叩きこむと、そいつはとてつもない勢いで路地の壁まで吹っ飛んで、骨が折れるような大きな音がして崩れ落ちた。体のあちこちが、あり得ない方向に曲がっているのがひどくシュールに映った。
(やべ……)
人間相手に本気で力を振るうのは生まれて初めてで、加減が全く分からない。他の連中にも、やられた男の異常な状況は伝わったようだった。次第に自分たちが相手にしている対象の異常性と、恐怖がじわじわと伝わっていく。
これで逃げてくれれば良かったが、極限状態になったのか何やら意味不明なことを叫びながら鉄パイプのようなもので殴りかかってくる三人目を、蓮は直前のショックと相手を殺してしまうかもしれないという恐れから、避けることも応戦することもできずに海を抱えたまま思わず目を瞑った。
(……?)
予想していた衝撃がいつまでたっても訪れないので、恐る恐る目を開けると――蓮に当たるはずだったそれは、胸に抱えていた海の細く白い腕で受け止められていた。
「蓮に触るな」
「う、海……?」
両手で渾身の力を込めて打ち下ろしたはずのそれを、海に片手で難なく止められた衝撃に目を見開く男に侮蔑するような視線を向けると、海は鉄パイプのようなものをもぎ取り、カラン、と床に放り出した。それから蓮の腕から下り、目の前で呆然としている男を流れるような動作で瞬時に地面に沈める。そのまま蓮を振り向いて、海はどこかぞっとするような笑みを浮かべて見せた。
「おまえには正直がっかりだよ、蓮。まさかあんな状況でも、こんな奴らの身の安全とか考えちゃうなんてね……俺の命より、こんな奴らがそんなに大事? そもそも正当防衛なんだからさ。普段できない分、思い切り暴れて殺しちゃっても良かったのに。せっかくのお膳立てが台無しだ」
「海、おまえ何言って……」
「あ、待ってね、先に片づけちゃうから。っと、これももういらないか」
海は眼鏡を外しながら今度は無邪気に笑むと、海はすっかり固まっていた残りの三人に近寄り、一人の顔面に外した眼鏡を掌で押さえつけるように叩きつけた。レンズの割れる音と、悲鳴。顔中を血だらけにした男と、恐怖に竦む二人も黙らせるように手刀を叩きこむと無造作に地面に転がす。
「まったく……絵に描いたようなクズだな。あれで蓮を殴ってれば、一人残らず殺してるとこだ」
憎々し気に倒れた男の腕を踏みにじると、海はポケットからスマホを取り出してどこかに電話をかけた。
「水沼です。保護対象観察中に、一般人と交戦になりました。負傷者五名、死者は出ていません。至急状況の回収を願います」
ひどく事務的な会話を終わらせると、海は蓮の方に歩み寄り右手を差し出した。
「もう少しでお迎えくるから、待っててね。どっか痛くない? 立てる?」
その手を呆然と眺め、蓮は混乱の極致に陥りながらも必死に言葉を絞り出した。
「何、なんだこれ……何なんだ。海、おまえ一体……」
「俺はおまえと同じ。そんなの、本当はもう分かってるんだろ? 自分がロスト・リミット症候群だなんて、まさかまだ思ってないよね?」
「……同じ?」
「俺たちは、制御を失った人間なんかじゃない……元々制御を必要としない、進化した肉体を持つ人類『ノン・リミッター』だよ」
「ノン・リミ……?」
「ようやく本当のお互いで会えたね。こちら側へようこそ、蓮」
自分から蓮の手をぎゅっと握り立ち上がらせると、眼鏡を捨てた見慣れない笑顔で海は微笑った。