ACT16 ハイエナの住処4
「あら、気が付いた?」
蓮が目を覚ますとそこは滞在場所のマンションで、自分の部屋として用意された一室のベッドにパジャマ姿で横たわっていた。
「え、本郷さん……今何時?」
蓮が目を覚ましたことで、由真は多少なりともほっとしているようだった。
「今は九時過ぎ。柴田くん、昨日海に抱えられて戻って来てから一度も目を覚まさなくて。海は大丈夫だから寝かせておけって言うけど、正直気が気じゃなかったわ」
「寝てた……俺が昨日から。待て待て、何がどうなったんだっけ。確か海と離棟に行って、それで――」
『今から何も聞かずに、ここで黙って俺に抱かれて欲しい』
「うわあああ!!」
「ど、どうしたの!?」
とてつもなく恥ずかしい記憶を鮮明に思い出して、蓮はベッドに突っ伏して頭を抱えた。それでも蘇った記憶は、学校の例の一室で海と体を重ねたところで途切れている。あれは夕方のことで、そこからこの時間まで寝ていたというのはいくらなんでも不自然だった。直前に飲まされた媚薬のせいかとも疑ったが、海はあの薬に副作用はないと言っていた。その言葉を信じるなら、恐らく意識のないうちに海がもう一服、今度は睡眠薬でも盛ったのだろう。その証拠に、普通の眠りでないことを主張するように頭がひどく重かった。
「それで、海は?」
「とっくに学校よ。もう布石は打って、今日中に片を付けるから柴田くんはここで待機で構わないって。ねえ、昨日何があったの? 海の様子明らかにおかしかったわ。すごくピリピリしてたし、気に掛けながらもまるであなたと顔を合わせるのが怖いみたいな」
「まあ、そりゃ怖いでしょうよ。人を散々オモチャみたいに扱いやがって……あの野郎」
「え?」
「何でも。それより、着替えるんで出てってもらえます?」
急いでベッドを降りると、蓮は制服を手に取った。
「柴田くん、学校に行くつもりなの? でも海ときちんと連携が取れていないなら、作戦に支障が出るかもしれないわ。一度連絡を取って、それから……」
「それじゃ、俺が学校に向かったことだけメールであいつに伝えておいてください。とにかく海のスタンドプレーをこのまま黙って見過ごすわけには行かない。俺だって、これでも正式な特調のメンバーなんですから」
「蓮くん、立派になったわね」
「親戚のおばさんみたいに、涙ぐみながら言うのやめてもらえます? って、とにかく早く出て出て!」
由真を強引に部屋から追い出すと、蓮はもの凄いスピードで着替えを済ませた。身体は海が拭いてくれたようで、夕べの痕跡が分からないほど綺麗にしてくれたことに少し和む。玄関に向かおうとした蓮を、由真が大声で呼び止めた。
「あ、柴田くん朝ご飯!」
「や、そんな暇ない……」
振り返ったテーブルには無残な姿の卵の残骸と、いびつな形の米の塊が置かれていた。
「何これ。食べ物なの?」
「そんな言い方、ひどい。卵焼きと、おにぎり」
「おにぎり? いや、握ってなくない?」
「だって、どんどん崩れちゃうんだもの」
由真の泣きそうな声に思わず吹き出すと、蓮はそのおにぎりのようなものを一角つまんで口に入れた。
「うーん、味がしない。周りに塩振らないと。あと、具材もこれ、何? 漬物? 結婚するなら、よっぽどこれから精進しないとね本郷さん」
「う……柴田くん、意外と容赦ないわね」
「でもおかげで元気出た、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。海と二人で、必ず無事に戻ってね」
由真に手を振り返すと、蓮はノン・リミッターの力をフルに引き出し学校へ爆速で駆けて行った。
***
学校に着いた時、当然ながら授業は始まっていて廊下に人の気配はなかった。携帯に海からリアクションは何もなかったが、それでも海が大人しく授業に出ている筈はないと確信していた。早急に終わらせることを望んでいる海が、放課後まで待つとは到底思えなかったから。かいつまんだ事情しか知らないし、大半は想像でしかないが、「布石は打った」と由真に伝えた海の言葉の意味を、それなりに推察していた。だから迷いなく、昨日の部屋へと向かった。
人の気配と話し声が聞こえることを確認し思い切り扉を蹴破ると、そこでは果たして海と男が向かい合っていた。
「蓮……!」
ぎょっとする海をスルーして、データで確認したのと同じ顔をした、篠原と言う男をじろりと見据えた。写真より遥かに下司な表情で、にたにたとこちらに舐めるような視線を注いでくる。
「何だよ、こっちの子は来ないって言ってたのに、ちゃんと来たじゃないか。そうだよなぁ……彼氏一人じゃ、心配だよなあ?」
「彼氏じゃねーし、心配もしてねえ。て言うか、人外のくせに気安く話しかけんな気持ち悪りぃ」
「ああ!?」
「蓮、どうしてここに?」
「どうして? 本気でそう言ってんなら、おまえとはこの場で別れるぞ。単独任務でもないのに、一人で勝手に決めて勝手に進めやがって。昨日のことだって、何で事前に相談してくれなかった?」
「それは……」
「とにかくこれは俺の仕事でもある。文句は後でたっぷり言わせてもらうとして、今はきっちり終わらせろ」
「蓮……」
「おい! 俺を無視するな!!」
蚊帳の外で、苛々と壁を叩く男を、海と蓮は今さら思い出したように投げやりに眺めた。
「うるせーな、気安く話しかけんなって言っただろうが。人間以下の屑野郎が人並みに騒ぐんじゃねーよ、ゴミが移る」
吐き捨てるように辛辣な物言いをする蓮に、篠原はどこか勝ち誇ったような笑みを向けた。
「言うじゃねーか。昨日はそこの彼氏の下で、散々色っぽく喘いでたくせによ? 最初は野郎同士なんざつまらねーモンが映ったとガッカリしたが、正直おまえそこいらの女より全然良かったぜ? 男で抜いたの、今回が初めてだわ。何なら、金の代わりに一発ヤらせてもらいてーくらいだ」
「っ……!」
怒りと嫌悪感で顔色を変える海を制して、蓮は全く動揺せず篠原を見返した。
「そりゃどうも。でも結果的にあんたが釣れたんだから、総じてこっちの作戦勝ちってことだろ? なあ、海」
少しもうろたえる様子もなく冷静に部屋の隅の盗撮カメラを指さす蓮に、海は同調した。
「そういうことだね」
「何だ、負け惜しみか?」
「負け惜しみ? とんでもない、昨日のあれはカメラがあるのを知っててわざと撮らせたって言ってるんだよ。あんたを潰して被害者を救済するための、究極の手段――ウィルスを仕込むために」
「ウィルス?」
蓮だけでなく、篠原もぴくりと反応した。
「作戦だのウィルスだの……おまえら、どうにも話がおかしいと思ったが、ただのガキじゃねぇな? 臨時の転入とか、バックに学校のお偉いさんでも噛んでやがるのか。ヤられたうちの誰の身内か知らねーが、騒ぎにすれば損するのはそっちだぜ?」
自信満々に鼻で笑う男に対し、今度は海が反撃を開始する。
「残念ながら、俺たちは被害者の身内でも学校の関係者でもない。さっきから随分と余裕がありそうだけどね、あんたはもう終わりだ。蓮が来る前に映像があるって俺を脅してくれたけど、そもそもそんな映像、もうどこにもないんだよ。嘘だと思うなら、そのUSBをそこのPCに接続して見てごらん」
「……」
海を警戒しながら、それでも訝しげにUSBをスロットに差し込んで、再生ボタンを押す。しかし、モニターには砂嵐のような画面が流れているだけだった。
「な、何だこりゃ! 一体どういうことだよ……」
血相を変える男に、海は自分の仕事の結果を満足そうに眺めて説明した。
「俺が事前に、カメラに映らない角度で仕込んでおいたウィルスがもたらした結果だよ。カメラのデータ送信システムを、特殊仕様と交換させてもらった。これを通して記録された映像には特殊なマーカーが付けられて、コピーすることがキーになってすべての動画を再生不可能に破壊する。それは映像を焼くために使用したPCにもそのまま感染し、更に電波を通じて同じPCから生み出された動画も順に破壊の連鎖が続く仕組みだ。今頃、あんたの作品は、あちこちですべて使い物にならなくなっているよ」
「そ、そんなバカな! あり得ない、そんな強力なウィルス、聞いた事もない」
「そりゃそうだよ、公式には存在していない組織の作品でしかも試作段階だからね。でも破壊力は折り紙付きだ。強すぎる感染が制御できないところが、まだまだ完成形には程遠いらしいけど……今回の件に関しては悪質さを考慮して簡単に使用許可が下りたよ」
「公式には……って、おまえら一体」
混乱しながら絶望に陥りかけた篠原だったが、はたとあることに気づいて卑しく嘲笑った。
「だ、だけどよ、残念だったな! 全部、消えちまったんなら、俺が盗撮してそれを捌いてた証拠さえ、そもそもどこにもねぇじゃねーか! そもそも証拠なんて、どこにも」
(言われてみれば確かにそうだ……)
全ての映像が消えることは、被害者にとっては救済になるかもしれないが、このハイエナのような男を糾弾するための肝心の証拠もなくなってしまうことに等しい。事の皮肉さを思って奥歯を噛みしめる蓮の肩に、海がそっと触れてにこりと笑った。
「確かに、法的に裁く証拠はなくなったよね。でもあんた肝心なことを忘れてやしないか? あんたが動画を流していた取引先の中には、暴力団関係者が複数……いたよな?」
懐からバイヤーのリストを取り出して指摘すると、篠原は目に見えてさっと青ざめた。
「あんたから仕入れた複数のデータが、全て例の砂嵐動画になってることが判明したら、一体どうなるかな? 彼らには法も理屈も通用しない。仁義を犯し自分たちをコケにした裏切者が、果たしてどんな末路を辿るのか。まったくもって楽しみだよね」
「そ、そんな……こんなの不可抗力だろ! 俺のせいじゃ……」
がくりとその場に膝から崩れ落ち、震えだす男を尻目に、海は蓮を促してその場を後にした。
***
特調に取り急ぎ完了の報告を入れ、校門を出たところで蓮が口を開いた。
「あいつ、結局あのまま?」
「いや、この後警察に連携して身柄は彼らが拘束することになるよ。ただ、証拠があろうがなかろうが黙秘はしないだろうし罪は結局認めるだろうね。皮肉なことに、娑婆に居る限り命を狙われることになるから、いっそ刑務所に入った方が安全てことさ。握ってる情報にもよるけど、司法取引も視野に入れた対応をすることになる」
「ふぅん。何かいまいち釈然としないけど、被害者の憂いが絶たれたことの方が重要か。あんな動画が巷にあったら、安心して生活できないもんな。あ、あとあちこちの盗撮器具もさっさと回収してもらわないとな!」
ひとまずそれだけでもと電話口で追加で説明をする蓮を見つめていた海は、電話が終わってから覚悟を決めたように向き合った。
「蓮……その、俺……」
昨日のことをどう謝罪すればいいのか。言葉を選ぶ海を、蓮は容赦なくじろりと睨んだ。
「言っとくけど、俺まだ怒ってるからな」
「そ、そうだよね、それは当然だと思うし……」
「本当に? じゃあ、俺が何で怒ってるかちゃんと分かってるか?」
「それは、もちろん……昨日あんな形で薬なんか使ってしたこ……と?」
「はぁ……」
盛大にため息を吐いた蓮は、がっかりしたように零した。
「おまえ本当に何も分かってない。さっきも言ったけど、先に作戦を相談してくれれば最初からちゃんと協力したのに。あの晩様子がおかしかったことを考えると、多分室長から事前に指示を受けてたんだろうが、どう言われたにしろ別に馬鹿正直に俺に黙ってる必要もないだろ? それともおまえは俺より、室長の言葉を信じるのか?」
「そんなわけないじゃないか! あんなおっさん、蓮と並べて比較するのもおこがましい。俺には蓮がすべてだよ」
言い募るうちに感極まったのか、両手を握ってくる海の手を蓮は無情に払った。
「だったら、今後は仕事で共有すべきことは何でも俺に話せ。次また黙って一人で暴走したら、ペアはともかくとしてプライベートは本気で別れるからな」
「ちょ、別れる別れるって今日は蓮何回言ったと思う? 気軽に口にしないでよ、心臓に悪い」
「気軽には言ってない、マジだからなこれ」
「何て恐ろしい脅しを……はい、分かりました」
「あと今決めたけど、これから三日は俺に触るの禁止だから」
「何で?」
「腹立ったから」
「それはまっとうなご意見として、三日の代わりにケーキ三つで手を打ちませんかね?」
「却下。ケーキぐらい自分で食うし」
「そんな、殺生な」
「接触禁止で死ぬ奴はいねーよ。さ、帰ろうぜ」
蓮は愉快そうに笑うと、迎えの特調の車に伸びをしながら近づいて行った。その背中を、海は肩を落としてとぼとぼと追った。