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ACT27 霧の迷図

 異変が発覚したのは朝の時点だった。

 いつも迎えに来るはずの海が一向に現れなかったせいで、寝倒してしまった蓮は十時くらいにのそのそと起き出した。顔を洗って着替えた後、海の部屋に向かったがノックしても返事がなかった。


(留守?)


 連絡もなく蓮を一人にすることは今まで一度もなかった。不思議に思いながら仕方なく一人で食堂へ向かうと、佐伯が進行方向から駆けて来た。

「柴田くん!」

「佐伯さん」

 室長秘書の佐伯は、息を整えてから蓮に慌てて告げた。

「今すぐ医療棟に行ってください。水沼くんが――」

「医療棟って、海に何かあったんですか?」

 血相を変える蓮の肩に手を置いて、安心させるように笑顔を見せる。

「大丈夫、彼の身体は何ともありません。ただ原因はまだはっきりしませんが、どうやら記憶を失っているようなんです」

「記憶……?」

「すべて、と言う訳ではありません。自分のことと、施設については何となく分かっているようです。ただ他人に関しては、室長や同僚も含めまるで初対面のような感覚らしいです。私も先ほど会ってきましたが、興味がなさそうに一瞥されて終わりでした」

「……何だって、急にそんな。昨夜も一緒にテレビ観て、普通に自分の部屋に帰ったのに」

「柴田くんは、彼にとっては特別な人です。名前は覚えていなくても、顔を見れば何か思い出すかもしれない。とにかく、病室に急いでください」

「分かりました」

 普段は走らない通路を猛スピードで医療棟へと向かった。


***


 海の病室の前では、平山と橙子が泣いている吾妻を宥めながら長椅子に座っていた。蓮にいち早く気づいた平山が橙子に何かしら話しかけると、橙子は吾妻を平山に任せつつ蓮の方にやって来た。

「おはよう、柴田。事情は聞いたか?」

「うん、正直何が起きたのかは全然分からないけど」

 正しく寝耳に水の蓮に、周囲を確認しながら橙子は声を潜めて耳打ちした。

「原因については、高槻先生の治験が疑われているようだ。室長とそのことで今面談をしている。状況が状況なだけに、尋問に近いかもしれんが」

「治験……?」

 高槻雛たかつきひなは医療棟に所属する職員であり、医師免許を所持した正式な医師でもある。エージェントにはならなかった少数のノンリミとしても認識されている。

「柴田は知らないだろうが、高槻先生はノンリミの体質に合わせた新薬の開発に余念がなくてな。臨床データを取るために、エージェントに試薬を渡して効果を報告させたりということを割と日常的にしていた。水沼は古株な上に先生とは懇意にしている分協力的で、代わりに見返りも色々受け取っていたらしい」

「それって……」

「一応弁護しておくと、あの先生は研究よりエージェントの体のことを最優先に考えている。だから余程の副作用が起こるようなものを、先生が水沼に渡すとも思えないんだが。ただ試薬の入っていた包装がゴミ箱に残っていたことから、水沼が昨夜それを口にしたのは確からしい」

「だったら原因はやっぱりその薬なんじゃ。他には何もなかったんでしょ?」

「室長もその結論を採用したのだろうな。予想外の結果は、飲み合わせの問題ではないのかと。高槻先生の立場は、実際かなり危ない。何しろ、水沼は性格はともかく実力だけを問うならここでは至高のエージェントだ。代わりはきかない。その貴重な人材に疵をつけたとあっては、ただでは済まないだろうな」

「……」

 純粋に海が心配だった蓮は、海の身が損得で論じられることにひどく複雑な気分だった。それが顔に出たのだろう、橙子が少し困ったように笑った。

「そんな顔をしないでくれ。私も君も、ここではどうしたって直実的に価値が量られることは否めない。ただ、君があいつを心配する気持ちはきっと昔も今も変わらないよ。何より、君たちは家族なんだろう?」

「……うん」

「だから行ってやるといい、水沼のところに」

 こくりと頷いて、蓮は背中を押されるように海の病室をノックした。


***


 白衣を着た男性の医師に迎えられ、どこか怖いような思いで中に入る。先にカーテンの向こう側に入った医師との会話に耳を傾けた。

「水沼、柴田が面会に来てくれたぞ」

「誰?」

「柴田だよ、柴田蓮……覚えてないか?」

「覚えてない……」

 無感動に答える海の言葉に、内心で逃げ出したい気持ちになりながらも蓮は何とかそこに留まった。医師がため息をつきながらカーテンを引き、室内を視界に入れた蓮はようやく海の姿を認めた。海はいつもの制服姿でベッドに寝そべっており、表情もいつもと変わらない。ただやたらと覇気のない眼が、蓮を認めると不意に大きく見開かれた。

 興味がなさそうに応じたくせに、上体を起こして自分を凝視してくる海の視線に耐えきれずに思わず逸らすと、医師が珍しそうに口を開いた。

「やっぱり覚えてるんじゃないのか? 他の人間の時とは、随分反応が違う」

「いや、俺もびっくりしたんだけど。今何か照明とか変えた?」

「特には何も」

「そう。あのさ、ちょっと二人きりにしてくれない? 少し話がしてみたい」

「分かった、何かあればコールしてくれ。柴田、面会が終わったら事務室に声を掛けてもらえるかな」

「あ、はい」

 戸惑いながらも頷くと、病室を出て行く医師を見送ってその場に立ち尽くした。

「こっち来て」

 ベッドの端に腰かけて手招きする海に招かれる形で、蓮はぎくしゃくとその隣に腰かけた。顔をじっと覗き込まれているのが横目でも分かり、そのまま固まっていると海が業を煮やしたように蓮の顎に手を添えて自分の方を向かせた。

「な、なんだよ」

「さっき、きみが入って来た時さ。それまで白黒だった世界が一瞬で色づいたんだ。まるで絵具が一点から全体に染み渡るみたいに……あれって、なに?」

「なにって、俺が知るか」

「そうなの? じゃああれは、俺の心境ってことかな。俺の視界にはそう見えた……すごいね。君はいったい何者なのかな」

「何者――だと?」

「え……」


 不意にトーンを落として俯いたかと思った次の瞬間、蓮は立ち上がって乱暴に海の襟首を掴んでいた。


「おまえ、ふざけんなよ。何を忘れても捨てても構わないけど、俺のことだけは絶対に忘れるな! ずっと好きだとか家族になれとか言ったのはおまえの方だろうが!!」


 蓮の剣幕に、海はポカンと見上げた。


「ご、ごめんなさい。要するにきみは俺の好きな人――ですか?」


「疑問形、やめろ」


「……はい」


 海を強引に納得させると、蓮は状態異常の人間に理不尽な要求をしたことにほんのわずかな罪悪感を覚えた。それでも海を睨みながら、強い口調で宣告した。


「とにかくだ。俺を必要としているのも思い出さないと困るのもおまえの方だ。だから絶対に思い出せ、いいな?」

「そう言われても……」

「返事」

「はい」

 圧しに負けて海が頷いたことを合図に、蓮は海から手を離した。不穏な空気を察して覗きに来た医師に何でもないと説明して、蓮は入れ替わりに病室を出た。

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