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ACT20 資料室のミスト

 金曜の夕方、夕飯前に図書室で借りていた本の返却がてらセルフ端末で新たに貸し出し手続きをしていると、山のように本を抱えた人物とすれ違った。

「あれ……佐伯さん?」

 思わず呟くと、相手は本の山を抱えたまま振り返り、その反動でバサバサとそれが一気に崩れ落ちた。

「あ、すみません」

「いえ、こちらの不注意ですからお気になさらず」

 慌てて拾うのを手伝うと、蓮は築いた本の山を自ら抱え上げた。

「あの、柴田くん?」

 室長秘書の佐伯文人に本を挟んで向き合うと、蓮は人懐こい笑顔を見せつつ軽い口調で訊ねた。

「こういうのは、ノンリミの方が向いてますから。どこまで運べばいいですか?」

「これは恐れ入ります、ではお言葉に甘えて。B4の資料室までお願いできますか」

 丁寧に一礼し、佐伯は階下に降りるエレベーターへと蓮を先導した。


***


「資料室って居住区より下にあるんですね。俺、初めて来ました」

 エレベーターの扉を開けて蓮を先に下ろすと、佐伯は好奇心を露わにきょろきょろしている蓮を温かい眼差して見守りつつ、手振りで通路を案内した。

「内調や特調の機密事項に関わる資料も少なくありませんからね。あまり容易に出入りができる環境では困るわけです。蔵書数も、上の図書室の比ではありませんよ。そして蔵書の持ち出しは、室長の事前の許可がなければ一切できません」

「へえ、徹底してますね。て言うか、佐伯さんて本当に誰に対してもずっと敬語ですよね。どうしてですか?」

「どうして。そう訊かれると、逆に困りますね。私にとっては極めて普通のことですので」

「普通ですか? でも俺みたいな十も年下の相手に敬語を使うのって、かなり珍しいと思いますけど」

「一般的にはそうなのかもしれませんね。でも私はここのエージェントの方々に対して、常に尊敬の念を持って接しています。正直、現場で実績を上げているのはあなた方であり、我々はどのような業務であれ、あくまでサポートの領域を出ませんから。特別調査室の職員の給金も室の予算も、全てあなた方の存在が捻出させていると言っても過言ではありません。だからこそ、私は全てのエージェントの方々に、敬意を込めてこのようにお話しさせて頂いています」

 佐伯の言葉にはまるで空々しさがなくて、乾いた地面に水が染み込むように素直に蓮の心に浸透して行った。誇らしさと照れくささを同時に感じて、抱えていた本に顔を隠すように蓮は佐伯の一歩先を歩いた。

「特に柴田くんは、室長に対しても物怖じせずはっきり意見を言えて素晴らしいと思っています」

「そ、それは……あははは」

 先日の宣戦布告のことを言われて、蓮の動きが途端にぎこちなくなる。弱々しい声音で、こそこそと訊ねた。

「あの、佐伯さん。俺やっぱり、減給処分されたりするんでしょうか?」

「は? いやいや、そんなことある訳ないじゃありませんか。あの程度でそんな報復をしたら室長の方こそ職権乱用で処分対象ですよ」

「あ、本当に? そっかそっか、何だ良かったー」

 素直に胸をなでおろしている蓮に、佐伯は小動物に向けるのと同種の眼差しを注いでいた。


 しばらく歩いた後、薄暗い廊下を通り抜けた先に頑丈そうな金属の扉が見えた。そこで佐伯がパネルに暗証番号を入力すると、重々しい音を立てながら扉が開く。

「ここから先は、すべて彼女の領域です。見た目と中味にギャップのある方ですから、翻弄されないように気を付けてくださいね」

「彼女……?」

 蓮の疑問の視線に対し、佐伯は沈黙を守りながら少々含みのある笑みを返した。足を踏み入れたすぐそこに、書架の塔がそびえ立っていた。

「すげー……」

 まるで映画で見たヴァチカンの図書館さながらの光景に、本好きの部類に入る蓮は興奮を隠せなかった。

「柴田くん、どうぞ書物はそこの返却台に置いてください。後は、専属の司書に任せて」

 指し示された木製の台に抱えた本を言われた通り置くと、背後から涼やかで音楽的な声が聞こえた。

「いらっしゃい文人。また如月のお使いかしら? それとそっちの子、初めて見る顔ね。お名前は?」

 低い位置から聞こえる声に戸惑いながら振り返ると、吾妻よりもっと小さな背丈の、十歳くらいの綺麗な金髪の少女が唐突にそこに立っていた。紫のサテンのワンピースにエプロンドレスを重ね着したその姿は、この空間のせいもあり、ひどく幻想的に映った。意外な光景に固まる蓮に対し、佐伯はひどく自然な所作で挨拶を返した。

「こんにちは、ミスト。今日は先日お借りした資料をお返しに上がりました。こちらは、柴田蓮くん。半年ほど前に迎えた保安室の新しいエージェントですよ。とても優しい方でね、危なっかしい私を心配して自ら荷物持ちを買って出てくださいました」

「あら、半年も前に来ていたのに、今日が初めてだなんて随分とつれないこと。それでも会えて嬉しいわ、初めまして蓮。私はミスト。蓮、て何だかとても素敵な響きね。今後そう呼んでも構わない?」

「え? あ、別にいいけど……」

 奇妙に大人びた雰囲気に圧倒されながら頷くと、ミストと名乗った少女はにこりと微笑って蓮の手を取った。それからふっと顔を近づけて目を閉じると、少し不思議そうに小首を傾げた。

「ねえ、一つ立ち入ったことを訊いても構わない?」

「……なに?」

 じっと見つめる大きな瞳は黒々としていて、金髪と比較して少し違和感を覚える。しかしそんな多少のことは、次のミストの言葉で軽く吹き飛んだ。

「あなたから、海の匂いを強く感じるのはどうして? こんなに移り香があるなんて、あの人嫌いで孤独な子と、あなたは一体どういう関係なの?」

「は……っ!?」

 油断していたところにとんでもない爆撃を食らって、蓮は思い切り赤面した。

「ミスト、失礼ですよ」

 佐伯が見かねて窘めると、ミストはちろりと可愛らしく舌を出してくすくすと笑った。

「ごめんなさい。あなたがあんまり可愛らしいものだから、つい。それにしても、海を手なずけるなんて大したものね。あの橙子でさえ未だに何だかんだと手を焼いているのに。秘訣は何かしら?」

「いや、秘訣って言われてもな……」

 困り果てている蓮に、佐伯が再び助け舟を出した。

「彼は水沼くんにとって特別な人なんですよ。理由を知りたければ、今度本人から直接聞けば宜しいでしょう」

「このところ、少しも顔を見せてくれないのに? 最近すっかり皆の足が遠のいて、何だかつまらないわ」

拗ねたように口を尖らせるミストに、佐伯は機嫌を取るように笑って見せた。

「図書室と違って、ここを利用するのは極めて稀な状況下に限られますからね。過去の事情に関連する任務にでも就かなければ、エージェント自ら足を運ぶことは珍しい。現に、柴田くんもこれまで場所を知らなかったわけですし」

「あら、エージェントなら施設の一部として、最低限知識に組み込むべき事項だと思うけれど。彼がここを知らないのは、最初に情報を与えなかったあなたたちの怠慢でしょう? それをさも当然のように言われるのは納得が行かないわ」

 打って変わって冷静な口調で切り返す、佐伯は素直に非を認めた。

「実直なご意見、恐れ入ります。ご指摘については真摯に受け止めさせていただいて次に活かすことにしましょう。それはそれとして、事前にお願いしていた新しい資料をいただけますか?」

「相変わらず、かわすのがお上手ね。用意してあるわ。前回と同じくらい量があるから、帰りも蓮に持ってもらったら?」

「俺なら構いませんけど」

 先んじて快諾する蓮に礼を述べて、ミスト専用の可動式ワゴンに置かれた資料を点検した。

「はい、間違いなく。それでは柴田くん、申し訳ありませんがよろしくお願いします」

「……もう帰るの?」

 あからさまに不機嫌になるミストに、佐伯はにこりと微笑んだきり何も言わなかった。代わりに、ようやくその場の雰囲気に慣れた蓮が素直な好奇心を発揮して口を開いた。

「なあ、ミストって本名じゃないよな?」

「あら、どうしてそう思うの?」

「だって明らかに髪も染めてるみたいだし、どう見ても日本人だから。何でそう名乗ってんの?」

「柴田くん……」

 遠慮のない質問に、佐伯の方が苦笑した。しかしミストは気を悪くした風もなく、寧ろ楽し気に答えた。

「だって、私の着たい服装にはこの髪色の方が似合うし。そしてどうせ金髪なら、重たい漢字の名前よりもこの方が向いているし第一ミステリアスだわ。蓮はそう思わない?」

 愛くるしい笑顔で訊き返され、蓮は思わず頷いてしまった。

「そう言われれば、そうかも。似合ってるならそれでいいか」

「同意してもらえて嬉しいわ。それより、もっと気になることがある筈なのにそれは訊かないの?」

「気になること?」

「どう見てもこんな子供が、薄暗い地下の部屋で一人きりで司書をしているなんて、明らかにおかしいでしょう。そのことは気にならない?」

「それは確かにそうだけど。でも、ここは外と違って何でもありだし。それに何て言うか、そもそも最初から子供と話してる気がしなかったから。どこか年上のおばちゃんみてーな……」

「――蓮、マイナス百点」

「は?」

「私、そんな無礼な形容されたの生まれて初めてだわ。可愛い子だと思ったのに、今のでがっかりよ。これなら海の方がまだデリカシーあるわ。お喋りはもうお終い。片づけたいから、早く帰ってちょうだい」

 唐突に機嫌の悪くなったミストに目をぱちくりしている蓮の肩に、佐伯がポンと軽く触れた。

「女性に、その言葉は禁句です。これ以上墓穴を掘らないうちに退散しましょう」

「あ、はい」

 積み上げられていた書物を持ち上げると、蓮は佐伯の後について扉に向かった。

「それではミスト、我々はこれで失礼します」

「ご勝手に」

 すっかりへそを曲げたらしいミストは、佐伯の挨拶に対しても背を向けていた。いささか責任を感じた蓮は、振り返りながら言葉を投げた。

「えっと、ミストって甘い物好き?」

 ぴくり、とワンピースの肩が動き、金髪を揺らしながらほんの少し振り返った。

「好きよ、どうして?」

「俺も好きだから。良かったら今度、お詫びに何か差し入れしてやるよ。何がいい?」

「……マカロン」

「OK、じゃあ近いうちにな」

「本当? あ、その時は海も一緒に連れて来て。そうしたら、今日の失点はなかったことにしてあげる」

「ん、分かった」

「ありがとう、蓮。大好き。絶対来てね、約束よ」


 一瞬で機嫌をころころと変貌させた少女は、立ち去る二人に愛想良く手を振っていた。


***


「彼女を懐柔するなんて、柴田くんはなかなか大したものですね」


 帰りのエレベーター内で、佐伯が感心したように蓮に話しかけた。

「んな大げさな。俺も海に良くああやって誤魔化されてるんで、試してみただけですよ。佐伯さんまでとばっちり受けて申し訳なかったんで」

「仕事に関してはきっちりしているので、その点で支障はないと思いますけどね。それでも歓迎される方がありがたいのは確かです。しかし柴田くんは駆け引きとか、搦め手とは一切無縁な人ですね。質問が余りにもストレートで少し驚きました」

「すみません、俺本当エージェントとか向いてないなってつくづく思うんですけど……」

「いえ、こればかりはどのやり方が絶対ということはありません。柴田くんのようなタイプも時には必要だと私は思います。現に、ミストがあそこまで腹を割って話しているのを、私は初めて見ました。多分率直なやり取りが、心地良かったのだと思います。最後は少々難ありでしたが」

「すみません、ぶっちゃけすぎました」

 反省してため息をつくと、蓮のポケットから携帯の着信音が鳴り響いた。

「あ、出られます?」

 両手が塞がっていることを懸念した佐伯だったが、資料を片手でひょいと抱えて電話に出た蓮の仕草に杞憂だったと思い知らされる。これほど身近な存在であっても、ノンリミの力に未だに驚かされることは多い。

「はい――海? あー図書室の後、ちょっとな。連絡しなくて悪い。あと十分くらいで戻るから」

 予定の時間になっても戻らない蓮に、海からの少々過保護な連絡が入るのは当然と言えば当然で。佐伯は微笑ましい思いで蓮を眺めた。

「それより、今度一緒に資料室に行ってくれ。そうそう、佐伯さんの手伝いでさ。何でって……まあ、お詫びってか何てか。うん、後でちゃんと説明する。じゃーな」

 電話を切ると、蓮は本の山をバランス良く抱え直した。

「仲が良くて結構ですね」

「あー……まあ、はい」

 エレベーターを降りながら照れ隠しに短く答えたものの、佐伯は一層にこにこと会話を続けてきた。

「私の妻も、連絡を入れずに残業すると必ず電話かメッセージが来ます。本当は私から連絡すべきなんですけど、そういうのって嬉しいものですよね」

「そう言えば、お子さん生まれたばかりでしたっけ」

「はい。あ、見ます? 見たいですか、そうですか見たいですよね?」

「えっと……はい」

 急に熱量の上がった佐伯の勢いに逆らえず、蓮は歩きながら凄まじい量の写真を次々にスライドしながら見せられた。そのため佐伯の執務室に着くまで倍の時間がかかり、待ち切れず再び電話をかけてきた海の着信をきっかけにようやく解放された蓮は、海の束縛に初めてありがたみを感じた。

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