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ACT28 聴取

 蓮が病室を出ると、長椅子にはまだ橙子一人が座って彼を待っていた。

「少しもめていたようだが、大丈夫か?」

「大丈夫、殴ったりはしてないよ。俺を忘れるなんてマジでどうかしてるけどね」

「柴田のことも、本当に忘れてしまったのか」

 打つ手なしとがっかりしたようだが、蓮は何も響かなかったわけではないと付け足した。

「なるほど、世界が色づいて見えるか。記憶がないやつってのは、恥ずかしいことを平気で言えるもんだな」

「いや、海は元々ああいうやつだよ」

 日頃の求愛を思い出してうんざりしていると、白衣の人影が近付いてくることに気が付いた。

「高槻先生」

 問題の高槻雛は、蓮と橙子に近づいて力なく手を振った。

「お疲れ様です」

「本当に疲れたわ。朝から室長にがっつり絞られた挙句に始末書は確定。おまけに下手すりゃ医療免許剥奪の上、配置転換かもしれないなんて……まったく、笑うしかないわ」

「そうなんですか? 原因は本当に高槻先生の治験薬?」

 すると高槻は、悔しそうに足を踏み鳴らして抗議した。

「そんなわけないでしょうが! 言っとくけど、これ冤罪だからね。私が水沼に渡した薬は、飲み合わせだろうが何だろうが記憶を吹っ飛ばすような類のものは一切なかった。これは医師として断言できる。だから、原因は絶対他にあるんだけど、そもそも昨日の水沼の行動について本人が覚えてないんだから、裏付けが何もないのよね」

「午後九時くらいまでなら、俺は一緒にいたんだけど」

「それなら夕食も一緒? 何を食べたか覚えてる?」

「夕飯はパンとサラダだった。あと食後にコーヒー、それくらい」

「はあ、パンにサラダ? 高校生の夕飯にしては随分と軽食ね。あんたらそんなもんで足りるの?」

「普段ならもう少しちゃんとしたもん食べるけど、昨日は半端な時間の間食が多くて……あ」

 蓮がパッと顔を上げて、橙子と目線を合わせた。彼女も蓮の思い付きを理解したようだった。

「そう言えば、昨日行って来たんだったか」

「海が口にした特殊なものと言えば、それだ」

「だけどきみも同じものを食べて、何ともないんだろう?」

「そもそも持ち込んだのは俺だから、菓子の方に原因がないのは当然だとして……もしかすると」

「なになに、何の話?」

「高槻先生、ちょっと気になったことがあるので今から調べて来ます。先生の冤罪が晴らせるかどうかはまだ分からないんだけど」

「そんなのあんた達が信じてくれるだけでも十分よ。ありがとうね」

「だったら私も付き合おう、柴田」

「助かる」


 高槻医師に少々の希望を残して、蓮と橙子はB4の資料室へ向かった。


***


 無機質な扉をくぐり、広大な書架の森に足を踏み入れると、その空間の主が隙間から音もなく顔を出した。

「あら、また来てねとは言ったものの、随分と早い再訪ね。おまけに橙子まで。最近ここもまた少し賑やかになって嬉しいわ」

 エプロンドレスを揺らしながら小首を傾げる少女に、橙子は蓮と顔を見合わせて頷くとまず自分から口火を切った。

「単刀直入に訊く。水沼の件はあなたの仕業か?」

「あら、随分と不穏なお話ね。海に何かあったのかしら?」

「今朝目覚めてから、これまでの記憶がない」

「記憶喪失、まあ大変だこと」

 まったく驚いてもいない上感情のこもっていない受け答えに、蓮はミストが黒だと確信して追及に参戦した。

「昨日出してもらったお茶のポットが、それぞれ別々だったんだ。今考えると茶葉の種類も違っていたように思う。何か入っていたならあれだと思うんだけど」

「ちゃんと見ていたのね、感心だわ」

「真面目に答えてくれ、高槻先生が疑われているんだ」

「どういうこと?」

 治験薬のことを説明すると、ミストは肩をすくめて頷いた。

「間の悪いことね。でもそれなら仕方ない、認めるわ。海に飲ませたのは、意図的に一部の記憶を制限する精神薬の一種。スパイが捕まった時の情報漏洩対策用に作られた試薬の一つで、実用化はまだされてなかったかしら?」

「何故そんなものを?」

「蓮に対しての執着が、寧ろ苦しそうだったから。無感情だった昔のあの子の方が、ここでは向いている気がして。いっそ忘れてしまったら、楽になれるんじゃないかと思ったのだけれど」

「なっ……」

 カッとなる蓮を制して、橙子が強い口調で抗議した。

「余計なお世話だな。そんな状態でも水沼は柴田に惹かれることを止められなかったようだ。そもそも記憶というものは、どんなものであれ不可侵であるべきだ。他人に介在される筋合いはないし、捨てたければ自分で捨てれば良い。ただ、過去にあった事実から逃げることはできない」

「それは、あなた自身のことを言っているの?」

「……私もだし、水沼もそしてあなたもだよ、日鶴ひづる


(ひづる?)


 蓮が首を傾げる中で、日鶴と呼ばれたミストは笑みを消して橙子に反論した。

「あら、私は逃げたいと思ったことなんてない。父のことも、一日たりとも忘れたことはなくてよ。あの人がとっくに死んでいても、地獄に落ちていても私は絶対に許さない」

「水沼ではなくあなたの方こそ、忘れた方が楽になれそうだな」

「それこそ大きなお世話よ。それより、あなたはどうなの? お父様のこと何か思い出した?」

「いや、相変わらずだよ。それが自分の意思なのか……それとも、特調の記憶操作なのかも分からない。当時の新聞記事は情報が少ないし、ここにも資料は一切なかった。ここで調べられることはこれが限界だろうな」

「……少しだけ羨ましい。私はあなたのように、父の愛情を受けたことは一度もなかったから」

「ちょ、ちょっとちょっと! 俺を無視して二人だけが理解できる話しをするのやめてくれ。何より今は海のことで来てるんだから」

 するとようやく蓮の存在を思い出したようで、橙子は面目ないと頭をかいた。

「すまない、脱線した。それでどうなんだ日鶴。水沼に盛った薬に対する解毒剤はあるのか?」

「なくもないけど、必要ないと思うわ。あれの効果は睡眠がキーになっていて、服用後に一度眠って目覚めると記憶をなくしていて、その状態で再度眠って次に目が覚めたら元通り。早く戻したいなら、さっさと寝かせることね」

「だから昨日、寝る前は何ともなかったのか。分かった、それじゃ」

「え、おい柴田。日鶴にもっと言いたいことはないのか?」

「海が直接来て言えばいいさ。室長に報告が必要なら、橙子サンよろしく」

 そう言って踵を返した蓮を、橙子は仕方ないかと割り切りつつミストに対しては厳しい口調で言い置いた。

「室長には本当のことを伝えるからな、そのつもりで。水沼はあの人にとって、ただのエージェントでないことは分かっているだろうが」

「分かってるわ。それでも私は、誰にも裁かれはしない。だって元々いない人間だもの」

「日鶴……」

「その名で呼ぶのは、もうあなただけ。せめてあなたが生きている間だけは、私が何者であったのか覚えていてね」


 寂しげに笑った彼女――霧宮日鶴きりのみやひづるの横顔は、あどけない少女のものでありながらひどく老成して見えた。

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