ACT11 季節外れの風鈴
三条直巳が東京で勤めていた私立高校を辞めて実家の山梨に帰ったのは二ヶ月ほど前のことだった。定年退職の年にはまだほど遠く、今後のプランもないままほぼ身一つで帰った彼を、母は詳しい話は何も訊かずに黙って受け入れてくれた。それは直巳の職場で起きたことを日々の報道で聞いていたせいかもしれないし、五年前に連れ合いを失くしていたことで自身も寂しさを感じていたからかもしれない。
その父が生前、ほとんど道楽でやっていた古道具屋を再び開けた直巳は、昼から夕方まで形ばかりの店番をしながら、静かに心を癒していた。彼が現れたのは、ちょうどそんな頃だった。
早朝には降り止んだはずの雨が、店を開けてしばらくすると再び軒先や地面を濡らし始めた。
(雨は嫌だな……)
道楽のさらに物真似でしかないのだから、商売の影響を危惧してのものではない。雨が苦手だと思うようになったのは、ごく最近のことだ。以前はその独特な匂いも湿った空気も、寧ろ気に入っていた。
(あの日も、ちょうどこんな雨が降っていた)
回想に捕われそうになった直巳の眼前で、不意に開くはずのないと思っていた扉がキイと音を立てて開いた。ハッと現実に引き戻された直後、髪や制服の肩に滴るを雨粒を払いながら入って来たその姿に、直巳は心臓が止まりそうになった。真っすぐな黒髪と、その向こうに覗く鮮やかな黒瞳。まるで時が停まったように呆然としている直巳の前で、『彼』はゆっくりとこちらに視線を向けた。それにつられる様に、意図せぬままに言葉が零れ落ちた。
「雪也――」
「え?」
きょとんとする制服の少年の表情に、途端に気恥ずかしくなり慌てて手を振った。
「あ、失礼。お客さんですか?」
すると今度は少年の方が困ったように微笑った。
「すみません、急に降ってきたもんだから何も考えず飛び込んじゃって……何の店なんですかね?」
正直な反応を返す少年に、直巳は笑みを浮かべながら気さくに話しかけた。
「店と呼ぶのもおこがましいような、しがない古道具屋ですよ。若い方には退屈なだけだろうけど、良かったら遠慮なく雨宿りして行ってください」
「……すみません」
恐縮した様子で、彼は今時の学生にしては珍しいほど丁寧に頭を下げた。その姿が、直巳の目には再びかつての教え子とだぶって見えて、懐かしいような切ないような想いでそっと目を細めた。
***
小さな店内に、ランダムに並べられた壺だの茶器だのを遠目に眺めながら、少年は時折外の雨音に耳を傾けていた。一向に止む気配がないため、ため息を吐きながら再びぐるりと店内を見回すと、小さな籠に無造作に入れられた箸置きや風鈴の類に気が付いた。『五百円』と手ごろで現実的な値段に釣られて手を伸ばすと、水流の絵が描かれた硝子の風鈴を一つ摘み上げた。チリン、と高く澄んだ音が響き、季節外れの音色にも拘らず和んだ。
「体が冷えたでしょう、良かったらお茶をどうぞ」
「ありがとうございます」
縁台に茶菓を添えて湯気の立つ日本茶を出してやると、彼は驚いたような顔をしてから素直に礼を言った。風鈴を茶の傍に置いて、丁寧な仕草で茶碗を手にした。一口飲んで、ほっとしたように口元を緩める。
「高校生かな、修学旅行?」
明らかに地元とは異なる学生服姿から推察して訊ねると、印象的な黒瞳を瞬いて頷いた。
「ええ、まあ。グループ単位の自由行動だったんですけど、ちょっと一人になりたくて」
「そうなんだ……そういう時もあるよね。東京から?」
「はい」
言葉少なではあったが、迷惑そうな雰囲気は微塵も感じ取れなかった。だからだろうか、彼の姿に未だ癒えていない古傷を刺激されながらも、どこか縋るような想いで話を続けてしまう。自分の側から見える横顔に吸い寄せられるように視線を注いでいると、ふと目がまともに合った。ドキリとすると、少年は何でもないように口を開いた。
「お茶、御馳走さまでした。それとこれ、やっぱり買います」
「ありがとうございます、五百円です」
ちょうど硬貨で代金を受け取り、包装をして手渡すと直巳は申し訳なさそうに苦笑した。
「却って気を遣わせてしまったかな? 季節外れだけど、無精なもので商品の入れ替えなんかしたことがなくて」
「いえ、この音色がいいなと思って。今この音を聴くと、夏の間のこと――思い出しませんか?」
チリチリと奏でられる響きと、自身の中に入ってくるような静かな声音に、直巳は暗示にかかったように過去へと思考を引き戻される。
「ゆ、雪也……」
咄嗟に伸ばした手を、目の前の雪也――いや、彼に良く似た容貌の少年はひどく冷静に見据えていた。
「最初に俺が入って来た時にも、その名を呼びましたね。沢部雪也、あなたが東京の私立高校で担任をしていたクラスの一生徒。三か月ほど前に、校舎から飛び降りて自殺した」
「……何故、君がそれを」
「彼の両親は学校でのいじめが原因だと訴えたが、学校側はそんな事実はなかったと記者会見でも最後までいじめの存在を認めなかった。担任教師だったあなたは報道の渦中にも無言を貫き、公の場に一度も出ることなく、事件の一か月後には学校を辞めて地元であるこの地に戻って来た――まとめるとこんなところですが、何か補足はありますか?」
「……君は一体」
「報道はその後、加熱することなくあっさり沈静化した。それが何故かと言うと、彼がいじめを受けていたとされえる証言や目撃情報が実際全く出てこなかったからです。いじめていた生徒についても誰も心当たりがないとクラスでも疑問の声ばかり強くなっていた。抑圧されての虚偽の証言でないことは、現場を取材した誰の目にも明らかでした。だからそれ以上掘り下げてもいい画は撮れないと、マスコミは揃ってフェードアウトしたんです。しかし彼らの撮り貯めた映像の中に、一つ共通して何度も口にされた証言が残っていました。学校と自殺した生徒の対立の図式には都合が悪かったのでどの局も注目しなかった証言ですが。それは沢辺雪也は、担任の三条先生ととても仲が良かった――というものです」
「……」
「あなたにとって、彼は特別な生徒だった。であれば、彼の自殺はあなたにとっても他人事じゃない。学校を辞めるだけの覚悟があるなら尚更、事実の究明に乗り出して然るべき……なのに、あなたは寧ろ逃げるように学校を去ってしまった。それは彼が飛び降りるに至った原因が、いじめなどでないことを最初から知っていたからじゃありませんか?」
「な、何を根拠に……」
「根拠、と言えるほどのものはないんです。あればとっくに県警が任意であなたを引っ張っている。だからこそ、俺はここへ来たんです」
(綺麗な眼をしている)
雪也とは正反対にも思える、強い眼差しがこの時は無性に心地良かった。彼が何者であるのかはもうどうでも良く、背負っていた荷を下ろすような気分でゆっくりと訊ねた。
「……君は、私を断罪しに来たのかな?」
「いいえ、俺は彼の両親に代わって、真実を確認したいだけです。当初、二人は民事訴訟の準備をしていましたが、いじめの証拠として私的に鑑定を依頼したノートの結果が予想外だったことで、急遽取りやめたそうです。落書きや悪口は全て沢部自身の筆跡――つまりは自作自演だった。この時点で、もう彼は純然たる犠牲者ではない。寧ろ世間を騒がせた側の人間として糾弾される可能性が出てきた。だから本来、二人は沈黙を守るしかなかったのですが、彼の家は少々特別でした」
「……特別?」
「詳細は言えませんが、彼の祖父はある種の権力者で……まあ要するに大人の事情です。だからあなたも覚悟した方がいい。ここへ来た以上、俺はこのまま手ぶらで帰るつもりはありません」
「何が欲しいのかな?」
「遺書です」
「!!」
「やっぱり、あるんですね。渡してもらえますか?」
「しかし、あれは……」
「あなたが持ち帰って然るべきものですか。何故なら、そもそもあなた宛で、内容は恋文同然だったから?」
「……どうして」
「当たりですか? いや、正直俺も驚いています。あなたが遺書を持っていることも、内容についても、仮説を立てたのは俺じゃないんです。俺の……相方です。もし派遣されたのが俺じゃなくてあいつなら、あなたはとっくにすべてを告白していたと思います」
「……その人は他に何と?」
「もし遺書の提出をあなたが躊躇したなら、こう言えと」
一度ことばを切って、彼は少し雰囲気を変えた口調で先を続けた。
「沢部雪也の想いを受け入れなかったことで、あなたが彼の死に少しでも責任を感じているなら、せめて彼の心の在りようだけは隠すべきじゃない。きちんと認めて、両親にも伝えるべきだ――と」
「そうだね……その通りかもしれない」
やるせない表情で微笑むと、直巳は立ち上がって店側から住居の方へと姿を消した。数分して戻ると、手にしていた封書を少年に手渡した。
シンプルな無地の封筒には、繊細な字で『三条先生へ』と記されていた。
本人の許しを得て中の手紙に目を走らせた少年は、手持ちの資料と字体を簡単に確認した上で再び丁寧に封筒にしまった。手紙には、沢部雪也が直巳に想いを寄せるようになった経緯と、二人きりで話すために虚偽のいじめを演出したこと、そのことを指摘されてすべてを告白したものの、困らせてしまった上に穏やかに断られて諭されたこと――が自己弁護も誇張もなく淡々と書かれていた。最後は、直巳への謝罪のことばで手紙は締めくくられていた。
「これ、あなたにとっては学校を辞める理由にもならないし、隠すような内容でもありませんね。寧ろ、学校側に非がなかったことの根拠にもなる。なのにどうして、公表しなかったんですか?」
「それは……雪也を、世間の好奇の視線に曝したくはなかったから。それに……」
「それに?」
「私の雪也への対応は、欺瞞……だったから。私も本当は、教師でありながら彼に惹かれていた。それでも教師と言う立場も、同性という問題も、私には向き合うには大きすぎた。だから私は、彼の想いを正面から受け止めずに目を逸らした。今の気持ちは一過性のものだと、高校を出て大人になった時に必ず後悔するし、もっと素晴らしい出会いが君を待っていると、私は知ったような口調で彼に言いました。その時、雪也は本当に寂しそうに微笑って、私の言葉を否定した。今の気持ちは永遠だと、信じてもらえないならそれを証明して見せると……だけどまさか、それが死ぬことだったなんて」
いつの間にか、静かに涙を流していた直巳を憐れむように雪也に似た黒瞳が見つめていた。
「あなたが学校を辞めたのは、間接的にでも生徒を死なせてしまった自責の念からかと思いましたが、そうではなかったんですね。最愛の人を失って、あなたも傷ついていた。そのことは、彼のご両親にも伝わるようにします。それでは、俺はこれで」
一礼して立ち上がった少年を、直巳は思わず呼び止めていた。
「……あの!」
「手紙のことなら、いずれご両親を経由して公的な機関からお返しすることになると思いますが、時期までは」
「それは別に。そうではなくて、一つだけ。きみの名前――」
「え?」
「きみの名前、良かったら教えてもらえませんか」
すると少年は初めて素が出たように驚いた顔をして、腕組みして考えた後に口を開いた。
「柴田です。柴田蓮……でも、できれば忘れてください。既にお分かりだと思いますけど、あまり公に名乗れる立場ではないんですよ」
「蓮くん……いい名前だね。雪也のこと、ありがとう」
深く礼を言うと、彼はやはり面影の少年と似た笑顔で綺麗に微笑った。扉を開けると雨はいつの間にか上がっていて、晴れた空の下を空色の学生服がゆっくりと道の奥へ消えて行った。