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ACT18 世界は君色に染まる1

「あの子が、柴田蓮。あなたの観察対象よ」


 職員の本郷由真という女が、自分に話しかけていた。先ほど、帰宅する母子らしき二人の姿を密かに見届け、それから拠点として公安が用意した隣の一戸建てに静かに戻った。

 海は返事もせずに、面倒そうに自分の手の指先を見ていた。物心ついた時から既にいるのが当たり前だった児童養護施設から、四年前のある日突然今のところに移された。やたら長ったらしい名前のよく分からない所で、自分は現在そこに所属しているらしい。最適な環境とは言えなかったが、「お友達と仲良く」とか「天国のお父さんとお母さんが見ている」とか、神経を逆なでするような鬱陶しいフレーズを繰り返されないだけ居心地は良かった。無機質な部屋で寝て起きて、知的学習や力の制御に時間を費やす毎日だったが、二桁にさえ辿り着いていない年齢で既に子供扱いされていないことは肌で感じていた。そのことは、海を追い詰めるどころか、彼の精神を不思議なほど安定させた。

 移されたきっかけは「お友達」の一人を部屋の端から端に吹っ飛ばし、救急車を呼ぶ騒ぎになったことだった。

 それまでにも海は施設内の備品や玩具を意識せずに壊してしまうことが多く、周囲からは職員も含め、気味の悪い目で見られ遠巻きに接せられていた。海自身も他人に対し全く関心を持っていなかったことから、彼は殆ど一人で過ごすことが当たり前になっていた。

 そんなある日、足元に落ちていた手作りの自動車の玩具を拾い上げた際、加減を誤ってタイヤの部分を指で弾き飛ばしてしまった。それを見た持ち主の子供が泣きながら掴みかかってきたのを、海としては軽く払いのけただけで、彼の体は対角線上の部屋の奥の壁までボールのように飛んで行ったのだ。

 その後の一瞬の異様な静寂と、大人も子供も交えての悲鳴や泣き声のパニック状態のことは、今でも鮮明に覚えている。その日を境に、海は完全に「ふつうの子供」ではなくなった。その明確な区分は、半端な状態にあった彼にとっていっそ歓迎すべきものだった。それからどこをどう伝わったのか経緯は全く知らないが、三日後には黒塗りの公用車で現れた黒スーツの大人が、自分を迎えに来て今日に至る――


「……聞いてるの、海?」


 追憶に浸っていた海を、由真の少し厳しい声が現実に引き戻した。耳元で少々やかましく聞こえたその声を疎ましく思いながら、虚ろな瞳を自分の母親役のその女に注いだ。

「聞こえてるよ。要するにこれからここで、あんたと一緒に暮らして親子ごっこをするんだよね? そのうえで、あの隣の家の子になるべくひっついて見張ればいいんでしょ? それが、俺のお仕事なんだよね」

「……そうね。端的に言うならそうかも知れないわ」

「仕事をしない俺に価値はないそうだから、居場所のためにもやることはちゃんとやる。でも必要以上に俺に干渉してほしくないし、仮の顔をオフの時まで強制するのもやめてほしい。隣の家族に見える場所でだけ、従順な子供でいてやるよ」

「価値はないって、室長はあなたにそんな言い方をしたの?」

 憤りに眉を顰める由真に、海は不思議そうに首を傾げた。

「正確には、『自分の価値は行動と成果で示すしかない』……だったかな? でも要するに、何もしなければ俺に存在価値はないってことでしょ? 今まで色んな大人から聞かされたどんな言葉よりも、俺にはしっくりきて分かりやすかったけど。なのに何でそんな顔するの?」

 「そんな顔」をしている理由を、由真は海に説明できなかった。感情論はこの子供には通用しないと思ったし、そもそも海の言っていることは間違いではない。己の価値を常に示さなければ、自分たちの所属している特調保安室では大手を振って生きることができない。通常の職員ならば行き着く先は一部の記憶を操作された上での異動だが、海のように保護されたノンリミは使えなければ一個の人間としての存在は恐らく認められない。実験動物か、危険な場所での強制労働か――それらがただの性質の悪い噂であるとは、今さら彼女も思っていない。

 「生まれてきたことそのものに意味があり、個々の命すべてに等しく価値がある」なんて綺麗ごとは、社会という枠に守られた人間にのみ許された特権のようなものだ。だからそんな上辺の言葉は飲み込んで、代わりに別のことを言った。

「あなたの主張は分かった。でも、あなたの引いたオンとオフのラインには私は異議を唱える。この家で生活している間は、保護対象の有無に拘らず、他人がいようがいまいがすべてオンだと思ってちょうだい。役者が一度舞台に立ったら、たとえ幕が開いていなくても、観客から見えなくてもその役であり続けるのと同じように、幕間でも私もあなたも与えられた役を演じ続けるべきだわ。付け焼刃の親子関係なんて、必ずどこかでぼろが出るものだし、そのくらい本気で向き合わなければ、本物の親子の目は欺けない。あなたもプロを名乗るなら、仕事は妥協しないわよね?」

「……じゃあ、どうしろって言うのさ?」

 うんざりしたように顔をしかめる海に、由真はにっこり笑ってその小さな両肩に触れた。

「私のこと、今から『お母さん』て呼びなさい。はい、言ってみて?」

「……おかあさん。これで満足?」

「棒読みで心がこもってない」

「お・か・あ・さ・ん!」

「発声練習? これは前途多難ね……」

 やれやれと首を振る由真に、海は冷ややかな目を向けつつも言い返さなかった。どのみち仕事は言った通りこなすだけだし、問題の親子の前で自然体でやれる自信はある。たった一度の邂逅でも、既に海は持ち前の異例の記憶力で二人の姿を脳裏に焼き付けていた。手を繋ぎ、柔らかい雰囲気に包まれた母子に、胸の奥がひどくざわついた。それが何という感情なのか、この時の海には分からなかったし分かりたくもなかった。


***


 翌日――転校前日の日曜に、まず隣に引っ越してきたということで柴田家を挨拶に訪れた。有名どころのケーキを持参した見た目も良好な母子は、忽ち隣家の警戒心を解き歓迎された。今日は玄関先で、と遠慮する建前をあちらから崩し、由真の狙い通りそのままリビングに通された。

 蓮の母、美里は笑顔で紅茶を振る舞い、由真が渡したケーキを綺麗な花柄の皿に乗せて出してくれた。大きなイチゴの乗ったショートケーキで、家族構成を考えて五つ用意したが生憎と言うべきか休日にも拘らず父親は仕事で不在だった。


「まあ、とっても美味しそう。海くんは甘い物が好きなの?」


 美里に訊ねられ、海は本当はそこまででもなかったが子供らしさをアピールするため素直にこくりと頷いた。伊達メガネをかけ、大人しくきれいな姿勢で座っている海は、どこからどう見ても育ちも性質も極上の子供だった。その中味とかけ離れた無敵の見た目には、由真も驚嘆するほかなかった。

 その海の向かいに座って、じっとケーキに目を注いでいる黒髪の子供を、由真はさりげなく、だが注意深く観察した。柴田蓮、十一歳。かかりつけの私立大学病院でロスト・リミット症候群と診断されているが、様々な事例から実際にはノン・リミッターではないかと疑われるため、特調保安室の案件として正式に海と由真が派遣されることになった。日常生活ではどちらであっても力をセーブするのが当然のため、見極めは非常に難しい。少なくとも年単位での長期任務を推定しているため、より慎重を期する必要がある。

 そんなことを考えながら蓮を見つめていると、不意にはたと目が合った。その目は海とは全く異なって純粋であり、きらきらと輝いていた。眩しい想いで目を細めると、彼の輝く瞳はどうやらイチゴと自分を交互に見ているようだと気づく。誰も手を付けないので、食べていいものか差し入れ元の自分に確認をしているらしい。由真は思わず笑って、「どうぞ」と手振りを交えて蓮に勧めた。

 すると蓮は嬉しそうに、「いただきます」と言いながらフォークを手にして、真っ先に上に乗っているイチゴをクリームと一緒に掬い取ると、そのまま口に運んだ。

「美味しい?」

「うん」

 屈託のない笑みに、こちらも釣られて笑顔になってしまう。ロスリミとして生きている子供とは思えないほど、柴田蓮には影がなかった。それだけ、この子は両親から大切に守られているのだろう。家の中の様子も、荒れたり修復せず放置したような雑な痕跡は見て取れなかった。彼の症状を受け入れ、家族で向き合っている結果だと思った。

「この子、昔から甘い物に目がなくて。ケーキなんて久しぶりだから嬉しいわね? あ、海くんもどうぞ召し上がれ」

「はい、いただきます」

 穏やかに微笑を浮かべる海は、蓮と同い年とは思えないほど落ち着いて見えた。そのことを美里は褒めたが、由真は理由や背景を理解していてもひどく寂しい気持ちになった。しかしそれを表には出さずに、由真は海に持病があると説明した上で、登下校をできれば一緒にしてやってほしいと美里と蓮に頼んだ。我が子にも事情を抱えている美里は、親身に話を聞いて蓮の頭を撫でながらゆっくりと頷いた。

「まあ……そんな小さな体で、海くんは偉いわね。登下校のことは安心してちょうだい。海くんのこと、ちゃんと守ってあげるのよ蓮?」

「分かった」

 美里を見上げて真摯に頷くと、蓮は海の方に向き直り、右手を差し出した。

「俺のこと、蓮でいいから。よろしく、海」

 握手のために差し出された手を、海は珍しくきょとんとした目で眺めていた。こんな普通のやり取りに免疫がないだろう海の反応を、少しハラハラしながら見守っていた由真だったが、海はこれも仕事と判断したのか、きちんとその手を程よい力で握り返した。

「うん。よろしくね、蓮」


 初めて交わした短い言葉に蓮の名前が入っていたことが、後々まで海の密かな誇りになることを、この時はまだ海自身も知らない。

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