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ACT2 柴田蓮

 柴田蓮が『ロスト・リミット症候群』の診断を下されたのは、保育園に通い始めて間もない三歳の時だった。

家のドアノブをもぎ取ったのを皮切りに、蛇口を破壊して大量の水を浴びて業者を呼んだり、冷蔵庫のドアを反対から開けて分解するなど、まるでテレビの仰天映像のような光景を散々目の当たりにした母親が、さすがにこれはおかしいと一番近くの大学病院に紹介状もなしに駆け込んだ。散々待たされた挙句にそれでも医師の診察を受けることができ、直後に聞きなれない病名を告げられた。


 世界的にも症例が少ないことや、治療法がまったく確立されていないこと、発症者はほぼ二十代までしか生存できていないことを立て続けに聞かされ、通常の母親の反応として彼女はその夜、夫と向き合いながら無言で涙をこぼした。

 それでも世の母親と同様の強さで、息子の生存をでき得る限り引き延ばすべく最大限の努力を惜しまなかった。

 二人で定期的に大学病院に通いながら、彼女は時に厳しく時に優しく息子に接した。

「蓮、そんなに強く握ってはだめ……そう、そうよ。うさぎさんに優しくしてあげるの」

 自作のぬいぐるみを蓮に握らせ、その加減を根気よく諭した。

 母は元々キャリアウーマンで、蓮を生んだ後も復職していたが結局仕事は辞めて、保育園もほかの児童を傷つける危険性があったためすぐに退園させてそれからは家でつききりになった。他の子とは確かに異質なのかもしれないが、それでも愛しい我が子だった。

「おかあさん……かげん、てどうすればいいの? ぼくはふつうにしてるのに、何がだめなの?」

 蓮は自分の意識と周囲とのギャップに何度もジレンマを感じた。強くつかんだつもりはないのに、気に入りのうさぎの縫い目から綿が飛び出たりすると、やはり子供心にショックだった。

そんな時、母は蓮の目をじっと見つめながら優しく言った。


「蓮。蓮はね、普通じゃないわけではないの。ただ、他のお友達より少しだけ力の入れ方が強いみたいなの。だからゆっくり、焦らずにちょうど良い力の加減を学んでいきましょうね?」


 そんな時の母の目は大概泣いたあとのように赤くて、蓮はこくりと頷く以外、それ以上は何も聞けずにいた。ただ、自分が他の子どもと何かが決定的に違い、そのことが母を苦しめているのだということだけは、理屈ではなく肌で感じていた。

 常人には当たり前の「加減をする」ということは、蓮にとっては感覚的に非常に難しいことであったが、母親の常の助力もあり、家中の一通りのものを破壊した後に、蓮は段々と適度な加減を体で覚えて行った。ついでに家具も交換のたびに強度を増し、蓮が中学生になる頃には家内での破壊行為はそうそうお目にかかるものではなくなっていた。


 学校に関しては、両親で話し合い小学校から通常の学級に入っていた。体育に関しては医者からは止められていたが、本人の強い希望で特に休ませることもなかった。しかし三年生の時に、サッカーの授業で蹴ったボールがゴールポストに当たり倒れた時には児童にケガがなかったものの一時期大騒ぎになり、後に学校に事情を話して今後は体育の一切を休ませることにした。教師の「強風とゴールの劣化」の話をクラスの生徒は素直に信じ、蓮が特別奇異の目で見られることはなかったが、身体に与えるダメージについても両親にとっては悩みのタネだった。以来、蓮はおとなしく見学に努めたが、中学に入るタイミングで再び通常に授業に参加したいと希望を述べた。

 母親は反対し、父も渋った。これに関しては医師もいい顔をせず、蓮に真面目な様子で説いた。

「通常の生活を送るだけでも、きみにとっては至難の業だ。ましてスポーツというのは、身体をより使うわけで、殊更加減が難しい。奇特なスピードが出たり、あり得ない飛距離を出したりすれば人の目にもつくし、何よりきみの体に大いに負担がかかる。やはり今まで通り見学するのがベストだと思うが」

「確かに、普通に歩いたり物を運んだりするより力の加減は難しいと思うけど……俺、できるだけみんなと同じようにしたいんです。どうせ何歳まで生きるにしても、一度きりの人生ならできるだけ悔いなく生きたい」

 まっすぐな瞳で請う少年の願いを否定することなど、医師にはできなかった。何かあればすぐに診察に来るように念を押した上で、医師は蓮の希望を受け入れた。蓮は見学している小学生の間に加減を学んでいたのか、中学に入ってからは目立つこともなく中程度の成績で体育をそつなくこなした。全力を出せるわけではないにしろ、それでも通常の生活を送れることが本人はひどく楽しそうだった。さすがに部活には入っていなかったが、中学では病院に通っていることなど微塵も周囲に感じさせることなく無事に卒業した。そして蓮は、この春から高校生になった。


***


 定期健診で訪れた病室で、蓮は橘医師がうなずくのを見て上着を羽織った。カルテに記入しながら、橘は嬉しそうに蓮の背後に立つ母親の美里を見上げた。

「非常に良い状態です。筋肉にも神経にも異常はないし、世界的に見てもなかなかここまで自力で制御できている例は報告されていないほどです……蓮君はよほど加減が上手なのでしょうね。参考までに、何か特別なコツがあるのなら聞かせてもらえるかな?」

「別に、そんなの。ただ日常生活で学んだ普通ってやつを、意識して通してるだけですよ」

 蓮の淡々とした様子に、橘は微笑ましく頷いた。

「まあ、そうだよね。言われてできるものなら、世界中の罹患者がそうしているのだし、こればかりは理屈ではなく自分の体で学ぶしかないわけだ。蓮くんの努力の賜物だね」

「そんな大げさな感じでもないけど……」

 照れたように視線を逸らす蓮の様子に、橘は微笑って続けた。

「体育の出席も続けているんだよね? 高校生になってからも問題ない?」

「はい、何か走るばっかで大したことしてないし」

「体力測定はもう?」

「やりました。垂直飛びとか、却って抑えすぎて結果ひどかったな……周りからも女子かよって」

「ジャンプとか、地味にダメージも高いし目立つからその方がいいよ。でも本当に、体は至って健康で、問題なさすぎるほどだよ」

 橘の感嘆の視線をやり過ごし、蓮は立ち上がった。

「じゃ、また来ます」

「うん。くれぐれも今のまま、無理のないように」

「先生、ありがとうございました」

 美里が頭を下げ、蓮と並んで病室を出て行った。橘は二人を見送りながら、蓮のカルテを改めてじっくりと眺めた。

「本当に……何もなさ過ぎて怖いほどだ。何だか別の症例なんじゃないかと疑いたくなってくるけれど、実際の計測数値は異常なほどだし……やはり稀有な例なのかな」

 ともあれ幼い頃から見続けている患者の状態が良好なのは嬉しい限りだ、と橘は診察を終えてふっと笑った。


 母と並んで病院を出た蓮は、腕時計に目をやりながら横を向いた。

「母さん、俺ちょっと寄り道して帰るわ。先帰ってて」

「そう? でもじきに暗くなるし、帰ったらすぐに夕飯作るわよ?」

「そんなにはかからない、なるべく暗くなる前には帰るし」

「そう……気を付けてね。遅くなりそうならちゃんと連絡して」

「分かってる、じゃ」

 美里に手を振り、蓮は駆け出したいのをぐっとこらえて叱責されないぎりぎりの速足で歩きだした。やがて道を曲がり、母親からは見えない位置であることを確認してから、蓮は猛スピードで駆け出した。百メートル十秒の壁をやすやすと超えつつ、更に人目に付きにくい路地裏に入り込み、そこから手慣れた様子で壁の上に一跳びで上り、目的の廃ビルの三階の窓からスルリとしなやかな体躯を潜り込ませた。まるでプロの 泥棒かスタントマンのような、鮮やかな一連の動作だった。

コンクリートの冷たい感触と、無人の気配が何故か懐かしいと感じさせる。蓮は昔から持病のせいで危険な遊びはさせてもらえなかったので、子供の頃の「秘密基地」的な記憶はまったくないけれど、男子としての本能がこうした場所に惹かれるのかもしれない。まして今は、この場所に特別な思い入れがあった。


 蓮はフロアの中央に歩み寄ると、軽くしゃがんでから床を蹴り、吹き抜けの中を跳び上がって一気に五階に着地した。さらに同じ動作で、最上階の八階まで上がると、今度は西の方に歩いて行った。元々、集合店舗が集まった貸しビルだったのだろう、各所はシャッターが下り、また一部ではバーらしきカウンターがそのまままになっていた。壊す予定があったから居ぬきのままなのか、借主が現れないのかは不明だが、どちらにしても表に「立ち入り禁止」の張り紙がなされている通り強度的に危険な状態だ。

まだ日が出ているうちなので、隣のビルの工事の音と振動が大きく響くフロアに立ち、目を閉じて何度か深呼吸する。

 それからパチリと目を開けると、片手を大きく振りかぶる。


「せー……のっ、と」


 割と軽い声と共にカウンタ―に一気に手刀を叩き込むと、木で作られた頑丈なそれは、バキバキと大げさな音を立てながら、さながら発泡スチロールのようにあっさりと蓮の足元まで割けて真っ二つに割れた。そのまま手前のまだ形を保っていた側に回し蹴りを入れると、カウンターの残骸は空中で爆ぜるように木っ端みじんに吹き飛んだ。

 特撮のような光景を孤独に自前で演じつつ、それでも全くノーダメージの拳や膝を確認し、蓮はため息をついた。


(何か、全然足りね……)


 一気に建物ごと解体してしまいたくなる衝動を抑えながら、蓮はシャッターを足で突き破り、鉄の扉を吹き飛ばし、看板を折り紙のように折りたたんだ。最後は柱の一部さえなぎ倒して、体が欲するまま破壊を繰り返した。やがてフロア一帯の目に見えた破壊可能アイテムが一通りなくなると、蓮はようやく動きを止めた。

 周囲には木屑や埃が一体となった粉塵が舞い、髪や上着、全身に白い粉が付着していた。そろそろ潮時かと数階を軽く飛び降りながら、蓮はそれらを払いのけ、登った時と同じようにやすやすと一階に着地した。

 数十メートルを一気に降りても、足には全く違和感を感じない。いつでも無茶をすれば悲鳴を上げるのは自分の体ではなく、服やスニーカーの方だった。時折こうして持て余す力のガス抜きをしているから、彼は適度な加減を保っていられた。


(これって、絶対ロスト・リミットじゃねぇよな……)


 自身の症状が医者から聞かされた内容ともネットで調べたものともまるで異なっていることはとうに気づいていた。それでも、蓮はそのことを誰にも言えずにいた。他にも報告例があるのではと図書館にも赴き、ネットでも様々なワードで検索してみたが、自分と同じと思われる例は一つも見つからなかった。そのことが、余計に蓮を沈黙させた。


――世間に知られたら、今度こそ本当に日常が送れなくなるかもしれない。


 あるいは世界的にも奇異な症例として、モルモットのように扱われるのではないか。そう思うと想像だけでぞっとした。自分が亜種なのか、それとも全く別の症例なのかは知らないが、このことは口外すべきでないと蓮の本能が告げていた。

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