ACT3 水沼海
最近は五月でも既に暑い……と百メートル走の後で額の汗を拭っていると、日陰で本を読んでいる水沼海の姿が目に入った。
日焼けしたクラスメート達とは異なり、屋内で過ごすことがほとんどの海の肌は一年を通して常に白く、生来色素の薄い茶髪に眼鏡も手伝って同年代にしては細く儚げに見える。
海は蓮の隣に住む幼馴染で、小学校五年の時に転校してきて以来、学校でもプライベートでもほぼ一緒に行動していた。それは家が近いというだけではなく、海の体質によるところが大きかったかもしれない。今も日陰で体を休めているにも拘らず、その顔色が気になって蓮は集団を離れて海に近寄って行った。
「海」
「蓮……どうしたの?」
声をかけると、海は文庫本から目を上げてこちらを見た。眼鏡越しの瞳は微笑っていたが、顔は通常より青白く見える。
「おまえ、顔色悪い。具合悪いんじゃないのか?」
「そんなことないけど……ちょっと夕べ寝不足だから、そのせいかな?」
「発作か?」
深刻に眉を寄せる蓮に、海は苦笑した。
「違うよ、読みかけだったから気になって。おかげで、今日からまた新しいの読んでる」
文庫本の表紙を見せてくる海に、蓮は呆れたようにため息をついた。
「無茶すんなよ、おばさん心配すんだろ? 寝不足だけって言っても、やっぱ顔白い。今日は気温も高いし、連れてってやるから中で少し寝ろ」
「……うん、ごめん」
躊躇う様子はあったが促されて素直に立ち上がる海を片手で引っ張りつつ、蓮はその場で体育教師に声をかけた。
「先生ー、海が調子悪そうだから、保健室連れてくんで」
それは日ごろ見慣れた光景であったので、教師はすぐに首肯した。それでも念のため、本人にも声をかける。
「水沼、早退しなくて大丈夫か?」
「あ、はい。少し休めば大丈夫です」
「そうか、じゃあ頼むな柴田」
返事の代わりに手を振ると、蓮は海の手を引きながらゆっくりと校内に向けて歩いて行った。
***
「なあ、おぶってやろうか?」
少しふらついている海に半分冗談、半分本気で声をかけると、海は困ったように笑った。
「やめてよ、本当にただの寝不足だってば」
「遠慮しなくていいのに」
海は生まれつき心臓の疾患を抱えていて、毎日の投薬も月に一度の通院も欠かせない。いつも何でもないように振る舞っているが、実のところ常に危険と隣り合わせの生活をしていると海の母からは聞かされている。それを知ってから、蓮は自分が海を守らなければと常に意識してきた。特に自分も、人とは違う生活を強いられた時期があったことで、余計に海に対して特別な保護欲が掻き立てられるのかもしれない。
保健室で養護教諭にいつも通りの事情を話し、海をベッドに寝かせると、蓮はすぐに立ち去ろうとはせず横の丸椅子に座った。海の額に手を当て、熱がないことを確認する。
「ありがと、蓮。もう戻って大丈夫だよ?」
額に添えられた手に自分のそれを重ねて申し訳なさそうな顔をする海に、蓮は自分の黒く硬い髪質とはずいぶん異なって柔らかい前髪を整えてやりながら生返事を返した。
「んー、まあもう少しいてやる。今日、なんか暑いしな」
「そんなこと言って、体育好きなくせに」
「俺もそんな得意なわけじゃないけどな」
全力出せねーから、とこっそり自嘲気味に笑うと、海が少し不思議そうに首を傾げた。
「……でも、昔は蓮も俺と一緒に見学してたよね? あの頃、蓮も持病があるって言ってたけど、細かく聞かせてもらったことないね。今は何ともないの?」
少しぎくりとしながら、蓮は曖昧に頷いた。
「あー、まあな。俺のはおまえのと違って、一時的なもんで」
「そうだね。中学からは、ずっと見学してないね。しんどい時とか、ない?」
「別に……ふつうだよ」
「それなら良かったね。やっぱり蓮はすごいな」
「? 別に、すごくはないだろ?」
海の真意が分からなくて首をひねると、海は思わずドキリとするほど深い瞳をこちらに向けていた。
「いや、蓮はすごいよ。俺なんか、比べ物にならないほど。だって、抑えて生きるのって逆に大変だよね? 全然、本気の底が見えないくらい……」
「海、おまえ何言って……」
声音にぞくりとして思わず手と身体を引くと、ハッとしたように海が瞬きした。
「あ、ごめん、俺……やっぱり疲れてるのかも。ちょっと眠るね?」
「ああ……おやすみ。帰り、また寄るから」
目を閉じる海を見届け、蓮は立ち上がって保健室を後にした。廊下を歩きながら、脳裏に焼き付いた海の白い顔とひどく印象的な瞳を紡がれた言葉とともに思い返す。
『抑えて生きるのって逆に大変だよね?』
かすれたような海の声が、授業に戻った後も消えずにいつまでも残った。