ACT29 被験者Aの記録
霧宮家は、代々軍人の家系だった。
当代の当主である霧宮修蔵も、まるでそれが当然の宿命であるかのように迷わず士官学校に入学する道を選び、順当に出世をして二十代で佐官の地位に付き、同じく軍人の家系であるそれ相応の家柄から妻を娶った。順風満帆と思われた修藏の人生だったが、唯一計算外であったのは妻との間に三人の子を成したものの、三人ともが悉く娘だったことに尽きる。
「私のせいで……申し訳ございません」
家督を継ぐべき男子を産めなかったことを、妻はまるで己の罪のように詫びた。実際、そういう時代だった。修蔵はそれでも、そのことで一度も妻を責めたことはなかった。ただ、姻戚からの繰り言や圧力から守ることもしなかった。結果、妻は心を病んで実家に帰された。
乳母と使用人によって、長女も次女も過不足なく育ったと修藏は思っていたが、三女だけは勝手が違っていた。幼い頃から何故か物の加減が分からず、生活上手を触れる範囲にあるものは一通り破壊した。姉の持ち物や特別な人形も彼女にかかると一瞬で欠損するため、高いところに上げて触れさせないよう周囲が気を配った。
しかし、事は物だけに留まらなかった。身体が成長するに伴い、乳母や姉たちに日常の動作の一環で怪我をさせることも少なくなかった。と同時に、自分の肉体にも激しい痛みを覚えるようになっていった。故意ではなかったため反省はしていたが、持て余す力と体に受けるその反動を、自身ではどうすることもできなかった。
――そんな折、事件は起こった。
近所の少年に悪戯で毛虫を肩に乗せられた時、逆上して突き飛ばすと相手は頭から側溝に嵌って大人が数人で助け上げる大騒ぎになったが、彼女に突き飛ばされたと言う少年の話を手を貸した大人は誰も信じなかった。何せ少年の嵌った場所は、歩道から五メートルも離れた僅かな隙間だったのだから。二つ上の姉はこの顛末を終始傍で見ており、放っておけば大変なことになると仕事から帰った父に震えながら注進した。
「お父様、あの子はやはりどこかおかしい……このままではいつか私たち、殺されてしまうかもしれません」
主治医にはとうに診せていたが、原因はまったくもって不明だった。いずれ家人以外の人間がこのことに気づけば、霧宮に鬼子が生まれたなどとおかしな噂が立つことにもなりかねない。何より、本当に人を害してしまってからでは遅すぎる。修藏は悩んだ末、屋敷の奥に座敷牢を作り、表向きは病気療養ということにして末娘をそこに幽閉した。
麻酔から覚めて檻の中にいる自分を認めた時、激しく動揺した彼女は当然のことながら暴れた。頑丈に作られた筈の入口を叩いて、最終的には破壊してしまったが、彼女自身の体もその時の負荷が祟ってしばらく沈痛剤なしには眠れないほどの痛みに耐える日々が続いた。更に丈夫な素材で再び囲われた牢の中で末娘を診察した主治医は、損傷した腱や筋はもう元に戻ることはないだろうと修蔵に伝えた。
「私も初めて見る症例ですが、本来正常に機能すべき脳の働きに異常があるのかもしれません。一度、大学病院で検査をなさっては。ああいうところでは海外の論文や知識も自然と集まりますし、お嬢様が回復する可能性も無きにしも非ずです」
主治医はそう勧めたが、修蔵は家名に瑕がつくことを恐れてか病院への紹介については頑なに固辞した。しかし人の口に戸は立てられぬもので、数か月後のある日のこと。軍医の田口という男が修蔵に直接接触してきて、娘のことを無遠慮に訊ねた。最初はただの興味本位で介入する輩だろうと邪険にあしらった修蔵だったが、田口はこれはあくまでも仕事なのだと食い下がった。訝しむ修蔵に、これは非公式だが間違いなく軍の研究に必要なことなのだと説明した。その上で、改めて娘の症状を詳しく訊いた後、実際に破壊した物の現物を見せて欲しいと強請られた。軍の名を出されては軍人である修蔵も断るわけにも行かず、改修する以前の鉄格子の一部と鍵を後日男に渡した。それらを確認した田口は、興奮した様子で修蔵に熱っぽく語った。
「まだ国内での報告は数件しかなく、海外でも希少な症例ですが……お嬢様は間違いなくロスト・リミット症候群ですよ」
「ろすと……?」
「本来生まれながらにして備わっている筈の、肉体の力の制御を外された人間の総称です。疾患と言ってしまえばそれまでですが、特別な訓練もせずに並の人間の数十倍の力を発揮できる――とあれば、軍にとって極めて有用な能力だとは思いませんか?」
「……しかし、あれはそれが元で今や寝たきりの生活だ。足も日に日に弱り……疲弊し破壊された細胞は、元には戻らないと主治医がそう言っていた。そんなものが役に立つとは到底」
「無論、そのままでは実用はおぼつかない。だからこそ、我々が居る。その原理を、理屈を紐解くことで、並の人間を最強の兵士に変えることも夢ではないかもしれない。そうなれば、本国は強大な武力を手にすることになる。改めてお願いしたい……霧宮中佐。お嬢様の尊い御身を、この日本国のため捧げては頂けませんか」
このまま、薄暗い屋敷の奥で無為に消えて行く命ならばと。
そんな感傷的なことを想ったのか、「国のため」と言われて二つ返事で引き受けたのかは定かではないが、霧宮修蔵は結果その要請を飲んだ。
即日、彼の三女である霧宮日鶴は、自宅の座敷牢から陸軍の研究施設に秘密裏に運ばれた。修蔵自身はこの功績をもって即日大佐に昇進したが、日鶴はこの日を境に二度と家に帰ることはなかった。
結局、研究は立ち消えたのか頓挫したのか――正式な記録は一切残っていない。しかしその後の二度に渡る大戦の際、ロスト・リミットの文字は表でも裏でも語られたことがない。その言葉はいつしか、世界的にも希少な難病としてのみ、表舞台の歴史に刻まれることとなる。
***
「いつもながら時間に正確ね、文人」
室長秘書の佐伯を迎え入れたミストは、揃えた資料を示しつつ受け渡しの書類を脚立の上から差し出した。背表紙を確認して頷くと、佐伯は書類にさらさらとサインした。
「はい、確かに。それでは頂いて行きます」
「どうぞ。ねえ、今日は雨が降っているの?」
「ええ、昨日までは良い天気だったのですがね。三日ばかり降る予想で、子供の洗濯物が乾かないと妻が嘆いていました」
「ああ、確か女の子だったわね」
「はい、写真見ます?」
「結構よ、あなたが復帰した時に散々見せてもらったわ」
「あれからまた随分、成長したし表情も変わったんですよ」
結局スマホの画面を見せてくる文人に苦笑して、ミストは仕方なさそうに画面を覗き込んだ。
「……何が変わったのか、私には良く分からないわ」
「髪も伸びたし、笑い方も前より少し大人びたでしょう?」
「間違い探しは得意じゃないの。それより以前も思ったけど、あなたにあまり似てないわね」
「親戚を交えて話したところ、妻の母に良く似ているようです」
「隔世遺伝てこと? それでも可愛いの?」
「もちろんです」
「ふぅん……」
佐伯の全開の笑顔を眩しそうに見つめ、ミストはその場で立ち上がった。
「せいぜい、将来その子に殺されたりしないよう気をつけなさいよ」
「随分とまた不吉なことを。私はこれでも、平均以上には家族から愛されている父親だと自負しているのですが」
「それが自称じゃないことを祈るわ」
脚立からいささか行儀悪く飛び降りると、ミストは退屈そうに伸びをした。
「最近また、誰も遊びに来なくてつまらない……たまには私も外が見たいわ」
「あなたの姿は、特調でも異色ですから。平日は少なくとも難しいですね。以前のように勝手に夜中にうろつかれて、警備員の間で怪談話が持ち上がっても困りますから」
「ああ、あれは楽しかったわね。夜中に子供の姿って、確かにちょっと怖いもの。でもあの後、如月のうるさかったこと……」
くすくすと笑うミストに肩をすくめて、佐伯は時計を見た。
「すみません、時間がありませんのでそろそろ失礼します」
「はいはい、無駄話をしてごめんなさい。またね、文人」
「あとエージェントへのちょっかいは、今後はお控えくださいね」
「分かってるってば」
通路に繋がった扉が閉まり、再び静寂が戻るとミストはそっと一人で呟いた。
「文人のような人が父親だったなら、私ももう少し違った人生が送れたかもしれないわね」
これからしばらく降り続くであろう雨と、降られている自分の墓と。それからそこに本来あったはずの父親の遺骨の在処を思って、ミストこと霧宮日鶴は窓のない部屋の天井を黙って仰ぎ見た。




